徹夜明け




白白と夜が明ける。正座の足もいいかげんしびれ果てた。
直哉はもじもじと体を揺らす。たちまち、叱責を含んだ咳払いが聞こえて、情けなくも肩を竦めることになった。
思えばこんな場面を、今こうして隣に同じように座っている雪紀と、どのぐらいすごしてきたことだろう。
二人にとっていつも最強で最恐はたった一人だ。子供のころから何一つ変わりやしない。
直哉はそっとため息をついた。



玄関のベルが鳴った。夜半を過ぎて顔を覗かせたのは親友の雪紀だ。
雪紀は小脇にグラビア雑誌を小脇に抱えていた。
小6になって、最近の雪紀の興味はもっぱらそっち方面に偏っている。

「隼人寝たか?」
「うん。もうとっく。」
「よかった。あいつが起きてるとうるさいから。」

雪紀は抱えてきた雑誌を放り出すようにして広げた。
うるさいお目付け役のついている雪紀は、うっかり自宅でそんなものを広げていると、さっさと取り上げられてしまう。
豊満な胸の女性が、にっこり微笑んで二人を見上げている。
二人は思わず唾を飲み、赤面して顔を見合わせた。

「…なあ、直哉、知ってるか? 女って大人になるとセーリって言うのがあるんだぞ。」
「し、知ってるよ、それくらい。」

確かに知識としては知っている直哉だが、具体的にどうまでは気恥ずかしくて語れない。

「女ってこえーよなー。血が出るんだぜ。毎月。」
「う、うん。」
「それも胸からドバーッと。」
「………え?」

なんだか違う気がする。

「胸じゃ…ないんじゃないか? そんなところから出てたら大変じゃないか。」
「ばっかだな。だから女は大人になるとぶらじゃをするんじゃねーか。」

雪紀はますます胸を張る。
直哉は訝しげに眉間にしわを寄せた。

「疑ってるな。それじゃ確かめにいこーぜ。」
「確かめに…って、どこへだよ。」

直哉が言うと、雪紀は真っ赤な舌を出してぺろりと上唇を舐めた。

「こないだ、行っただろ、クラブ。そこの女が、いつでもまた来いって言ってたじゃねーか。色々教えてくれるって。
あいつならぶらじゃの中身も見せてくれそうだぜ。」
「クラブ…、だってあの後…。」

直哉はますます顔を顰めた。
雪紀の父親の元に雑用係として勤めていた若い男に初めて連れて行ってもらったクラブ。六本木なら二人の母親がそれぞれ経営している店舗が間近にあることから気楽な気分で訪れてみたが、そこは二人の知らないまばゆい世界だった。
だが、その後、なぜか雪紀を回収に来たお目付け役の佐伯に、二人そろってこっぴどく叱られたのだ。
そう言えばあれ以来、あの若い雑用係の姿を見ていない。

「またばれると、佐伯さんが怖いぞ。」
「大丈夫。今日、佐伯は、有給とってんだ。友達と会うんだって。だから絶対追いかけてこないって。」

雪紀はきらきら輝く瞳で、すでにたち上がって行こうとしている。
直哉はため息をついた。こんな風になったら、どうしたって雪紀は止められないのだ。



一応の身なりを整えて、二人はクラブへ向かった。あの若い男に、基本的にクラブへはネクタイを締めてと教わったのだ。
だが、思ったように事は運ばなかった。いきなり店の前で入店禁止を食らった。
二人の年齢が満たないのが問題だと言う。

直哉は内心、やれやれと思わないでもなかったが、雪紀はそんなことでは納まらなかった。
憤然と懐から分厚い札入れを取り出して、黒服の一人にたたきつける。

「住園の雪紀が来たと言え! それで通じなければオーナーを出せ!」

まだ声変わりも途中のハスキーな声ですごまれて、黒服は目を白黒させながら店長に進言に行き、そうしてなんとか二人は入店を許可された。

「おい、…まずいんじゃないか? 名前なんか出して。オヤジさんに話が回るぞ。」
「構わない。オヤジならいくらでも丸め込める。」

そんなことだろうなと、直哉はまた嘆息する。
雪紀のオヤジさんは雪紀には滅法甘くて、自分で躾られない分をお目付け役の佐伯に委ねているところがあるのだ。

通されたビップ席で、雪紀はアルコールを出せと騒ぎ、曲が気に入らないと騒いだ。
あたりの雰囲気が、雪紀が一声何か言うたびに険悪になっていく。それを直哉は冷や冷やしながら見守った。
思わずあたりを探ってしまう。得物になりそうなものはあまりない。

「雪紀! あんまり騒ぐな! 周りが殺気立ってんぞ!」
「こう言うところじゃ、はったりを利かせるもんだ。そうでなきゃ、女なんか呼びつけられねーよ。」

オンザロックをちびちび舐めながら、雪紀は嘯く。
ほっぺたがひっきりなしにピクピクするのは、きっと辛いのを我慢しているからだ。
直哉は目の前の綺麗なオレンジ色のカクテルを見てちょっとがっかりする。やっぱオレンジジュースじゃないよな。

「来た! あの女だ!」

雪紀が身を乗り出した。前に来たときに雪紀と直哉に絡むように話しかけてきた女が入ってきたところだった。
長い髪をざらりとかきあげた女は、あたりを睥睨するように足を止めた。いつもと違う雰囲気に気付いたのかもしれない。

少し離れた席から、男が女を呼んでいる。女の目が少し媚びる色に変わった。
しゃなりと腰を振ってそちらに行きかける女の前に、雪紀が立ちふさがった。

「こんばんは。このあいだはどーも。」
「…あら、この前の…。」

女は面白そうに顎を上げた。
背の高い女だ。そうすると、見事な胸のラインが、雪紀と直哉の鼻先に付きつけられて、二人はちょっとたじたじとした。

「お姉さんに会いたくて来たんだ。なんでも教えてくれるって言ったよね。」
「あら、お姉さんにいいこと教えて欲しいの?」
「あのさ。ブラジャーとって見せてよ。」

ガシャーンと、凄い音がした。さっき女を呼んでいた男が、テーブルに蹴躓いてひっくり返したのだ。
女はきょとんと目を見開いて、それから哄笑した。
大きく肩を揺すると、形のいい胸がぶるんと揺れた。
こいつぶらじゃーなんかしてないぞ! 直哉はなぜか焦った。

「ねええ、このお子様が、私を抱きたいんだって!」
「黙って聞いてりゃこの野郎、人の女に…!」
「いや、抱っこはいいからぶらじゃーを…。」

言いかけた雪紀の声は途中で途切れた。直哉も慌てて頭を引っ込めていた。
頭上を、男の大きな拳が、うなりを上げて過ぎていった。

「なんだよこいつ! いきなり乱暴な奴だな!」
「乱暴なのはおまえだよ馬鹿紀! あんな言い方すれば普通怒るって!」
「いいじゃんか、ちょっと見るくらい…!」

大きな椅子がぶっ飛んできた。
ちょこまか逃げ回る雪紀と直哉に焦れたのか、男が手当たり次第になってきたのだ。

「うわー、すげー。ゴリラみてー!」
「呑気なこと言ってんな! 馬鹿紀!」
「バカノリってゆーな! 阿呆哉!」
「誰がアホヤだ!」
「こいつら…! 俺をシカトすんじゃねえ!」
「「うるせえ!!!」」

綺麗に磨かれた二人の革靴が、見事に男の顔面にめり込んだ。
習ったばかりのハイキック。まだ軽量の二人でも、同時に食らわせれば威力は倍増だ。

「うひー! きったねー! 鼻血ついちった。」
「乱暴なんだよ馬鹿紀! ちゃんとあご狙えよ!」
「どっちだって急所じゃねーか! 踏み込みが甘いんだよ阿呆哉! ハイキックってのはこうするもんだ! こう!! こう!!!」
「剣道なら俺の方が上だ! こうして! こうして!! こうして!!!」
「も、もう…勘弁してください…。」
「「あれっ?」」

気がつくと、二人の周りは累々と男たちが倒れていた。
雪紀と直哉は互いの顔を見合わせた。
道場のつもりで奮戦していたら、こいつら弱すぎる。

「な、なんでもいうこと聞きますぅ〜。もう勘弁してやって〜。」

あの女だ。
さっきは暗かったせいか、ずいぶん綺麗な女に思えたが、すっかり照明のついた今、泣き崩れた顔は見られたもんじゃなかった。

「雪紀…まずいよ。帰ろう。」
「うん、…だけどその前に…。」

雪紀はひょいと倒れていた男をまたいだ。女はひいとわめいて後ずさった。

「おねーさん、ぶらじゃーの中見せて。」

直哉は頭を抱えたくなった。
雪紀の探求心はたいしたものだ。だが、ここまでこだわる事でもないだろう。
雪紀はすっかりへたり込んだ女へ手を伸ばす。直哉は呆れてため息をついた。そのとき。

「ひぎ──────────っ! あいてててててて!!!」
「わ、佐伯さ…、うぎゃ──────────っ!」
「何をしているんですか。若。直哉君。」

二人の両足が床から浮きあがった。
耳がちぎれそうだ。二人は情けなく半泣きになって、耳をひねり上げるたくましい手を掴んだ。
どこから噂を聞きつけたのか、佐伯が恐ろしい形相で二人を捕まえていた。

「あ、阿呆哉が確かめに行こうって…。」
「人のせいにすんじゃねーよ馬鹿紀っ!」
「二人とも同罪です! こんなに大勢の人にご迷惑をおかけして!」

佐伯は二人の耳を掴んだままオーナーとおぼしき男の方へ振りかえった。
ご迷惑をおかけしてすみませんと殊勝に頭を下げる。

「この悪たれどもにはよく言い聞かせておきます。請求書は住園にお送り下さい。それから…。」

佐伯は底光りする目でオーナーを睨んだ。

「余計な他言は無用に願いますよ。」

凛と立つ佐伯から発せられる殺気。
ぞくりと身を震わせたのは、オーナーばかりではない。
雪紀と直哉にもそれは同等に向けられて、二人は一瞬の抗議の声を止めた。

「さあ、では帰りましょう。」

一見穏やかな佐伯の声。
その底に何が潜められているか、ぶら下げられたままの二人は良く知っている。

「こんな騒ぎを引き起こした罰と、私の久しぶりの有給をだいなしにしてくれた始末…、その身でとっくりと味わってもらいましょうね。」

天下無双の悪ガキどもも、おしめを替えてもらった守役には逆らえない。
喚き散らしつつ、その夜は惨めな退場となったのだった。



さすがに説教にも疲れたのか、佐伯が席を外した。
直哉はそろそろと足を揉む。うっかり足を崩してそれがばれようものなら大変だ。

最近は昔のように、翌日アヒルみたいな尻になるまで叩かれることも無くなったが、その代わりこうして一晩中正座で説教を拝聴しなくてはならなくなっている。
どっちが楽だろうと考えて、成長しない己にまたため息を吐いた。

「……なあ、馬鹿紀。」
「なんだ、阿呆哉。」
「…成長しないよなあ、俺たちって…。」
「……………まあな。」

遠くから佐伯の咳払いが聞こえる。二人は同時に首を竦めた。

「……ところで、俺達今、なんで怒られてるんだっけ?」
「…さあな。」

今も昔も無条件で屈服させられてしまう威圧感が佐伯にはある。
直哉は射し始めた朝日に目を眇め、もう一度盛大にため息を吐いた。