ピアニスト




どうせ追ってきてくれるはずはないと思っていた。拓人は俺よりピアノの方が大事なのだ。
腹立ち紛れに思い切り扉を閉めると、背後で鋭い悲鳴が聞こえた。
慌てて振り返った俺の前で、拓人がうずくまっていた。
美しい白い指を朱に染めて。


拓人は、あちこちのコンクールを総なめにしている、将来を嘱望されたピアニストだった。
批評家の話によると、テクニックはもとより、卓抜した感情表現が秀逸な演奏家なのだそうだ。
特に物悲しいセレナーデなどを奏でさせたら天下一品で、指先でピアノをむせび泣かせる事の出来る、数少ない若手なのだそうだ。
俺にはそんな難しい話は分からない。でも、拓人のピアノは大好きだ。
柔らかいタッチが俺を捕らえて放さない。

音楽なんかまるでわからない俺にも、拓人のつむぎ出す切ない音は分かった。
拓人のピアノはこんな俺の胸にもけだるく響いて、拓人の口に出さない思いを全部伝えてくれるような気がした。拓人のピアノは拓人の心そのものなのだ。

だから拓人はいつも、手には細心の注意を払っていた。
絶対に傷をつけてはならなかった。
扉に指を挟んで骨を折ってしまうなど、あってはならない事だったのだ。



「拓人!」

俺は拓人の顔を認めると、慌てて駆け寄った。
病院に行くからと遅刻をしてきた拓人の手からは、2ヶ月ほど肌を隠していた包帯がすっかりなくなっていた。

「拓人、もうすっかりいいの?」
「ああ、空。」

拓人は白くそそけだった顔を無理矢理ほころばすと、かばんを机の上に投げ出した。
いつにない乱暴な仕草に、俺は足を竦ませる。

「完治だって。もう来なくてもいいってさ。」
「そ…う、それで…。」

拓人の白い、中指と薬指に、まだうす赤い傷痕が這っている。

「そんな死にそうな顔するな。動くし…日常生活にはなんの支障もないってさ。」
「そう、良かった…。それじゃピアノの方もすぐ元どおりになるよな。」
「医者は日常生活にはって言ったんだぜ。」

ダン!と机が鳴った。拓人が拳を振り下ろしたのだ。
びくっと肩を竦ませる俺を静かな目で見て、拓人はもう一度拳を振り下ろした。

「喜べよ。これからは一緒にバスケもバレーボールも出来るぜ。もう馬鹿みたいに指先を気にして、体育の授業のたびにずる休みの口実を考えなくていいんだ。」

ダン! ダン! 振り下ろす拳の音はどんどん高くなっていく。
俺は息を飲んだ。拓人の拳は白くなるほど握り締められているのに、薬指と小指が僅かに浮いている。
指が十分に動かないんだ! ピアニストの拓人には、それの意味する物は破滅だろう。

「だからこんな事もできる。中途半端に動かない手なんかいくらぶっ壊れてもいいんだ!」
「や…やめろよ!」

俺は身体ごとぶら下がって拓人の腕を止めた。

「ごめん、俺が悪いんだ。確かめもしないで乱暴に扉を閉めたから…。」
「日常生活に支障はないだって? 笑っちゃうぜ。」

拓人は本当に笑ってみせた。

「俺の日常生活がどんなもんか知らないんだ、あの藪医者。
毎日最低5時間はピアノの練習をして、土日ともなれば12時間はかじりついて。
それでももし、1時間でも練習時間が足りないと、不安で不安で胸が苦しくなる。
明日はこの指が思うように走らないんじゃないか、もうライバルに追い越されちゃったんじゃないか。
そうやって俺はこの15年を費やしてきたんだ。他の生き方なんか俺は知らないんだぜ!」
「ごめん、俺が悪いんだ! 俺が…責任取るから!」

拓人の白い拳が擦り剥けている。俺は悲鳴を上げるように言った。

「空が…?」

拓人はゆっくり顔を上げた。そのまま蔑むみたいに俺を見る。

「空になにが出来るって言うんだ。ピアノのことなんかなんにも知らないおまえに…。」
「そんなのわかんない…けど! きっと拓人の気の済むようにするから…、なんでも言う事聞くから…っ!」

なおも振り下ろされようと、力の漲っていた腕から不意にそれが抜けた。
拓人が俺を底光りする目で見ている。
俺はなにか寒気を感じ、思わず抱きついていた腕を放した。

「……何でも言う事を聞くのか…?」
「う、うん。」

俺はおずおずと肯いた。
いつも優しい拓人とは思えない、厳しい、だけどじりじり焼け付くみたいに熱い視線が、俺の身体中を這っている。

「それじゃ、とりあえず今日、…俺のうちへ来いよ。」

喉に引っかかる声が押し出された。
俺はなすすべもなく肯いていた。



都会には珍しい広い前庭を突っ切って、拓人は玄関を開け放した。
吹き抜けのロビーは窓が高すぎて、いつも薄暗い感じがする。
拓人は押し黙ったまま階段を上った。

グランドピアノを中央に据えた拓人の部屋へ、俺は仕方なくついていった。
何度か来た事のあるこの部屋は、いつでも息苦しい感じがする。
完全防音のために窓さえ塗りつぶした部屋を拓人に与えた両親は、拓人にピアノの以外のなにも望まなかったのだろうか。

「あ…の、ご両親は…。」
「演奏旅行。一ヶ月は帰ってこない。家政婦さんも帰す。」

学校を出て、初めて口を開いた拓人は、また光る目をした。
そして本当に、さっさと受話器を上げて、家政婦さんを帰らせてしまった。

「俺が許すから、シャワーを浴びておいで。」
「えっ?」

威圧的な口調に、俺は思わず持っていた鞄で身を庇うように手を強張らせた。
拓人はそんな俺を楽しそうに見ている。

「どうしたの? 俺の言う事を何でも聞いてくれるんだろう? 確かにそう言ったよな。」
「い…言ったけど…。」

怖い。俺はそう思った。
付き合い始めて数ヶ月、ピアニストなんて別世界の人の癖に、拓人とはいつも気が合った。
恋人というよりは親友みたいで、拓人は決して無理強いしなかった。
毎日ただじゃれるみたいにしていた拓人が別人に見える。拓人は薄赤い傷を残した指をすっと上げた。

「浴びてこないの? まあいいや、空はどこもかしこも可愛くて奇麗だから許してあげる。こっちへおいで。」

指が頬を這って髪の中に差し込まれる。
俺は思わず拓人の胸を突いていた。

「やだっ、俺…帰る!」
「帰っちゃうんだ…、ふうん。」

淋しげな声が、俺の足を縫いとめる。
さっきまでの酷薄な表情をうそみたいに引っ込めた拓人は、今まで見せた事のない悲しい目をしていた。

俺は胸が潰れそうになった。
拓人は今日、自分の分身みたいにしてきたピアノと別れを告げたのだ。
拓人が高名なピアニストになる事だけを念じてこんな部屋を与えた拓人の両親は、ピアノに見捨てられた拓人にどんな感想を抱くのだろう。
この上俺までもが拓人を裏切ってしまったら…拓人はどうなってしまうか分からない。

「ばいばい。」

静かな呟きが断末魔に聞こえた。俺は思わず跪いていた。

「帰らない…。好きにして、お願い…。」

俺は拓人の指に口付けをした。



「ん…っ、ふっ、んん…。」

拓人の長い指が俺の後頭部をしっかり押さえて放さない。
ついばむような口付けしか知らなかった俺は、俺の全てを吸い尽くそうとするような深いキスに翻弄されていた。

「んあ…っ、拓…、苦…、ん…。」

呼吸が全部吸い取られてしまう。
あまりの苦しさに涙を滲ませると、まぶたまでぞろりと嘗め上げられた。

「ひゃ…。」
「空…可愛い…。」

押し上げられた喉元がちりっと熱くなる。
思わずあとずさると、膝裏に柔らかい物が当たった。
見なくてもなんだか分かっている。真っ白なシーツを敷き詰めたベッドだ。
不意にキスが剥がされた。見上げると拓人は、奇麗な顔をして笑った。

「自分で脱いで。脱いだらベッドに上がって。」

逆らう事が許されるとは思えない。俺はのろのろと腕を上げた。
しゃくにさわるくらい上がってしまった息のせいばかりではない。指が震えて小さなボタンがなかなかつかめない。
俺は唇を噛み締めた。怖くて情けなくて、涙がポタポタ落ちる。

「泣いたって、許してあげないよ。」

拓人は俺の頭を優しく撫でた。

「ゆっくりでいいんだよ。全部脱いでごらん。そうしたらベッドに上がって、両膝を抱えて、俺に空の恥ずかしいところ、全部見せてね。」

身体まで小さく震え出した。
優しかった拓人をこんな風にしてしまったのは、きっと俺なのだ。
俺は救いを求めるように拓人を見上げる。そこには冷たく整った笑顔があるだけだ。

震える手で何とかボタンを全部外すと、拓人の手が肩の上を滑ってシャツを払い落とした。
俺は長い時間を掛けて靴下を取り、ズボンを取り、最後に堪えきれなくなった鳴咽を漏らしながら下着を取った。

拓人が目を眇めて俺を見ている。
一糸纏わない俺は、紫色になってしまった足の親指の爪を見下ろして、所在無く泣いていた。

「思った通り、とっても奇麗だよ。さあ、ベッドに上がって足を開いて、もっと良く見せて。」

響きだけは優しい命令に急かされて、俺は震える腕でベッドの上を這った。
やっと数歩進んで、振り返ると拓人がいなかった。

俺は放心して座り込んだ。
今の今まで恐怖の対象だった拓人がいなくてほっとするはずの俺は、素っ裸で取り残された心細さに震えているのだった。
見回すと、いつのまにか脱ぎ捨てた俺の衣類が一つもない。
俺をゆるゆると縛り上げる拓人の手が、確実に俺を捕らえて放さないのだ。

「なんだ、まだ出来ないの? 空の可愛いカッコウが待っていると思って楽しみにしていたのに。」

不意に姿を現した拓人は、さも残念そうにそんな事を言った。
何かを持ってきたらしい彼は、無造作にそれらを投げ出すと、乱暴にベッドに座った。

「簡単だよ。体育座りをして足を開いて、そのまま寝転がればいいんだ。赤ちゃんがおむつを取り替えるみたいに。それで空の全てがようく見えるようになるだろ。」
「や…っ、無理…っ。」

優しい声と一緒にほっぺたをくすぐられても、俺にはそんな恥ずかしい事は出来ない。
再び涙を溢れさすと、拓人は嬉しそうに笑った。

「しょうがないなあ、俺の言う事を聞いてくれない子は、調律しなくっちゃ。」

白い手が俺の胸に伸びてきた。胸の先端が千切られるみたいに痛くなる。
俺の乳首に食いついているのは、赤い洗濯挟みだ。

「いっ、痛…っ、やだあ…っ!」
「とっちゃだめ。空が言う事聞かないからだよ。」

拓人は簡単に俺の腕を遮って、容赦なく反対側にも洗濯挟みをとめてしまう。
引き千切られそうな痛みは僅かな動きでも増幅して、俺の恐怖を深くする。

「やだ、拓人、取ってよ…っ!」
「じゃあ言う事を聞いて。」

白い腕が、俺の手を俺の膝へと導く。
いわれるがままに膝を抱えた俺は次の瞬間突き飛ばされて転がされていた。
恐怖と恥ずかしさに萎縮する俺を逃さないように、拓人の両手が俺の膝を割っていく。

「よく見えるよ。いい子だね。じゃあご褒美。」

伸ばされた白い手が、無造作に洗濯挟みを引っ張る。
限界まで引き伸ばされる小さな突起の痛みに、俺は悲鳴を上げた。

「手は放しちゃ駄目。もう一個、残ってるよ。」

俺の悲鳴を無視した拓人は、残った方も毟り取ると、そのまま俺の上にのしかかってきた。

「ふふ、かわいそうに、赤くなっちゃってる。」

ひりひり痛む乳首がぞろりと嘗め上げられる。
その途端、俺はさっきとは違う短い悲鳴を上げていた。

拓人の白い手が俺の肌の上を這っている。
いつも鍵盤の上を走る美しい指が、俺の身体をつま弾いている。

「可愛い空…、俺の大事な音階を名前に持つくせに、君はちっとも俺の思う侭にならなくて、ずいぶん苛々したんだよ。」

耳元で囁かれると、ぞくりと感じた事もない感覚が俺の背中を這い上がる。
太股の裏を撫でる拓人の指先が、俺をびくびくと震えさせた。

「あ…っ。」
「空の声は可愛いね。俺は大好きな君の声を、いつかこんな風に耳元で聞きたいとおもっていたんだ。」
「やめ…、あぁ…っ。」
「もっと膝を胸に引き付けて。一番いい声で鳴いてくれなくちゃ。」

さっきまで恐怖に縮こまっていたはずの俺の分身が、拓人の指先になで上げられて熱を帯びてくる。
拓人は俺の両膝を更にこじ開けると、いきなりそこに顔を伏せた。
暖かく湿った洞が、俺を包み込んで締め上げる。俺は何度目かの悲鳴を上げた。

「ひゃあぁ…っ。」
「どうしたの、空。嫌なら俺の顎を蹴り飛ばしてもいいんだよ。君の鍛えた足なら、俺の顎なんか簡単に蹴り砕けるだろう?」
「できないよ、そんな事…っ。」

俺は必死になって自分の膝を抱え上げていた。
今、俺を支配しているのは恐怖だけではない。
俺はいつも、ピアノの前に座る拓人の凛とした背中を眺めながら、激しい嫉妬を感じていたのだ。
拓人の視線を一身に受けて、あの奇麗な指先に促されて、美しく切ない音楽を奏でるピアノに向かって。

今、俺はそのピアノに成り代わっている。
拓人の満足そうな顔が見えるからそれが分かる。
だから今俺を支配しているのは、大きな喜びと、一握りの恐怖なのだ。

拓人は手探りで何かを取り上げた。さっき持ち込んだ瓶のようだ。
拓人はその瓶のノズルごと蓋を捻って開けると、直接瓶を傾けた。
とろりとした液体が、俺の足を伝って流れていく。

「やっ、…なに?」
「お袋さんのクレンジングオイル。これならすぐ落ちるし、空になるべく辛い思いさせたくないから。」

たっぷり振りまかれたオイルが、臍の窪みに小さな池を造っている。
拓人はそこに指を浸して滑らせた。滑らかなオイルが塗り込められて、拓人の指をもっと走らせる。
次第に俺の恥ずかしいところばかりを弄る指が、俺の息を荒くさせていく。

「ひ。」

俺は思わず息を飲み込み、顔を背ける。
ヌチュッと嫌らしい音を立てながら、拓人の奇麗な指が俺の中に潜り込んでいた。

「痛くないだろう?」

オイルの助けを借りた滑らかな指が、俺の中に深く差し込まれ、引き出されていく。
俺はまた泣き出しそうになりながら、必死に肯いていた。

「大丈夫、ゆっくり慣らしてあげる。基礎練習を積むのは慣れてるんだ、俺。」

俺のそこが痺れて馬鹿になるくらいゆっくりと、拓人の指はそこをほぐす。
やがてその指が2本になり、3本になり、中を広げるような動きが加わってくると、ますますその音は高くなった。
オイルが粘るだけの音が、こんなに大きく嫌らしく聞こえる物だろうか。

「あ…っ、はあ…っ、拓人、苦しいよう…っ。」

俺は涙で潤んだ目で拓人を見上げた。
いたぶるように解され、音を聞かされて、俺の頬は限界まで赤くなっているだろう。
痛みは少なかったけど、もどかしいような刺激が、俺の下半身まで熱く滾らせていた。

「とりあえず一回イっとこうか。空、前立腺って知ってる?」

笑いを含んだような声が降ってくる。
同時に、俺を穿つ指が一層深くなった。俺は脅えて、夢中で首を振る。

「この間授業で習ったばっかりだよ。悪い子だね。…この辺かな。」

探りまわるような感覚に、俺は息を詰めてしまう。
もうこの頃には、緊張してよすがのない腕をぎゅっと引き寄せると、拓人の目の前にますます大きく体を開いてしまって、彼を喜ばせるだけなのが分かっていたけど、どうしようもなかった。

「あっ、やっ、あひいぃっ。」

拓人の指先がこりりとした何かを引っかいた途端、全身に震えが走った。
いまだ抱え上げたままの爪先が、ひん曲がって空を蹴る。
俺は自分自身が放った白い粘液を腹の上に受けていた。

「………いっぱいで出たね。いやらしいんだ、空ってば。」
「も…、もうやだあ…。」

思わず唇を震わせて泣き言を言ったが、拓人がこんな中途半端なところで許してくれるはずがない事を、俺は良く知っている。
拓人は執着心の強い奴なんだ。
ピアノに傾ける情熱と同じ思いを俺にぶつけるなら、決して容赦はしてくれない。

「可愛い空。いつも思ってた。君を上手に奏でられるのは俺一人だって。」

オイルと精でぬるつく俺の腹の上に、シャツを着たままの拓人がゆっくりと伏せてくる。
小さな音がして、拓人のズボンの前だけがはだけられるのを、俺は滲む視界の隅に見た。

「だから俺のために鳴いて。綺麗な音楽を奏でて。
嘆きのピアニストって言われた俺のために、むせび泣いて見せて。」
「ひ……あ…あ…っ。」

指とは比べ物にならない質量と熱とが、俺を切り裂いていく。
あまりの痛みに、背中に棒を突きこまれたように身体が強張る。
少しでも拓人の痛みから逃れようとしたのか、大きく反らした首筋から顎の先まで、拓人の舌がねっとりと舐め上げていく。

「うあ…っ、あ…、あぐぅ…っ。」

メリメリと音がする。
弾みをつけて突き上げる拓人が少しずつ俺にめり込むたび、俺は声と涙とを溢れさせていた。

まだ律儀に膝を抱えていた俺の手に、拓人の手がそっと沿わされた。
拓人は自分の足に血が出るまで爪を立てていた俺の手をほぐすと、自分の背中にそれを這わせた。

「可愛いよ、空。」

耳元で囁かれる声が優しくて、俺は赤ん坊みたいに拓人にかじりついてしまう。

「最高の音だ。どんなに練習を尽くしても、こんなに切ない音は今まで表現できなかったよ。」

俺の中に押し込まれていた熱が僅かに引かれ、さらに奥まで叩き込まれる。

「ひぃぃ……っ。」

グチュグチュと粘る音がする。
僅かに鉄臭い匂いもして、俺の目の前が暗くなっていく。

「もっと声を上げて。」

拓人は頬を上気させて微笑んだ。
朧に見えるその顔があんまり綺麗で嬉しそうで、俺は遠くなりかける意識の中で、俺が本当に手に入れたかったものを知る。

俺はいつでも拓人を独り占めしたかったのだ。
ピアニストの拓人には、人の恋人なんて物足りないだけだったんだ。

「もっと歌って。もっと泣いて。俺を喜ばせて!」
「あ…あ…、ああ…っ。」

突き上げられる激痛に僅かに俺の喜びが混じっていく。拓人が誇らしげな顔をした。
俺の中の拓人が大きくはじけるのと同時に、俺は意識を手放していた。



「………いえ、知りません。」

遠くから聞こえる声に、俺は呼び戻されて目を開けた。
叫びつづけた喉はひりひりとし、全身がけだるくて動けない。
俺は足に違和感を感じて見下ろした。さびた鎖が巻き付いている。
俺はベッドに繋がれているのだった。

「ええ、空君とは学校で別れたきり…、ええ、どこに行くとも聞いていません。」

拓人が電話をしているのだった。
俺はやっと身を起こして、その背中をぼんやり見た。

やがて電話を切った拓人は、俺が目を覚ましたのを知っているかのようになんでもない顔で近づいてきた。

「空君のご両親。空君が帰らないって心配してた。」

綺麗な笑顔で俺の頭を撫でる。俺はぼんやりと頷いた。

俺はもう、空ではないのだ。拓人の可愛いピアノになったのだ。
だから、拓人の好きなままに奏でられ、歌っていればいいのだ。滑り止めの鎖を巻きつけられてつながれても、何も言えないピアノだ。

「この部屋も、鍵をつけなくちゃ。俺だけが開けられる鍵を。」
「………必要ないよ。ピアノは一人で勝手に動かないもん。」

俺はかすれる声で囁いた。
拓人の白い指が目の前に差し出される。俺はその不自由に曲がった指にもう一度キスを落とした。

拓人が喜んでくれるのなら、俺はピアノでいい。
その代わり、俺に拓人を独り占めさせて。もう2度と離さないで

「この指…傷つけちゃってごめん。」
「何度も謝ってもらったよ。もういいんだ。」

拓人は俺を抱きすくめて白い指で俺の背中を撫でた。

「それに、二つとないピアノが俺のものになったから。」

世界一のピアニストの指が俺の肌を走る。
俺は歓喜に震えながら、小さく声を上げた。





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