絶対安全かみそり




日差しはきつくないが湿度が高い。粘るような空気は、ほんの少し走るだけでも全身に汗を噴き出させる。
一通りの基礎トレーニングとラリーを繰り返すと、もうシャツは汗で絞れるほどに湿った。

「おい、みんな風呂行こうぜ!」

今日のノルマをすべてこなし、桃城が大きく腕を振る。
合宿所の風呂場は広くて、みんなでゆったり入れる。

「風呂か……。」

薫は顎から伝い落ちる汗を手の甲で拭った。
風呂は大好きだ。



何かまだ用事があるという3年生を残して、下級生だけで風呂場に向かった。
監視役の3年生がいないせいだろうか。脱衣所ですでに桃城は暴走気味だ。
薫は汗ばんだシャツをきちんと畳んだ。昨夜みたいにうっかり鼻歌でドラえもんを歌って笑われてはかなわない。
隣のロッカーで、投げ捨てるように衣類を取った桃城は、ガキみたいに喚きながら洗い場へと駆け込んでいく。
それに越前と3人組が続き、気が付くと薫は最後だった。
桃城が派手に蹴り飛ばした足拭きマットを爪先でちょいちょいと直して、薫は洗い場に入った。



洗い場はものすごい泡だった。
どうやら桃城辺りが、ありったけシャンプーをぶちまけたらしい。

「桃センパイ、いいかげんにして下さいよ!」

越前が文句を言っている。浴槽まですっかり泡塗れで、薫は顔を顰めた。
後で3年生が風呂に入ったら、大石先輩辺りがうるさいぞ。
まあいいか。桃城がやらかしたことだ。俺には関係ねえ。

薫は自宅から持ってきたシャンプーを取り出した。
清々しいライムの香りが心地いいとっておきだ。密かに自慢の髪のつやも、このシャンプーでなければ生きてこない。

「おおっ! シャンプー持参かよ! 意外にナルシーな奴!」

目ざとく桃城が絡んでくる。いきなりしがみつかれて、薫はドキリとした。
桃城の胸の辺りから、ザラリと薫にはありえない感触がする。

やろう、胸毛なんて生やしてやがって。薫は悔しさにちょっと唇をかむ。
体躯は似たようなものなのに、男臭さでは桃城の方が勝っているのだろうか。

「るせえな! 引っ付いてくんな、暑苦しい!」
「貸せよ、そのシャンプー。」
「お前なんかその辺のカネヨンで十分だ!」

肘で押しのけると、意外にも桃城は「ちぇ〜。」と言っただけであっさり離れた。

「んじゃさ、悪ぃけど、剃刀貸してくんない?」

片手で拝むような仕草をして、へへと笑う。

「うっかり部屋に置いてきちまった。そろそろあたらねえと青くなっちまう。」

薫はまたぎょっとして桃城を振り返った。
薫は毎日当たらなければならないほど、髭は濃くない。
自慢のサラサラヘアだって、中学生男子にしては柔らかくてしなやかすぎるのだ。これはきっと体質だろう。
そう言えば、家で父が髭を当たっているのもそう見たことはない。
だから、数日おきにお遊び程度に電気剃刀を肌に押し当てるだけで事は足りた。
もちろん合宿の風呂場にまで剃刀など持ってない。

「ん? おまえ、剃刀持ってねえの?」
「桃センパイ、剃刀ならこっちにありますから。」

越前が手を挙げる。ぽんと放り投げられたそれを、桃城はうまいこと片手でキャッチした。

「へー、越前、剃刀なんて持ってんだ。お前はまだベビーパウダーが必要かと思ってたぜ。」
「あったりまえでしょう、中学生にもなって。男のたしなみっしょ。」

こともなげに言う越前の言葉に、薫はショックを受ける。
中学生にもなったら、髭は毎日生えて当たり前なのか。

「そういや、海堂は、毛穴目立たないタイプだよな。」
「なっ、なんだよ!」
「髪の毛サラサラで、お肌もつるつるで、女の子みたい?」
「て、てんめ〜!」
「粋がったって産毛じゃん。悔しかったらジョリッて言わしてみ? ジョリッて。」

げらげら笑う桃城の後ろで、ジョリッと音がした。思わず絶句して二人は振り返る。
そこにいたのはカチローだった。脛に剃刀を当てている。

「どうせ僕はジョリジョリですよ。」

いつになく開き直った様子で無駄毛の処理をしていくカチロー。
その手元からは、絶え間なくジョリジョリと音が続いている。

「センパイたちやリョーマ君は、いいよね、ジャージ履き放題だもん。僕たちは嫌でも単パンだから、毎日大変なんだから。」
「へええ〜、お前意外に男らしいなあ〜。」

桃城がカチローの手元を覗き込む。カチローはふっと鼻で笑った。

「僕の髪の毛の多さは伊達じゃないんです。」

そう言えば、カチローの切り揃えた髪は、厚さが5センチもある。
薫は更にショックを受けていた。自分は男らしさでカチローにも劣ってしまうのだろうか? あの弱々しくて声も甲高いカチローに。
それに、桃城はいいとしても、童顔丸出しの越前より、自分は幼いのだろうか。

「貸せ!」

薫は桃城の手にある剃刀をひったくった。
我が家ではついぞ見かけないそれは、ちょっと可愛らしいような華奢な首をした玩具にも見えたが、その内部にはギラリと鋭利な刃が覗いている。

「ジョリッて言わしゃいいんだろ、ジョリッて!」

薫はムキになっていた。
きっと今までそんな音を耳にしたことが無いのは、力が足りなかったからなのに違いない。
手にしたことの無い感触にほんの少しだけ迷って、それから薫は思いきってその刃を頬に当てた。

泡は嫌ってほど溢れてる。力さえいれればきっと、ジョリだろうがバリだろうが言う筈。
思い切って手をひいた。

「あ──────────っ、バカ…。」

ジョリじゃなくて、鋭い痛みと共にぬるりとした。
むき出しの腿のうえに、たちまち赤い斑点が滴り落ちた。



「…たくよー、いきなり横にひく奴があるかよ。」
「………るせー。」
「剃刀使ったこと無いなら無いっていやいいんだよ。」
「るせってば。」
「はい、海堂センパイ、これで終わり。」

薫の頬に傷テープを貼ってくれいていた越前が、手を放した。
薫はそれを撫でて顔を顰めた。

風呂であったまっていたからか、結構派手に血が出た。だが、たいした傷ではない。
うちに帰る頃には塞がるだろう。何とか母親には知られずに済みそうだ。
薫は小さくため息を吐いた。
構いたがりの母親が、こんなところの傷を発見したら、うるさくてしょうがない。

「むっ、どうしたんだい、それは!」

更にうるさい構いたがりがやってきた。
薫は、胡散臭い眼鏡を光らせて傍にやってきた乾を見上げた。
この長身の上級生は何かと薫にちょっかいを出したがる。薫はため息を吐いた。

「なんでもないっす。安全剃刀で、ちょっと…。」
「むむ、油断したな。安全安全と詠うのは、安全に自信が無いからなのだ。安全剃刀しかり、永久脱毛しかり。」

どうしてそこで永久脱毛が出てくるのだろう。薫は呆れて乾を見上げた。
乾は何を思ったのかにっこりと微笑み返してくる。

「こいつ、俺がつるつるってからかったら、ムキになったんですよ。ジョリッて言わそうとして、無理して。」

お節介にも、桃城が解説を入れる。
薫は力いっぱい桃城を睨み付けたが、彼は面白そうに笑っているだけだ。

「なんだ、ジョリッて言わせたかったのかい? それなら俺に言ってくれればいいのに。俺なら至極安全に、君の思うままにジョリジョリ聞かせてあげられるよ。」

それジョーリジョーリと、大男がなついてくる。
桃城より数段強い剛毛を持つ乾は、ぶちぶちまばらに生え始めた髭で、痛すぎる頬刷りをよこした。

「俺なら絶対安全だよ。剃刀なんかより安全確実。」

この大男は何を言いたいのだろうか。
さっきしょうも無い演説をかました口も乾かないうちに、絶対安全なんて事を口走るのか。

絶対安全というのはつまり、絶対でも安全でもないということではないか。

薫は僅かに腰を引いた。てぐすね引くような乾の、底光りする目が怖かった。
こいつは絶対安全剃刀だ。触れると必ず痛い目に合う。
薫は強く目を瞬いて、決して油断しまいと誓った。