ドア




白鳳寮の東端の部屋は朝が早い。どの部屋より真っ先に朝日が入り込んで、部屋の中をほの明るく照らすからだ。

隼人は眩しさに目を細めた。昨夜、カーテンを閉めることも忘れて白雪を抱きしめたから、差し込んだ朝日の眩しさに目が覚めてしまった。
だが、胸にすがりつくようにして眠っている白雪は、朝日を背にしているためにまだ目覚める気配はない。
隼人は、白雪を起こさないよう細心の注意を払って腕を伸ばすと、枕もとの携帯を拾い上げた。ようやく6時を回った時刻だが、学生ばかりの寮では、まだ誰も活動してはいないようだった。
隼人は軽くため息をつくと携帯を戻した。昔から、朝いったん目が覚めてしまうともう眠れない。損な性分だと思うが、今はそう悪くも思えない。
綺麗な背中を晒して眠る白雪を、こんなにゆっくり眺めていられるからだ。

朝日を受けた白雪の髪が輝いている。顎のラインで切りそろえた髪は、本当に綺麗だ。
寮で一緒に暮らすようになって、接する時間が延びたけれども、白雪が髪に特別な手入れをしているところなど見たことがない。
それでも、白雪の漆黒の髪は常に艶やかで、密かな隼人の満足を誘っていた。

ふと、隼人は気恥ずかしくなった。僅かに身じろぎした白雪の喉元に、赤い花びらが散っているのが目に入ったからだ。
昨夜、辛そうに喉を逸らした白雪が、とろりとした表情になるまでの間、固く抱きしめた白い胸が妙に気になった。頬は上気するのにその胸の白いままが、なにか気に入らなかったのだ。
動きを細かいものから大きく深いものに変えていき、応える声が切なくなっても、その肌だけは変わらない。
そのあまりの白さになにか自分の印を刻み付けたくなったのだ。こんな独占欲は、初めてのことだった。

隼人は慌てて起き上がった。昨夜のことを思い出したのだ。
少しアルコールが入っていたせいかもしれない。がむしゃらに白雪にすがり付いて、なにか無体なお願いをしたような気がする。
自分はあの兄貴の弟なのだから、きっと執着心も強いほうだとは思うが、必死になって白雪にすがったのは、やはり恥ずかしい思い出だった。

「ん…、あれ、隼人、もう朝…?」
「まだ早い。もっと寝てろよ。俺は、…風呂を沸かすから。」

小さな身じろぎとともに、白雪の細い声が聞こえて、隼人は慌てて立ち上がった。
妙に気恥ずかしくて、まともに顔を合わせられない。



隼人はバスルームに逃げ込むと、湯船に手を浸した。昨夜の風呂の残りが、まだ温度を保っている。少し追い炊きすればすぐ入れそうだ。しかし隼人は、そのままのぬるい風呂にもぐりこんだ。
追い炊きをしているから、足元から徐々に暖かいお湯が流れてくる。しかし、やはり温まるには程遠い。
温水プールほどのそのお湯に浸かって、隼人はついでに頭の先までもぐってみた。限界まで息を止めて、それから飛び上がると、荒い息とともに、モヤモヤした気分が出て行くかと思ったのだ。

「…ばっかみてー。」

隼人は呟いた。
モヤモヤは去らずに増すだけだ。隼人は浴室のガラス張りのドアを睨んだ。
向こうにいる白雪は、きっとのんびり2度寝を楽しんでいるだろう。

大きく息を付いて天井を見上げる。前の居住者がきちんとケアしなかったものと見えて、あちこちにカビが浮いている。隼人はますますイライラした。

「それにしても…いい設備だよな…学生寮だっていうのにさ…。」

この寮の地下には、大勢で入れる大きな浴室もある。それなのに、各部屋にはちゃんとバストイレがついていて、こうして追い炊き機能まであるガス釜もついているのだ。
もともとはワンルームマンションだったのを買い取って、改造したと言うだけはある。暮らしていくには本当にいい環境だった。

浴槽の湯はまだぬるい。流れ出る暖かい湯をかき寄せてみたが、ぶるりと体が震えた。
どうしてこんなにムキになって入浴しているのだろう。隼人はぼんやり思った。
きっと白雪が、あんなに信頼しきった寝顔を見せるから悪いのだ。

「ねえ…隼人、入っていい?」

外から声が掛けられて、隼人は思わず湯船の中で尻を滑らせた。
慌てて顔を上げると、腰にタオルを巻いただけの白雪が入ってくるところだった。

「まだ冷たいじゃん。何でこんなお風呂に入ってるの?」
「い…いいじゃねーか! 冷たいのから徐々に熱くなってくのがいいんだよ!」
「風邪引いちゃうよ。」

白雪は笑うと、鏡の前に立った。
古い建物らしく、バスルームと洗面所が兼用のこの場所には、壁に大きな鏡と小さな洗面台がついているのだ。

「隼人が、俺の髪の毛が綺麗だって誉めてくれたから、急に気になっちゃって。」

白雪は櫛と鋏を取り出すと、前髪を梳いた。
通した前髪を、櫛に揃えてパチンと切る。白い洗面台に、細かい髪がパラパラと舞った。

「おまえ…さあ、服ぐらい着て来いよ。」
「だって、髪の毛だらけになっちゃうじゃん。」

白雪は鑑越しに隼人を眺めると、もう一房、髪を切った。
前髪をそうして揃えてしまうと、今度は両手で自分の顔の脇の髪をつかんで、長さを確かめているらしい。
隼人は少し呆れて口を開いた。

「本当に器用だよな…おまえってさ。そんなの、ずっと自分でやってんの?」
「ずっと前は、お母さんがやってくれてたけど。ほら、俺の髪って怖いぐらいの直毛じゃない? 他にやりようがないんだよ。」

白雪はサイドの髪にも鋏を入れていく。やりなれているらしく、鋏を持つ手にはためらいがない。

「一度だけ、うんと短くしたことがあったんだ。全然似合わなくってさ。」

白雪は言いかけてためらうように笑った。

「一巳が物凄く怒っちゃって。白雪はいつもの通りにしてろって、それが一番似合ってるって、自分のことみたいに泣きそうになっちゃってさ。」
「…無理強いされたのか?」
「まさか。俺もほっとしたんだ。おかっぱってからかわれるから短くしたんだけど、我ながら似合わなくてさ。
一巳が似合ってるって言ってくれるんだから、おかっぱでもいいんだなあって、そう思ったよ。」

隼人はもう一度深くもぐりこんだ。一巳の話をする白雪は、見ていて楽しくない。

「そんな顔しないでよ。一巳と俺とが一緒だったうち、一巳が酷かったのは、ほんの少しの間だけなんだから。
それ以外はずっと、一巳は俺にとっては一番のお友達だったんだから、…いい思い出の方が、悪い思い出より多いんだよ。」
「でも…気に食わねえ。」

白雪は俺のことだけ考えていればいい。その言葉をわざと水の中で吐いたのは、それが一巳と同じ主張だと気づいたからだ。

「本当に子供なんだから…隼人は。」
「るせー。」

隼人は白雪を睨みつけた。頬が紅潮してくるのは、お湯が暖まってきたせいだと思いたい。

「一巳は、大事なお友達だけど、それだけ。隼人とは違うドアで区切られたところにいるのと同じだよ。」

白雪は髪の長さをチェックすると、念入りに髪を梳いた。
手のひらに隠れるような小さな櫛だ。白雪の慎ましさをあらわすように、あめ色に輝くその櫛が、白雪の美しい髪のつやの元らしかった。

「俺は、隼人のドアを開くときだけは、何にも飾らないで素直になれる気がするんだ。」

白雪は櫛を置いて隼人に向き直った。浴槽の縁に肘を付いて、隼人の顔を覗き込む。

「できたよ。どう?」
「ん…、いいんじゃねー。」

綺麗だと誉めるのが気恥ずかしくて、わざと視線をずらした。白雪の白い腕が伸びてきて、視線を合わせられた。

「…この髪型、嫌い?」
「………好き、だって、…何回も言ったろ。」

噛み締めるように言うと、白雪は嬉しそうに笑った。

「お湯、あったまったね。ねえ、鍵、掛けとくからさ。…一緒に入っていい?」

潜めた声に、言葉に出さない意味が聞こえて、隼人はなおさら顔を赤くした。

「鍵はともかく…こんな朝っぱらから…声、響くぞ。」
「こんな朝早く、起きてるのなんて、俺たちぐらいのもんだよ。」

赤い花びらの散った白い胸が近づいてきて、隼人は思わず目を逸らしていた。唇を押し付けてきたのは、白雪の方だった。
隼人の次の返事は、大量に流れ落ちる水音にかき消されていた。