杜 若




白い閨が月の光に浮き上がって見えていました。
わたくしの前には旦那さまが、細身のお姿を緊張に堅くして、端正に座っておられました。
わたくしは静かに俯きました。解いたばかりの黒髪が白い夜着の上に零れて、それを無意識に弄んでしまう指先が、酷く子供じみて思えました。

「富貴さん、申し訳ない。あなたとは夫婦になっても、私があなたに愛情を傾ける事はない。」
「はい…。承知いたしております。」

静かに答えると、旦那さまは驚いたように身を竦め、それから落胆されたかのように俯かれました。
そんな旦那さまの誠意は、わたくしには好ましい物に思えました。

わたくしより17歳も年上の旦那さまが、望んでわたくしを娶られようとしているのではない事は、最初から分かっていた事でした。
それでもわたくしは、国見家の跡を継ぐ事だけを誇りに、昂然と胸を張っていなければならなかったのです。
二十歳を超えたばかりのわたくしには、親に逆らって自分の意志を貫き通す意地も、またそんな強い意志もありませんでした。
こうしてわたくしは、まだ若いわたくしの操を、わたくしを妻と認めない旦那さまに捧げる事になったのでした。



旦那さまのご実家は、日本舞踊で知られた旧家でした。
でも、長く続いた戦争は、その優雅な家風のお家から、財力を根こそぎ奪っていきました。
旦那さまが泣く泣くわたくしの家に入り婿として入られたのには、そんな事情があったのです。

わたくしはといえば、望まれない跡取りに過ぎませんでした。
戦場に行った兄の死を現実として受け入れられない両親は、国見の家に迎えるにふさわしい婿として旦那さまを選んだものの、そのまま家督を譲る気などなかったに違いありません。
わたくしと旦那さまの婚姻は、あくまで兄が戻ってくるまでのつなぎ。国見の家の、体裁を整える為だけの贄に過ぎなかったのです。

そんな婚姻ですから、わたくしは何も期待しておりませんでした。
私は国見の家の為に子供を産むだけの道具だと信じており、それに深い感慨も覚えてはおりませんでした。いえ、覚えていないと思い込みたかったのです。
そうでなければ哀しくていられませんでした。
ですから、旦那さまが美しいあの人を連れてきて、ひっそりと北向きの小さな離れに住まわせるようになった時も、何も感じないと思っていました。



一緒に住まう両親の監視に急かされるようにして、私はやがて子を身ごもりました。すると両親は、水場の冷えはお腹の子に悪いといって、わたくしからお花さえ取り上げてしまいました。
わたくしは日毎に大きくなるお腹を抱えたまま、途方に暮れていました。
もともと何もかも諦めてしまったわたくしには、お花以外することもありませんでした。
そうしてお腹の子だけを大切に、日々を単調に過ごして行くほどに、不安が募るのでした。

わたくしの存在の意味は何だろう。この子さえ産み落としてしまえば、わたくしは誰にも省みられない虚ろになってしまうのではないか。
そんな思いが日毎に大きくなっていくのです。
両親は楽しげに、生まれてくる子に亡くなった兄の名前をつける計画を語って聞かせますし、旦那さまはますますわたくしの閨からは足を遠ざけられます。
身を切られるような切なさが、無意識に目を逸らせていたあの人への関心を呼び戻したのかもしれません。



旦那さまが女形のあの人をそれはそれは大事にしているのは、わたくしとの婚姻の前から公然の秘密でした。
それだからこそ、草薙流を背負う旦那さまに、今の今まで婚姻の噂もなかったのでした。

あの人は本当にひっそりと、その身を控えていられました。
時折聞こえてくるお三味も、辺りを憚るような微かな音で、それも長く続く事は決してないのでした。
ある日わたくしは、長い気鬱に後押しされるようにふらふらと、そのお三味に引かされて足を運んだのでした。
一応の暮らしを出来るだけに体裁を整えたその離れの濡れ縁に、あの人は静かに正座して、撥を持つ手を休めていられました。
その視線はどこか遠く、わたくしには窺い知る事のできないところを見ていられるようでした。
初めてお会いするそのお姿に、わたくしは思わず息を飲んだ物でした。
お美しい方…あんな儚げな方が本当にいらっしゃることなど信じられないようでした。
わたくしも小町娘などと呼ばれたこともございます。それでもわたくしなど足元にも及ばないような透明感をお持ちの方でした。
たとえて言うならば、ウスバカゲロウのように、触れるに躊躇いを覚えさせる妖しさでした。

そっと近づくわたくしの足音に気付かれたあの人は、はっと涼しげな目を見開かれました。
そうすると濡れ濡れと光る大きな瞳がひどくあどけなくも見え、まるで童女の初々しさをも漂わせていらっしゃるのでした。

あの人の薄紅を差した唇が「おくさま」と形を結びました。
膝の上のお三味と撥を急いで退けられたあの人は、濡れ縁に両手を着いて深く頭を垂れられました。
そうすると襟を抜いたうなじが真っ白に光って、ますますこの人が男の方であるなどは信じられない思いが致しました。

「あの…どうぞお顔をお上げになって。不躾とは存じますが。」

わたくしははしたなくも、開け放たれたあの人の部屋の中をそっと見回していました。
もしかすると、わたくしの旦那さまの痕跡を探していたのかもしれません。

「あなた様のお三味があまりにお見事なので、つい引かれてしまって。」

6畳ほどの部屋の中には家財道具と呼べるような物はなく、あるのは行李と小さな文机、それに姫鏡台だけでした。
文机の上には竹を切っただけの花器があり、そこにはみずみずしい杜若が挿してあるのでした。
お花のお作法には何一つ法っていないそのお花が、なぜかわたくしの目には強く焼き付いて離れませんでした。

いつまでも顔をお上げ下さらないあの人の肩にそっと触れると、洗いざらした絣の下の肩は折れそうに細く、また小さく震えられており、わたくしは自分の思い上がりに胸を突かれる思いがいたしました。
この人と旦那さまとの間に割込んできたのはわたくしの方であり、本当ならここに傅いているのはわたくしの方でしょう。
こんな小娘をおくさまとよばせ、こんな小さな寒い庵に押し込めたまま挨拶すらできなかったわたくしの、傲慢を思い知った気がいたしました。
それでも何一つわたくしを責めずに日陰の身に甘んじていらっしゃるこの人の情の深さ、芯の強さにわたくしは強く惹かれるものを感じたのです。

こうしてわたくしとあの人─胡蝶さまは、急速に近しくなったのでした。



皮肉なもので、わたくしと胡蝶さまが親しくお話をするようになると、旦那さまもわたくしのところに頻繁に訪れてくれるようになりました。
旦那さまは相変わらず進んでわたくしに触れようとはなさいませんでしたが、その溝を埋めるかのように、たくさんのお話をして下さるようになりました。その中には胡蝶さまのお話もありました。

わたくしは美しい胡蝶さまに心酔していましたから、胡蝶さまのお話なら何でもお聞きしとうございました。
また、旦那さまが胡蝶さまのことをお話されるときの、なんとも言えない優しい瞳が大好きで、なんど見てもまた見たいと思わずにはいられませんでした。

でも、胡蝶さまのお話は、必ずしも美しい、楽しいお話ばかりではありませんでした。
わたくしは、旦那さまを通じて、胡蝶さまの半生を知りました。
胡蝶さまが貧困のため、若くして陰間茶屋に売られたこと。声が変るのを嫌われて、自ら毒を煽って死ぬ思いで喉を潰されたこと。
そうして旦那さまのおじいさまに見初められ、やがて旦那さまと知り合ったこと。
二人だけの部屋で、時には胡蝶さまを間に挟んだ離れで、旦那さまは丁寧にお話して下さいました。
旦那さまはわたくしが胡蝶さまを正確に理解するのを望まれていられたのかもしれません。お聞きすればするほど、わたくしは胡蝶さまに惹かれていきました。
もしかするとそれは、旦那さまをお慕いするよりもっと強い気持ちであったかもしれません。

中でもわたくしを夢中にさせたのは、胡蝶さまの舞台でのお話でした。
薄いお化粧だけでこれだけお美しい胡蝶さまなのですから、さぞかし舞台では天女のようだったことでしょう。
そう申し上げますと、旦那さまは淋しそうに笑われました。

「私は、胡蝶こそ天才と言うのだと思う。胡蝶ほどに優雅に舞う者を見たことはない。」
「では、そのうち一指し舞っていただきとうございます。ねえ胡蝶さま、よろしいでしょう?」

わたくしは、いつものとおり一段下がったところに座られている胡蝶さまを振りかえりました。
胡蝶さまは困ったように目を伏せてから、旦那さまの方を見上げられました。

「…ただし、幻の天才なのだ。胡蝶はね、生まれつき膝が外れやすいのだよ。よほど具合のいい時に、一節舞えるか舞えないか。
もともと両親が手放さざるを得なかったのも、この膝が原因だろう。この膝では小作人は勤まらない。」
「え…、膝を…。」

わたくしはびっくりして胡蝶さまを振りかえりました。
そう言えば胡蝶さまはいつも座っていらして、立ち居振舞いも機敏とは言えない物でした。
それが膝を庇ってということは、わたくしは迂闊にも、言われるまで気づきませんでした。

「まあ…それでは、こんな寒い庵では、胡蝶さまのお体に障るのではありませんか。」

その頃にはわたくしのお腹もずいぶん大きくせり出してきていて、お腹の子を守る為に幾重にも巻かれた布がわたくしを更に不格好にさせていました。
それでも、季節の移ろいがそんなわたくしでさえ薄ら寒いと思わせる北の庵なのでした。

胡蝶さまはいつもの通りの洗いざらした粗末なお着物に身を包まれておいででしたが、わたくしの言葉を聞かれると、それは嬉しそうに微笑まれました。
そうして流麗な女文字で、どうぞお気遣いなくと囁かれるのです。
わたくしはそんなお優しい胡蝶さまになにかして差し上げたいと思わずにはいられませんでした。
そうしてわたくしが胡蝶さまに心酔すればするほど、わたくしの両親が眉を潜めているのにも、わたくしは無理に気付かないふりを致しておりました。



まもなくわたくしは玉のような男の子を産み落としました。
両親の希望通りに巌と名付けられたその子は、なぜか両親にはあまり懐かず、代わりに胡蝶さまが大好きでした。
お守りにと、両親が雇った姉やを振り切って北の庵に抱いていきますと、巌さんはいつでも大喜びで胡蝶さまにしがみ付きました。
胡蝶さまも子供はお好きらしく、いつまでも飽く事なく巌さんをあやして下さいました。
わたくしは、まだ口も利けないこんなちいさい巌さんでさえ、胡蝶さまのお美しさ、お優しさが分かるのかと、おかしいような気持ちでした。
でも、胡蝶さまは、そんなわたくしを窘められるようにしばしば悲しい目をなさいました。
胡蝶さまは、巌さんをご自分のところに連れて来るよりも、両親の許で遊ばせるようにとおっしゃるのです。

本当はあさはかなわたくしにも分かっておりました。巌さんが両親にあまり懐かず、胡蝶さまを好いているのは、わたくしの気分を反映しているからに違いないのです。
わたくしは、生まれ落ちたこの子を、両親が今にも亡くなった兄の代わりにしてしまいそうな事を恐れていました。
国見の家の跡取りとして、わたくしから取り上げられて、そうして自分達の意のままになるお人形のように育て上げてしまわれそうな気がして仕方がなかったのです。
亡くなった兄と同じように、国見の家が一番大事で、その家名を守る為に命すら捧げてしまう愚かしい跡取りに。
生まれ出でた子はなぜか兄の面影を宿しており、不安は一層募るのでした。



そんな冬のある日、父が倒れました。
父は良くお酒を嗜みましたから、おそらく普段から血圧が高かったのでしょう。ある日一言唸って倒れたきり、2日間高いびきで眠った父は、目覚めた時には別人になられていました。

右半身がまったく動きません。言葉も不自由になり、床から離れる事のできないお体になってしまわれました。
国見家は騒然と致しました。事実上の当主の頓死。そして跡を取るべき娘婿は、お花の事など何も知らない舞踊家であり、その息子はまだ幼すぎる巌さんだけ。
自然、わたくしの肩に国見の家の重さがのしかかってまいりました。覚悟は出来ていたとは言え、実際に降りかかるその重さは、わたくしの想像をはるかに超えたものでした。

母は、にわかに焦り出しました。
今思えば、すっかり我が侭な病人になってしまった父の世話で、神経が疲れきってもいたのでしょう。まだようやく立ち上がるばかりの巌さんに、しきりに国見の家の重さを押し付けようとするのです。
わたくしはどうしても嫌でした。今自分が味わっている、この息苦しさ、窮屈さを、どうして可愛い巌さんに押し付けられるでしょう。
無論、巌さんが大きくなって自ら国見の家を選ぶのに異論はありません。でも、こんな小さなうちから目を塞ぎ耳を塞ぎ、そうして国見の家しか見られないように押し付けていく事は、わたくしにはどうしても許し難かったのです。
ある日とうとう、わたくしは母とぶつかりました。

「おかあさま、どうぞもうお止しになって。」

母は巌さんの小さな手に、お花鋏を握らせているところでした。
鋭い切っ先は、巌さんの小さな指など簡単に裁ち落としそうで、わたくしは震え上がっておりました。

「こんな小さなうちから、無理強いに学ばせる事はありません。巌さんには巌さんの人生があるのですから。」
「何を言いますの。巌さんには国見の家を継いでもらわなければ。芸事は倣うより慣れよです。鋏の感覚も身に染み込ませておけばきっと後々の役に立つ筈ですよ。」
「いいえ、わたくしは巌さんにこの家を無理に継がせるつもりはありません。」

わたくしが思い切って申しますと、母は息を飲みました。

「わたくしは、自分の踏んできた道をそのまま、巌さんに継がせるつもりはありません。おかあさまとおとうさまの言いなりに人生を定められて、他に選択肢のない生き方をこの子にはさせたくないのです。無論お花も踊りも授けましょう。でも、どちらを選ぶかは巌さんに委ねたいのです。」
「そんな馬鹿な…。巌さんは国見の家の跡取りとして…。」
「草薙流にも跡取りは必要な筈です。」

もう一度決め付けると、母はひっと小さくうめきました。

「わたくしは、巌さんが旦那さまの踊りをやりたいと言うのなら、それを拒むつもりはありません。大好きな胡蝶さまを真似たいと言うのなら、それも良いでしょう。女形になるのも反対するつもりはありません。」
「女形…まさか、国見の跡取りを…。」
「なにがいけないのです。胡蝶さまはお美しくてお優しくて、わたくしやおかあさまなどよりもよほどに女らしい方です。それに、もう戦争は終わって新しい時代が来たのです。誰にでも自由を選び取れる新しい時代が来たのですよ。」

母は真っ青になりました。わたくしはチクリと胸の奥に痛みを感じました。
わたくしの知っている母はまさしく国見の家の僕でした。家元である父は尊大で、母をこき使いこそすれ、そのまめまめしい働きに感謝する事などありませんでした。
そうして少しだらしない父と国見の家の名前を守る為に身を粉にして働いた母は、これからようやく息をつけるという時に、大事な跡取りである兄を戦争に取られ、拠り所であった筈の父は倒れ、そして今娘にまで背かれようとしているのです。
そうして自由な時代になったのだから母の考えは古いのだと切り捨てられる。まさしく前時代の申し子のように、家に仕え夫に傅きしてきた母に、その生涯は無意味だったと突き放しているかのような話です。

それでもわたくしは自分を曲げる気持ちはありませんでした。なにより、巌さんはお花よりも華々しい謡や踊りに興味があるらしい事も、母親ならではの感覚で知っていました。
将来この子はきっと踊りを選ぶ。だから胡蝶さんうんぬんの発言も、わたくしには何一つ気負ったものではなかったのです。
でもそれは、母には耐え難い屈辱のようでした。

突然立ち上がった母は、聞いた事もないような激しい口調でわたくしを叱責なさいました。ところがそれが、何を言われているのやら、私には聞き取れません。
あまりの母の激昂ぶりが、母の声を甲高く、呂律の回らないものにして、ただ喚き散らすだけの醜い音に変えたのです。わたくしは呆然としてそんな母の様子を見守っていました。

わたくしにとっての母は、大人しくて自分の気持ちすら言えないような人で、いつでも父や祖父母の後ろで控えている可愛い女でしかなかったのです。
こんな風に激昂する事も、それからまもなく裾を乱して走り去っていった様子も、わたくしには想像も及ばないものでした。
わたくしは足袋跣のまま庭に飛び降りた母がどこへ行ってしまったのか追いかける事も思い付かず、ただぼんやりと座っていました。
わたくしの言葉が酷く母を傷つけた事だけは分かりました。でもそれを信じたくはなかったのです。

突然遠くの方から騒ぎが聞こえました。それは北の庵の方からでした。
母の走り去った方向には、だた胡蝶さまの庵があるだけです。わたくしは何が起こっているか瞬時に悟りました。



駆けつけた北の庵でわたくしが見たのは、恐ろしい光景でした。
お手伝いやお弟子さんたちが数名、おろおろと取り囲む中に、二人はいました。
庭に素足のままで倒れ込んでいる胡蝶さまは全身ずぶぬれで、傍には井戸場の手桶が転がっています。
襟も裾も酷く乱れて、無理矢理に引きずり出された様子が見えるようでした。
そして母が…いまや夜叉となった母が、一体どこから持ち出したのでしょう、生前の兄が愛用だった竹刀を、似合わない細腕に振りかざして、胡蝶さまを打ち据えているのです。

胡蝶さまはなされるがままに蹲っておいででした。僅かに顔を庇うように挙げられた手が腫れ上がっていて、すでに小指の辺りは折れているようでした。
足のお悪くて、声も出されない胡蝶さまには、逃げる事も助けを呼ぶ事も叶わなかったに違いない。そう思うとわたくしは矢も盾もたまらなくなりました。
母を止めようと、胡蝶さまをお守りしようと、その一心でわたくしは二人の間に割って入りました。

ところが、母の打擲は、私の姿を見ても止らなかったのです。
母の振り下ろした竹刀が、私のこめかみをしたたかに打ち据えました。
いまだかつて手を挙げられた覚えなど一つもないわたくしは、痛みよりもその仕打ちに酷い衝撃を覚えて、倒れてしまいました。そのわたくしの、背中に、肩に、母の打擲は続きます。

「この、汚らわしい陰間! おまえなど! おまえなどにわたくしの巌さんを取られてなるものか! わたくしの、わたくしの…!」

気が付くと、母はわたくしたちを打ちながら、ひいひいと悲鳴を上げているのでした。
見開かれた瞳からは涙が、口からは鳴咽が漏れ、時折その中に巌さんを呼ぶ声が聞こえます。でもそれは、わたくしの可愛い巌さんではなくて、きっと亡くなった兄の名前だったのでしょう。
母は完全にわたくしの巌さんを兄と見誤って、そして自分の全てを委ねていたようでした。

呆然とするわたくしに、濡れた袂が被さりました。驚いて顔を上げると、胡蝶さまがわたくしに覆い被さって、母の打擲からわたくしを庇って下さっているのでした。
乱れた御髪が濡れた肌に張りついていられました。唇が割れて、赤い血が滲んでいられます。その痛々しいお姿で、胡蝶さまは少し微笑まれました。

「胡蝶さま…!」
『よいのです。』

ざらりと背中を鮫皮でなで上げるような掠れた声。それが初めてお聞きする、薬で潰されたという胡蝶さまのお声でした。

『私のような者でも、おくさまをお守りする事が出来れば、こんなにうれしいことはありません。』
「でも母の仕打ちは…! 胡蝶さま…!」
『私には今までの暮らしが過ぎたもの。旦那さまのお側にいられるのならば、たとえ路上で暮らす事になっても、私は幸せなのです。ですからこんな事は些細な事。』

胡蝶さまの息が詰まりました。母の仮借ない一打が胡蝶さまの細い背中を打たれたのです。
胡蝶さまの重みがのしかかってきて、わたくしははっといたしました。こんなに華奢ではかなげな胡蝶さまでも、肩も広さも腕の太さも、わたくしとは明らかに違う、男の方の体でした。

恐らく胡蝶さまは、わたくしのかばいだてなどまったく必要とされておられない。その気になれば母の細腕など一思いにねじ伏せるだけの膂力も隠しておいでなのでしょう。
その上で尚、甘んじて責めを受けるその頑なさは一体どこから来るものなのか、わたくしには見当も付きませんでした。

『それに、私には大奥さまのお腹立ちも分かります。私のような得体の知れない者が、ご自分の庭に入り込んで、平素な暮らしを乱されるのは、きっと我慢ならない事でしょう。今まで耐えて下さった大奥さまのお心の広さに感謝申し上げこそすれ、お恨みに思うなどとんでもない事でございます。』

ずっと鳴っていた竹刀の音が止みました。母は両手を腫らしてそれを取り落とすと、そのままぺたりと座り込み、両手で顔を覆ってしまいました。
子供のような泣き声を上げる母をどうしていいか戸惑うわたくしに、胡蝶さまは二度ゆっくりと微笑まれました。

『私はむしろ、おくさまのお心が分かりません。旦那さまを得られ、可愛いお子様を得られて尚私にお目を懸けて下さる、あなたさまのお心が。』

それはそれは綺麗な微笑みでした。胡蝶さまのお心をすべて映し出されたような。
ですからわたくしは、その時、心の芯が冷えたように感じたのを覚えています。



その時の事は、飛んで帰ってこられた旦那さまが、母に平身低頭して納まりました。
旦那さまはどんなに頭を下げられても、ご自分のお気持ちは何もおっしゃらず、反論もなさいませんでした。その代わり、胡蝶さまについても頑として態度をお変えになりませんでした。
もともと旦那さまが国見の家に入るについては、胡蝶さまを迎える事が条件だったのです。無理にそれを違えれば、国見の家を捨てられそうに思われて、さすがの両親も口を挟めなかったそうです。

わたくしはといえば、胡蝶さまのお言葉を反芻する日々を送っておりました。
もちろん巌さんは可愛く思います。そしてそれを授けて下さった旦那さまも、今となっては私の大事な伴侶に違いありません。
でも胡蝶さまもわたくしにとっては大切な方なのです。

たとえ長旅から帰られた旦那さまが、わたくしや巌さんの顔を見るより先に、胡蝶さまの庵に篭られてしまっても、そちらで寝食を共にするような明け透けな生活をされていても、それはわたくしには仕方のない事と容認できる事なのでした。
さりとて、諦めていたわけではありません。そういうお二人がいらっしゃる事は、わたくしにとっては自然な事だったのです。

でもやはり、それは不自然な気持ちなのでしょうか。
旦那さまの元に女文字の手紙が届けば苛立ちも感じます。お稽古が厳しくて、わたくしの顔を一目も見て下さらない時は、淋しさも感じます。
それでも、胡蝶さまだけは特別なのでした。

一方、胡蝶さまは、相変わらず北の庵でひっそりと過ごしておられました。
あの一件以来、ぴったりと時々つま弾いていいらしたお三味さえひかれなくなってしまわれ、たいそう淋しいお過ごしぶりでした。
そんな囚われ人のような生活を、胡蝶さまは静かに受け入れておいででした。相変わらず胡蝶さまが大好きな巌さんに、引かれるようにして訪れるわたくしを、以前と変わらぬ笑顔で迎え入れて下さいました。

そうして、巌さんを間に挟んだわたくしと胡蝶さまの、穏やかで、それでいて張り詰めた日々は過ぎていきました。
巌さんはわたくしが感じた通り、育つにつれお花よりも踊りに興味を持ち、可愛らしい踊りを披露するようにもなってまいりました。
両親も、そのつたない踊りのあまりの愛らしさに、少しずつ態度を軟化させていくようでした。

そうして巌さんが5歳になる頃、旦那さまが亡くなりました。



旦那さまはまだ草薙流をお継ぎになってはいられませんでしたが、それでも弔問客はひきも切られませんでした。
まだ幼い巌さんを抱えて呆然とする私をよそに、旦那さまのお弟子さんたちが大勢やっていらして、お式もなにもかも取り仕切って下さいました。
わたくしはそうなって初めて、旦那さまのお人柄の一端を知り、そんな自分に酷く恥じ入りました。

そうして気が付いてみれば、すべて事はつつがなく終わり、わたくしの手元には旦那さまだったお骨が小さな箱に収められておりました。
その時になってようやく、私は胡蝶さまの事を思い出しました。
今まで決して母屋の方に足を踏み入れる事のなかった胡蝶さまは、こんな事態にもやはりひっそりとお過ごしでいらして、お弔いにも現れては下さらなかったのです。いえ、お出でになる事が出来なかったのでしょう。
みずからを日陰のものとお呼びになる胡蝶さまには、母屋に足を踏み入れる事は酷くだいそれた事だったに違いありません。

ですからわたくしは、旦那さまをお連れして、北の庵に向かいました。お墓に納められるのを待つばかりの旦那さまに、胡蝶さまとの最後のお別れをさせてあげたかったのです。
私の腕の中で、すっかり軽くなってしまわれた旦那さまは、かさかさと軽い音を立てて喜んでいられるようでした。

胡蝶さまはいつものように静かに座っておいででした。
しかし、わずかの間にげっそりとこけた頬が、胡蝶さまの憔悴ぶりを見せ付けているようで、胸が痛くなりました。
わたくしが箱を差し出しますと、胡蝶さまは震える手でそれを受け取られ、ぎゅっと膝の上に抱きしめられました。唇が零れるように開いて、かすかにあなたと呟かれました。

『死ぬ時は一緒にとあれほどお約束したのに…酷いお方。』

なぜか声もなく呟かれた胡蝶さまのお言葉がはっきり分かりました。
悲しく微笑まれる胡蝶さまがお可哀相で、わたくしは深々と頭を下げていました。

『あなたさまにお願いがございます。』

わたくしの目の前に、流麗な女文字が差し出されました。わたくしは急いで顔を上げました。

『どうぞあの方のお骨を、ほんの少し分けていただけないでしょうか。』
「ええ…ええ、もちろん。」

弾かれたように答えた私を、胡蝶さまは優しく見やって、そっと箱を降ろしました。
透けるように真っ白になってしまわれた指が静かに紐を解き、箱を開け、中の壷を取り出しました。そうして胡蝶さまは、白くそそけだったようなお骨の山から、ご自分の小指ほどの大きさのお骨を一つ、取り出されたのです。
胡蝶さまはそれをしっかりと抱きしめられました。力を入れすぎれば崩れてしまいそうな、いかにも軽やかなお骨でした。

「あの…なにか入れ物を…。」

腰を浮かしかけたわたくしを、胡蝶さまはにっこりとお止めになられました。
そうして胸に抱いていたお骨を口元に運ばれたのです。

「…あっ…!」

わたくしは思わず声を上げました。

コリ…コリ…と小さな音を立てて、胡蝶さまはそのお骨を召し上がっていらっしゃいました。
薄らと微笑みさえ浮かべ、胡蝶さまは熱心に、旦那さまであったお骨を咀嚼しては飲み下していらしたのです。
それは背筋が凍るような出来事で、でも同時に、胡蝶さまは今までに見た事もないほどにお美しくていらっしゃるのでした。

『こうしてしまえば、二度と離れる事はないでしょう。』

ややあって、そう記された胡蝶さまは、童女のように晴れ晴れとしたお顔をなさっていました。そして、愛しむようにご自分の喉元を擦られます。
まるでそこに旦那さまの残していかれた足跡があるとでも言うように。

『おくさまにもう一つお願いがございます。明日の今ごろ、もう一度ここを訪うてはくださいませんでしょうか。』

胡蝶さまは、強い決意を秘めたお顔をなさっていられました。
わたくしは、肯くしかありませんでした。



翌日、巌さんを伴って訪れたわたくしを待っていたのは、それはそれはお美しい胡蝶さまの艶姿でした。
舞台用なのでしょうか、深い紫の絹の打掛を纏われて、丁寧にお化粧を施された胡蝶さまは、本当にお人形のようにお美しくていらっしゃいました。
唯一つ胡蝶さまが持っていらした行李が僅かにずれていて、その中身がこの打掛だった事が知れました。
今は亡き旦那さまに、幻の天才と言わしめた胡蝶さまの、唯一の舞台衣装なのでしょう。ずっと封印したまま、けれども手放す事も出来ずに大切にお持ちになられていた胡蝶さまに、わたくしはいじらしいものを感じていました。

『これから舞いますのは、杜若を元に、始祖がされたという舞踊です。私の舞を、一度どうしてもおくさまに見ていただきとうございました。』

お能の杜若は、わたくしにも馴染みの深いものでした。人に焦がれて人の姿を望む杜若の精は、胡蝶さまにはぴったりでした。
深々と頭を垂れられた胡蝶さまは、やがてついと立ち上がられました。
凛としたそのお姿は、匂い立つ杜若そのものでした。

ひらりと袂が舞い、扇がしなう。畳をする足さばきの音は聞こえるのに、まるで胡蝶さまは空を舞っているようでした。
なんの変哲もない6畳間が、煌びやかな舞台に見え、わたくしは我と我が目を疑いました。そういえば、かすかに謡も聞こえるようです。
まだ幼い巌さんでさえ、その美しさは分かるのでしょう。円らな瞳を見開いて、じっと胡蝶さまに見入っています。
その小さな手が、やがてわたくしの袂を掴みました。

「おかあさま、こちょうさまとてもおきれい。ねえ。」

そしてわたくしの顔を見上げると、不思議そうな顔をします。

「こちょうさまのおとなりに、おとうさまのおすがたがみえるの。」

不意に、頬を涙が伝い落ちていきました。旦那さまのお姿は、わたくしにも認められました。
胡蝶さまは虚空に身体を預けられ、満たされた表情で舞っていられました。霞んでは消えかかる旦那さまは、その腕でしっかりと胡蝶さまを抱えておいででした。

胡蝶さまのその安らいだお顔を見たわたくしは、胡蝶さまにはもう、この世に一つの未練も残されていないのだと分かりました。
こうしてお会いできるのが、今日を最後になることも。

そうして私が密かにお慕い申し上げていたのは、胡蝶さまを内包された旦那さまの広いお心なのだと知りました。
今となってはもう、決して届かない、清らかなところにそれはありました。

巌さんが無邪気な仕草で手を叩きました。
小さなその拍手を背景に、胡蝶さまの杜若は、流れるように舞われて行くのでした。