舐めたい




携帯がなった時にはまだ起きていたけれども、結構な深夜だった。
僕は慌ててパジャマの上にカーディガンを引っかけて起き出した。読みはじめた京極夏彦がどうにも面白くて、このままでは徹夜コースになりそうだとヒヤヒヤしていたから、ある意味都合が良かった。
程なく玄関ドアがドンドン叩かれた。いつもの直哉君らしくない乱暴なやり方に、僕はちょっと眉を潜め、それでもいそいそと迎えに出た。鍵を外す間ももどかしく、勢いよくドアが開かれた途端に、僕は思い切り顔を顰めていた。
目を据わらせた直哉君からは、強いアルコールの匂いがした。

「先生…会いたかった〜。」
「ちょ…直哉君、お酒臭いよ!」
「あったりまえで〜す! 酔っ払いで〜す!」

直哉君はいきなり僕を抱きすくめるとヘラヘラ笑った。



今年大学1年生になったばかりの直哉君は、もちろんまだ未成年だ。僕よりよっぽど大人びた風貌をしていても、どこか危ういところも持っている。
普段はチラリとしか見せないそんな所も好ましいのだけれども、今日のはいかにも羽目を外し過ぎだ。

「もう! なんでそんなになるまで呑むの! 弱いんなら弱いらしく加減して…!」
「俺は弱くなんかなーい! 先生に比べたら誰だって下戸に決まってらい!」

それはそうなのだろう。僕は一瞬グッと言葉に詰まりながら、隼人君の口調とそっくりだと妙な感心をする。

「そ、それにしたって…! だいたい君、まだ未成年でしょうぉ!」

ずしりとのしかかられて、語尾が悲鳴みたいに高く上がる。体重だけでも20キロ近く多い直哉君を支えるのが、僕にとってどんなに至難の業か、知っているくせにわざとこうして甘えてくるのだ。始末に悪いったらない。

「こ、…こらぁ〜! 重いんだからぁ! ちゃんと立って!」
「やだー。先生大人なんだから、抱っこで連れてってよ〜。」
「む…ぐ…、この…酔っ払いは〜!」

抱っこなんて無理がありすぎる。直哉君は、遠慮なく僕に覆い被さって、耳元でひゃはははと笑っている。
すっかり力の抜けた直哉君の爪先をズルズル引き摺りながら、僕はなんとか足を進める。酔っ払いの直哉君より真っ赤な顔になってしまっているのが、鏡を見なくても分かった。
死ぬ思いでソファーまでたどり着いて、子泣き爺みたいにぶら下がっている直哉君を降ろそうとした。
首に巻きついている腕が外れなくて一緒にそっくり返ってしまう。
引き締まった腹筋に守られた直哉君は、僕一人の体重が乗ってしまってもなんのダメージも受けないらしい。ひるむどころか足まで絡み付いてきて、僕がじたばた暴れるのをおかしそうにからかっている。

「ぐ…、こら! 放しなさい!」
「やだ〜。先生…ちっちゃくてかわいい〜。」
「う…るさいな! 放せってば…こらぁ!」

捲れあがったパジャマの裾から、悪戯な手が這い回っている。明らかな意図を持った手に、一瞬流されそうになるけれど、僕は慌ててそんな気分を吹き飛ばす。
明日も明後日も学校があるのだし、第一こんな正体もない酔っ払いにどうこうされたくない!

「こらこらこらこら! 僕はそんな気分じゃない! いい加減にしなさーい!」

耳元にフムフムと吹き付けられる鼻息が次第に荒くなっていく。力では僕は、どう頑張っても直哉君に勝てっこない。
焦る僕を尻目に、直哉君は僕のほっぺたをべろんと舐めて喜んでいる。酒臭い息を盛大に吹きかけられて僕は思わずキイッとなった。

喉元を押さえていた腕を力いっぱい外す。そうして自由になった首を思い切り前に倒し、そのまま後ろに打ち下ろした。

「うがっ!」

ボグッという鈍い音と同時に拘束が緩み、僕はぱっと立ちあがった。だけどそのまま、後頭部が痛くて蹲る。
直哉君は鼻と口とを押さえてひいひい言っている。こっちだって頭に歯が刺さるかと思ったんだ。ちょっとくらいは痛がってもらわなくては困る。

「ど…どうだ! 参ったか!」
「ひぃ…。ひどいよう、祥先生〜。」
「いきなり絡んでくる直哉君が悪い! 平日はだめっていつも言ってるでしょ!」

僕はいつのまにか外されているパジャマの前を掻きあわせながら言った。後ろ頭はズキズキして、たんこぶができてしまっているようだった。



それにしても、直哉君がこんな風に乱れるのは珍しい。
僕は酔っ払いの為に、自分では決して飲まないコーヒーを落として、ソファーの向かいのスツールに座った。
誉められた事じゃないけど、直哉君達とは、彼らが高校在学中から時々は酒宴を持った。生徒会の上級生組はみんなそこそこお酒が強くて、いかにも飲み慣れている風だった。

「今日は一体、どこで飲んだの? 直哉君がこんなになっちゃうなんて珍しい…。」
「新歓コンパ…とは名ばかりの合コンでしたよ〜。」

語尾が不穏に伸びる。ふてくされた顔といい、まだ酔いが抜けきっていないらしい。

「それじゃ、楽しい思いをしてきたんじゃない。良かったね。」
「良くない…。俺達は客引きパンダで、ギトギトした女どもがベタベタしてきて気味悪かった。」
「そんな事言わないで、よく見れば素敵な人だっていたかもしれないよ。」
「先生は冷たい〜。俺が先生よりいい子を見つけられるわけないじゃないですかあ!」
「またぁ。そんなことないでしょ。」

僕は軽く笑いながら、実は胸をなで下ろしている。
もしも直哉君が急に我に返って、今度はこの子と付き合う事にしましたから、先生とはもうお別れです、なんて言い出そうものなら、僕はみっともなく泣き喚いてしまうに違いない。
直哉君の恨みがましい目を避けるように、僕は小さく咳払いをした。

「俺と一緒に雪紀と慎吾と天音が呼ばれたんだけど、天音は最初っからプリプリ怒ってて、それを宥めるのに慎吾が係りきりで。」

たやすく想像できる。国見君の事だから、「どうして私がこんなふざけた席に出ないといけないんですか!」とか言って、不機嫌を隠そうともしないだろう。
そうしてその国見君の機嫌をなんとか直そうと、桜庭君が躍起になってかまいまくる姿が目に浮かぶ。

「雪紀は雪紀で、会場を見渡すなり『めぼしいのがいない』なんて宣言して、ずっと咲良とメールしてるし。」
「あはは。それで応対が直哉君に一挙に回ってきちゃったんだ?」

促すと、ガックンと深く首を折る。そのまま固まってしまう様子に、僕はちょっと不安になった。
眠ってしまったのだろうか? それなら布団を着せてあげないと。春とは言っても夜はまだ冷える。

「あの…直哉君?」
「だけどっ!」

そっと手を伸ばすと、直哉君はいきなりがばっと顔を上げて叫んだ。僕は思わすうひゃっと声を漏らし、スツールから転げ落ちそうになった。

「俺だって好きであいつらの相手していたわけじゃなーい! 招待されてるんだから、あんまり素っ気無いのも悪いだろうと思って気を遣ってやったんだ! それをいい事にベタベタベタベタ引っ付いてきやがってあの女ども!」

直哉君は急にバタバタと身体中を擦りはじめた。

「どいつもこいつもいろんな匂いさせてやがって! しかも頼みもしないのに乳やら腿やら擦り付けてきやがって! 俺はブヨブヨしたものは大嫌いだ! ごてごての化粧もヒジキみたいな睫も大嫌いだ!」
「ちょっと…! 直哉君、落ち着いて!」

声が大きい。いくらこのマンションの壁が厚いと言っても、真夜中に騒ぎ立てていいわけがないだろう。
僕は慌てて腰を浮かして直哉君を宥めた。だけど直哉君はヒートアップする一方だ。

「挙げ句の果てに、俺が落ちないのを悔しがって、俺らみんなホモじゃないかなんて言いやがってあいつら!」
「へ…? だってそれは…。」

僕と直哉君の関係は、まごうことなくそういう関係なのではないのだろうか。
だから僕はいつでもこんなに直哉君に気を遣って、直哉君の不利にはならないように心を砕いているのに。

「俺はホモじゃなーい! 俺は祥先生が男だから好きなわけじゃない! 俺は祥先生が誰より可愛いから好きなんだ! それだけだ!」

あんまりストレートな言葉を並べられて、僕は呆気に取られてしまう。誰に聞かれているわけでもないのに、胸がドキドキして、頬が熱く染まってくるのが分かった。
だけど酔っ払いの直哉君には、僕のそんな変化は感じ取れなかったらしい。

「それとも祥先生は〜。」

いよいよ目がとろんと危なっかしい。

「俺が男だから好きなんですか? 俺の大胸筋とか、毛脛が好きなんですか? 俺にチンチンが付いてるから好きなんですか? どうなんです?」
「な…なんでいきなりそんな話になるんだよう〜!」

酔っ払いなんてみんな理不尽なものだけど、それにしてもこの絡み酒は酷い。直哉君は胸を張って大きく息を吸い込んだ。

「みなさーん! ホモでーす! ここにホモがいまーす!」
「こ…こらあっ!」

大声なら僕も大概自覚があるけれども、こんな夜中にそんなセリフは絶対困る! 僕は慌てまくって、直哉君の傍にすっ飛んでいった。
なおも喚こうと大きく開く口を押さえる為に、体当たりするように飛び込んだ。
間近に見える切れ長の目が、へらりとだらしなく垂れた。

「つかまえたあっ!」
「うひゃあっ!」

なんと言う事だろう。僕が直哉君を抑えに行ったはずなのに、反対に僕が抑え込まれてしまった。しかも、両腕もがっしり巻き込まれてしまっていて、今度は文字どおり手も足も出ない。

「だぁっ…放…ひゃんっ!」

押し上げられたパジャマの前が膨らんで、ボタンとボタンとの合間に亀裂を作っている。そこに直哉君は鼻を突っ込んでフンフンと匂いを嗅いでいた。
柔らかい鼻先が裸の胸をつつきまわして、身を捩るほどにくすぐったい。

「ちょ…、ほんとうに…っ!」

蹴っ飛ばしてやろうとしたら、足までがんじがらめに巻き付かれた。その上ずしりと重みがのしかかってきて、僕は簡単にソファーの上に転がされていた。
体力じゃ到底直哉君に敵わないのは分かっているけど、こんなにも簡単にあしらわれちゃうなんて!
おまけにいつのまにか、パジャマの前が肌蹴ている。直哉君は器用にも、前歯だけでボタンを外すのに成功したらしい。さも満足そうにため息など吐いている。
湿った暖かい吐息がパジャマの内側を這い回って、僕を思わず竦ませる。

「あー…、先生のいい匂いがする…。」
「さっきお風呂入ったもん…って、いいかげんに…!」
「お風呂上がり? じゃあ綺麗? 舐めてもいい?」
「えっ、何を………んっ。」

胸の上を暖かい物がぞろりと這っていく。濡れたその感触で、直哉君の言葉通り舐められているのが分かった。
僕の胸元に深く顔を埋めた直哉君は、アルコールに染めた目元でチラリと僕を見上げると、更に舌を這わす。
鋭敏な乳首を執拗に弄ばれて、僕は思わず熱い息を漏らした。

「や…やだ、放してよ、もう…っ!」

声が期待しているように上ずっていく。身悶えると軽く歯を立てられて、返ってあられもない声を出す事になってしまった。
僕の全身を締め付ける直哉君の腕は、ますます容赦なく力強くて、僕の呼気さえ閉じ込めるように執着していく。

「いやだ。放せない。先生を全部俺のものにしたい。」

胸元がちりっと熱くなって、跡をつけられたのが分かった。

「舐めたい。全身舐めたい。ここもそこもあそこも、端から端まで舐め尽くしたい。
先生の腰が立たなくなるまで、気持ち良くさせてあげたい。」

僕は思わず息を飲んでいた。直哉君は自分の言葉を実行するように、自分の届くところ全てに舌を這わせていた。全身は言われるまでもなく密着していて、僕の内側にどんどん食い込んでくるようだった。

でも本当に困るのだ。僕だって直哉君とこうして絡まりあっているのは嫌いじゃない。
だけど直哉君は若くて元気がありすぎて…僕はその欲望を持て余してしまう。腰が立たなくなるまで気持ち良くさせられてしまうのは、別に特別な事じゃない。いつだって僕は最後には泣いて懇願するほど、いいようにされてしまうのだ。
だから困る。仏頂面が多い直哉君がこんなに手放しで甘えてくるのは、本当はものすごく嬉しいのだけれども、明日の事を考えると…本当に困ってしまう。直哉君だって、決して絶好調とは行かないはずだ。

暖かい舌が這い回るに任せながら、僕がぼんやり考えていたのはそんな事だった。
近頃すっかり感じやすくさせられてしまっている肌は、さっきからぞわぞわと波立って、僕を篭絡させようとしていた。
それでも僕の教師として、年上としての最後の一線が、直哉君の優しい愛撫に応えてしまうのを食い止めていた。

「ね…直哉君…。」

ようやく片手が抜けて、僕は直哉君の肩に手を置いた。
咎めるつもりで出した声は、自分で聞いてもびっくりするほど甘い。
直哉君は、僕のおヘソの深さを確認するかのように、舌先でゆっくりつつきまわしていて僕の顔を見上げる事もしなかった。

「天音たちはずるい。」
「…え?」

予想もしなかった答えが返ってきて、僕は少し戸惑った。
直哉君はさっきまでの拘束するような腕を解いて、改めて僕を抱き直した。
開かされた足の間に直哉君の身体が割込んで、一番感じる部分をぎゅっと圧迫されて、僕は思わず全身を震わせていた。

「大学でもどこでもべったり引っ付いていて、しかも今度は一緒に住むなんて…咲良だって、メール一つでたとえ真夜中でもすっ飛んでやってくるし。俺だけが先生に、週に一度しか会えないなんて、ずるい。」
「毎日だって…会ってあげるよ。その…エッチ毎日は困るけど…。」
「俺だって本当は、先生とずっと一緒にいたい。出来れば箱か何かに閉じ込めて、鍵を掛けて持ち歩きたいくらいだ。それが駄目ならベッドでもいい。一生繋がっていたい。」
「な…に言ってるの…。」

いつもの直哉君なら、僕を困らせる事を恐れて極力回避していたはずの言葉が、するすると出てくる。
酔いのなせる業なのだろう。戸惑う半面、僕はなんだか嬉しくて、肩に置いた手を力いっぱい突き放せない。
僕なんかに不釣り合いだと思える直哉君が、今日はあんまり可愛らしくて、今にも自分の戒めを忘れてしまいそうだ。

僕が躊躇っていると、直哉君は小さい子がむずかるように、僕のお腹にぐりぐりと顔をこすり付け、それからパジャマのズボンを咥えた。
ウエストがゴムだから、簡単に剥がされてしまうだろう。そうしたら、行き着くところは一つだ。今度こそ直哉君を止めようと、僕は手に力を入れた。

「あー。」

不意に直哉君が間抜けな声を上げ、顔を上げた。

「これ…気が付かなかったけど、俺が初めてあげたパジャマだ。」
「え…あ…、そ、そうだよ。」

僕の大事な大事なパジャマだ。なんとも可愛い柄で気恥ずかしいのだけれども、直哉君が僕を思って選んでくれたと思うと、とても暖かい気持ちになる。

「まだ使ってくれてたんだ。嬉しいなあ。」

ふわりと、優しい微笑みが広がった。見た事もない、素直な笑顔だった。
ドキンと胸が高鳴った。同時に、緊張していた身体が、嘘みたいに蕩けていくのが分かった。
どうしよう。僕は今でも十分に思い知っている自分の想いを再確認した。どうしよう、僕はこんなに直哉君が好きだ。頬が熱くなる。息が弾む。直哉君が欲しくてたまらなくなる。

直哉君は自分が一方的に僕を欲しがっていたと思っているようだけれども、本当は僕のほうがほんの少しだけずるかっただけなんだ。同じ物を欲しがっていたのに、僕の方がほんの少しだけ冷静で、二人の位置を遠いところから眺める余裕があっただけなんだ。
今だって以前だって、予想外の方向から強く誘われたりすれば、たちまちくずおれてしまう脆弱さが、僕の中にはある。

そうして今、僕の掛け金は完全に外れてしまった。年上だとか教師の勤めとか、そんな事はもうどこかに吹っ飛んでしまった。
直哉君がこんなに可愛い顔を見せるからいけないんだ。僕は僕のお腹に抱き着いている直哉君の、綺麗なうなじを見下ろした。
今すぐきつく抱きしめて欲しい。明日の事なんて構わない。また泣き叫ぶほどに愛して欲しい。

「直哉君。」

もう片方の手がするりと抜けた。僕はそっと直哉君の髪に指を絡めた。
早く見つめ返して欲しくて、髪を強く引いた。

「直哉…くん。」

舌足らずな声が、喉をくすぐるように零れる。切なさに身を捩るようにして、直哉君を見下ろす。
それなのに。
直哉君は黙ったままだ。

僕は胸を喘がせた。すっかり高まりきっている心と身体。放置されるには辛すぎる。
今なら、いつも直哉君がねだる、いろんな恥ずかしい事───今までは決してやってあげられなかったあんな事やこんな事も、進んで出来そうな気もする。そう言ったら、直哉君はどんな顔をするだろう?

「直…。」

僕のお腹の上に執着するみたいに張り付いていたはずの直哉君の頭が、がくんと垂れた。
びっくりして身を起こすとそのまま滑って、ソファーの上に突っ伏す。
僕は愕然とした。リズムよく聞こえてくるのは、…安らかな寝息だ!

「あ…の…、…え?」

僕はしばし呆然とした。直哉君は、僕が直哉君とのかかわりを深くし始めたころに、ひょんなことで買ってもらったパジャマをまだ愛用しているのを見て、すっかり安心しきってしまったらしい。
そんな些細なことでも、十分に僕の気持ちを汲み取ってくれたのだろう。

そのこと自体は嬉しい。僕の気持ちを汲んでくれたことは。でも。

この僕の状態をどうしてくれるんだよ!

パジャマの前はすべて外されて、パンツも際どいところまで下ろされたしどけない姿。
そうして頬を染め、目を潤ませ、期待に息を弾ませて震えているのに、…肝心の直哉君がこれではまるで…お預けを食らったままエサを引っ込められてしまった犬みたいじゃないか!

僕はため息をついた。うつむいて自分の足元を見てしまった。
ずりおろされたきわどい部分のそこの、はしたない変化が目に入ってしまう。無性に腹が立った。
コーヒーを持ってきた盆を、力いっぱい直哉君の頭に打ち下ろすと、小気味いい高音とともに、妙な声でうめき声が上がった。



「先生んちに電話を掛けたところまではよく覚えているんです…。それでここにたどり着いたのも。でも、そのあとがなんとも…。」
「へー、そう。」
「あの…なんか気持ちいいものに縋り付いていた気がするんですけど、…このクッションとか…?」
「さあ、そう思うんならそうじゃない?」

目を覚まさない直哉君を放って学校へ行ったら、帰ってきたときには家の中がものすごくきれいに片付いていて、端っこに直哉君が恐縮した面持ちで座っていた。
僕は今、一人分だけ買ってきたコンビニ弁当を、一人で食べているところだ。直哉君がお茶を入れてくれたけれども、ペットボトルだって買ってきてあるんだから!

「先生…俺何かしたんでしょ? 怒ってないで教えてくださいよ〜。」
「別に怒ってないもん。これがいつもの僕のごはんだもん。」

本当は怒ってないなんてとんでもないけど、だけどどうして僕が怒っているかなんて、恥ずかしくて言えるか! 
直哉君に簡単に篭絡されて、もうちょっとで自分から腰を振ってねだりそうになったことなんて!
僕は、腹立ち紛れにペットボトルをラッパ飲みして、思わずむせそうになる。
ご飯に炭酸飲料は、やっぱあんまり合わないかも。

「頭が…痛いんっすよ。二日酔いはすっかり抜けたのに。後ろ頭にたんこぶが出来てるし、口の中に血豆が出来てるし、これでなんかない訳ないじゃないですか。」

僕は小さく舌を出した。頭突きとお盆の成果だ。

「…直哉君ねえ、舐めたい舐めたいって、散々言ってた。」

ほんの少しだけ罪悪感がわいて、本当のことをリークする。
たちまち直哉君の顔が本気になった。

「舐めたいって…どこを? あ、俺もしかして、先生襲いました? あれっ、…もったいなかったなあ…。」

最後の一言はほんの小さな声だったけど、僕の耳にはばっちり聞こえた。なんだかまた腹が立ってきた。

「舐めたい舐めたいって駄々こねて、自分から探し回って、きれいに舐めてくれたよ。太郎のお皿。」

心の中であかんべえをしながら、しみ一つない太郎のお皿を指差す。
直哉君はたちまち眉間にしわを、最大級に寄せた。