ハート




「言うまでもないですが、2月に入りましたよ! 2月です!」

大学部からやってきた兄貴は、生徒会室のドアを開けるなりそう叫んだ。
生徒会室の応接セットでいつものようにのほほんとした顔をしていた祥太郎は、口にしていたパックのコーヒー牛乳を吹きそうにした。

「ああっ、祥先生、またそんな冷たいものを飲んで!
この間も正露丸を飲みつくしたところじゃないですか! またお腹を壊したらどうします!」
「…うっるさいなあ、直哉君は…。」

祥太郎は、いたずらが見つかったガキみたいにバツの悪い顔をして、スーツの袖で口元を拭いやがった。

「大体なに? 急に…。2月だなんて言われなくても分かってるよ。だからこうして卒業式の準備にてんてこ舞いなんじゃない。
言うまでもないんなら、言わなくていいってば。」

祥太郎はぷいっと横を向いてしまう。途端に兄貴はありえないくらいしおしおとなった。
信じられねえ。これが本当に、あの強面でならした俺の兄貴かよ。
兄貴の一睨みで、半径1キロ以内のヤンキーどもが、みんな道を開けるって有名だったのに。

こんな非力な祥太郎に、どうしても兄貴の頭が上がらないなんて、十二分に見せ付けられた今でも、俺はまだ信じられない。祥太郎なんて、腕相撲なら白雪にさえ負けるんだぜ。
クラスの一部の連中の間じゃ、祥太郎の授業は花が咲いたみたいにいい香りがするって、お姫様扱いされてるのにな。
もっとも、祥太郎はしょっちゅう甘いものを食ってるから、そのバニラの匂いでもさせてるのかもしれないが。

「2月…といえば…あるでしょうが…。」
「だからぁ、何があろうが、僕が今忙しいことには変わりないんだってば!」

未練たらしく食い下がる兄貴がなんだか哀れで、俺は思わず助け舟を出したくなった。

「にっぶいな、祥太郎。2月って言ったらあれだろ、バレンタ…ぐわっ!」

ガゴンッと、鈍い音と痛みが俺の頭の前後でした。前は兄貴の拳、後ろは白雪の持っていたバインダーだ。

「………隼人。」
「隼人ってばもうっ!」

俺は頭の前後を同時にさすってタジタジとなる。
兄貴が、祥太郎に向けるのとは程遠い射殺すような目で俺を睨んでいて、白雪は茹蛸みたいに真っ赤になっている。

「もうっ! こっち来て!」

俺の何が悪いのかさっぱりわかんねえ。俺は白雪に引っ張られるままに、少し離れた衝立の影に行った。
これだけ離れたって、応接セットの二人には筒抜けだけど、頭に血の上ってる白雪にはそこまで考えが回らないらしい。

「鈍いのは隼人のほうだよ。そんなあからさまに言うことないじゃない!」
「なんだよ…! 祥太郎が鈍いから、親切に教えてやろうってんじゃねーか! 2月っつったらチョコのことだろ!」
「あああっ、だから、それは祥太郎先生が自発的に思いつかなきゃだめなんだってば!
そんな、人に言われて思いついたバレンタインデーのチョコレートなんて、もらったって嬉しさ半減じゃない!」

思いっきり叫んでるのは、おまえだっちゅーの。

兄貴が深いため息をつくのが聞こえて、白雪は慌てて口を押さえた。

「チョコ…ねえ。」

祥太郎が呆れたように言う声が聞こえて、俺と白雪はちょっとうなだれながら衝立の陰から出た。



「だいたいさあ、毎年毎年、どうしてそんなにチョコチョコって騒ぐんだよ。去年も一昨年も、一応上げたんだから、アレでいいじゃない。」
「一昨年は飲みかけのココア一杯でお茶を濁されましたし、去年のアレは…っ!」

思い出した。去年は俺も、アレを食わされて酷い目に会ったんだった。
祥太郎と白雪と咲良と瑞樹と天音さん、この5人が寄ってたかって作り上げたチョコの詰め合わせ、味はみんな同じかと思ったら、祥太郎の作ったハート型の奴にはワサビが死ぬほど入ってやがった。
咲良と瑞樹の作った奴が恐ろしく不器用な出来だったから、思わず無難そうに見えたハートを真っ先に食ったんだ。そうしたらとんでもない味で…危うく昇天するところだった。
白雪の作ったチューリップの形の奴は、味も形も抜群のできだったけどな、うん。



「それでも…女々しいと思われるかもしれませんが、祥先生の気持ちを実感できる、絶好のイベントじゃないですか。俺はチョコが欲しいんじゃなくて、先生の心の証が欲しいんです!」
「うん。女々しい。」

祥太郎の一刀両断に、兄貴はがくりと項垂れた。

「あのさあ…日本におけるバレンタインデーの意味って…知ってる?」

祥太郎はとことん乗り気でないらしい。

「それはもちろん…! 製菓会社の思惑といえばそうなんですが、女性から好きな男性に気持ちを告白できる…。」
「今時、告れないシャイな女の子のほうが貴重な気もするけど…それは置いといてもね。」

祥太郎はあどけない表情で小首を傾げた。

「よく分かってるんじゃない。女の子が、男の子に告白する日、でしょ。
君は男の子だよね。んで、僕は?」
「……………男の子。」
「でしょ。ほーらもう、僕が君にチョコを上げなきゃいけない理由がなくなったじゃない。」

俺は思わず手のひらを顔に押し当てて天井を仰いだ。兄貴はかわいそうなくらいしおれている。



「でもっ!」

反旗を翻したのは、意外にも白雪だった。

「いいじゃないですか、先生、1年に1回くらい! いつも直哉さんは先生のためにいろいろ骨を折ってくれてるんですから!
チョコが欲しいって言ってくれてるんだから…上げましょうよ!」
「えー、なんで高見君が直哉君の応援に回るかなあ…。」

祥太郎は困ったようにぼやいた。

「今日はもう、これから提出される書類を待つだけですし! 咲良さんと瑞樹さんも今日は来ませんし!
これから買いに行きましょうよ! 俺たちも付き合いますから!」
「俺たちもって…ええっ、俺もかよ!」
「意外にチャレンジャーだよねえ、高見君は…。」

俺と祥太郎は同時に声を上げていた。一斉に抗議された白雪はきょとんとした顔をしている。
引きこもり傾向のある白雪は、もしかするとこの時期の女どもの鬼気迫る様子なんて知らないのかもしれない。
祥太郎はため息をつくと、なぜかネクタイを引っこ抜いた。

「まあいいや、当てがないわけじゃなし。気が乗らないけど行きますか。」

途端に兄貴の顔がぱあっと輝いた。我が兄ながら、なんて分かりやすい。

「その代わり…。」

祥太郎は俺と兄貴を当分に見比べて、子猫みたいな笑い顔をした。

「直哉君も僕たちについてこなくちゃダメなんだよ。僕だけが一方的にプレゼントしなきゃいけないなんて、ずるいもん。」

何か高額なものでもねだるつもりなのだろうか。
兄貴はまるで操られているかのようにこくこくと頷いている。



そうして繁華街に出てきて。
俺たちは今、有名百貨店の一角で固まっている。
この時期の特設コーナー言えば、チョコレート売り場に決まっているが、それにしてもなんという盛況なことだろう。
今年は景気は少し上向きらしいが、だからといってこんなに目の色を変えてチョコレートに群がらなくてもいいではないか。

「ほーらね、だから嫌だったんだあ。」

祥太郎はスーツの上に着るには不似合いなようなダッフルコートの前を掻き合わせて呟いている。
白雪は呆然と立ち尽くしているし、兄貴に至っては眉間の皺が最大級によっている。俺だってきっと、似たようなもんだろう。

「ねえ、直哉君。」
「は…はい、なんですか。」

心なし、兄貴の声が裏返りそうだ。

「男の子の君が男の子の僕からチョコレートが欲しいってんならさ、僕だって君にチョコレートをねだったっていいわけだよね。」

ビシイッと、兄貴の背中に一本筋が通る音が聞こえた気がした。

「僕はね、あれが欲しい。」

祥太郎の指差したのは、一際女どもで溢れかえる一角…俺なんか名前も知らない有名店らしい。
そこには大きなハート型のチョコが展示してあって、そこに『メッセージをお入れします』という看板が…。

「あれをくれるんだったら、僕も考えるなあ、バレンタインのチョコレート。当然、メッセージも入れてね。」
「………分かりました。」

兄貴は悲壮な顔をして人ごみを分けていく。群がる女どもを掻き分けると、嫌っていうほど注目が集まった。
当然だ。この時期のチョコレートといえば、想い人に上げるもの…到底、兄貴みたいな大男が買うような代物じゃない。
そうでなくても、甘いものの苦手な兄貴には、漂うチョコレート臭だけで大ダメージだ。

「こっ、これを下さい。」

しかし果敢に兄貴は挑戦する。
兄貴が喋ると、さっきまであんなに姦しかった女どもがぴたりと静まる。好奇心に満ちた目で凝視されて、兄貴があたふたするのが分かった。

「…メッセージをお入れできますけど…。」

売り子の女も不審の色を隠せない。胡散臭い目で睨みあげられて、兄貴の背中がガチガチに強張った。
この場合、揶揄の言葉より、クスクス笑う声のほうがどんなに厳しいか。
これじゃまるで、公開カミングアウトだ。
ガンバレ兄貴。俺は思わず拳を握る。

「いっ、愛しい…祥先生に…と。」
「…ショウはどんな字を書きますか。」
「あ…っ、秋葉原のショウですっ。」

兄貴、違うぞ。それを言うなら、吉祥寺のショウだ。場所も地名も全然違う。

「あーあ、あれじゃさあ、きっとシュウ先生ってメッセージになっちゃうねえ。」

兄貴をこんなにテンパらせた祥太郎は、上機嫌で笑っている。
こいつ…今更だけど、なんて奴だよ。

「僕はさあ、受け売りの愛の告白なんて欲しくないんだけどなあ。」

兄貴の努力をよそに、祥太郎はそんな薄情なことを言う。

「僕は直哉君が傍にいてくれれば、他には何にもいらないんだけど、直哉君はそうじゃないのかなあ。」

聞き取れないほどの小さな声。俺は思わず祥太郎をまじまじと見てしまう。
そんなことは兄貴に聞かせてやればいいのに…こいつも案外、不器用な奴なのかもな。

祥太郎は何事もなかったかのような顔で、よれよれになって帰ってきた兄貴を迎え入れた。
たった今買ったばかりのチョコレートを受け取って、にっこりとあどけない微笑を浮かべる。

「ありがとう、とっても嬉しいよ。」

俺の隣に立っている白雪が、思わず頬を染めるのが分かった。

大体において祥太郎はいつでもニコニコしている奴だけど、兄貴に向けるあの笑顔は本当に特別だ。
そうして、兄貴はその特別に、ずっとやられっぱなしなんだろう。
しかし、今日の兄貴はなかなか打たれ強かった。



「祥先生…約束です。チョコレート…。」
「うん、そうだね。」

祥太郎は何の屈託も見せない顔で、ぴょんぴょんと弾むように歩き出した。
小柄な祥太郎がそうすると、まるで学生が…それも中学生くらいが歩いているように見える。
社会人の証たるネクタイを引っこ抜いて、ダッフルコートの前を深く掻き合わせた祥太郎は、どこからみても25歳の男には見えなかった。

祥太郎は、兄貴がモーゼの十戒みたいに人ごみを割って進んだのに対し、まるでコーヒーにクリープを入れたときみたいに難なくなじんで溶け合っている。
あっけなく人ごみの一番前にたどり着いて、両手をちょこんとカウンターに並べて置いた。
ダッフルの袖が長くて、指先しか見えない。本当に中学生の子供がお使いに来たような…あれって絶対演出に違いない。

「すみませぇん。」
「はい。」

祥太郎が小首を傾げて声を掛けると、さっき兄貴に応対したおんなじ売り子の女が、さっきとは雲泥の差の笑顔を祥太郎に向けた。

「えーっとね、…あっ、そうだ!」

祥太郎はいきなり振り向いて、まっすぐ俺たちの方を見た。

「隼人君も欲しい? チョコレート?」
「隼人には、俺がやるからいい…あ…っ。」

祥太郎に簡単に乗せられた白雪が叫んで、あっという間に真っ赤になる。衆人の目がこっちに向いて、クスクス笑いながら俺たちを無遠慮に眺める。
あいつ…絶対わざとやりやがったな!

「君も、彼氏にプレゼント?」
「違うよう、お姉ちゃんに頼まれて来たんだ。」

どこかのおせっかいな女が問いかけるのに、祥太郎はあっさり返した。
お姉ちゃんといえば…あの、葵ちゃんとか言う女だっけ。嘘にしろほんとにしろ、いい口実ではあるな。

「その、大きいハートの奴ください! メッセージはね、えーと…。」

祥太郎はもう一度大きく首を傾げ、ちらりと兄貴の方を振り返った。

「I Love 瓜生、で!」

祥太郎の声はよく通る。こっちにまでその声が響き渡ったとたん、兄貴が卒倒しそうになった。

しっかりしろ、兄貴! 祥太郎の姉貴の葵ちゃんなら、瓜生の嫁だろ! 筋が通ってんじゃねーか! 
俺はぐずぐずになっている兄貴を慰めることもできずに、歯を食いしばるのみ。
まったくもう、白鳳の守護神が、いいように骨抜きにされちゃって…。

俺は、しゃがみこんで床にのの字を書き始めた兄貴の背中をひたすら撫でていた。

「ねえ、でも、祥太郎先生、あの後ブランデーの入ったチョコレート買ったよ。あれならあんまり甘くないから、きっと直哉さん用だよ!」

白雪がそっと報告してくれる。
このことは、兄貴には言わない方がいいんだろうな…きっと。
お楽しみはバレンタインデー当日までとっておくほうがいい。

「でも、祥太郎先生さすが〜。なるほど、駆け引きってああいうふうにするもんなんだね!」

なぜか明るい白雪の言葉がちょっとばかり不気味に感じる俺だった。