まつのうちにも




  終業式を終えて、生徒会の面々が集まった。形ばかり仕事納めの真似事をすると、もうすっかり気分はお正月だ。
私は少し醒めた目でみんなを見渡した。

「やっぱり、初詣と言えば明治神宮でしょ。」
「あんなの、人ごみに揉まれるだけだ。鎌倉のセカンドハウスの近くに、鄙びたいい神社があるから…。」
「えーっ、その人ごみがいいんじゃないですか。」

咲良と雪紀がいちゃついている。瑞樹とカノン、祥太郎先生と直哉さえ似たようなものだ。
私は僅かに肩を落とした。手持ち無沙汰にしている慎吾に申し訳ない気がしてならない。

わが国見家ではクリスマスを過ぎた頃から戦争のような慌しさになる。茶道と華道を教える祖母と母、日舞の大家である父の元へ、大晦日から元日には来客が引きも切らない。
その来客を迎えるための料理や掃除に、家中の者が駆り出されるのだ。無論、一人息子の私もその災禍を免れることはできない。
今日あたりは、元日に着る着物の仕上げに、呉服屋が私の帰りを待ちかねているはずだ。

「慎吾…、ごめんなさい。今年も元日は…。」
「ああ、かまへん。おまえんちが今ごろ鬼みたいに忙しゅうなっとるんは、ようく分かってるし。」

慎吾は大きな手を、私の頭の上に乗せた。その手の暖かさが、ますます私を切なくさせる。
迂闊にも、落胆が顔に出てしまったのだろうか。慎吾の大きな手が降りてきて、私は頬を包まれていた。

「そんな顔しないな。俺の別品さんが台無しやで。」
「でも…。」

私が中学生になってから足掛け5年、慎吾には年末から淋しい思いをさせてしまっている。
跡取り息子の私にも、国見の家を支える接客が待ち構えている。そのため、家を空ける事はもちろん、慎吾を呼び寄せる事さえできないのだ。

「しゃあないな、天音には黙ってよ思たんやけど、俺、暮れには久しぶりに実家に帰ろ思てんねん。」

私は慎吾の言葉にはっと顔を上げた。視線が合うと、慎吾は柔らかい微笑みを私に投げてくれる。

「ずっとこっちにおりっぱなしやもんな。たまには帰って来いて、親がうるそうてしゃあないねん。金沢のばあちゃんの所にも、たまには顔出しせんならんし。」
「それじゃ…冬休みはずっとそっちですね。」
「なに言うてんの。金沢なんて近いで。飛行機ですぐや。」

慎吾は私の頬を包んでいた手にぎゅっと力を込めた。両側から頬が押し出されて、一瞬ひよこのように無様に唇が尖らせられてしまう。私が頬を赤らめて慎吾の手を振り解くと、慎吾は私の反応にさも嬉しそうに微笑んだ。

「2日には帰ってくるし、そしたらいつもの正月と同じや。少し遅めの初詣、二人で行こうな。」
「…いいんですよ、別に。そんなに急いで帰ってきてもらわなくても。」

不意を付かれた悔しさに、少し拗ねてそう言うと、慎吾は余裕たっぷりに笑った。

「そんな事言わんといて。おまえんちの極上のお節、食べさせてぇな。」

手放しで笑うと、大きく目尻が下がる。私はいつでもこの、愛敬ある笑顔にほだされて、自分の中の掛け金をプチプチと外してしまう。

「ええ。…分かりました。待っています。」

きっと慎吾は、久しぶりの帰省を、あわただしい私のスケジュールに合わせてくれたに違いない。そんな思いがますます私を慎吾に甘くさせる。
一抹の淋しさを覚えながらも、私はなぜか尊大に、慎吾の帰省を許していた。


国見家の元旦は、代々伝わる神棚に灯明を上げる事から始まる。
家長である祖母が厳かに祝詞を上げ、内弟子さんたちまで揃えた一家全員が柏手を打ち、礼を捧げる。他人には珍妙に見えるかもしれないこの行事も、私にとっては馴染み深いセレモニーだ。新春の清らかな空気に身の引き締まる思いがする。

私の今年の着物は淡い藤色の友禅。色素の薄い私の髪や肌によく映える。
祖母には窘められてしまうが、私は着流しで着るのが好きだ。平面に近いこれらの着物を、3次元の身体に合わせるために数本の紐を使い、複雑な折り方をして、ぴしりぴしりと身体に合わせていく時の緊張感は、私をストイックな面持ちにさせてくれる。

「天音さん、また着流しですか? 仕方ない子ねえ。」

祖母がはんなりと笑う。内弟子さんにも来客の皆様にもに絶大な人気を誇る私の姿も、祖母に掛かればやんちゃな孫の不精な正装に過ぎない。

「だっておばあ様、私に羽織袴は似合いませんよ。」
「そんな事ありませんよ。国見家の男子たるもの、常に身を削ぎ鍛練し…、でも、あなたたちの世代には、こんな家訓、退屈なお題目でしょうねえ。」

ころころと鈴を転がしたように笑う。若くして父を設けた祖母は、隠居に引っ込むにはまだ惜しい若さと美貌を保っている。

「でも、まあ素晴らしいおのこっぷりだこと。百合子さんのお見立てはいつも確かね。」

さりげなく、私と、着物を見立てた母への心配りをする。こうして私と祖母とがひそひそと言葉を交わしている間にも、ひっきりなしに来客が訪れては、父や母に挨拶をしていく。祖母も私も僅かな休憩をしているだけだ。
客間には豪華なお節も用意してあるが、ほとんど来客用で、私たちは忙しすぎてゆっくり食事も取れない。いまも、すぐにまた茶席に戻らなくてはならない忙しさだ。

「おばあ様もお奇麗ですよ。おばあ様の大ファンの慎吾が見たら、感激のあまり涙を流しそうです。」
「まあいやだ。こんなおばあちゃんに向かって。」

祖母の着物姿は竜胆を連想させる可憐さだ。冗談でも誇張でもなく言った言葉も、祖母には軽くいなされてしまう。
私はこの場に慎吾がいないのを本当に残念に思った。祖母の晴れ着ばかりではない、私の和服姿も見て欲しいのに。

「でも残念ねえ。今年はあの子の元気のいい新年の挨拶を聞き逃しそうね。」
「? 慎吾なら、明日はうちに来ると思いますが…。」
「あら、忘れたの? 明日からみんなでハワイに行くので、天音さんにはお留守番をお願いしたでしょう?」
「あ……。」

私とした事が、年末の忙しさにかまけてうっかり失念していた。父がハワイで新年の興行を行うに当たり、内弟子さんたちの慰労会も兼ねて、一家が総出で海外旅行に出るのだった。
例年二日には、両親がお年始に出るのだが、今年のように家中ががらんとしてしまうのは初めての事だ。私は慎吾と会うのが楽しみで、何度も誘われたハワイ行きを蹴ったのだった。

「慎吾さんが来てくださるなら、天音さん一人でも寂しくないわね。」
「慎吾がいなくても…寂しいわけないじゃありませんか。私をいくつだとお思いです?」
「まあ、頼もしい事。でもあなたは、もう少し素直でもよろしくてよ。」

祖母は私の答えに、少女のような表情で微笑んだ。


がらんとした客間にこたつを作って、私は慎吾を待っている。
例年三が日にばらけて来る挨拶の客が、今年は1日にほとんど来尽くした。用意周到な母が手回ししたものと見える。
おかげで来客の途絶えた夕刻過ぎから、両親と祖母たちは大騒ぎをしながら荷物をまとめ、ハワイへ向かって旅立っていった。

二日になった今も、慎吾からの連絡はない。それ自体は珍しい事ではない。
面倒くさがりの慎吾は、メールでやり取りなんて得意でないし、せっかくの携帯がバッテリー切れなんて事も珍しくない。
だが、当初の予定では、慎吾は一日の小松空港の最終で、羽田に向かったはずだ。

私は衣紋賭けに掛けた藤色の着物を見、次にこたつの上のお重を見た。
来客用のものすごいような重箱ではない。家族用の小さなお重だ。祖母が私と慎吾のためにつめてくれた物である。
慎吾は祖母のファンであると同時に、祖母の料理の大ファンでもある。その健啖な食いっぷりは、食の細い私と対比されて、いつでも祖母の胸をすかせている。
慎吾が年始の挨拶をしに来るのは、私の顔を見るためではなくて、おせち料理を食べに来るのではないかと思うくらいに。

「慎吾…遅いな…。」

私はお重の蓋をそっと持ち上げてみた。お腹がきゅうと心細い音を立てる。昨日は目の回るような忙しさだったから、考えてみると年越し蕎麦を食べたのを最後に、満足な物を口にしていないかもしれない。

我が家のお節料理はほとんどが手作りだ。私の大好物の栗金団も、祖母がきんときを取り寄せるところから始まっている。
金色に練り上げられたきんときと栗とが、まろい光を放って私を誘っているようだ。私はそうっと指を伸ばしかけ、やっぱり止めた。
慎吾がお節を楽しみに待っているのだ。私一人先に食べる訳にはいかないだろう。

「ふう…。」

私は背中を丸め、こたつの上に顎を乗せた。
家族にさえ見せない弛緩した姿も、慎吾の前でだけは晒す事ができる。
だが、そうして待つ慎吾は、なかなか姿を現さないのだった。


飴色に染まった柱の節を無意識に数えて、私はため息を吐いた。苛々が募る。
もう正午を過ぎたというのに、慎吾はまだ訪れない。
私はさっきから、こたつの上に携帯とテレビのリモコンを並べて、かわるがわるそれを弄っている。携帯は何度チェックしても着信なしだし、テレビはどこのチャンネルも、騒々しいだけの似たような番組だらけでつまらない。
慎吾の予定通りなら、夕べ遅く羽田に降り立って、そこからひとまず寮へ帰ったはずだ。それからゆっくり朝寝したとしても、もううちに来てもいい頃だ。
私は思い余って、また携帯を手にした。寮で生活を共にしている咲良にコールしてみる。
ずいぶん長い呼び出し音の後、ようやく咲良が出た。

「は…い。」

なんだか押し殺したような声。私は訝しく思いながら言った。

「明けましておめでとうございます、咲良。突然ごめんなさい。慎吾のことなんですけど…。」
「あ…天音先輩、今、ちょっ…と…、んっ…。」

突然飲み込むように言葉が途絶え、潜めた息遣いが聞こえる。荒い息を無理に押し殺しているような。
電話の向こうの彼は、具合でも悪くしているのだろうか。私は心配になって声を上げた。

「咲良、咲良、どうしました? 具合でも?」
「なん…でもないです。今、あの…あっ、…やっ。」

僅かに水気の多い音が聞こえ、咲良でない笑い声が聞こえた。携帯を持つ彼を背後から抱きしめて、耳元で含み笑いを聞かせるような密やかな笑い。

「やだ…っ、電話、聞こえちゃ…う…っ、んあ…っ。」

この状況は! 私は不覚にも頬が赤らむのを感じた。咲良のほんの極近くに雪紀がいるのだ! そして二人は、いわゆる、真っ最中なのだろう。

「天音…、無粋だぞ。」
「悪趣味ですね、雪紀。」

笑いを含んだ、聞き慣れた声がする。私はせいぜい見えるはずのない渋面を作ってそれに答えた。
受話器の向こうから、絶え絶えの咲良のむせび泣きが聞こえる。携帯を取り上げられて、声を抑えることが難しくなったのだろう。

「咲良は嫌がったんだが、おまえの電話を無視したとあっては、後が厄介だろう? だから俺が出るように言ったんだ。優しい先輩だろう。」
「それは悪かったですね。せっかくの事始に。」
「事始? 何を眠たいこと言ってる。今日はもう二日だぞ。…んっ、ところで、なんのようだ。」

つまりは、もうすでに昨日から散々堪能したという事らしい。
にわかに切羽詰った声を出して、それでも何か偉そうに雪紀は問い掛ける。切れ切れに聞こえる咲良の声が高くなったから、雪紀の方も本当に余裕がないのだろう。
私は急にばからしくなった。どうして私がふたりの変なプレイのだしにされなくてはならないのだ。

「もういいです。お邪魔さまでした。」

荒々しく言って通話を切る。携帯をコタツの上に放り出すと、私は畳の上にひっくり返った。

「こんなに私を待たせて…。慎吾の奴、覚悟は出来ているんでしょうね…。」

呟く声が、がらんとした部屋に拡散されていく。


廊下の突き当たりの祖母の部屋から、祖父の形見の柱時計が鳴る音が聞こえる。ゆっくり6つ。冬の日はすでに沈み、深々と部屋の空気を冷やしていく。
私はのろのろと身体を起こして雪見障子を開けてみた。職人が入って剪定を済ませた松が、深い藍の空にさらに黒々とした影を落としている。

「あ…、雪…。」

ガラスの粉みたいな細かい雪が、ちらちらと舞い落ちている。こんな些細な降りかたでは、決して積もりそうもない雪。まるで今の私と慎吾の間に降り積もる絆のようにはかない雪が。
私は再び寝転がり、ぼんやりと窓の外を眺めた。時折空気をきらめかせるだけの雪は、もう止む気配を漂わせている。

「慎吾…どうして来ないんだろう…。」

空しい呟きがもれる。私は衣文掛けにかけっぱなしの藤色の着物を思った。
今なら、慎吾がやりたがっていた悪代官ごっこにだって応じられる。帯の端を引っ張って、町娘をくるくる回すあれだ。ずいぶん前から慎吾のリクエストの一つだが、私は1度として応じたことはない。
帯を解いただけでそんなに簡単に着物が脱げるわけもないし、そんなことをされそうになったら、腕をはっしと降ろせばいいだけの話だ。そんなバカらしいことに付き合わされるのはたまらない。かつてはそう思っていた。
だが、今はそうでもない。

さっき、咲良のかわいい声を聞いてしまったせいだろうか。体が火照って仕方がないのだ。
考えてみれば、終業式が終わってからずっと、慎吾に触れられてない。こんなに長いこと慎吾と顔を突き合わさないこと自体珍しいことだ。
それなのに、慎吾は連絡一つなく顔を見せてくれない。

静かに、手のひらがセーターの裾を捲り上げた。ひんやりと冷たい私の手は、慎吾の大きくて暖かい手とはすりかえようもない。だが、私は、静かにそれを這わす。
この手のひらが慎吾なら、そう考えて、慎吾のするようにそうっと肌を撫で上げて、ゆっくり胸を弄った。
爪を立て、胸の飾りをもてあそぶ。慣らされた身体は、何度か小さな粒を爪弾くと、ひくりひくりと震えだす。
不器用な左手だけでパンツのジッパーを下ろし、そっと手を忍び込ませる。自身をきゅっと握りこむと、胸の粒までもがこりこりと立ち上がってくる。

「ん…慎吾…。」

私は静かに目を瞑る。私を抱きしめているのがただの空気だと気付かないように。
足がしどけなく開いていく。もどかしい右手がゆっくりと肌を滑り降りて、パンツにかかった。
腰を浮かして下着ごとパンツをずらすと、ためらいながらも左手に添えられる。
先端をこじ開けるようにすると、痺れに似た感覚が全身に走り、私はびくりと震えてしまう。

だが、いつもとは全然違う。

私は、自分の浅ましさに震えながら、そうっと右手を伸ばした。丸い尻を滑った右手が私の最奥へと進んでいく。
めったに自分でも触れない場所、慎吾しか知らない私の入り口へ。
何度か撫でると、息まで荒くなる。熱いもので満たされたくて、私のそこが息づいていくのが分かる。
なだめすかすようにこじ開けて、ぐっと一息に中指を差し込む。熱い襞が待ち構えていたように絡みついてくる。
私は喘ぐと、さらに深くへと指を進ませる。手っ取り早く快感を得る場所を探り当てるために。
だが、いつもと違いすぎる。充実感も肌に触れる熱さも比べ物にならない。
それでも自身を穿つ指は止まらない。
私をそうさせるのは、省みられない寂しさのせいかもしれないし、ただ満たされたいだけの貪欲な欲望のせいかもしれない。
私はぎゅっと瞑るまぶたに力を込めた。
穿つ指を増やし、おずおずと滾っていく、自分自身を慰めるように、握り締めた左手を上下する。
先端から溢れ出た涙みたいに透明な液体が、私の動きをさらに滑らかにしていく。

「慎吾…慎吾。」

つれない恋人を呼ぶ。
いつもなら、喘ぐ私をなだめるように、深い口付けが与えられるのだ。
どこもかしこも覆い隠されて、私は慎吾に溺れて夢見ごこちになっていく。

「ふぁ…っ。」

もどかしい指が、私のスポットを掠めた。甘い痺れが全身を走って、私をわななかせる。
握り締めた私自身は、耐え切れず、甘い蜜をほとぼらせていた。

私はしばらくそのままぐったりと伏せていた。
いつにない虚脱感が私の全身に満ちていた。なんだかとても自分が情けない気分だった。

物足りないのだ、何もかも。私を布団に縫い付ける大きな身体の、重さと息苦しさも、赤ん坊みたいに吸い付いてキスをねだる唇も、果ててしまうとぐったり私にもたれかかって、撫でてくれとせがむ頭も、それら一つとして欠けてはならないのだ。

それなのに、物理的な刺激さえ与えれば簡単に感じてイッてしまう薄情な私。
慎吾はこんな私に飽きてしまったのだろうか。いつでも強気な私に愛想を尽かしてしまったのだろうか。
だから連絡一つよこさず、私の前に現れないのか。

冷たい空気に晒した肌が、深々と冷えていく。私は頼りない自分を抱きしめた。
今ならおばあ様の言っていたことが素直に聞ける。私はもう少し素直になっても良い。

「慎吾…早くきて…。」

涙が一粒流れた。


窓の外が明るくなっていく。柱時計が8つ鳴った。
私はゆるゆると手を伸ばして、習慣の様にテレビを付け、すぐに消した。
晴れ着姿が浮いているような女の子に、頭に付きぬけるような高い声で「おめでとうございます!」と叫ばれて嫌になったのだ。私の慎吾がまだ現れないのに、ちっともおめでたい気分にはならない。

結局慎吾を待って、夜明かししてしまった。私は腫れぼったくなったまぶたを押さえた。
顔でも洗ってこよう。慎吾が来ないのに、誰に見せるわけでもないけれども、冷たい水に浸せば少しは気分が晴れる気がした。
怠惰にごろりと寝返りを打って肘をついた時、ガラガラと玄関の引き戸をあける音がした。

「あけましておめっとーございます! ご挨拶が遅なりました! …なんや、リアクションなしかいな。」

私は思わず上半身を持ち上げたままの窮屈な体制で息を飲んだ。あの能天気な声は慎吾だ!

「なんや…、さっぶいなあ、誰もおらへんのかいな。おめっとさん! お節ご馳走にあがりましたで!」

いつもの品のない足音とともに、声がどんどん近づいてくる。
私は焦ってじたばたと身体をひねった。コタツにどっぷり浸かっていたから、焦ると腰が引っかかって思うように動けない。
やがて客間のふすまがからりと開けられた。

「なんや、天音、おるやないの。…って、おわ!」
「慎吾…!」

私は恥も外聞もなく、慎吾の腕の中に飛び込んでいた。この手を離すと、たちまち慎吾が幻に変わって消えてしまいそうに思えた。
首根っこにぎゅっと抱きつかれて、慎吾は僅かに苦しげな声を上げた。だが驚いたのも一瞬なのか、すぐに私は強い腕に抱き返されていた。

「慎吾………おなかすいた。」

だが、私の唇から漏れるのは、やっぱりそんな可愛くない言葉だ。
本当はもっといくらでも、私の心を語る言葉があるのに。
慎吾はそんな私の言葉を聞いて、なんだか嬉しそうに笑った。

「なんやの、もしかして俺が来るの待っとってくれたん? 天音は本当にときどき、信じられんくらい甘えんぼさんやな。」

どれどれ、と呟きながら、お節のふたを開ける。それから変な顔をした。

「まっさらのお節やん…。もしかして元日から何にも食べてないん?」
「だって…慎吾…来ないから…。」
「あほなこと言いないな。そんなほっそい身体で、保たへんで。あ、じゃ、もしかして、この部屋がこんなさぶいんも…。」
「…慎吾が食べてないのに、お節が傷むから…。」
「死んでまうで、マジで!」

慎吾は心底呆れた顔をした。
おつむは多少足りなくても、生命力にかけては誰より旺盛な慎吾だ。私のことは危なっかしくて仕方なく見えるのだという。

「ほんま、だから天音はほっとけないんや。なんやめちゃくちゃ強くてしっかりした顔してて、基本的なところでなんかぽーんと抜けてるんやもんな。」
「慎吾が私のことほっとくのが…悪いんです。昨日帰ってくるって…言っていたじゃありませんか。」
「雪や、雪。飛行機が飛ばななって、慌てて陸路に変えたら、新幹線も運休で、えらい遠回りの路線を選んだら、それもすっかり雪隠詰や。ニュースで散々やってたやろ。」
「テレビ見てない…。携帯はどうしたんです。」
「あ、あれね、寮に置いてきてもうた。」

けろっと言われて、私はすっかり毒気を抜かれた。
そうして冷静になってみると、急に恥ずかしくなった。昨日からシャワー一つ浴びていないこの体で思い切り慎吾に抱きついてしまった。
もじもじしだした私を見て、慎吾は私の気分を理解したのかもしれない。嬉しそうに笑うと、ぎゅっと抱きついてきた。

「慎吾、放してください。ちょっとシャワー浴びてきますから…。」
「ええやん、そのままで。すぐ餅焼いてくるし。俺が全部支度したるから、一緒にお節食べような。」
「でも、その前に…。」
「なんや今年は、天音から思いがけないお年玉もらった気分やわ。」

慎吾は私の額に自分の額を押し付けるようにして笑った。

「こんな取り乱した天音、年に一遍くらいしか見られへん。たまには遅刻もしてみるもんや。」

私は取り乱しているのだろうか。思わず頬に血を上らせると、目の前の男臭い顔が満足げに破顔した。

「今度遅刻したら…もう二度とうちには上げません。」
「はいはい。」

なんだかうまく丸め込まれた気がする。この私が慎吾の手玉に取られるなんて、アリだろうか。
だけど慎吾の広い胸の温かさが嬉しくて、どうにも丸め込まれて満足な私だった。



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