俺の先生




人ごみをすり抜けてホコ天を進むと、誘い込むように2階へ登るエスカレーターがある。
祥先生はさも楽しそうに、そのエスカレーターにぴょんと飛び乗った。栗色の猫っ毛まで、楽しそうにふわりと弾む。

「ふわ、紀伊国屋の匂いがする。この匂いがすると、いつもわくわくしちゃうんだよねえ。」

俺の一段前に乗った祥先生は、振り返るとにっこり笑った。
雑踏と紙とインクと、少しだけカレーの匂い。地下に入ればカレーばかりが強く鼻につくこの匂いが、祥先生の言う紀伊国屋の匂いなのだろう。
俺にはそんなにわくわくする匂いでもないけれども、それでもここに祥先生の笑顔が加われば、とたんに満点の演出だ。

「あ、ここだと直哉君と視線が合うんだ。」

エスカレーター1段分。それにプラスαが俺と先生の身長差らしい。
大好きな本屋に来たことでちょっぴり浮かれ気味の祥先生は、自分の唇の前に指を1本押し当てると、片目をつぶった。

「フランスあたりじゃ、こうやってエスカレーターに乗る時は、高い方に女性が乗って、移動の間中楽チンに熱いキッスを交わすんだって。」

思わず俺がドキリと胸を騒がすようなことを、平気な顔で言う。

「でもここのエスカレーターじゃ、短いから、物足りないよね。ほら着いた。」

つられるように思わず伸ばした俺の腕をうまいことかいくぐって、先生は乗ったときと同様、ぴょんと飛び降りる。
もうそこは紀伊国屋の2階のフロアだ。

「大沢在昌読んだことある?」

祥先生ははぐらかすのがたいそう上手だ。
さっきの自分のセリフなんかもう綺麗に忘れて、嬉しそうに人ごみを掻き分ける。
一体祥先生の、このきわどいセリフの数々は、俺をどう意識して言っているのだろう。
恋人同士なら間違いなく誘いかけるセリフだ。そう思ってくれているのか…それとも、まったく俺なんか、フジヤの前のぺコちゃんにでも話し掛けるようなつもりでいるのか。

でも、俺は今の立場もそうは捨てたもんじゃないと思っている。
祥先生は、生徒会の中でもいつでも真っ先に俺を頼ってくれるし、俺にはむきになるくらい突っかかってくる。
先生の中では俺が一番だ。たとえそれが生徒の中では、という但し書きが着いたとしても。
だから俺はこの手を決して緩めない。


祥先生はお目当ての大沢在昌の新刊にめぐり合うまで、大きく迂回した。

「もうとにかく、本屋さんが好き!」

寄り道を指摘すると、少し恥ずかしそうにそう言う。その手にはすでに本が数冊握り締められている。

「この、紙とインクの匂いが何とも…。できれば本屋さんごと買い占めたいくらい。」
「先生は、古書がお好きなのかと思ってましたよ。」
「古書も好き! だけど、新刊はやっぱり旬の内に読まなくっちゃね。直哉君はなんか買わないの?」

俺は先生の嬉しそうな顔を見てればおなかいっぱい…とはとても言えず、少し口篭もった。
それを先生は違うふうに解釈したらしい。少し肩を竦めると、またすいすいと人波を掻き分ける。
お目当ての新刊の場所は、もうあらかじめわかっているようだった。

「これが欲しいんだ。大沢在昌の新刊、上下巻!」

祥先生が足を止めたのは、ノベルズの新刊コーナーだった。
ところが、すぐにも手を出すかと思った先生は、そこで考え込む態勢だ。
俺は先生の背後から、そっと先生の視線の先を覗き込んだ。
見るからにいかつい本だ。表紙には大きく牙をむき出して威嚇するように吠える犬。帯にも表紙にも、暴力団だの、猟奇殺人だの、抗争だのと物騒な単語が並んでいる。
なんだか祥先生のイメージと合わない。

「………。先生がお探しなのって、これですか…?」
「うん、そうだよ。だけど今悩み中なんだ。」

祥先生は重そうにその上下巻を持ち、背表紙を並べて睨んでいる。

「……なんだか、先生っぽくない本ですね…。」
「そう? ハードボイルド大好き! 大沢さんははずれなしだから絶対面白いはずなんだ!」
「先生は、ロード・オブ・ザ・リングとか、そういう系統の本を読まれるのかと思っていました…。」
「ファンタジーも好きだよ。指輪物語はもう古典だからね、学生のころに読んだ。今はロバート・ジョーダンの時の車輪シリーズかな。ゲームもRPGならするし。」
「……で、何をそんなにお悩みなんです?」
「これ! この分厚さ!」

祥先生は少し不満げに眉を顰めた

「いつも京極夏彦を買うときにも思うんだけど、分厚いんだよね。
持ち歩くのにも大変だし、もう僕の本棚の大沢さんスペースは一杯なんだ。読みたいけど、置く所がないんだよ。
だからって図書館で順番待ちするほど我慢できないし、せめて1冊だったら買うんだけど…。だけど上巻読んだらどうせすぐ次が読みたくなっちゃうし…。」

俺には全然分からない悩みだ。読みたいんなら買えばいいし、邪魔になるならすぐにも捨てればいい。そう言うと、先生は唇を尖らせた。

「読んだらすぐ捨てちゃうなんて、そんな可愛そうなこと出来ない! いつだったか読みかけの文庫をうっかり電車の中に置いて来ちゃったときは、しばらく捨て子をしてきたような気分になったもん!」

愛書家というのはそんなものだろうか。俺には到底理解できない。
しかし、俺はいい事を思いついてしまった。

「じゃあ先生、俺が下巻を買います。先生は上巻を買ってください。読んだら交換しましょう。」

先生はびっくりしたように目をぱちんと見開いて、それからせわしく瞬きした。いろんなことがその頭の中を駆け巡っている様子が手に取るように分かる。

「え、だって、下巻から読むんじゃ直哉くんがつまらないじゃない。それに僕、どうせなら揃えて置いておきたいし。直哉くんって読んだら捨てちゃうんでしょ。」
「多分先生の方が読むの速いでしょうから、俺は先生が読み終わるのを待ちますよ。それに、先生がいつでも読み返せるように、これだけは捨てないで置いておきます。そのくらいの部屋の余裕はありますよ。」

実際、俺の部屋はかなり荷物が少ない。物に執着する方ではないから、飽きればどんどん捨ててしまうからだ。
間違っても祥先生の部屋みたいなジャングルにはなりそうもない。
それに本の片割れを持っていれば…いつでも祥先生に会う口実ができるじゃないか。また上巻を貸してくれとか何とか…。
………考えることが色々姑息だな…俺も…。

祥先生は胸に本を抱きしめて、ぱあっと嬉しそうな顔をした。
その抱えている本がいつのまにか6冊にもなっていることに目を瞑ったとしても、それは可愛らしい笑顔だった。

「いいの? それじゃこれも買う! 下巻…、買ってもらっちゃっていいのかな…?」

今すぐ買えと言わんばかりの上目遣いだ。内心くらくら当てられつつも、俺は余裕のふりをして微笑んだ。

「いいですよ。それじゃレジへ行きましょうか。どこかでお茶でも飲みましょう。」

もうこれ以上この場に祥先生を野放しにしてはおけない。帰りの荷物が膨大になるだけなのは、これまでの経験から分かりきっている。
祥先生は嬉しそうに頷いて、素直にレジへ向かってくれた。俺の思いつきがよっぽど面白かったのか、なんだか上機嫌だ。

「なんだか、子供のころ友達が持っていたペンダントを思い出しちゃった。」

また話が飛ぶ。祥先生の話はときどき脈絡がない。

「ハートのペンダントなんだけど、半分なんだ。真中で割れてて、もう一方は女の子が持っているんだって。二人が会えば、そのハートは一つに結びつくんだってさ。」

祥先生は俺を見上げて、悪戯っぽく鼻の頭に皺を寄せた。

「だけどそのハートって、いっくら合わせたところで、最初から真中に決定的なヒビが入っているんだよね。
教えてあげようかと思ったけど、その友達があんまり自慢そうに言うから止めちゃった。子供のことだし、その二人も長続きしなかったけどね。」

祥先生は、そのペンダントをこの2冊の本になぞらえているのだろうか。
縁起でもないことを言うのはやめてくれ…。


紀伊国屋の裏口から出て、筋向いの落ち着いた佇まいの喫茶店に祥先生と入った。
今日はさすがに瓜生の待ち伏せはない。俺は安心して席に着いた。

「先生、甘いものお好きでしょう。ケーキ食べませんか?」
「うーん、好きだけど、直哉くんは甘いものは嫌いじゃなかったっけ?」
「チーズケーキぐらいならいけます。」

こんなときのために、訓練済みだ。先生の満面の笑顔を手に入れるためなら、砂糖菓子だろうが下剤だろうが、俺は笑って食うのだ。
祥先生は俺の苦手な生クリームたっぷりの、ナポレオンパイを頼み、俺は予定通りかざりっけのないベークドチーズケーキをたのんだ。
飛び散るパイ皮にしばらく悪戦苦闘していた祥先生だが、そのうち思い出したように俺に話し掛け始めた。

「直哉くんは、あんまり読書はしないの? 今日もあれ以外何にも買わなかったし、国見君が文庫を持っているのはよく見かけるけど、直哉くんは持ってるの見たことないなあ。」

いずれはくるだろうと思っていたのだ、この質問が。
俺は腹を決めて、実のところを話し始めた。

「まあ進められれば読まないことはないですが、自分から探してまではあんまり読みませんね。」

祥先生は、信じられないことを聞いたとでも言いたげに、目を見開いた。

「どうして? 成績のいい子は読書家って相場が決まってるもんだよ。住園君だって、この間小難しい本読んでたじゃない。本多勝一だったかな…、大量虐殺のことを書いた、殺す側のなんとか言う本。」

さすが本好き。他人の本の題名までよく見ている。
俺は仕方なく、ため息を着いた。

「子供のころから、道場に通ったりしてましたから、あんまり読書する環境になかったんですよ。本を読む習慣がついてないんです。これが一つ。
あと、子供時代に与えられた本って言うのが…ちょっと…。」

俺は言葉を飲んだ。うっかり腹積もりなしに口に出すと、今でもヤバイその本。

「母親が、泣ける本に凝ってて、『母を訪ねて三千里』はまだしも、『フランダースの犬』だの、『かわいそうなぞう』だの、『ごんぎつね』だの、救いのない本ばかり与えてくれたもんで、本って言うのは気分がめいるもんだという刷り込みが………っ。」

俺は何気なく祥先生を見上げて息を飲んだ。
祥先生はフォークを咥えたまま、滂沱の涙を流していた。
俺だって、この話を掘り下げれば少しは先生の目を潤ますことができるかもしれないと、下心がなかったわけじゃない。
だけどまだ話のほんのとばくちで、何にも本題に入ってないじゃないか。こっちの心の準備も考えてくれ。

「うんうん、『かわいそうなぞう』とか、本当にかわいそうだよね。」

先生はくすんと鼻を鳴らした。

「あれって実話なんだよね。ワンリーだったかな、えさが欲しくて痩せ細った身体で芸をするところなんか、もう…もう。」

よせばいいのに、祥先生は自分の言葉でさらに目を赤くする。

「それに『フランダースの犬』って、あんな悲しいお話を子供に読ませて何を学ばせようとしているのか、僕には全然分からないよ。ネロはとってもいい子なのに、努力して、誠実に働いて、慎ましくすごして、それで何にも報われなくて、最後の最後に報われる前に神に召されちゃうなんて、ものすごく理不尽だよ。周りの大人は何をやってるんだって怒りたくなっちゃうよ。」

……忘れてた。祥先生はこう見えても熱い人だった。
その後も延々祥先生の悲しいお話談義は続き、最後にこう祥先生は締めくくった。

「でもね、それらの悲しいお話が、君の正義感を培って、ふくよかで豊かな精神世界を作り上げているんだよ。だから悲しいからイヤダなんて簡単に目を背けるんじゃなくて、もっと感謝してたくさんの本を読んでいくべきなんだよ。よく言うでしょ。良書にめぐり合うことは良い友を持つのと同じだって。」
「………はあ。」

急に教師じみたことを言う。この切り替えの早さが祥先生のらしいところではあるが。

「だからね、君はもっと本を読まなくちゃ。…そうだ、僕の読んだ後でよければ貸してあげる。もう本当に、本なら売るほどあるから、今度僕のうちに取りに来て。」

祥先生は、さもいい事を思いついたと言わんばかりににっこり笑った。
俺は初めて母親のセンチメンタルに感謝したくなった。祥先生の自宅へのフリーパスを手に入れられるとは!

「あ、僕の趣味じゃ君には向かないかもしれないけど…。」
「そんなことないです! 向くに決まってます!」

祥先生が手にした本が、俺の趣味に合わないわけがないのだ。

「絶対伺います…!」

力強い俺の返答に、祥先生はさらに大きく笑った。


喫茶店を出ると、もうすっかり日が落ちていた。祥先生は寒そうに襟を掻き合わせた。

「ふー、そういえば国見君と咲良君はどうしたかな…。」
「あっちは団体ですから、楽しくやってますよ。」

探しに行こう、なんて言われないうちに、慌てて言う。さりげなく肘あたりを掴んで誘導すると、祥先生は何にも疑わずについてきた。
このまま帰るのならともかく、もうあの連中と合流したくはない。

「楽しかった。ケーキも美味しかったね。」

涙を飲んで、ケーキを克服した甲斐があった…!
俺は心の中で自分を誉め、祥先生に向かって頷いた。

「もう遅いね。帰ろうか。あんまり遅くまで生徒を引っ張りまわしたとあっちゃ、問題だもんね。」

仕方なく俺は頷いた。祥先生の職域まで侵す無茶を俺はしたくないのだ。
まだほんの宵の口にもならない時間だけれども、教師にしてみたら十分な遅さだろう。

祥先生はなんとなく押し黙ってしまって、俺の前を歩いていく。
人ごみで雑多なスクランブル交差点を渡り、小便臭い小ガードを潜った。
俺の身長では心持ち身を屈めないとおっかなくて通れやしない低いトンネルも、祥先生は何事もないようにすいすいと進んでいく。
突き当りを道なりに右に折れると、畳1条ほどの小さな店舗が並ぶ。その一角で、祥先生は足を止めた。

「………かわいい…っ!」

入れ替わりの激しい店舗の中でも、ずいぶん昔から腰を据えているペットショップだった。
狭苦しいガラスケースに、子犬と子猫が収まっている。もう店じまいなのか、珍しく見物人がない。
この店の前には、いつでも女子供が群れて、可愛いだのなんだのとかまびすしいのだ。

「ほら、見て、直哉くん。うわあ、かわいい。ちっちゃい。ふわふわ〜。」

祥先生のお気に入りは、下の段に入れられてどかどかと走り回っているパピヨンの子犬らしい。
祥先生はガラスケースに鼻の頭を擦り付けるようにして覗き込んでいる。

「いいなあ〜。かわいいな〜、ほしいな〜。」
「そんなにお気に入りなら、買われたらいかがです?」

俺は値札を探しながら行った。
こういう店はカードは効くのだろうか? いきなりこの子犬をプレゼントしたら、先生は喜んでくれるだろうか? 
まさか生き物をもらって拒否するわけにも行かないだろう。

「うーん、だけどねえ、僕一人暮らしだから、子犬はねえ…。」

店のオヤジが近づいてきた。無愛想で有名なオヤジだ。
てっきり追い返すつもりなのかと思ったオヤジは、何を思ったのか、いきなりパピヨンの引き戸を開けて、子犬を祥先生の腕に押し込んだ。

「えっ、これ…?」
「どうだ? 可愛いだろう?」

オヤジは店の片づけをしながら祥先生に話し掛ける。あんまりもの欲しそうな様子の祥先生に、仏心が湧いたのかもしれない。
祥先生は呆然としていたが、やがて腕の中でわきわきと動き回る子犬に我に返り、きゅっと抱きしめた。

「あったかい〜、軽い〜。ほら、直哉くん、まふまふだよ〜。ほらほら、肉球が、肉球が…。う〜〜〜〜。」

祥先生は顔をくしゃくしゃにして喜んでいる。可愛いを連発する祥先生のほうがよっぽど可愛らしい。

「もうこのまんま連れて帰りたい〜。」
「そうすればいいじゃありませんか。」

ぼうっと先生に見とれていた俺は、思わずそう言っていた。もう手がカードを探している。
先生がこんなに幸せそうな顔をするアイテムなら、子犬だろうが子猫だろうが小象だろうが、俺は買っちゃうのだ。

「だって、お留守番させとくの、可愛そうだよ〜。十分世話も出来ないし、きっと散歩とかも出来ないし、そうしたらこの子が可哀想だし…。」
「………子猫なら平気なんじゃありませんか? 最初の数週間だけ何とか世話ができれば…。」
「ほんというとねえ、こんなに可愛い子がうちにいたら、僕が出勤拒否になっちゃいそうなの。だから、飼えないんだってば。」

それは困る。祥先生が子犬にかまけて学校に来ないのであれば、俺も通学の意味を失ってしまう。
俺は慌ててカードを引っ込めた。

「う〜〜、でも本当にお名残惜しい…。もう、手が、手が、放したくないって言ってる〜。」

祥先生は困ったように笑いながら腕の中の子犬に頬ずりをした。
祥先生のふわふわした猫っ毛と子犬のふわふわの毛が絡み合うみたいに密着する。祥先生の顔は蕩けんばかりだ。

「ほらあ、可愛いよ。直哉くんも抱っこしてみる?」
「………いいんですか。」
「いいよ、ほら。」

先生が子犬を抱えたまま擦り寄ってきた。
俺は迷わず子犬ごと先生をぎゅっと抱きかかえた。
俺の胸にぴったり納まりきる祥先生の細い髪が、俺の顎の下をくすぐる。

「あー…、本当だ、可愛い…。」
「ちょっと、直哉くん、抱っこするところが違うって…。」
「いいんです、俺はこっちの方が可愛いから…。」

祥先生が、腕の中の子犬を意識して暴れられないのをいい事に、俺は柔らかい先生の感触を心行くまで味わう。
こんな機会でもなければ、こうやって公然と先生を抱きしめたり出来やしない。

嫌がるかと思った祥先生は、意外にもおとなしく抱かれていてくれる。
なんとなく、赤ん坊をあやすような顔つきで、微笑まれているのがちょっとばかり気にはなるが。

こうして俺たちのささやかなデートは、ペットショップのオヤジの「なにやってんだ、兄ちゃんら」という無粋な声に遮られるまでの甘い抱擁で幕を閉じた。



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