学生服




ひとつ大きく伸びをして、オレは軽くシンクの上に飛び乗る。
水を張った桶の中には、昨夜祥太郎がインスタントラーメンを作った鍋が突っ込まれている。オレはその油の浮いた水をちょいちょいと嘗めた。

オレの水飲み用のボールは今日も空っぽ。朝、転がるように駆け出していった祥太郎は、オレの餌は気が付いても、水までは気が回らなかったらしい。
でも大丈夫。祥太郎はそそっかしいから、オレが喉を潤すくらいの水はいつでもどこかしらにあるし、どうしてもなければトイレの水を嘗めたっていいんだ。祥太郎が嫌がるから勘弁してやってるけどさ。

もうすぐその、そそっかしくて頼りない祥太郎が帰ってくる時間だ。オレは念入りに毛繕いをする。
オレがいるから祥太郎は安心して家をあけられるんだぜ。祥太郎の事はオレが守ってやるんだ。



いきなりドアが開いた。祥太郎のヤツ、また鍵を掛け忘れていったな。注意してやらなくちゃ。
喉を鳴らして立ち上がったオレは、だけど嫌な匂いに足を止めた。
いそいそと入ってくる祥太郎の後ろからついてくる真っ白な大きなヤツ─直哉に気付いたからだ。
何しに来たんだよっ!
ふうっと背中を丸めたのに、直哉は平気で入ってきやがる。
丁寧に靴を揃えて上がると、祥太郎が蹴り飛ばした靴もキチンと並べた。

「ただいま〜太郎、お留守番ありがとう〜。」
「よう、太郎。元気そうだな。」

気に入らない気に入らない。祥太郎の細っこい腕に抱き上げられながら、オレは直哉を睨んでいた。
さりげなく祥太郎の背後に寄り添った直哉は、ぐるりと部屋を見回して、ちょっと呆れた声を出した。

「祥先生、またこんなにしちゃって。この間掃除したばっかりじゃないですか。あーあ、またシンクに鍋突っ込んだままで…。なに作ったんです?」
「んもー、またお説教…。」

膨れてみせる祥太郎の顔が、なんだか嬉しそうな事をオレは知っている。

「昨夜ラーメン作ったんだよ。眠くなっちゃったから片付けは後にしようと思って…。」
「なんでラーメン作った鍋と箸があって、丼がないんです?」
「えー、そんなの一人で食べるのに、いちいち入れ物になんか移さないよう。いいじゃない、鍋ラーメンで。味が落ちるわけじゃなし。」
「まったく、先生はおおざっぱなんだから…。」

直哉は真っ白い制服を脱いで祥太郎に手渡した。
祥太郎は慌てたようにオレを降ろすと、さも大事そうにそれを受け取った。
ほんの一瞬、祥太郎の顔が綻んで、渡された制服を抱きしめるように鼻を埋めたのを、オレは見逃さない。

直哉は薄青いカラーシャツの腕をめくった。悔しいけどオレの目から見てもスラリとかっこいい奴は、そんな姿でキッチンに立っていても凄く様になる。
早速洗い物を始めた直哉は、ちらりとキッチンの片隅のオレのスペースを見た。

「…どうして自分のことはほったらかしなのに、猫砂はきちんとしてるんだろう…。」

祥太郎に聞こえないようにぼそりと呟くのも、オレの耳にはまる聞こえだ。
へん、あったりまえじゃんか! オレはおまえなんかとは格が違うんだよ!
ちょっと嬉しくなって、尻尾を高く上げると、オレは悠然と直哉の傍に歩いていった。
この季節、真っ白なあいつのズボンにオレが擦り寄ると、オレの灰色の毛並みが沢山引っ付いて、あいつが嫌な顔をするのをオレはちゃんと知っている。

「あっ、ダメダメ、太郎。直哉君の制服が汚れちゃうから。」

ところが、すんでのところで祥太郎に阻止された。尻尾引っ張るなよ!
オレが鋭くニッと声を上げると、おもしろくもなさそうな顔で直哉が振り向いた。

「なんだ、太郎…? 腹でも減ったのか?」
「そうかなあ、ちゃんとご飯はあげていったはずなんだけど。」
「餌でもやりましょう。腹がくちくなれば、おとなしくなるでしょうから。」

腹なんか減ってないよっ! オレは抗議の声を上げる。
だけど祥太郎は感心したように直哉の大きな背中を見つめていて、オレがうにゃうにゃ鳴いているのなんか知らんぷりだ。
おもしろくない! 祥太郎はオレのだぞ!
オレの知らない外の世界の祥太郎がどうかなんて事は知らない。だけど、このうちに帰ってきて、オレの側にいる時は、祥太郎はオレだけの祥太郎なんだ!

オレはふうっと背中を丸めた。直哉はいつも祥太郎が探しまくる缶きりをいともたやすく見つけ出して、今度は猫缶を選んでる。
ハイグレードクラスの猫缶で呼ばれたって行ってやるもんか! オレはぐるりと首を回した。どこかに隠れてやる!
すると、オレはベランダのサッシが開いているのを見つけた。

ひとっとびでベランダに走り出ると、オレは壁際の棚から反動をつけて手すりに飛び乗った。
強風が吹いてぐらりと体が揺れる。思わず爪を立てた。
金属製の手すりはキイッと嫌なきしみを上げる。豆粒みたいな子供たちが嬌声を上げながら、はるか眼下を走りぬけていく。
自動車も人の家の屋根も大きな木の梢も、みんなみんなはるか下だ。

手すりの冷たい温度が足の裏に伝わってきて、オレは自動的に全身の毛を逆立てる。
落っこちっこないのもちゃんと知ってるけど、万が一にも落っこちたらオレなんかぺしゃんこなのもちゃんとわかってる。
祥太郎っ! オレはここだよっ!
鋭く声を上げた。ニギャーッと、悲鳴みたいな鳴き声が出た。

うろうろと、直哉の後ばかりを追いかけていた祥太郎が振り向いて、ひゃーっと声を上げる。
祥太郎はまるで自分が手すりの上に乗っかっているかのようにつま先だって、そうっとオレの方に近づいてきた。

「太郎…お願いだからイイコにして。そのまま動かないで。あ──────っ!」

わざと手すりの上をすたすた歩くと、祥太郎は泣き出しそうな声を上げた。

「お願い…お願いだから歩かないで! ここは9階なんだよ! もし足が滑ったら…いくら猫だって…!」

祥太郎の大きな目が涙でウルウルしてる。
細い腕を伸ばして、祥太郎はそっとそっとオレに近づいてくる。
この感じ…! 祥太郎の目にはオレしか映ってないこの瞬間! 
祥太郎の全てはオレで占められていて、直哉なんかかけらも入り込めやしないんだ! オレが尻尾を振る、ただそれだけで、祥太郎を泣かすことさえできちゃうんだぜ!

全身をなぶる強風より、眩暈を起こしそうな眺めより、祥太郎の熱い視線に絡まれて、足元からゾクゾクとしてくる。
お尻の穴がきゅうっとすぼまっちゃう感じが、やっとたどり着いた祥太郎がオレを抱きしめてぐりぐり頬を擦りつけてきても止まらない。

「ああ! もう! 太郎〜、心臓に悪いからやめてよ! 太郎がいなくなっちゃったら…僕…僕、もう生きて行かれないかもしれないよ…。」

ごめんよ、祥太郎。オレは祥太郎の丸いほっぺたをペロリと舐める。
だけど祥太郎がオレのものだって事、直哉に思い知らせてやりたかったんだ。
へへん、どうだい。俺は祥太郎の肩越しに直哉を見た。バチリと、視線が合った。

「…つっ!」
「えっ?」

祥太郎が腕をぱっと放した。
オレはぽいっと床に投げ出されていた。

「ど、どうしたの、直哉君!」
「ちょっと失敗…、たいしたことない、大丈夫です。」
「うわ、血が…! 大丈夫じゃないよ! こっち来て!」

祥太郎は指から血を出している直哉を引っ張ってソファーに座らせた。
慌てているのか、目の前のサイドボードの中に入っている薬箱に気付かないらしい。
おろおろした顔で、ティッシュを持ってきた。

「もう、案外そそっかしいんだから、直哉君たら…、あんな缶きりで指切るなんて人、聞いたことないよ〜。」
「すいません。ちょっと焦っちゃって。」
「あー、血が止まらないじゃない…。」

ちらりと直哉がオレを振り返った。祥太郎に気付かれない位置でにっと笑う。
こいつ! オレはちゃあんと見ていた。
こいつはうっかりなんてしたんじゃない。めくりあげた缶の切り口に指を滑らせて、わざと指を切りやがったんだ!
オレの事だけを見ていた祥太郎を、一瞬でとり返しやがった!

ぴくんと直哉の肩が震えた。オレから目を逸らして、祥太郎をじっと見つめる。
祥太郎は直哉の指をぱくんと咥えていた。
じっと見下ろす直哉の視線に気付いて、はっと指を離し、見る見る頬を染める。

「先生…誘ってるの?」
「違…、だって血が…、直哉君…。」
「先生の中、凄く熱くて気持ちよかった。…もう一回しゃぶってよ。」
「え、だって、…あ…。」

直哉の指が祥太郎の唇をなぞると、それが薄く開く。
たいした力も入れずに祥太郎の歯をこじ開けると、直哉は祥太郎の口の中を撫でまわした。
直哉の膝の上に座るように抱きかかえられた祥太郎が、背中をぶるりと震わせた。
直哉の空いているもう一方の手が…オレの見えないところを撫でてる!

「いや…、だめだって、直哉君…。」
「本当に? だってほら、もうこんな…。」
「だって…だって、…太郎が見てる…から。」

そうだよ! オレが見てるんだってば! 
オレは全身を2倍にも膨らませると、もう一度ベランダへ走った。手すりの上に乗っかれば、祥太郎はどんなときでもオレを抱きしめに来てくれるんだぜ!
それなのに…! オレは愕然とした。
ベランダに走り出たオレの背後でサッシがピシッと閉められてしまったからだ。
祥太郎なら絶対届かないはずのソファーの上から、直哉は長い腕を伸ばしていとも簡単にオレを締め出しやがった! 
そのうえカーテンが! オレには祥太郎の姿を見せるのさえもったいないとでもいうように、祥太郎のほっぺたみたいな暖色系のカーテンがシャッと引かれてしまった。

「太郎も…気を利かせてくれたようですよ。」
「あ…直哉君…、ふ、ぁ…。」

サッシのアルミは、オレがどんなに爪を立てても開かない。
いつもなら祥太郎をすっ飛んで来させるオレの猫なで声は、祥太郎自身の甘やかな声に遮られて届かない。
薄く開いたカーテンの隙間からほんの僅か二人の姿が見える。
もぞもぞと動いていた二人の位置がやがて逆転して、祥太郎の声が高くなっていった。

なんだよ! オレはベランダ中を走りまわる。
祥太郎はオレだけ見てればいいんだ! オレだけの祥太郎なんだぞ!

ふと、ベランダの端っこにひらひらそよぐ白い物を見つけた。
アレは直哉の制服の上着だ! 風を通すとか言っていた祥太郎は、こんなところにまで直哉を浸出させていたんだ。
オレは勢いよく飛びあがった。爪を伸ばして針金ハンガーに掛かっている制服に引っ掛ける。
ハンガーごと落ちてきた制服にオレはがむしゃらに全身を擦りつけた。
直哉がオレの祥太郎にしたのとおんなじことを、オレが直哉の制服にしちゃってるのに気がついたけど、構うもんか! 
せめてこいつをオレの毛だらけにして、直哉にもオレの匂いをたっぷり擦りつけてやらなくちゃ気がすまない!

一人奮戦する背後から、一際高く、祥太郎が直哉を呼ぶのが聞こえた。