牛若丸




正義は絶対勝つなんて甘っちょろいこと、嘘っぱちだっていうのは、ずいぶん前から知ってた。

一度目を付けられたらお終いだ。俺は只のターゲットで、腕力では敵わない。
多勢に無勢だ。身を守るために何か言っても、全然通じない。民主主義ってのはそういうことなんだ。
俺の意見がどんなに正しくても、大多数の意見の前にはそれはねじ伏せられてしまう。

みんなは知らん振りだった。
俺が苛められている間は、自分には災いは降ってこない、それをよく心得てる。だから助けるなんてもってのほか。
静かに静かに、目を合わせないみんなの白々した顔は、時にはあいつらよりよっぽど俺を絶望させた。
俺の存在が空気のように希薄に思えるのはそんな時だ。
こんなに必死に助けを求めているのに、どうしてか俺の言葉は何一つ届かないのだ。

体操服も上履きも、一体何回買い換えただろう。
私物の靴さえ捨てられて、途方にくれて裸足で帰ったこともある。
真夏でアスファルトは焼けていて、靴下越しにも俺の足を真っ赤に腫れ上がらせた。

顔だってしょっちゅう腫れていた。袖をめくった中には、無理やりさせられた根性焼きの痕だってある。
一度、絶対俺に勝機のないゲームを吹っかけられて、罰ゲームにペンチを投げ渡されたことがある。
俺は逆らいも出来ずに、自分の爪を毟り取った。酷い痛みに、悲鳴より早く血が吹き出て、人気のない廊下に真っ赤な血の花が咲いた。
駆けつけた教師は、問題になるから派手なことは止せと言っただけだった。

親を心配させるのは嫌だった。
優しい顔立ちの、線の細い母さんは虚弱で、いつも何か言いたそうにしては、結局口をつぐんだ。
彼女の精神は脆弱で、俺がいじめられてるなんて知ったら壊れそうに思えた。
家を空けがちな父さんは、俺の窮状なんか気が付くはずもなかった。
俺は誰にも助けを求められずに、歯を食いしばって2年間をすごした。

だから俺は、この中学の誰も進まない高校へ行きたかった。

あんな卑劣な奴等に負けっぱなしじゃ嫌だ。いつか必ず見返してやりたい。そのためには学校を辞めてしまうなんて考えられなかった。
結局この世は学歴社会だ。綺麗ごとを並べたって、最終的には高学歴な者が勝つ。自分から社会への道を閉ざしてしまうなんて、弱虫のすることだ。

白鳳学園は、俺の理想にぴったりだった。
幼稚舎から持ちあがりのおっとりした坊ちゃんたちは、きっとこんな世知辛い世の中なんか無縁のはずだ。
生徒の半数が入るという寮は、自治がしっかりしていて過ごし易いという。一種隔絶されたような環境は、俺の過去を忘れて将来の為に勉強に没頭するには都合がいい。

白鳳は、そのレベルだけでなく、かかる費用も超一級だった。だから俺はがむしゃらに勉強した。奨学生でなければこんな学校には入れない。
幸い、勉強は誰より得意だったから、俺は頑張った。スポーツ奨学生という手が使えない俺でも、学年で1番になれれば、授業料も免除になるのだ。
もう2度と痛い目を見なくてすむように。悔し涙にまみれて明かす夜が来なくなる様に、俺はひたすら頑張った。

頑張った甲斐あって、俺は辛くも主席での入学を果たした。
こんな充実感はずいぶんしばらくぶりだった。俺の頑張りが正当に評価されたんだ。
届けられた合格通知と、奨学制度の案内を握り締めて、俺は涙をこぼした。
どうしてだろう。あんなに苛められて、屈辱的な一日をすごした時でも涙なんか出なかったのに、俺は小さい子供みたいにおいおい泣いていたんだ。
白鳳の真っ白い制服が、そのまま俺の未来を指し示しているように、俺には素晴らしく眩しく見えた。
だけど不安は…すべて拭い去れたわけじゃなかったんだ。



淋しそうな顔で引き止める母さんを振り切って、俺は寮に入った。
寮長だという長身の浅黒い人は、真っ白な歯をきらめかせて笑った。でも、耳慣れない関西弁に驚かされて、俺はちゃんと挨拶も出来なかったように思う。
新しい環境が、俺を必要以上に尖らせているのが分かった。今度こそターゲットにされないように、ひたすらに思うその思いだけが、俺に肩肘を張らせるのだ。

だから俺はきっと、ものすごく張り詰めた感じの悪い奴だったと思う。
俺は怖かったんだ。あの努力の末にやっと勝ち取ったこの居場所。だけどその中身は実はなんにも分からない。もしかしたら前とちっとも変わらないのかもしれない。
苛めたくなるような顔立ちというわけの分からない理由で、また面白いように踏みつけられてしまうのかもしれない。
そう思ったから。
俺は。
声を掛けられてもすぐに顔を上げられなかった。入学式の前日の、新入生だけを集めた説明会だった。
持ち上がりで入ってきたみんなはすでに仲間の輪が出来上がっていて、俺は白鳥の中に紛れ込んだ滑稽なからすみたいな気がした。
いくら胸を張ってみたってそれは虚飾で、俺は本当はまだ惨めな苛められっこのままのような気がしてならなかった。

背後からひそひそと声がする。あれが主席の編入生。自分を指し示す噂話の声に、身が竦む思いがする。
いきなり目立たなくていい。友達なんか出来なくてもいい。楽しいことが一つも無くていい。その代わり、今までのような辛い思いだけはしたくない。
そんな頑なな思いが、俺の全身を強ばらせていた。

「つんとしてやがって、感じワリィの。」

明らかに俺を目指す言葉に、俺はさらに全身を固まらせた。
顔を上げて、自分から声を掛けた方がいいのかもしれない。それが無理なら、にっこり笑うだけでも。
そう思うのに、ますます肩は重く、俺は握り締めた自分の拳だけを睨むしかできない。

「外部からのくせに、態度でかいんじゃねえの?」
「俺らとなんかおかしくって話せないんだってさ。」
「顔も見せられねえんだぜ。馬鹿にしてよ。」

そんなことはない。俺はただ、悪目立ちしたくないだけなんだ。
膝の上で揃えた握りこぶしがだんだん白くなっていく。これ以上握ったら、自分の爪で手のひらを傷つけてしまう。
それでも、2年間で植え付けられた恐怖心は、簡単に俺を開放してくれやしない。

「なんて名前だ? 高見…白…?」
「しろゆき…? 白雪…?」

あ。
やばい。
2年前、俺を陥れたきっかけも、この可愛らしい名前だった。

誰でも知っている童話のお姫様の名前。可愛らしくてたおやかなだけの、自分から努力することを知らない姫君の名前。
まわり中から愛されて、幸せは常に与えてもらうだけの柔らかい子供の名前。
真っ白い雪が降った日に生まれた真っ白い俺。少女趣味の母親が付けた名前がいつでも俺を陥れる。
ほら、嘲笑が聞こえる。中学生にもなって、童話の姫君の名前なんて。だけど名前をつけたのは俺じゃない。
子供の頃ぴったりだった名前がそぐわなくなったって、それは俺のせいじゃない。
竦めた肩が強ばって、膝の上の拳が揺れる。
白雪ちゃん、可愛いお名前ね、そのお名前にぴったりな可愛いお顔を上げてみせて。ああ、どうしてここでも、中学の時とおなじセリフを聞かされるのだろう。
俺の前に壁が出来る。それは中学の時とは違う真っ白な壁だけれども、威圧感は変わらない。
押しつぶされる。息苦しい。俺は空気を求めて胸を喘がせた。緊張でうまく広がらなくなった胸から妙な音で呼気が漏れた。
なに震えちゃってるの白雪ちゃん。早くお顔を見せてよ。髪の中に指が差し込まれる。今は撫でるだけのその指が、今にも強く引き結ばれて、頭を小突き回すのを俺は知っている。
いやだ。俺の努力は。苦労は。また3年同じ事を繰り返されるためにしたものじゃない。
どうしたんだこいつおかしいんじゃねえの。それともよっぽどおれらがばかにみえるんじゃねえの。そんなことはないよ。叫ぼうとした言葉は溢れずに喉を震わすだけ。
だって俺は怖いんだ。この先の展開は良く知ってる。ターゲットにされたらおしまいだ。もう誰も助けてくれない。俺にできるのはなるべく小さく身を縮めて嵐をやりすごすだけ。そんな生活が嫌だからあんなにがんばったのに。もう2度とこんな汗をかくつもりはなかったのに。ああ、かれらのこえがどんどんとげとげしくなっていく。しかいがぼやけていく。おれはないているのか?はじめからこんなじゃぜったいにいじめられるそんなのはいやだこれからさんねんもがまんするなんてたえられないあたりがさわがしくなっているみんなおれのてきだおれはたったひとりだこのがっこうもだめだったいじめられるのはいやだいやだいやだいやだいやだいや


「なにやってんだよおめーらっ!」


不意に目の前を旋風が翻った。

俺を取り囲んでいた真っ白い壁が割れた。

「ガキみたいなことしてんじゃねーよ。」
「痛ってえ! なにすんだよ隼人!」

俺は弾かれたように顔を上げた。
俺の目の前に立ちはだかっていた一人の首を、短い髪をつんつんと立ち上がらせた奴が回した腕で絞めていた。
ひらりひらりと身を翻す様子は、なぜだか俺に、昔絵本で読んだ牛若丸を思い出させた。

「おまえも。」

むせるそいつを放して、短髪は俺の方にずいっと顔を寄せた。
そいつは、とてもやんちゃそうで、意志の強そうな目をしていた。
間近につきつけられたその精悍な顔に、俺は思わずドキリと胸を震わせた。

「苛められたガキみてえなしょぼくれた顔してんじゃねーよ。」

大きな手のひらが目の前にかざされて、俺は思わず目をつぶった。
パシッと鋭い音が痛みより早く駆け上った。
強烈なデコピンが俺の額に弾かれていたのだ。

「痛っ…!」
「なんだ、普通に声出るんじゃん。」

そいつは背中を伸ばした。
俺よりだいぶ大きな背丈が、威圧感なく俺を見下ろしている。
にかっと音を立てそうな微笑を向けられて、俺は強張っていた全身がゆるりと溶けていくのを感じていた。
久しぶりに真正面から向けられる好意だった。

「隼人、手ぇはえーよ。弱いものいじめすんなよ。」
「なんだよそれ、俺は弱いものいじめなんかしねーよ。それが俺の正義だかんな。」

言いながら彼は、絡んできた友人に飛びついて締め上げている。
─隼人─俺は口の中で何度も反復した。
彼の正義なら、俺を救ってくれるのかも。

「あなたの、それは、…弱いものいじめって言うんじゃ。」

やっと口に出した言葉は、おかしいくらい震えていて、友達に話しかける言葉じゃなかった。だけど隼人はまた笑ってくれた。

「そーか? じゃあ訂正しよう。俺は気に入ったものはいじめないんだ。俺、おまえのこと気に入ってんだぜ。他の奴ら不甲斐なくてよう。」

隼人はさらに腕に力を入れると、抱えていた友人に悲鳴を上げさせた。

「もうちょっとで1番になっちゃうところだった。やべーやべー。おまえが頑張ってくれたから、俺は兄ちゃんとおんなじ2番になれたんだもんな。」

隼人の奴はブラコンだから、と誰かが茶々を入れる。

なんだ。俺はほんの少し落胆を感じる。自分の方が全然ガキじゃん。それに。
隼人の気に入ってるのは俺じゃなくて兄ちゃんって言う人じゃないか。

はじかれた額が熱い。俺は腕を上げてそこを押さえかけて、うそみたいに滑らかに動く体に感謝した。
今までずっと、中学生のころからずっと取れなかった緊張が、隼人の笑顔で一瞬にして蕩けてしまっていた。

「あの…俺さ。」

俺は声を上げた。隼人が訝しそうに振りかえる。頬が火照った。

「ずっと一番取ってたら…ずっと気に入っててもらえるのかな。」
「ああ? まあな。俺2番しか取る気ないから。」

隼人はにやりと笑い、変な奴と呟いた。