幽霊




最初に言い出したのは白雪だった。
生徒会室の最奥。雑多な荷物の放り込んである片隅。そこが白く煙って見えるというのだ。
さらに、近づくと、ひんやりと肌が粟立つという。

「絶対なにかいます! 夏休みの間に入り込んじゃったんですよ〜。」

白雪は半べそで天音にしがみ付いた。天音は目を眇めると、困ったような顔をした。

「いいかげんな事を言うな、白雪! 何が見えるって言うんだ。」

俺はことさらに怖い顔を作って言った。
白雪はびくんと肩を竦めると、小さくなって天音の影に逃げ込んだ。

「直哉、そう一方的に言う物ではありません。あなたが見ている物が世界の全てではないのですよ。」

いつもよりもっと尊大な様子で、天音が言う。
小さな頃から霊感が強いといって、何かと胡乱な噂を振りまいていた天音は、俺を断罪するように続けた。

「たとえば、あなたの目が赤と緑の識別を生さない目だとしたらどうです。あなたの世界にはりんごはあっても青りんごは存在しなくて、いくら説明されてもそれは実感として感じられないのですよ。」
「残念ながら、色覚も視力も至って健康だ。」

俺は眉間に皺を寄せた。天音は大袈裟にため息を吐いてみせた。

「あなたが見えないのじゃなくて、見えすぎる者もいるという話をしているんです。」
「とにかく、そんなでたらめは許さない。咲良、瑞樹、なにか見えるか?」

俺は手近にいた後輩を引っ張り込む事にした。
いつもなんにも悩みがないような二人は、揃えたような仕種で、その一角を見た。

「え〜、俺は別に…。」
「俺も…、何にも見えませ〜ん。」
「ほらな。見えない方が多いぞ。だからそんなやたらな事を言うんじゃない。」

そう決め付けると、白雪はますます悲しそうな顔をした。

「でも…なにかいるんです。信じてくれなくてもいいです。でもなにか対処して下さい。そうでないと俺、怖くてこの部屋にはいれません。」
「信じていない物を、なんの対処をする必要がある。」
「なになに、何の話〜。」

俺の祥先生が、ひょこんと顔を出す。
続いて入ってきた隼人は、囲まれた白雪を見つけると、嫌そうに鼻の頭に皺を寄せた。

「兄貴、なに白雪いびってんだよ。」
「いびってるわけじゃない。埒もない事をいうからな。」
「埒もないって…。」

言いかけた祥先生は、不意に押し黙った。
そのまま10秒ほど凝固して、それからゆっくり白雪と天音の顔を見る。俺の顔はその次とは…。

「祥太郎先生…、あそこの隅になにかいるって話をしていたんです…。」
「なにか? なにかって…。」

縋るように言う白雪に応えかけた隼人は、睨み付けるように白雪の指す方を見ていたが、やがてゆっくりと腕を摩った。

「俺は何にも見えないけど…その辺がなんか薄ら寒ぃ。」
「おまえまでそんな、とぼけた事を言うか!」

俺はとりあえず憤然と、腕を組んでみせた。
なんとなく部屋が2派に分かれた感じだった。

見える、あるいは感じると主張する、天音、白雪、隼人。
対して頑固に不在を主張する俺と、どうでもいい風情の咲良、瑞樹。
間に立った祥先生だけが、自分の意見を口にしていない事に俺は気付いた。

「祥先生はどうです? やっぱり見えるなんてばかばかしい事をおっしゃいますか?」
「うーん、そうだねえ…。」

祥太郎先生は思案気に小首を傾げると、俺の方を見てにっこり笑った。

「そんな事より、直哉君今日はやけに饒舌だねえ。なんだかムキになっていないって言いたいみたい。」

うっ。痛いところを衝かれた俺は、思わずあとずさる。
今まで誰にも悟られたことのない、俺の唯一無二の弱点がこれだ。

俺は、幽霊だのお化けだの、心霊現象だのが大嫌いだ。
だってそうだろう。人間ならいくらでも拳で黙らす事が出来る。女子供なら、暴力は振るえなくてもいくらでもだまくらかす手段がある。
金を使ってもいい。言いくるめてもいい。いざとなれば泣き落としだって構わない。
それらすべて通用しない相手だって、時間さえ掛ければ、俺は絶対に相手を負かす自信がある。

だが、相手が幽霊なら…それら全ての手が通じないじゃないか。
腕を振り回しても、金をばらまいても、いわんや時間さえ、掛けるだけ無駄だ。絶対に勝てっこない。
そうして向うのされるがままにならなきゃいけないというのは…これは俺にとっては確実に恐怖だ。
大体、存在が確認できないのにいるなんて理不尽な物…どう対処すればいいというのだ!

「もしかして、直哉君…、お化けが怖いとか〜。」
「そっ、そそそそそんなことありません!」

声が裏返ってしまった。
祥先生は楽しそうにけたけた笑っている。
白い視線が突き刺さってくるような気がして、俺は思わずみんなを睨み返した。

「そう言えば直哉先輩、さっきから一歩もそこを動きませんよね…。」
「うん。まるであっちの方に行くのが怖いみたい。」

僅かな味方だと思っていた咲良や瑞樹までもがそんな事を言う。
俺は空元気を奮い起こした。ここで引いては一生弱みを握られてしまう!

「そ、そんな事はない。いいさ。行ってみせようじゃないか。俺がその隅に行ければいいんだろう?」
「…あんまり死者を愚弄するような態度でいると…、取り憑かれますよ。」
「ばかな。そんな事などありえん。」

天音が脅すように言う言葉にも、何とか切り返して、俺は白雪が指す隅に向かった。
本心はおっかなびっくりだが、それを気取られてなるものか。
確かに少し薄暗い感のあるその隅に行って、俺はしっかり足を踏みしめると、ゆっくり振り返った。

「どうです。やっぱり何にもないでしょう?」

冷や汗ものだが、余裕ある表情を装って言う。
にっこり笑って肯いた祥先生が、不意にひっと息を飲み、顔を強張らせた。

「直哉君の後にっ!」
「ぎゃ──────────っ!!!」

思いがけない大声と、突きつけられた指に脅されて、俺は反射的に声を上げてしまう。
夢中で腕を振った。手の届く範囲、ありとあらゆる所を叩き捲る。
その間口にしていたのはなぜか般若心経だ。

「南無法蓮華経! 悪霊退散! 俺は何にも見えない! 見えないったら見えないぞっ! 俺に憑いても無駄だっ!」
「あ…兄貴…。」
「あははは。やっぱり怖いんだ〜。」

祥先生の明るい声に我に返ると、待っていたのは笑い転げる祥先生、唖然とする隼人、白雪、咲良、瑞樹、失笑を漏らす天音だった。

「しょ…、祥先生…。」
「冗談冗談。だけどこんなに過敏に反応してくれるとは思わなかったよ〜。
直哉君にも怖いものってあるんだ。なんか安心しちゃった♪」

何てことだ。大好きな祥先生からのこんな仕打ち…。
それでも笑い転げる祥先生を見て、可愛いと思ってしまう俺は、心底腐っているのかもしれない。

「そうそう、大体僕は、住園君が呼んでいるのを教えに来たんだった。第二グラウンドに建立予定の温室の事で見て欲しい物があるんだって。行ってきて。」
「あれ? 先生は?」

問い掛ける咲良に向かって、祥先生はいたずらっぽく笑った。

「すぐ行く。白雪君。返ってきたら怖くないようにしておいてあげるから、安心して。」
「え…? 怖くないように…?」
「なんだって、いるべき所にいるのがいいよね。ちゃんと説得しとくから。」
「説得…?」

そう言えば、祥先生はさっきから幽霊の所在について、いるともいないとも言っていないのだった。
もし祥先生がそんな物を見たり聞いたり出来る人なら、俺はこの先、先生に対する態度を改めずにはいられない。
だって、睦言を囁く耳元で誰かがこっちを見てるなんて言われたら…怖いじゃないか!

「祥先生! 先生は…いわゆるそういう物を…信じておられる人なんですか?」
「僕? 僕は自分の見える物しか信じない。」

俺は思わず安心しかけて我に返る。
それではなんの解決にもならない答えだ。

先生が見ている物が、俺が見ているものと一致するとは限らないというのは…天音に言われなくても十分分かっている!

「そうじゃなくて…、そういうのが見えちゃう人なんですか? これからもそんな事を言う可能性があるんですか?」
「うーん、そんな泣きそうな顔しないでよ。」

祥先生は、噂の一角を振り返ると、空を撫でた。
まるでそこに誰かの頭部があるかのように。

「直哉君が怖がるから…ナイショ。」

祥先生は唇の前に1本指を立てて、天使みたいに笑った。