梅雨前線




低い空からは、ひっきりなしに雨が落ちてくる。
直哉は見上げて眉間にしわを寄せた。やはり傘を持ってくるべきだった。
購買の傘は今日に限って売切れだし、最寄のコンビニでも、歩いて数分はかかる。
この降りでは、たどり着くまでに濡れるのは必至だ。

「おう、直哉。傘がないのか?」

不意に隣に立った雪紀は、なんだか自慢そうに腕を組んだ。直哉はその胡散臭さに顔をしかめずにはいられない。
なにしろ横着な雪紀のことだ。あらかじめ傘を用意しておくなんて事は考えられない。

「お前だってないんだろう? 俺はお前がちゃんと傘を用意してきたのなんか、見たことがない。」
「ふふん、俺はいいのさ、これがあれば。」

そう言って引っ張り出したのは携帯だ。
雪紀はそれを直哉の目の前で広げると、おもむろに電話をかけた。わずかのコールで、相手は確実に出たらしい。
雪紀は嬉しそうな顔を隠そうともしないで話し始めた。

「俺だ。ああ。迎えに来てくれるんだろう? 礼はたっぷりするから。…ああ。」

礼は、と言った所で、雪紀の顔がわずかに好色気に歪んだ。直哉はあきれて鼻を鳴らした。

「咲良か。…傘を持って迎えに来させて、そのまま送られ狼にでもなるつもりか?」
「違うな。丁重な礼と、熱いもてなしだ。」

なにをふざけたことを、と、直哉は少し不快になる。
言葉をいくら変えてみても、咲良を持ち帰って美味しく頂くことには変わりない。

「羨ましいくせに。祥太郎先生は、そんなふうには甘えさせてくれそうもないからな。」

直哉は思わず盛大に顔をしかめていた。
確かに、祥太郎は生真面目で、週末でもなければ肌に触れることも許してくれない。
顔を見るくらいはともかく、その日の気分で…など、ありえない。いや、祥太郎を手に入れた当初はそんな無謀なこともためしては見たのだ。

祥太郎は簡単に流されるくせに、その後激怒した。それこそ、顔を見るのも許してくれないほどだった。
そして、確かに祥太郎の貧弱な体力では、平日の営みは厳しいようだった。
ふらふらになってしまう祥太郎は、しかし決して勤務を休もうとはしない。
直哉は祥太郎に怒られた事と、祥太郎の体の心配との二つのダメージを同時に負わされることになり、しばらくは胃の痛みが治まらなかった。

だから、祥太郎の承諾を一番に優先するのは、自衛策でもあるのだ。
だが、雪紀にはそんなことは通じない。彼の目には、直哉がひたすら祥太郎の尻に敷かれているように映るようだった。

「少し、お前も祥太郎先生を心配させたらいいんじゃないのか?」
「心配…?」
「咲良は、俺が未だクラブで相手をとっかえひっかえするんじゃないかって心配をしているらしい。だから、俺に必死でしがみつくし、やきもちを焼きまくってくれる。それで俺は、咲良に対して大きく出ていられるのさ。」
「やきもち…か。」

直哉は思わずつぶやいた。
自分はしばしばやきもちを焼いた覚えがあるが、祥先生は一体、俺にやきもちを焼いてくれたことなんてあるだろうか?

考え込む直哉の脇をすり抜けるようにして、頬を上気させた咲良が走りこんできた。
真っ先に雪紀にしがみついた咲良は、少し嬉しそうな顔で直哉を見上げた。

「直哉さん、傘ないんですか? 俺の傘、1本貸してあげます。俺たちは、相合傘で帰るから。」

やれやれ…、どうやら雪紀の思う壺にはまっているらしい。
しかしそれでも有り難く傘を受け取って、直哉は帰路に着いた。



駅近くの繁華街には、直哉と同じように傘にあぶれた者たちが大勢雨宿りをしていた。
どうやら今日のところ、気象予報士は軒並み予報を外したらしい。

「あら、帝王。」

不意に声をかけられた。いきなり柔らかい体が傘の中に割り込んできて、直哉は身構えた。
そんな直哉をものともしない様子で、白い手が傘の柄を掴む。

「久しぶり! 入れていってよ。」
「おまえ…真美か?」
「見違えたでしょう?」

サラリとしたストレートヘアが直哉のあごをくすぐった。
かつてのクラブ友達は、赤かった髪も肌も染め直して、凡庸なOLに見せようとしているらしい。しかし、見事な肢体と濃すぎるルージュがそれを裏切っていた。

「何ィ? 鳩が豆鉄砲みたいな顔しちゃって。そっちこそ、ずいぶん大人しげな様子じゃない。まだ学生? ああ、そういえばあなたたちって、ずいぶん若かったのよね。初めて一緒にベッドに入った時って、あなたまだ15くらいだったかしら。」
「やめろよ、こんな所で。」

直哉は思い切り顔をしかめた。いくら雨とはいえ、この時間は人通りが多いのだ。

「あら、そっけない。あの時は凄く一生懸命でとっても可愛かったのに。」

そういえば、こいつは祥先生と同い年のはずだと、直哉はぼんやり思った。
子供のころの彼らには、5つ年上の女はとても大人に見えて眩しかった。だから、誘われれば有頂天になってどこにでもついて行った。
今の直哉があるのは、ある意味、この真美という女のおかげかもしれない。

「ちゃんとお姉さんの教え、守ってる? 遊ぶ時はちゃんとゴムしないとだめよ。気持ちがいいなんて短絡的な理由で一生馬鹿な女に食いつかれたら笑い話にもならないし、病気なんて移された日には恥ずかしくって顔も上げられなくなるわよ。」
「…っ、なんでそんなこと、こんな久しぶりの邂逅でいうかな、この女は…。」
「なに気取っちゃってるの。男と女が再会したら、そこしか行き着くところはないでしょう?」
「………ぬかせ。」

真美は高い声を上げて笑う。そういえば蓮っ葉なくせに、こんなふうにお袋じみた説教をする女だったと、直哉は思い出し、嘆息した。
垂らした腕に、真美が細い腕を絡めてくる。面倒くさくなって振り払うこともせず進みかけ、直哉は思わず足を止めた。

前方に真っ白い集団がいる。見慣れた白鳳高等部の制服だ。
その中にあって一際小さな紺のスーツ。離れていても見間違えようもない、直哉のいとしい祥太郎だ。
祥太郎は桜色の唇を薄く開いて、直哉のほうを見つめている。先ほどまでの猥談のような会話も聞き取れる位置だ。祥太郎には、直哉と真美とのかつての関係が露見してしまったに違いない。

直哉は反射的に真美の腕を振り払っていた。しかし、一瞬の間にいろいろな事が脳裏をよぎり、振り払われた手はそのまま、真美の細腰に回された。
抱きしめるように体をぎゅっと引き寄せると、真美はきょとんとした顔をした。

先ほどの雪紀の言葉が蘇る。少し心配をさせたらいい。
どうせ真美との関係は漏れてしまったのだ。それならこれは、やきもちを焼いてもらういい機会かもしれない。
それに…直哉は自分の胸のほうが嫉妬でじりじりしていることに気がつかないふりをした。祥先生だって、あんなにたくさんの生徒たちに傅かれているじゃないか。
あいつら、自分は半分濡れても、祥先生には一滴も雨粒がかからないように恭しく傘を捧げやがって。それ以上一歩でも祥先生に近づいてみろ。一まとめに叩きのめしてやる。

「先生、今お帰りですか?」
「え…、うん。直哉君も…珍しいねえ。………そちらは?」

顎の下で真美が、あはんと心得たように呟く。
何の打ち合わせもしていないのに、真美は大きく体をくねらせて直哉に密着した。

「これは真美です。俺の、友人です。」
「やだあ、友人なんて他人行儀なぁ。」

真美は気質は男だが、しどけないしぐさがひどく様になる女だ。
ふくよかな胸を直哉の腕にこすりつける様子は、いかにも馴染みきった恋仲に見えるだろう。
祥太郎の表情がかすかに強張った。しめた、と思いつつ、直哉は思いがけない展開に焦りを禁じえない。
なにしろ、祥太郎が怒るとそれはそれはしつこいのだ。ご機嫌を直してもらうのは至難の業である。
だが、そんな直哉の思惑とは裏腹に、真美は興が乗ってきたようだった。
自身で必殺と名付けた甘ったるい声が、直哉の耳朶をくすぐるような距離で、しかも祥太郎に向かって放たれる。

「ねえ、今日はどこか新しいところに連れて行ってぇ。私、そのつもりで、直哉の好きな色をつけてきたんだから。」

細い指が直哉の襟元から髪の中に差し込まれてさわさわと探る。
しかも、曲線のみで構成された柔らかい体が、しがみついてきてうねうねと動く。
やりすぎだ、と直哉は苦々しく思った。祥太郎にやきもちを焼かせるのは、ほんのちょっぴりでいい。

しかし、恐る恐る祥太郎を見た直哉はがっくりと肩を落としそうになった。
こっちを真っ直ぐ向いた祥太郎は、少し小首を傾げて、輝くような笑顔を見せているのだ。
流石の真美も当てが外れたらしく、動きを止めたほどだった。

ちぇっ、てんで相手にされてないや。直哉はがっかりすると同時に、ほんの少し誇らしく思っていた。
祥太郎の、直哉への信頼が嬉しかったのだ。

「雨…が降っているから、あんまり遅くならないようにね。」

祥太郎はさらにニコニコと微笑むと、いきなり足を進めた。傘を差しかけていた学生たちが、いきなりの進路変更にあわててついていく。
あの余裕の態度はどうだろう。直哉はほんの少しだけ意地を張りたくなった。
改めて真美の細い体をぎゅっと抱きなおすと、祥太郎の後姿に声をかける。

「祥太郎先生も、お気をつけて。」

いつもならしない呼び方に気付いてもらえるように、少し力を入れる。
祥太郎の細い背中が強張った気もしたが、それも一瞬のことで、やはりニコニコと笑った祥太郎は愛想良く直哉と真美に当分に手を振って、雑踏にまぎれていった。

「へえ、帝王が粉かけても、落ちないツワモノがいるんだ。」
「…いつまで引っ付いてるつもりだよ、暑苦しい。」
「あらン、つれないン、いい所に連れて行ってくれるんじゃなかったのぉ?」

直哉はため息をついて、いたずらっぽく微笑む真美を見下ろした。
昔、夜の街を徘徊していた頃とは程遠い、満たされきった目だ。

「…コブつきの、ぞっこん亭主持ちの女なんか、誘うほど俺は暇じゃないんだよ。」

誘われたって、ついてくる気もないくせに。
そう言ってやると、真美はさも幸せそうに、その日一番の笑顔を見せた。



数日は何事もなく過ぎた。空梅雨かと言われた陽気も、それなりに雨も降り、直哉の出足をくじいていた。
祥太郎専用の携帯からは、ここのところ連絡がない。だがそれも珍しいことではなかった。
試験や行事が近くなって忙しくなると、祥太郎はしばしば直哉への連絡を怠るのだ。だから今回も、その類なのだろうと、直哉は高をくくっていた。
少しばかり時期が変だなとは思ったが。

しかし、明日は週末だ。そろそろ連絡をとってもいいだろう。
直哉は、祥太郎専用の携帯を取り上げて操作し、ややあって首を傾げた。いくら待っても、一向に反応がない。
よしんば電源を切っているにしても、留守番サービスにつながるように、ちゃんと設定したものを渡したのだ。無反応ということはないだろう。

直哉は急に不安になって立ち上がった。こんなことはかつてない事だ。じっと待つなどというのは、性に合わない。
しかし、いきなり出鼻をくじかれた。玄関で隼人と鉢合わせしたのだ。

このところ、めっきり兄離れした隼人は、めったに直哉の巣には寄り付かない。

どうも一度、祥太郎を引っ張り込んだ時に来合わせたらしいのだが、玄関の靴と漏れ聞こえる声に気付いて、一目散に逃げ出したらしい。
いちいち部屋のドアを閉める習慣もないから、もしかしたら現場を目撃されてしまったかもしれない。
それはそれで構わないと思っている。
祥太郎を閉じ込めておきたいと思う一方で、このかわいらしさを誰かに見せびらかしたくてたまらないというのも、直哉の正直な気持ちなのだ。

玄関に突っ立ったままの隼人は、しきりに伸び上がって奥を覗いている。
どうやら祥太郎でもいないかと確認しているらしい。

「何だ、いきなり。俺は今から出るところなんだ。用なら速くしろ。」

いらいらと言うと、隼人はようやく、祥太郎の不在を確信して安心したらしい。
少し余裕を取り戻して、ふくれっつらをした。

「なんだよ。祥太郎の写真が欲しいって言ったの、兄貴じゃないか。ほら、体育祭の写真。写真部に祥太郎のファンでもいるんじゃないの? 結構たくさん写ってたぜ。」
「あ…ああ。」

そういえばそんなことも頼んだかと、直哉は慌てて差し出された袋を受け取った。
ついで差し出された手に、仕方なく万札を乗せる。

「ところでさあ…祥太郎、来てるんじゃないの?」
「見れば分かるだろう。ここは俺だけだ。」
「ふーん…。俺はてっきり、兄貴がまた変態行為を働いているのかと思った。」
「なんだ、それは。」
「だってこの間、兄貴、祥太郎のこと、拉致監禁したんだろ? 会長サマが聞きたがってさあ。んで、今日は祥太郎、学校来なかったから、また兄貴かと…。」
「待て! 祥先生が来なかったって…本当か?」
「そ…そんなこと嘘ついてどうすんだよ。だから俺はてっきり兄貴かと…!」
「馬鹿! そういうことは先に言え!」

祥太郎が欠勤したことなど、直哉は覚えがなかった。
肋骨を折っても、扁桃腺を腫らして高熱を出しても、祥太郎は頑として休むとは言わない。その頑固さときたら、直哉も舌を巻くほどなのだ。
先ほどまで感じていた不安が、にわかに現実味を帯びてきた。
意地っ張りの祥太郎が休む理由。もしかして、過去2年間で直哉が見てきたうちのどれよりも酷い状態にあるのかもしれない。
例えば命にかかわるような状態で倒れたまま動けないとか…!

「見てくる!」

目の前に突っ立ったままの隼人を押しのけた。
隼人が何か叫んでいる気がしたが、振り向く間も惜しかった。
直哉は、また細い雨の降り出した夜の街を、一散に走った。



祥太郎の部屋は、珍しく鍵がかかっていた。そのことが直哉をますます焦らせた。
祥太郎はいつでもまったく無防備で、無人になってしまう留守宅に鍵をかけ忘れていくこともしばしばなのだ。
慌てて合鍵で扉を開いて、部屋の中を覗き込んだ途端、直哉は心臓が口から飛び出そうになった。

玄関に続く板張りの廊下に、祥太郎がころりと倒れているのだ。

最悪の事態が脳裏をよぎった。
よほど慌てたのだろう、玄関のわずかな段差に足が引っかかって大きくつんのめった。

「先生!」

大声で呼んだ、その途端に、祥太郎の細い背中がびくんとすくみ、腕の中から灰色の塊が飛び出してきた。
直哉は思わず伸ばした腕を引っ込めた。猛獣の目をした祥太郎の愛猫太郎が、今にも直哉を食い殺そうとする勢いで、牙を剥いて唸っているのだ。
たかが猫一匹…! 直哉は怯んでしまった自分に悪態をついて、部屋の中に上がった。そして祥太郎のほうに目をやって、肩が抜け落ちていくような安堵を覚えた。
祥太郎が上半身を起こして、直哉をじっと見上げているのだ。

「せ…先生〜、脅かさないで下さいよ…。」

直哉はその場にへたり込んだ。冗談ごとでなく膝が震えていた。
祥太郎は、そんな直哉から目を逸らすと、ゆっくりと起き上がった。灰色の猫を一度ぎゅっと抱きしめると、のろのろした仕草で玄関の方へ押しやる。
灰色の猫は、直哉には決して聞かせない甘ったれた声で鳴くと、振り返りながら部屋の外へ出て行った。

「なあに…、滝君。忘れ物でも取りに来た?」
「えっ、滝君て…。」
「ああ…ドアの鍵も替えなくちゃ…。」

独り言のような祥太郎の言葉に直哉はヒヤリとした。直哉の名前も呼んでくれない祥太郎は、激怒しているようだった。
ほんのちょっぴり祥太郎にやきもちを焼いてもらうつもりが、とんでもない事態に発展してしまっている。直哉はかなり焦りながら、何気ない話題を探した。

「そ、そんなことより、先生、今日は学校はどうされたんです? いらっしゃらなかったって聞いたから、心配しましたよ! 携帯のほうも繋がらないし…。」
「ああ…携帯ね…。」

祥太郎は気の抜けたような返事をするとふらふらと立ち上がった。
直哉も慌てて後を追いかけ、まだ靴を脱いでいなかったことに気付いた。

「僕だってたまには有給くらい取るし、携帯は…解約しちゃった。」
「なっ、なんで?」
「だってもう…必要ないじゃない?」

祥太郎は静かに振り向いた。
いつもよく笑う祥太郎が、今日はにこりともしていない。

「滝君には可愛い彼女ができたのに、滝君専用の携帯なんて、あっても無駄じゃない。」
「あっ、あれは、真美は彼女でもなんでもなくてっ…!」
「…いいんだ、そんなの、どうだって。」

祥太郎は廊下を突っ切って、キッチンに向かっているようだった。
その小さな背中を慌てて追いかけながら、直哉は違和感を感じていた。
部屋の中が─祥太郎の部屋にしては─きれい過ぎる。

「滝君だって気がついているんでしょ? 隣に並ばせるのは、僕なんかより、きれいな女の子の方がいいって。」
「だからあれは本当に…!」
「今コーヒーを入れてあげるから、それを飲んだらカップも持って帰ってね。」
「祥先生…っ!」
「気安く呼ばないでよ。」

強い声に阻まれて、直哉は伸ばした手を思わず引っ込めていた。祥太郎は振り向いて直哉をじっと見つめていた。
目の縁が赤い。ずっと泣いていたのに違いない。

「僕はずっと覚悟を決めて、君と付き合ってきた。君がいつか我に返ったら、その時は後腐れなく別れてあげようって。
僕がせっかく思い切って別れてあげるって言っているんだから、君はその言葉を有り難く頂いて、僕のことなんか忘れるべきなんだよ。」
「だから…っ、俺はあんたと別れる気なんてこれっぽっちも…っ!」
「でも、気がついちゃったんでしょ。隣においてしっくり来るのは女の子の方だって。」
「………っ!」

どうしてこの人はこんなに頑ななのだろう。直哉は歯噛みする思いだ。
背中を向けて直哉の顔を見ようともしない祥太郎を、無理やり向き合わせた。
いつもは可愛くてならない唇をかみ締める反抗的な表情が、今日ほど憎らしく見えることはない。

「なに分からないこと言ってるんだよ! あんたなんか俺がいなくちゃ…!」
「直哉…滝君がいなくても、僕は何にも困らない。」

祥太郎の唇が震えている。大きな目は涙をこらえるかのように強くしかめられて、それでも祥太郎は強気の姿勢を崩さない。
不意に直哉は、この部屋がいつになくきれいな理由に思い至った。
直哉が掃除に来るという口実を拒むため…それだけのために、祥太郎は取ったことのない有給を取ってまで、部屋を掃除したのに違いない。

頭にカッと血が上った。細い肩を力いっぱい掴むと、初めて祥太郎の顔がゆがんだ。

「あんたは俺のもんだ!」

叫ぶと、落ち着き払った祥太郎の顔にわずかに朱が上った。
それでも、視線を逸らそうとする意固地な態度に、ついに直哉のどこかかブツリと途切れた。

気がつくと、キッチンのフローリングに祥太郎を組み伏せていた。
頬や、くつろげた胸元がかすかに熱くて、どうやら叩かれたか引っかかれたかしたらしいと分かった。
腹の上に馬乗りになって、手首で組ませた両手を頭上に縫い付けるように押さえつけると、もう祥太郎は手も足も出ないようだった。

それでも、祥太郎は固く唇をかみ締めて、拒絶の言葉ひとつもらさない。
息が荒くなっていく。唇を奪おうと顔を伏せると、顔ごと逸らされてしまう。片手で華奢な顎を捕まえて、無理やり歯列を割った。
歪にゆがんだ祥太郎の顔の上に顔を伏せ、直哉は次の瞬間飛びのいていた。
唇から血が滴る。ねじ込んだ舌を噛まれたのだ。

「触ら…ないで。」
「…上等だ。俺に仕込んでくれってヒイヒイ泣いたくせに…っ!」
「だからもう…満足したでしょう。」
「誰が…っ!」

直哉はかつてないほど血が逆流するのを感じた。帝王と呼ばれて、毎日喧嘩に明け暮れていた頃だって、こんなに腹の立つことはなかった。
手を後ろに回して、祥太郎の股間を探った。力いっぱい握り締めると、初めて細い悲鳴が漏れた。
手の動きを、やわやわと促すようなものに変えると、布地越しにも祥太郎の物が反応してくるのが分かった。

「満足してないの…先生の方じゃん。ちょっと触っただけで、ほら、もう硬くなってる。」
「う…っ、く…。」
「気持ちいいって言えよ!」

猛烈にイライラする。祥太郎は唇をかみ締めたままだ。
直哉は祥太郎が着ているパーカーを乱暴に押し上げた。首が抜けた時点で、頑丈に両腕に絡ませて、即席の枷を作った。
祥太郎の両手を封じ込めると、体をずらしてジーンズの前も外し、下着ごとむしりとる。
細い足が最後の抵抗のように弱々しく蹴りつけてきたが、それも抱え込んでしまえばびくとも動かなくなった。
引き裂くように足を開かせて、最奥に指を突き立てた。なんの準備も愛撫も与えていないそこは、硬く引き絞られていて、直哉の侵入を阻む。
いつもだったら美味しそうに飲み込んでいくくせに。直哉は顔を上げた。目に入ったのは、白い大きな冷蔵庫だった。

バクンと音を立てて開いたそれは、相変わらずスカスカした中身だった。
床に押さえつけた祥太郎の体が邪魔になって、扉が十分開かない。直哉は手を伸ばして、目的のもの─祥太郎愛飲のゼリー状栄養補給剤─を取り出した。
キャップをねじるのももどかしく、袋の側面に犬歯を立てた。銀紙を噛んでしまったときのように、ギリッと耳につく音がする。そのまま袋を食いちぎった。

「ひっ…! 冷た…!」

押さえつけた体が跳ね上がる。ゼリーはほとんど祥太郎のむき出しの腹の上に落ちた。直哉はそれを指に絡めた。

「い…っ、あぁ…っ!」

直哉の手を拒んで跳ね上がる体を押さえつける。ゼリーの助けを借りて、ようやく2本の指が祥太郎を割り込むことに成功した。
いつもとは程遠い硬さと狭さの中を、直哉はむきになって穿った。指を曲げ、こじ開ける毎に、祥太郎は苦鳴を漏らし、力でねじ伏せた小さな体は不吉に震えた。

「こんなんじゃ…足りないんでしょう。ねえ、先生…。」
「痛い…! 直哉君、いやだ…っ。」
「今、先生が好きなの、入れてあげる。先生を満たすことができるのは俺だけだ。」
「いやっ、無理…うっ、あ…。」

弱々しい拒絶は、抵抗というより哀願に聞こえた。
直哉は獣のような息を吐き出すと、慌ててジーンズの前をまさぐった。祥太郎の悲鳴交じりの声に触発されて、すでにそこは痛いほどに硬い布地を押し上げていた。
改めて祥太郎の両の膝を捕らえて押し広げると、直哉はいきなりそこに、滾ったものを突き立てた。

「うあ! ああああぁぁ…っ!」
「ぐうっ!」

酷い狭さだった。肉の壁にガツンと殴られたように感じた。
祥太郎の悲鳴が長く尾を引いて、耳の中にいつまでもこだまするように感じられる。それでも直哉はまだやめるつもりはなかった。
細い腰を抱え上げて浮かせると、体重を乗せるように腰を入れた。
きつすぎて、額に脂汗が浮く。それでも、もっと、もっととがむしゃらに突き入れた。
そうして、自分の腹に柔らかい祥太郎の腿を感じたとき、初めて直哉は我に返った。

祥太郎の足が冷たい。一面に浮いているのは冷や汗だ。
触れる肉と肉の間に、ゼリーだけでないぬるつきがある。
確かめてみるまでもなく、鉄の匂いから、無理すぎる挿入で自分が祥太郎の柔い肉を破壊してしまったのが分かる。

胸がズクンと縮まるような気がした。
恐る恐る見下ろした祥太郎は、蒼白な顔をしてまだ唇をかみ締めている。そこにも血が散っているのは、あまりにきつくかみ締めすぎたためだろうか。
パーカーでぎりぎりに巻いた先から覗く指先は、血が巡らないのだろう、青紫に腫れている。

滾っていた全身の血が、急速に冷めていく。
必要以上に強く抱えあげていた祥太郎の両足に突然気付いて、思わず取り落としてしまう。
足が落ちた途端に、祥太郎の中の直哉の位置が変わったのか、祥太郎は弱々しいうめき声を上げた。

直哉は震える手で、祥太郎の腹の上に落ちているゼリーを払い落とした。
いつも本当に、自分と同じだけの内臓を収めているのかと不安になってしまう薄い腹が、今日はますます薄い。
肋骨の形をなぞって、直哉は祥太郎がここしばらく、食事もしていないらしいと思い至った。
あの雨の日に出会ってから、祥太郎はずっと悩んでいたのに違いなかった。

猛り狂っていたはずの雄が、達してもいないのに力を失っていく。こんなことは生まれてはじめてだ。
直哉は小刻みに震えてしまう手を伸ばして、祥太郎の手を縛り上げていたパーカーを解きにかかった。自分でしたのが信じられないほど、がんじがらめに縛ってある。
ようやく解くと、祥太郎の手は真っ白で冷たくなっていた。直哉はその手を取り上げて自分の頬に当てた。
祥太郎がようやく目を開いてくれたのが見えると、今度は自分が目を開けられなくなった。

だめだ、と思った。自分は激情に任せてなんて酷いことをしてしまったのだろう。こんなことではますます祥太郎に嫌われてしまう。
そう思ったら恐ろしくてならなくなった。もう金輪際、触れることも会うことも許してもらえなくなるかもしれない。
だって自分はこんなに理不尽で暴力的な奴なのだ。普通の奴なら二度と近づこうとはしないだろう。

だから直哉は、祥太郎から離れられずにいた。
祥太郎の体内に納めたものは、今ではすっかり萎えきっているが、体だけでもつながっていなければ、すぐにもたたき出されてしまいそうに思えるのだ。
これがきっと、祥太郎と自分との、最後の接点に違いない。

「直哉…くん。」
「………うー…っ…。」

祥太郎が小さく呼びかけてきた。何かもっとましなことを答えようと思うのに、噛み締めた歯の間から漏れるのは、頑是無い子供みたいな声だ。
固く閉じたまぶたの間を縫って、涙が落ちていく。鼻梁を伝って落ちるのは、涙だか鼻水だか分からない。

「直哉君…なんで泣くの…。」

直哉はただ首を振った。
隼人が生まれてからこの方、人前で涙を流したことなんてないのだ。泣くことには慣れていない。

「こんなに…こんなに好きなのに…別れるなんていやだ…。」

ようやく言えた、意味のある言葉は、こんなだらしない泣き言だった。
直哉はやっと少し温まってきた祥太郎の手に自分の頬をこすりつけた。
この手を離したら、世界が終わってしまうような気がした。

「ねえ…直哉君、お願いだから、それ、抜いてくれないかな…。」

祥太郎の小さな声が聞こえてきた。直哉はまた首をぶるぶる振った。
直哉だって一生このままでいられるわけもないのは分かっている。でも、このまま祥太郎を手放して、これきり会えなくなるなら、いっそ繋がったまま死に果ててもいいと思った。

夢中になって頬ずりしていた手が少し動いて、直哉の薄い頬をつまむ。
祥太郎の意思で、その小さな手が頬に押し付けられているのを知って、直哉はやっと目を開けられた。
涙で滲んで、目の前にあるはずの祥太郎の顔がよく見えない。

「ねえ、このままじゃ僕は、君の顔を見ることもできないよ。お願いだから一度それを抜いて。そして、僕に君の可愛い顔をよく見せて。」

祥太郎の声は、直哉の予想よりずっと穏やかだった。
直哉は何とか呼吸を落ち着けようと努力した。あろう事か、帝王たる自分が、小さな子供みたいにしゃくりあげているのだ! 
しかしそんなみっともない姿も、祥太郎だけにだと思えば、何の抵抗もなくさらせる自分が不思議だった。

祥太郎は薄く笑っているようだった。
直哉は拳で涙をぬぐって、それからやっと静かに体を引いた。
いくらすっかり力をなくしているとはいえ、今日の祥太郎は狭すぎて、それなりの抵抗が感じられた。そして、祥太郎にもそれはまた新たな苦痛を与えているようだった。
小さくうめく祥太郎から離れ、直哉は自分を見下ろしてぞっとした。今まで祥太郎を押し開いていたものは血だらけになっていた。

顔をしかめて起き上がろうとしている祥太郎は、なかなかそれを果たせないでいた。
直哉は、思わず大きく腕を広げて、祥太郎を抱き取っていた。
自分の腕の中にすっぽり納まってしまうこんな小さな体に、自分が働いた無茶が信じられない。

「あいたたた…。ものすごく痛かったよ、直哉君。初めてのときより酷かったくらい。
ああ、もう、僕がガニ股になったらどうしてくれるの。」
「すみません、先生、本当にすみません。
何でもしますから、どうか俺のことを嫌いにならないでください…。」
「嫌いになんて…そんなの、最初からないに決まってるじゃない。嫌いになってもらおうと思ったのは僕の方なのに…まさか直哉君が僕のために泣いてくれるなんて思ってなかった。…大失敗。」
「えっ…。」

祥太郎はため息をついて、直哉の胸に寄りかかってきた。
座っているのがとても辛そうだった。

「いつも言っているじゃない。僕は君が大好きで大切って。そんなに簡単に心変わりしないよ。
でも、僕がさっき言ったことも本当。君は本当は、ちゃんと女の子と付き合ったほうがいいんだよ。僕じゃどう頑張ったって、子供を生んで上げられないんだから。」
「子供なんていらない! 先生だけいればいい!」

突然具体的な言葉を投げかけられて、直哉は思わず叫んでいた。
祥太郎との間に割り込むものの存在なんて、考えたこともなかった。そんな直哉を、祥太郎は笑って遮る。

「だってね、直哉君、子供っていうのは未来なんだよ。僕たち二人だけの将来は、必ず尻窄みになっているんだ。僕は、将来君に、寂しい思いをして欲しくない。君には本当に幸せになって欲しいんだ。だから、今のうちに別れてあげようと思っていたのに…しょうがないんだから、直哉君、これは僕が君に上げられる最後のチャンスだったんだよ。」

祥太郎がそっと手を伸ばして、頬についている涙を払ってくれる。
そうしてもう一度、祥太郎は直哉の頬を摘んだ。

「せっかく僕が死ぬ思いで決断したのに…これを逃したら、もう僕は二度と君を解放して上げられないよ。死ぬまで縋って放さないんだから。」
「それでいいです、いや、それがいいです!」

直哉は腕の中の祥太郎をぎゅっと抱え込んだ。細い体はじわじわと熱を持ち始めているようだった。
小さな笑い声が耳をくすぐった。祥太郎が嬉しそうに微笑んでくれているのを知って、直哉は心底ほっとした。
祥太郎の、すっかり暖かさが戻った手が、何度も頬を触れては離れていく。
直哉は自分がほろほろと涙を落とし続けていることに気がついた。安心したら涙が止まらなくなったのだ。
細い腕が首に巻きついてきた。潤んだ瞳が至近距離から直哉の顔を見上げている。

「僕がさっき噛んじゃったところ、確かめさせて?」

言葉と同時に暖かい舌が這いこんできた。
祥太郎からの深い口付けは、直哉の傷より心を癒すように、ゆっくりゆっくり優しい愛撫を与えてくれる。
直哉は祥太郎のされるままに任せていた。この小さな人には、自分はどうあっても敵わない。

やがて、直哉の下唇を軽く噛んで長いキスを終えた祥太郎は、自分の額を直哉のそれに擦り付けるようにして笑った。

「まだ泣いているの? しょうがない直哉君…まるで梅雨空みたい。」
「……先生が…いじめるから…。」
「またあ。本当に泣きたかったのは僕の方だってば。君と別れることを考えたら、ご飯も睡眠も取れなくなっちゃって…。」

本当だよ、と、祥太郎の余裕の笑みが直哉を覗き込む。
それは確かに本当なのだろうが、祥太郎はいざとなったら何度でも、今さっきの強かさを発揮して、直哉を追い込みそうに思えるのは杞憂だろうか。

「さっき、何でもしてくれるって言ったよね。」
「あ…はい。」
「それじゃまず、お風呂に連れて行って、体を洗って。ゼリーなんて…体中ベタベタじゃない。それに、僕、今日明日歩けないみたいだよ。乱暴なんだから…まったく。あ、もちろんエッチなことは当分お断り。」
「当分…ですか。」
「あったり前でしょう。僕、ここ数年分の痛いこと、前払いしちゃった気分だもん。」

ぷうっとほっぺたを膨らませてみせる、いつもの祥太郎の姿に、直哉はようやくこわばっていた肩を落とした。
やっとすべて元通りで、祥太郎はちょっぴり横暴で、直哉は従順だ。でも、ベッドの中での立場逆転は、しばらく難しいかもしれない。

「それから、明日になったらすぐ、携帯買ってきて。本体も捨てちゃったから、また新しい専用携帯作らなくっちゃ。直哉君独占のための第一歩に。本当は僕だって、ずっと君と繋がっていたいんだから。」

祥太郎が直哉を覗き込む。
意味深な発言に、思わず直哉は絶句していると、祥太郎はさらに言葉を続けた。

「もし今度何かあっても…もう絶対泣き落としには嵌らないんだからね。」

にっこりとする祥太郎は、まるで梅雨の明けた眩しい空みたいな笑顔だ。
そして、直哉の梅雨明けはまだ遠いらしい。