寝坊




だいぶ前から祥先生が楽しみにしていた水族館デートなのに、当の祥先生が来ない。
俺は、何度も時間を確かめたあと、痺れを切らして歩き出した。
祥先生のマンションはここから程近いし、もし間違ってすれ違いになったとしても携帯ですぐに連絡がつくのだから、じりじりしながら待つよりは、迎えにいったほうが早い。
それに、昨日連絡を取ったとき、祥先生が鼻声を出していたのが気になる。祥先生は年に2回のペースで風邪を引く。それも思い切ったやつをだ。
今年はまだ2回目をやってない。そろそろ危なっかしいような気がしていたのだ。



通いなれた気安さで、ブザーも鳴らさずに上がりこむと、玄関でうずくまっていた灰色の猫がシャーッと威嚇の声を上げた。

「ああ、よしよし、いい加減俺の顔も覚えろよ。」

祥先生の愛猫太郎は、いつまでたっても俺になつかない。もしかしたら、俺だからなつかないのかもしれないが。
早速すねあたりに嫌がらせのように絡み付いてくる太郎を蹴飛ばさないように注意しながら、俺は奥へ進んだ。
声をかけたのに返事のないことが、ますます気にかかる。

「祥先生! 祥…!」

だが、呼びかけた俺は、声を喉元で詰まらせる羽目になった。
よく見知った大男が、祥先生の枕元で唇に指を一本押し当てて、俺に沈黙を強いていた。



(瓜生さん! なんでここに…!)
(ここはもともと葵ちゃんが買ったマンションだ。亭主の俺がいて、何の不思議がある?)
「亭主の…って、何を白々しい…!」
(しっ! 大声を出すな! 祥が起きちまうだろうが!)

俺は慌てて口を両手で押さえた。祥先生は、俺と瓜生の攻防も知らぬげな、いとけない顔つきで、スピスピと寝息を立てている。

(昨夜、久しぶりにここに寄ったら、祥が鼻水を垂らしててな。それでも明日は予定があるなんてたわけたことを言っているから、ミルクに一服盛ってやった。)
(盛って…!)
(騒ぐな。ただの風邪薬だよ。こいつは子供のころから、風邪薬にめっぽう弱くてな。下手な睡眠薬よりよっぽどよく寝るんだぜ。どうせ休日の相手なんてお前さんに違いないと思ったから、1日くらい寝こけていてもいいだろうと思ったんだ。ビンゴだったな。)

瓜生は得意そうに親指なぞ立てて見せている。何がビンゴだ!
思わず腹が立った。だが同時に、俺はとても安心していた。
こうして瓜生が祥先生の枕元で、いとしげな顔を隠そうともせずに、先生の柔らかい前髪を撫で付けているのは癪に障るが、とりあえずこいつは、祥先生を安心して任せられる人物の一人でもあるのだ。
それに、祥先生が本格的に風邪を引く前に休ませてくれて、本当に助かった。

「なんだか癪だけど、今日のところはあんたにお礼を言っときます。…祥先生の面倒を見てくれてありがとうございます。」
「お、なんだ、やけに素直だな。もっと突っかかってくるかと思った。」

瓜生は本気で驚いたように目を丸くした。俺はため息をついた。

「だって祥先生は、年に2度は大きな風邪を引くし…、他にも体力的に脆いところがあって、俺は心配で仕方ないんだ。」
「…年に2度ならいいじゃないか。俺は祥もずいぶん強くなったと思って感心しているんだ。子供のころのこいつは、本当にか弱くて、しょっちゅう病院通いを繰り返しててな。まともに大きくなるかって、心配されながら育ったそうだぜ。」

まあ、まともには大きく育っていないかもしれないが。
瓜生はつぶやくと小さく笑った。



俺は瓜生と祥先生とが時折見せる、この慣れ親しんだ笑顔が苦手だ。
そこにあるのは絶対的な時間の壁。俺が割り込むことのできない隔たりが、俺と、祥先生と瓜生との間を遮っている。
面白くなくて視線をそらすと、いつの間にか太郎が瓜生の大きな胡坐の中で丸くなっているのに気がついた。
俺にはいつまでたっても敵愾心をむき出しにするくせに、あっという間に懐柔されやがって! 俺は思わず太郎をにらみつける。すると瓜生が変な顔をした。

「…どうした?」
「あ…いや、…太郎が。…俺にはいつまでたってもなつかないのに。」
「はは。…こいつは俺はライバルになりえないとでも思っているんだろう?」

大きな手が、灰色の頭を撫でる。太郎は頭をもたげて、さも気持ちよさそうにごろごろと喉を鳴らす。
その姿が、手放しで瓜生に甘える祥先生とダブって、俺は不機嫌に目をそらした。

「今日は祥先生が待ち合わせに来なくて…、そういえば祥先生はこんなにねぼすけなのに、めったに遅刻とかしないんですよね。一度そのわけを突っ込んで聞いてやろうと思っていたんだ。」
「ん…? 祥から何も聞いてないのか? はあん、そうか、お前さん、その手の話が苦手な口か。でも、祥を相手にするんなら、ここは避けて通れないところだぞ。」
「…いったい何の話です?」

いかにも、祥先生のことなら何から何まで知り尽くしているような態度が癪に障って、俺は少しきつい口調で聞き返した。瓜生は涼しい顔で、太郎の背中を撫でている。

「祥はな、子供のころから妙なことをいう癖があるんだ。こいつがめったに遅刻をしないのも、ちゃんと祥なりの理由があるんだ。
寝坊をしていると、母親が髪をすいて起こしにくるって言うんだぜ。」
「………はあ?」

俺は間抜けな声を出した。祥先生のお母さんなら、祥先生が子供のころに亡くなっているはずだ。
瓜生は俺の間抜け面に嬉しそうに笑うと、身軽に腰を上げた。



「…ほら、これだ。」

瓜生はリビングに移って、キャビネットの上のスタンドを取り上げた。
以前、祥先生に見せてもらった事のあるそれには、にこやかに笑う、祥先生に良く似た女性が写っている。在りし日の祥先生のお母さんだという話だった。
見た当初から、バランスの悪い写真だと思っていたそれは、取り外されると、不均等に折られている事が分かった。折られた裏の部分にも、小さな人影が写っている。
瓜生は広げた写真をニヤニヤしながら俺に突きつけた。

空色の、空気に溶け込みそうに軽やかなワンピースを着た祥先生のお母さんの膝元には、幼い女の子が写っている。
彼女とお揃いのワンピースを着たその子の、零れそうに大きな目とくるくる跳ね回る茶色いくせっ毛をしばらく眺めて、俺は思わず息を飲んでいた。

「げっ、これ…祥先生かっ?」
「ご名答。良く分かったね。」

わからいでか。俺が祥先生を見間違えるわけはないのだ。
それにしてもこの格好はまるで女の子のそれだ。長い髪には、ごていねいにワンピースと同色の大きなリボンまで揺れている。
何がそんなに楽しかったのだろうか。蕩けるような笑顔を浮かべた幼い祥先生は、はにかむように身を捩っていて、それがますますあどけない。

「………かわいい…。」
「ふふん、そうだろう!」
「…なんであんたが威張るんだ。」

意味もなく胸を張る大男を睨み据えて、俺はもう一度、隠されていた写真に目を落とした。
えくぼの浮いている丸い手をよく見ると、ちっちゃな爪の先が薄いピンクに染められているのまで分かる。この写真の中の子供は、間違いなく少女として育てられている印象を受ける。

「その、祥のかっこうが不思議なんだろう?」

まじめな声が聞こえて、俺は思わず顔を上げる。瓜生はどこか沈んだ笑顔をして、俺の手の中の写真を見下ろしていた。俺はつられて、深く肯く。

「さっきも言ったが、祥は身体が弱かったんだ。祥の母親が、どこから聞いてきたんだか、女の子の格好をさせておくと魔除けになるって信じていたらしくてな。俺が初めて会った頃の祥は常にスカートだったし、小学校も5年生になる頃まで、髪の毛は背中まであったんだぜ。」
「ず…っ。」

ずるい、という一言を、俺はやっと飲み込んだ。そんなかわいい祥先生の思い出を、こいつが一人占めしているなんてずるすぎる。

「それで、その長い髪の毛を、毎朝茜さん─葵ちゃんのお母さんだな─がすいて結っていたんだが、その他にも髪を触る見えない手が、常にあるって言うんだ。」
「…んな、ばかな。」
「だけど、目覚ましもかけない寝床で、時間ぎりぎりにいきなり祥が起き上がって、髪の毛を引っ張られたって言うのはしょっちゅうだし、俺も見た事あるんだぜ。祥の長い髪が一房、誰もいない筈の空に向かって不自然に立ち上がっていくのを。」

それも1度や2度じゃない。瓜生はそう呟くと、また写真に目を落とした。

「祥の母親は、女の子の格好の中でも、特に長い髪にこだわっていたらしい。なにか不都合があっても、神様が必ず長い髪を掴んで助け上げてくれるからって、この髪をそれはそれは大事にしていたそうだ。」

瓜生は、俺の手から写真を取り上げて、元どおりに畳むとスタンドに戻した。そして振り返って祥先生の方を見る。
俺が振り返ると、太郎がこっそり祥先生の寝床に忍び込もうとしているところだった。
布団の端からするりと潜り込んだ太郎は、少しの間祥先生の胸元でもぞもぞ動いていたが、やがて大人しくなった。祥先生が甘ったれたような声を上げながら、腕を伸ばして太郎の辺りをきゅっと抱きしめている。
瓜生は当たり前のように近づいて、祥先生の肌蹴た布団を直してやった。

「俺も当時はガキだったからな。風もないのに祥の髪の毛だけが立ちあがっても、祥が何にもない方に向かってニコニコしながら話をしてても、時折ぼんやりした白い人影が見えたりしても、何も不思議には思わなかった。そういう物なのだろうと思っていた。祥は何にでも好かれるんだと。」

瓜生は真顔になって俺を見た。何かを試すような視線だった。
確かに俺には苦手の話だった。そんな話は認められないし、内心ちょっぴり恐ろしいと思う。だが不思議と、不快だとか嘘臭いとか、そんな感じは得なかった。
むしろ自然に思えるのだ。あの、可愛らしい写真を見た後だからかもしれない。あんなに可愛い子を残して、この世を去っていかなければならなかった祥先生の母親の、悲しみや無念さが、この胸を貫くように迫ってくるのだ。
あの小さくて柔らかそうな手は、なんの躊躇う事もなく一生懸命に縋ってくるのに、その支えになってやる事すら許されない理不尽を突きつけられて、それでどうして諦める事が出来るだろう。
可能であるならば、魂だけとなっても、傍にいたいと思うのが当たり前の思いなのではないのだろうか。

「だけど…祥先生は俺にはそんな事は一言も言ってくれません。」

知らず、恨みがましい口調になっていたかもしれない。瓜生はもう一度微笑んだ。

「祥が目に見えない物と普通に会話する事は、大人達の間では黙認されてた。当然だろ? 物心つくかつかないかぐらいで母親を亡った幼児が、妄想の世界で遊ぶなんて、ありふれた話だ。だけどある時祥は、突然にして悟ったんだな。自分の世界が回りにどう見えているか。」
「?」

話が見えなくて、俺は眉間に皺を寄せた。瓜生はもったいをつけるように口を引き結んでみせた。

「あの時も、祥は熱を出していて…、確か小学校ではやったインフルエンザを拾ってきたんだったか…祥は扁桃腺が弱くて、すぐに破裂するような熱を出すんだ。一緒に罹った俺も葵ちゃんもとっくに全快してるのに、祥一人がいつまでも熱が下がらなくて、茜さんが困り果てていた時だ。
熱で真っ赤な顔をしながら、祥は空中を指差して、お母さんが呼んでいるって言うんだ。」

俺は思わず瓜生の顔を強く睨んだ。それではまるで、黄泉の国から死者が迎えに来たような言いようではないか。
瓜生は俺の視線を受け止めると、珍しく弱気に微笑んだ。

「祥にしてみたら、いつも見えている風景を、何気なく口にしただけなんだろう。そんな事を言っても、相手にされないのが関の山だったから。だけど、時期がまずかった。茜さんはいつまでも復調しない祥を心配して、いよいよ入院させなくてはならないかと思い始めていたんだ。看病疲れもあったんだろうな。いつも朗らかで元気のいい茜さんの顔つきが、その一言で一変した。」

瓜生は深く息を付くと、相変わらず眠りこけている祥先生の顔を見下ろした。
自分からべらべらと喋りはじめたくせに、話しはじめたのを後悔しているような横顔だった。

「いきなり立ち上がると、まるで祥を抱き潰そうとでもするみたいに抱えて…祥の奴、あまりの勢いにグエッて、カエルが潰れるみたいな声出して…でも誰も笑えなかった。茜さんが泣き叫んだからだ。
紫ちゃん、祥ちゃんは堪忍して。祥ちゃんを連れて行かないで…ってな。」

ぞわりと、背中を冷たいものが走っていった。
祥先生の回りに張り巡らされた、見えない何かの網から、必死に祥先生を手繰り寄せようとする茜さんの、狂乱ぶりが伝わってきた。

「茜さんはそのまま、祥を抱きしめて泣きじゃくって…、具合が悪くてふうふう言っていた筈の祥が、慌てふためくような取り乱しようだった。俺達は、茜さんはもちろん、大人がそんな風に手放しで泣くのなんて見た事がなかったから、そりゃあ驚いた。祥は例によってたどたどしい口調で、一生懸命茜さんを宥めていたが、いつまでたっても茜さんの涙は納まらなかったな。結局その日、祥は茜さんに放してもらえずに、赤ん坊みたいに抱きすくめられて眠るしかなかったんだ。
それからだな。祥がふっつりと母親の話をしなくなったのは。」
「それは…。」
「ああ、子供心に、自分の異質さを感じ取ったんだろう。」

そうではないだろう。きっと祥先生は、自分の言葉の為に自分を大事にしてくれる人を傷付けるのを恐れたのだ。茜さんの事はもちろんだが、空間の狭間にさまよう見えない手の持ち主も、その存在を頭から否定されては居たたまれないに違いない。
俺がその類の話は苦手なのをいち早く見抜いて、それからはことごとく迂回してくれる祥先生には、そんなことはいかにも有りそうに思えた。

「だけど、俺は長い付き合いだからな。祥が一つ大人になっただけだって言うのは良く分かる。それからだって祥は、しょっちゅう有らぬ方を見ていたから、人には見えないものが見えていた筈なんだ。口に出さないだけでな。」
「…まさか。」
「嘘だと思うか? おまえさんだって感じるはずだ。時々祥は嫌になるくらい感覚が鋭くて、まるで背中にもう一対の目を持ってるみたいだろう? もしかして本当に別の目が…常に祥の後ろに張り付いていて、逐一回り中の事を囁くもう一つの目があるかもしれないって…思わないか?」
「………そんな…。」

思わず真顔で言いかけて、俺はやっと瓜生の表情に気づいた。
瓜生はさも楽しげにニヤニヤ笑って、俺の強張った顔を眺めおろしていた。
やられた。こいつの話がどこまでマジだったのか分からないが、とにかく俺は、面白くからかわれてしまったらしい。

「さあ…そろそろ行くかな。祥だっていいかげん目を覚ます頃だろうし、おまえさんが来たんじゃ、俺はお邪魔だろうからな。」

それに、強制的に風邪薬を飲ませたのがばれるとうるさいし、と呟いて、瓜生は立ち上がった。
俺は憮然とした顔で、瓜生が腹ペコで目を覚ますであろう祥先生の為に、キッチンで何事か用意しているのを見守っていた。
やがて瓜生は足音を忍ばせるようにして部屋を出ていった。また来てね、と言わんばかりの太郎が、見送った玄関から戻ってきて、もう一度俺を見て背中を逆立てた。

「…なんだよおまえ。アイツと俺とじゃえらい態度の差じゃないか。」

まだ瓜生に面白く遊ばれてしまった事を腹に据えかねていた俺は、八つ当たりのように太郎を睨み据えた。
太郎は俺を避けるように大回りして、祥先生のベッドに飛び乗った。今度は布団の中に潜ろうとはせず、祥先生のこんもり盛りあがった布団に添って腹部にぴたりと張りついた。俺の方を見上げてまた背中を逆立てる。
俺は対抗するように、太郎に向かって歯をむき出してみせて、それから回りを窺った。

珍しく綺麗に片付いている。昨夜からここにいたと言う瓜生が片付けたのに違いない。
やる事を奪われて所在がない。俺はそっと祥先生の傍に近づいた。
思いがけず太郎の傍に接近する事になってしまうと、面白くなさそうに奴はふうと唸る。
俺は構わずに祥先生の顔を覗き込んだ。風邪薬が効いたのだろうか。つやつやしたほっぺたをした祥先生は、とても元気そうに見える。無反応がじれったくてほっぺたをつつくと、幸せそうにくふんと笑った。

今でもこんなに子供っぽい祥先生は、子供の頃は本当に可愛かったのだろうなと考える。
しかもあの愛らしいワンピース姿! あんなコスプレを毎日生で見せられれば、今の瓜生の傾倒ぶりも肯けるというものかもしれない。

それにしても、瓜生にはいらん弱みを掴まれてしまったかもしれない。いままでこんな弱点を人に悟られる事なんてなかったのに、祥先生と知り合ってからの俺は調子が狂いっぱなしだ。
祥先生を前にすると、つい狼狽してしまう癖が悪いのかもしれない。
だって祥先生は本当にかわいいのだ。祥先生の母親と同じように、俺だってたった今頓死してしまったら、身体がなくなっても纏いついてしまうかもしれない。

そこまで考えて、俺は慌てて鼻先で自分の考えを笑い飛ばした。
死者がいつまでも現世にとどまるなんて、そんな事はありえない。
人は死んだら無に帰るだけだ。そこには何も残らない。
だから、瓜生の話も、俺をからかう為だけのヨタ話なのだ。そうに決まっている。

俺は無理に余裕を取り戻した。大きく息を付いて、祥先生のあどけない寝顔を見下ろす。
しかしよく寝ている。瓜生との話だって、途中から声を潜める事も忘れて話し込んでいたと言うのに、相変わらずのネボスケぶりだ。
そろそろ目を覚ましてくれてもいい頃じゃないのかな。思わず頬を緩めた一瞬後、俺は我に返った。

祥先生のネボスケぶりは今も昔も変わらないと言う。
そうして、祥先生が遅刻をしないのも、動かしがたい事実であるのだ。
…という事は、一人暮らしの祥先生を常に起こしてくれる何者かの存在があると言う事だろうか。
……ちゃちな目覚し時計は、薄ら埃の跡をつけて、使われた形跡もない。
不意に太郎がゴロゴロと喉を鳴らした。ひっそりした部屋に慣れていた俺は、思わずびくりと竦んでしまう。

「なんだ、太郎、脅かす…。」

俺は言葉を切った。太郎は目を細めて頭をもたげている。
太郎は俺には決して懐かない。俺の前で喉を鳴らすなんてありえない。
太郎のその頭を差し出す様子は、誰かの手に撫でてもらっているかのようだ。
事実、太郎の耳が…左右不均等に揺れている。
いや、きっと太郎は飛び切り器用な奴なのだ。そうして左右別に耳を動かして、俺をからかう事が出来るくらいの。

じわりと汗が滲む。俺の考えの不自然さは、俺自身が一番良く分かっている。
そうして俺は見るのだ。
祥先生の滑らかな髪が。
一房、風もないのに立ち上がっていくのを。