前を黙々と走っていた海堂がふっと消えた。

横道に逸れたのだ。他の連中は気づいていない。
俺は後ろから来た越前をやり過ごすと、そっと跡を追った。

海堂は、引き寄せられるようにそろそろと、路地の奥に進んでいく。
腰を低くして、抜き足差し足で、何を目指しているのかと思ったら、そこにいるのは斑の仔猫だ。

ひなたぼっこでもしていたのだろう。
丸まって、長い尻尾の先だけぱたぱたさせていた仔猫は、やがて海堂の接近に気づいたようだ。
背中がぴりりと緊張する。

海堂は、慎重に歩みを止めた。そうっと手を伸ばす。
仔猫を差し招いているのだろうか、長い中指の先だけをぴくぴく蠢かして、なんだか卑猥な感じだ。
ちっちっちっちっ…と、どうやら舌を鳴らしているらしい。

「おい…、にゃんこちゃん。こっち来い。お母さんはどうしたんだ?
ほら…こわくねえから、こっち来いよ。」

にゃんこちゃん…。俺は思わず絶句して笑いをかみ殺す。
あれで意外と動物好きの海堂は、きっと今、必死の面持ちで仔猫を呼んでいるのだろう。

仔猫がびりびりと背中を逆立てる。
無理もない。海堂に真剣な顔で見つめられたら、仔猫にしたら凄まれていると思って不思議はない。
痺れを切らしたように、海堂がしゃがんだままそろりと移動する。
途端に仔猫は「ギャッ!」と叫んですっ飛ぶように逃げていく。

海堂の、行き場をなくした手が、だらりと下がった。
はあっと、哀しげなため息を吐いて、細い背中が丸くなる。
俺は、再び笑いをかみ殺した。いつも海堂は、思いがけない姿を見せてくれる。



海堂は、沽券に関わるとでも思っているのだろうか。必死に隠そうとしているようだが、彼の動物付好きは少なくともテニス部内には知れ渡っている。
何しろ、大事な試合の当日、溺れた子犬を救う為に川に飛び込んで、危うく遅刻しそうになっちゃう海堂なのだ。
スポーツマンには冷えは厳禁、なんて言う常識も吹っ飛んじゃうくらい、海堂にとっての動物は特別な物らしい。

そもそも、海堂のそれがばれない筈もない。
事の発端は、越前の愛猫のカルピンが、学校に紛れ込んできた事だった。
ふかふかと柔らかい体で校内を縦横無尽に走り回った彼が悠然と引き上げた後でも、部室内の話題は彼一色だった。

越前は、少し面映ゆそうにしながらも素っ気無い態度で、次々に掛けられる声を捌いていた。
いかにも面倒くささを装ってはいるが、その実、愛猫を誉められて上機嫌なのがバレバレだ。

やがて質問も尽きた頃、そろりと海堂が越前に忍び寄っていった。
彼はずっと、いつにも増した仏頂面で、虫の居所でも悪いのかと思わせる表情をしていたのだ。
越前はいつも通り、物怖じしないまっすぐな視線で海堂を見上げた。
いつも通り、威嚇するようにシューシュー言っていた海堂は、これは意外にも気弱に視線を外した。

「越前…、あの猫…な。」
「なんすか?」

戸惑うような海堂に対して、越前はおくする事のない様子で切り返す。
海堂は、ほんの少し唇を噛んだ。

「名前…なんていうんだ?」
「…………カルピン、っすけど…。」
「…カルピン…。」

越前が、その人並みはずれてでかい目を、さらにでかくひん剥いた。
何事かと様子を窺っていた奴等が、思わずおおっとどよめいた。

海堂が、猫の名前を復唱すると、うっすら頬を染めてふわりと微笑んだのだ。

俺も思わず一歩踏み出す。ふむ。
海堂にあんな表情をさせるとは、越前の猫め、何と小癪な。データ帳にメモっとこう。

ついぞ見た事のない、愛らしく微笑する海堂に驚いた回りがざわめき出して、初めて海堂は自分がどんな顔をしたのか思い知ったらしい。
いきなり真っ赤になると、辺りを鋭く睨み付けた。

「おらおらおら! 見世物じゃねえんだよ!」

だが、時既に遅し。
もっともテニス部の連中は、海堂が見かけよりずっと可愛らしい事など、とっくの昔にお見通しだ。



しばらく脱力していた海堂は、やがていつまでこうしていても仕方ないと諦めたのか、のっそり振り返った。
その途端俺と目が合って、飛びすさる。顔がいきなり真っ赤になった。

「あんた…、いつからそこに…!」
「おや、マラソンを放り出しておいて、言う事はそれだけかな?」

ふふふと笑ってみせると、海堂はたじたじとなった。
彼は俺の笑いがたいそう苦手なのだ。

「戻るっ! みんなの倍走りゃいいんだろ!」
「まあ待ち給え。」

逃げ出そうとするから、腕を掴まえた。
途端に噛み付くような視線が来る。

内心ヒヤヒヤしているに違いないくせに、この鼻っぱしの強さはどうだろう。
まったく海堂は可愛らしい。

「そんな怖い顔をするから、仔猫にも逃げられるんだ。俺がなんでもイチコロに手懐けられる秘策を教えてあげよう。」
「なにを…。」

またフシューと鼻息が荒くなったが、秘策というのが甘い誘いに聞こえたのだろう。
目に見えて抵抗が緩くなった。

「とりあえず形から入るといい。せっかくこんな小道具があるのだから…。」

俺はいつも気になっていた海堂のバンダナを引っ張った。

サラサラの髪が顔に掛かるのが気になるのか、海堂はいつもバンダナで頭を一括りにしている。
その無造作な結び目が、いつも飛び出して、頭の脇から不均等に覗いているのだ。

綺麗に左右に揃っていれば、きつい目つきと相俟って、猫耳に見えるだろう。

俺は丁寧に結び目を直した。
几帳面にアイロンを当てられているバンダナは、思った通りにピンと立って、海堂の顔の両脇からぴょこんと飛び出した。ふむ。

チョ●っつみたいだな♪

路駐のバックミラーに慎重に顔を覗かせてやると、しばらく考え込んでいた海堂は、やがてまた真っ赤になった。
さっきとは違う加減の赤さだ。それでも、俺に遠慮しているのだろう。バンダナを毟り取るところまで行かないのが可愛い。

「バッカじゃねえのか! 何こんなコスプレみたいな事やってんだよ! こんなんで猫に好かれりゃ苦労はないってんだよ!」

凄んでみせる言葉がちっとも怖くない。ふむ。コスプレもチョ●っつも履修済みか。

俺はふたたびふふふと笑って海堂を脅しつけた。
海堂はいやそうな顔をしながらも、どうしてもバンダナを毟り取れない。

「まあ、その猫耳は冗談としても。」
「冗談かよ!」

意外と鋭いツッコミが帰ってきて嬉しくなる。
じっくりじわじわ手を出しつづけたおかげで、海堂はけっこう俺には気を許していると理解してもよさそうだ。

俺はおおきな仕草で海堂の肩を抱いた。
誰が聞いているわけでもないけれども、そうっと海堂の耳に、俺の願望を吹き込んだ。

「近いうちに、君を俺の本当の猫にしてあげるよ。そうすればきっと、何もかもうまく行くだろ?」
「乾先輩の猫…? 何言ってんだよ。バカじゃねー!」

思った通り、俺の言葉の本当の意味なんか理解できなかった海堂は、ただ胡散臭い目を俺に向けている。
そのうち、この言葉の本当の意味がわかったら、きっと往生際悪く大騒ぎするに違いない。

俺はまた海堂に聞こえるように忍び笑いを漏らした。
手に入りかかている猫は、まだまだ手がかかりそうだ。