祥先生と旅行 2




熱海秘宝館を出ていったん熱海港へ戻り、そこからさらにバスで移動。お宮の松のすぐ側に今夜の宿がある。

熱海サンビーチという、古いんだか新しいんだか分からない名称の浜辺に、その巨大な松は立っている。
側には、貫一がお宮を蹴っている、有名なブロンズ像もある。
祥先生はいとも単純に、「これがあの有名な金色夜叉の…」と言葉を詰まらせているが、よくよく見ると、その松は2代目だという。なんだかありがたみも薄れる。
大体俺は、女を足蹴に、しかも下駄履きでできる男など、考えられない。自分が好きな相手なら、抱え込んで慈しんで対するものだと思う。
女が物に釣られて自分を振ったのなら、所詮それはそれまでの価値しかない自分が悪いのだ。
祥先生にそういうと、先生は屈託なくけらけら笑った。

「直哉くんは、もてるからそんなこと言えるんだよ。普通男の子は、女の子にもてたくて必死だよ〜。そりゃもう、いじましいくらいなんだから。」

俺が抱え込んで慈しみたいのが先生だと、もっともっと噛み砕いて言わないと分からないんだろうか。


宿は純日本風の旅館だった。熱海は観光客の人気が下がって久しいとは聞いているが、さもありなんという風情の宿だ。
古めかしい木造で、増築を重ねたようなセンスない佇まいは、当節の女子供には到底受け入れられないだろう。だが、祥先生はご機嫌だ。

「鄙びたいい雰囲気の宿だね〜。窓から海も見えるし、夏場なら、花火なんかも見れるんじゃないかな〜。」

静々とついてきた仲居さんが、お茶を煎れてくれる。窓辺に張り付いていた先生は、慌てて居住まいを正した。

「当宿には、温泉が5つございます。10時以降でしたら、露天を貸しきりにすることも可能です。いかがいたしますか?」

露天の貸切! 俺はひそかにこぶしを握る。心のうちで「実行委員、でかした!」と称え、それからおもむろに予約を頼んだ。もちろん先生に主導権は与えない。
もともと何の警戒心も抱いていない先生のことだ。俺がなにやら企んでいることなど気付いていないに違いない。俺の向かいに座って、にこにこと俺と仲居さんとのやり取りを聞いているだけだ。

「直哉くん、お腹すかない?」

仲居さんが行ってしまうと、祥先生は荷物の軽い方を引き寄せてごそごそやりだした。
真っ先に取り出したのはイカ燻。幅広の輪ゴムを伸したみたいなあれだ。他にも、みかんやらチョコボールやらポテチやら、次から次へと出てくる。
俺は半ば呆れてその行動を見守った。

「先生…、まさかその袋には全部お菓子が入っているんじゃないでしょうね。」
「まさか。ちゃんとジュースも入ってるよ。」

やっぱりそっちの袋はおやつ専門らしい。俺が今度は完璧に呆れてため息をつくと、先生は不満そうに頬を膨らました。

「あ、馬鹿にしてるな! 列車の旅には、イカ燻が必需品なんだぞ。裂きイカじゃダメなんだから!」

どういう根拠だそれは…。呆れる俺を尻目に、先生はイカ燻を水戸黄門の印籠のように掲げてふんぞり返っている。俺の無反応にもしょげることなく、その袋を開けた。
さっそく一つ口に放り込み、もぐもぐやりながら俺の方にも差し出す。俺はため息を一つついて、ありがたくお相伴に預かることにした。
ああは言ったものの、俺だって別にイカ燻が嫌いなわけじゃない。

「イカ燻は美味しいんだけどさあ、イカ臭〜くなっちゃうのが難点だよね〜。」

いきなりの先生の発言に、俺は口の中のものを噴出しそうになった。
その言葉がどんな意味を持つか知っていて、先生はそんなことを言うのだろうか。

「先生…、イカ臭いってのは…ちょっと…。」
「なんで? イカ嫌い?」
「いや、好きとか嫌いとかじゃなくて…。」

こんな旅館にイカ臭い男二人。ちょっと見たくない風景だ。
どうせなら、他のことで先生をイカ臭くさせたい。

「そのうち俺が…先生をイカ臭くしてあげますから。」
「ん? 直哉くんもイカ燻持ってるの?」

そっと言ってみたが、やっぱり返事は思ったとおり的外れだった。


大体先生は、いい年をしてそっちの方の知識にかなり欠ける。

俺の場合はどうだったろう。特に誰に教わったというような記憶はない。
総じて、ガキの頃からつるんでいた雪紀がわずかばかり俺より早熟で、彼から順順に知識が回ってきたような覚えがある。
最初はご多分に漏れずヌード写真。グラビアの女の子の、胸の先の星だけでドキドキした。
だんだんそれがエスカレートして、ついに生の女の子の裸を目の前にしても、たいしてドキドキしなくなるまでそんなに時間はかからなかったように思う。
環境が男の子を男にさせるのだ。祥先生はどうだったのだろう。

「先生、…先生の子供の頃って、遊び相手は…。」
「僕はさあ、年のわりにちっちゃかったし弱かったから、あんまりみんなと遊びまわった記憶はないなあ。たいてい瓜生ががっちりついてて、後は緑ちゃんと葵ちゃんかな。学校へ行けばそれなりにお友達もたくさんいたんだけどね。」

そこでいきなり先生は唇を尖らせる。

「思い出した。僕、学生時代、あだ名が姫だったんだよ。いくらちっちゃくて細いからって、それはないよね〜。」

それで一気に得心した。
先生は子供の頃からみんなのアイドルだったのだ。アイドルを前にして猥談にふける奴はいないだろう。

「なんかねえ、修学旅行とか行っても、姫のご入浴〜とか言って、誰も一緒にお風呂に入ってくれないの。和室にみんなで布団敷いて寝るときにも、僕は必ず端っこで、しかもみんなの布団と間があいてたりして。なんかのけ者にされてるみたいで淋しかったけど、姫のおんためです!なんて言われちゃうと、あんまり強くも言えないし。」

それはきっと瓜生の差し金に違いない。
中学生頃の男子の悪ふざけは、洒落にならないこともあるのだ。賢明な予防策だろう。
だがそれが今の祥先生を作り上げたとすれば、半ばまでは感謝してもいいだろう。半ばまでは。

それにしても、わが生徒会室にも姫が約一名いるが、あの姫の傲慢さに比べて、この姫の可憐さはどうしたことだろう。
俺は思わず、守り役の二人──慎吾と瓜生──を思い浮かべた。下僕の差が、姫の素養の差だろうか。
そう思いかけて俺は考えを改めた。天音は姫とは呼ばれていても、内容は女王様か。

「だからね、僕とっても楽しみなんだ、お風呂。直哉くん、もちろん一緒に入ってくれるんだよね。背中の流しっことか、しようね。」

入らいでか。俺は力強く肯いた。
一杯に泡立てた柔らかいスポンジで、先生のしなやかな背中を撫でよう。先生は立ち込める蒸気にうっとりと頬を染めて、俺のされるままになるだろう。
華奢な背中をうっかり傷つけたりしないように、俺は細心の注意を込めて愛撫する。少しだけ悪戯心を起こしても、先生は怒らないかな。
おっと、手が滑った。わざとらしくそう言って、先生の肌に、直に手を這わす。先生は細いから、ほんの少し手をずらすだけで、簡単に胸まで届くだろう。
そのまま指を蠢かしたら、先生は甘いため息を吐くかな…。

………まるでおやじだな、この想像は…。

先生は俺の下心なんて気付きもせず、楽しそうに言葉を繋げる。

「楽しみだなあ。あ、でも、直哉くん大きいから、僕の方が断然不利だなあ。まあいいか、大きい背中は瓜生で慣れてるし。」

楽しい夢想に耽る俺を、崖下に突き落とすような一言を、祥先生は実にさらりと口にした。
瓜生の大きい背中?
つい今し方、風呂に友達と入った事ないと言っていたばかりじゃないか?

「先生…、瓜生さんとは…その、一緒に風呂に入ったりしたんですか? お友達とは一緒に風呂に入った事なかったんじゃないんですか?」

先生はみりみりとみかんを剥いていた手を止めてびっくりした顔をした。

「どうしたの、直哉くん、泣きそうだよ?
だってほら、瓜生とは幼稚園の時からの付き合いだし、ほとんど兄弟だよ。」

祥先生は、丁寧にみかんの筋を取ると、一房俺の口にあやすように押し込んだ。指先が唇を掠めていって、そっちの方がよほど甘く感じられた。
俺はみかんをあむあむと噛みながら、こんな事でごまかされるもんかと思っていた。
きっと瓜生は、先生に対して兄弟みたいな感覚なんて抱いていないに違いないのだ。

「うん、そう言えば、高校の時、なんだかものすごく積極的に一緒にお風呂に入ろうって誘ってくれた子たちがいたなあ。」

視線を宙にさまよわせて、先生は思い出したように言う。俺はその言葉を聞きとがめていた。

「子たち?」
「うん、ラグビー部だったかなあ、体の大きい子たちばかり三人で、なんだか妙に焦ってて。」

そのシチュエーションはまずいんじゃないのか? 俺は思わず身を乗り出した。

「そんな風に誘われるのって珍しかったから、僕はいいよって言ったけど、瓜生が絶対駄目だって言うんだ。」

当たり前だ。俺だってそう言う。

「んで、隣のクラスの瓜生がわざわざ僕たちの入浴時間に割り込んできて、ものすごく神妙な雰囲気でお風呂に入る事になっちゃったんだよね。
誰も一言も喋らなくってさ。僕、みんなでお風呂ってもっと楽しいものだと思ってたよ。小さい頃、緑ちゃんと一緒に入ってた時は楽しかったのにな〜。」

その時の風呂場の様子が容易に想像できる。
のほほんとした祥先生と、ぎらぎらしたラグビー部の面々。その間に立って瓜生は、猫が背中の毛を逆立てるようにして祥先生を庇っていたのだろう。

「それは…、瓜生さんに感謝しないと…。」
「どうしてさ? 僕散々怒ったよ。せっかく誘ってくれたのにって。」

先生は丸い頬を膨らませて憤慨している。
この時ばかりはほんのちょっぴり瓜生が気の毒になった。


しかし、そうは言っても、こんなにおいしいチャンスを逃すわけには行かないのだ。
俺は夕食の後、先生を露天の貸し切り風呂に誘い出す事に成功した。
もともと大乗り気だった祥先生だ。一も二もなくついてくる。ここからが俺の腕の見せ所だ。
嘗める程度とは言え、一応ビールも含ませた。後はこの広い密室をどう生かすか。

熱海が隆盛だった頃を誇示するかのように、がらんとした脱衣所はだだっ広かった。
利用客が少ないらしく、床もマットもさして濡れていない。

「うわ〜、使いたい放題だよ〜。貸し切りっていいねえ〜。」

先生は間の抜けた声を上げると、スリッパを脱ぎ散らかして上がる。俺はその後を揃えながら上がった。
もうこの時点で、俺はすでに一抹の不安を感じ始めた。
なんだか俺の予定と違うぞ。先生は少しは恥じらってもいいはずだ。

俺の戸惑いなど歯牙にも掛けずに、先生は一通り脱衣所をチェックすると、まんまんなかのロッカーに陣取った。

「早くおいでよ、直哉くん。」

叫ぶなり、がばっとセーターを脱ぎ捨てる。男前な脱ぎっぷりだ。
俺は反って焦らされ、思わず目を背けてから慌てて先生を振り返った。
何だかとても見たくないものを見た気がする。
もちろん先生の事だから、セクシーな下着姿を期待していたわけではない。それにしても…。

「先生…、なんですか、それ…。」

白ブリーフに毛糸の腹巻きなんてあんまりだ。しかもその腹の、“男”という編み込みはなんなんだ…。

「あ、これ? 直哉くんと温泉に行くって言ったら、瓜生が…。」

……………また奴か。

「………趣味の悪い…腹巻きですね…。」
「そーなんだよ〜。こんなの嫌だって言ったんだけど、どうしてもって言うんだよ〜。だけどこの編み込みの部分が、毛糸が二重になってて暖かいんだ。機能的にはいいんだよねえ〜。」

俺は声もなく肯いた。他にどうしろというのだ。

「だけどさあ、寒さ除けって言うのは分かるけど、瓜生の奴、虫除けにもいいって言うんだよ。冬の熱海で虫なんかいるわけないじゃないねえ。変な瓜生〜。」

先生はあっけらかんと笑う。
………俺は虫か…。
しかし癪な事に、瓜生の読みはぴったりと俺の気分を突いている。俺は張り切っていた気分がしおしおと萎んでいくのを感じていた。
祥先生は、そんな俺にはまったくお構いなしにポンポンと脱ぎ捨てる。

「お先〜。」

軽い声を残して、浴室へ入っていった。


こんなことでくじけるもんか!
いくら瓜生の奴が妨害工作を弄そうが、俺達は今奴の目の届かない遠いところにいるんだ!

俺は気分を奮い立たせて先生を追った。
浴室の扉を開けると、そこには広い洗い場と普通の浴槽があった。
もうもうと立ち込める蒸気で視界は悪いが、壁に矢印が書いてあるのが見える。その先の扉が、露天へのドアらしい。

祥先生はもう既に泡塗れだった。
予想よりずっと豪快な洗いっぷりである。よく見ていると、頭の天辺から流れた泡を体中にこすりつけている。
もしかして、シャンプーの泡で身体を洗ってしまおうとしているのだろうか。
俺がそっと近づくと、先生は手探りで湯を満たした桶を持った。それをいきなり頭の天辺から浴びる。
勢いよくしぶきが飛んで、俺は思わず伸ばしかけた手を引っ込めた。

「あっ、ごめん、はねるから向こうへ行ってて。こんなに広いのに、わざわざくっつくことないよ〜。」

先生はびしょぬれの犬みたいに全身を振るった。落ちきれてない泡が、先生の肌を滑っていく。

「ずいぶん大胆な洗い方ですね。もしかしてシャンプーとボディソープ兼用ですか…。」
「ん? ボディシャンプーって書いてあるよ。シャンプーはシャンプーでしょ。頭も身体も洗っていいんでしょ?」
「普通分けますよ…。」

やっぱり…。祥先生は本当に本のこと以外にはまったく無頓着なのだ。

「いいよ、どっちだって、綺麗になれば…、あ、イテテテ、目にシャンプー入っちゃったっ!」

俺は先生のほっぺたがいつでもつるつるしているわけがなんとなく分かった気がした。
俺はため息をつくと、露天の方へ向かった。先生は奮闘中で、俺のことなんか眼中にないらしい。

「先生、俺、先に露天に行ってますから。」
「うん、ちゃんと掛け湯して入るんだよ! あ、こっちの目にも入っちゃった! イテテテテ…。」

何を大人ぶったことを言っているのだろう。そのわりに、目にシャンプー入ったもないものだ。
もしかして先生は、家庭ではシャンプーハットを愛用しているのかもしれない。

露天へのドアを開けると、海越えの冷たい風が一気に吹き付けた。
俺は思わず身を竦めると、つま先だって階段を下りた。濡れた石畳は、指先が落ちるかと思うほどに冷たくなっている。

自然の風味を醸そうとしたのだろう。浴槽は、荒い岩で縁取られていた。
風が強い。お陰で、空は雲ひとつなく晴れ渡っている。外に見える黒い海と空との境目はあいまいで、見ていると吸い込まれそうな気がした。
俺は静かに湯に身体を浸した。冷えた身体では、とても一息に飛び込めなかったのだ。
強張って痛いほどだった指先から、じんわりと血液が流れ出す感覚がする。ようやく肩まで浸かって一つ息をついてから、先生が言った掛け湯をするのを忘れたことを思い出した。

まあいいか。誰も見ていないし、祥先生だって、自分で背中の流しっこをしようなんて期待させておきながら、すっかり忘れてざぶざぶ全身を洗っているのだ。
あれはきっと、珍しいシャンプーでも見つけて、どうしても使いたくてならなくなったんだな。

「祥先生の思う事くらいこんなに簡単に分かるのに…。」

俺は顔の半ばまで湯に沈み込んで、声が漏れないようにぶくぶくと呟いた。

「どうして先生は俺の気持にこんなに気付いてくれないんだろう…。」

きっと先生は、こんな静かな夜の露天にも、ひゃーとかひょーとか奇声を上げながらやってきて、ムードをぶち壊しにするに違いないのだ。


祥先生はなかなか降りてこなかった。俺はじりじりしながら待つうち、ぼんぼんにあったまってしまった。
痺れを切らしてもう上がろうかと思った頃、扉の軋む音がして、先生がやっと降りてきた。
珍しく俺の予想に反して、先生は一つも奇声を上げなかった。すでに室内の浴槽で暖まってきたのか、さほど寒そうでもない。

「ふうっ、寒いねえ。」

俺の目の前まで降りてくると、にっこり笑って肩を竦めた。
爪先を伸ばしてそろそろと湯の中に入る。波立つ音さえ聞かせずに、するすると先生は俺と同じ湯の中に潜り込んできた。
俺は思わずごくんと喉を鳴らし、先生の肌に見入っていた。
半身浴を決め込んでいるのか、浅くしか湯に浸からない先生の細いうなじに、濡れた髪が張り付き、折れそうな鎖骨の上には水滴が光っている。
想像どおり滑らかな肌は、そんじょそこらの女の子には負けないだろう。

──ピンクだよ、ピンク…──

いつもミルク色をした肌が、上気して染まっている。ああいうのを朱鷺色というのかもしれない。霞の中に透けて見えるような艶やかなピンク。
先生が腕を上げてうなじの髪を払った。尖った肘からいくつもの水滴が、柔らかそうな腕を伝い落ちて流れる。それらが月光の淡さに、けぶるように光る。

「はあ…。」

ため息を漏らす唇まで、つややかに濡れている。

「気持ちいい…。」

ごっくん。俺はもう一つ喉を鳴らした。
俺の大好きな祥先生が、頬を上気させて俺を見つめている。
くらりと目が回った。どんどんと、心臓が内側から俺の胸を叩く。
瓜生が心配していたのはこれかもしれない。この祥先生の妖精めいたなまめかしさ。月の光の下で、その魔力は十二分に俺を捕らえて放さない。
触りたい。捕まえて、抱きしめて、俺だけの印を刻み込みたい。

急激に上りつめる血液に警告を発するように、遠く耳鳴りがしている。
よろめくように一歩近づくと、先生はまるで俺をからかうみたいにすいっと遠ざかった。

「祥先生…。」
「直哉くん、海にも空にも星が見えるよ。奇麗だね…。」

先生は言葉さえするりと俺をかわす。
そんな言葉で逸らかさないで欲しい。奇麗なのは先生だ。

「…先生…。」
「そう言えば…、背中の流しっこ、まだしてなかったね。」

ぐらり。祥先生が、滑らかな両腕を広げて俺を誘う。俺は吸い寄せられるように踏み出す。

「………触っても…いいんですか…?」
「触らなきゃ、洗えないでしょ。」

密やかな含み笑いが聞こえる。俺の心をかき乱す。
俺のシュミレーションに一つもなかった事態が起こっている。
前言撤回しよう。先生の考えはすべて読めるつもりでいたけど…こんなにも俺の知らない祥太郎先生がいる。
上がりっぱなしの心拍数は、耳の奥でがんがんと鳴り続けている。
俺はこんなにウブじゃなかったはずだ。どうして先生のこんな一言に、こんなに惑わされているのだろう。

「先生…俺…。」
「どうしたの、…洗ってくれないの、直哉くん。」

祥先生がにっこり笑って首を傾げる。いつもの見慣れたしぐさだ。それがどうしてこんなにまぶしく見えるのだろう。
俺は腕を伸ばした。先生の細い肩を掴む。想像どおりのすべすべな肌。

「俺…、我慢できなく…なりそうです。」
「直哉くん…?」

先生の顔に戸惑いが浮かぶ。ここで先生を逃がすわけに行かない。
俺は先生の肩を握る手に力を込めた。僅かに先生が顔をしかめる。このまま一息に抱きすくめよう。俺はガバッと立ち上がった。

………あれ?

星が遠くのほうからフッフッと消えていく。頬がすうっと冷たくなって、あたりが暗く狭くなって、耳鳴りが…今や大音響で鳴っている。

「直哉くん!」

先生が慌てて手を伸ばす。おかしいな、先生の顔の方が上に見えるぞ。
しばしあって、俺がぐずぐずに崩れているのが分かった。

あ、やべ、湯あたりだ…!

後悔する間もなかった。先生の驚いた顔だけが目に残った。
そして俺の世界はフェードアウトした…。


幸福で少し切ない夢を見ていた。祥先生を俺の腕に抱きしめている夢。
先生の肌はどこもかしこも柔らかくて、今まで経験したどの女の子よりもすべすべだった。
もっときつく抱きしめたいのに、先生は俺の腕から抜け出ようとするのだ。俺は先生を逃さないようにのろのろと歩いた。
鉛を詰めたみたいに重たい身体は、ちっとも思うように動かなくて、俺は先生に縋る腕ばかりに力を込めた。

「もう、こんなになるまで我慢しなくてもいいのに…。」

かすかな先生の呟き。俺はもう我慢しなくてもいいのだろうか。俺の思うままに、先生を蹂躙してしまってもいいのだろうか。
到底出来もしないことを俺は夢想する。俺のこの手で祥先生を壊してしまいそうなことなど、俺にできるわけもない。

ぼんやりと視界が明るくなった。額から目の上にまで湿った何かが乗っている。目を見開くと、それは僅かに動いた。

「直哉くん! 起きた?」

祥先生が俺を覗き込んでいる。俺は慌てて起き上がった。その途端世界がぐるりと反転して、俺はまた情けなくへたり込む。

「いきなり起きないで。湯あたり起こしたんだよ、君…。」

祥先生は安心したように笑って、手にしていた団扇で俺を扇いでくれる。
俺は用心深くあたりを見回した。お膳が脇に除けられて布団が述べられているが、間違いなく俺たちの部屋だ。

「俺…。」
「びっくりしたよ〜。立ち上がったと思ったら急に真っ青になっちゃって、ぶくぶく沈んじゃうし、どうしようかと思ったよ。」
「え、それじゃ、俺…。」

かあっと頬に血が上るのを感じた。確かに先生の肩を掴んだところまでは覚えている。それから先の記憶がない。
俺は素っ裸で風呂場で昏倒して、それからどうしたのだろうか?

「なんとかかんとか湯船のふちまで引っ張り上げたら自分で歩いてくれたから、脱衣所までは行ったけど、その後はどうにもならなくて、宿の人に頼んで運んでもらったんだ。後で会ったら挨拶しておいてね。
あ、だけど、人を呼ぶ前になんとかパンツだけは履かせてあげたから安心して。」

安心できるか! そんなみっともない姿をよりにもよって祥先生に晒してしまうとは!
さらに頬が熱くなる。どうやらさっきの夢は半ば現実だったらしい。俺はこの細っこい先生にすがり付いて、脱衣所まで運んでもらったようだ。
あまりのことにもごもごと口篭もってしまう俺に、先生はくしゃりと表情を崩した。

「だけど、…よかった、本当によかった〜。」

大きな目が潤んで、今にも決壊しそうだ。俺はどきんと胸を高鳴らせた。

「直哉くん大きくて、僕の力に余るし、もう少しで溺れさせちゃうところだった。僕がもっと気を配ってあげないといけなかったんだ。本当にごめんね…。」
「先生…。」

はっきり言って、今回のことはすべて俺の油断からなったことだ。
俺が長湯をしすぎたのは下心があったからだし、祥先生を酔わせるつもりでたのんだビールをこっそり空けたのも悪かったなら、やましいことを考えすぎて興奮したのも悪かった。
全部俺一人の迂闊さだ。それで先生にこんな切ない顔をさせてしまうなんて。
俺はあたふたと目をそらし、それからやっと先生の腕に巻かれた包帯に気付いた。左手の甲から肘あたりまで、白い布が先生の細い腕を覆っている。

「! 先生、その腕…!」
「あ、これ、ちょっとお風呂のふちで擦っちゃって。大丈夫、お湯に浸かってふやけてたから、ちょっと血が出ちゃったけど、宿の人が大げさなんだよ。」

先生は浴衣の袖を引っ張って、俺の目からそれを遠ざけようとした。
だが、宿の人が大げさなのではないことは、滲んだ血からも分かる。俺は申し訳ない気分で一杯になった。
先生と俺とでは体格が大きく違う。上背が20センチ以上もある俺を立たせるだけだって一苦労だったはずだ。

今度は用心深く身体を起こした。
寝かされた布団の上に起き上がると、脇で正座をしている祥先生より視点が上になる。やっと落ち着いた気分で先生を見下ろした。

「すみませんでした。俺の不注意で…。」
「全然大丈夫。僕は何より、直哉くんが無事ならそれだけで嬉しいし。」

掬い上げるような瞳に見つめられている。ぎゅっと胸をつかまれるような、少し掠れた声。
何気ない一言なのだろう。だけど深読みしてもいいだろうか。

先生の華奢な体とか、可愛い顔とか、白くてすべすべの肌とかは、すべてオプションなのだ。俺はいつでも、祥先生のこの真摯な瞳にやられている。
こんな間近からこの瞳に見つめられたら…また我慢できなくなりそうだ。

俺はふと、目のやり場に困った。
述べられた二組の布団は、部屋のスペースの関係だろうか、ぴったりと隙間なく敷かれている。俺はまた、ごくりと喉を鳴らしていた。
もしかして、これは最高のシチュエーションかも。先生の小さな手は、さりげなく俺の足に触れていて、瞳は大きく滲んでいる。
このまま抱きすくめて倒れこんでも…先生は抵抗しないかもしれない。

「先生、…俺…。」

伸ばしかけた腕がスカッと空を切った。先生がひょいと身体を屈めたのだ。
俺は支えを失って、危うくつんのめりそうになった。

先生は蹲ってひくひく震えていた。

ぎくりとした。
俺は先生に怪我をさせてしまったのだ。不埒な考えに浸っている場合ではない。もしや傷でも痛むのではないのか。

「先生! 大丈夫ですか!」
「だ…大丈夫…、安心したら、気が抜けちゃって…あははは…。」

がくりと強張った肩から力が抜ける。先生は堰が切れたように笑い転げている。

「直哉くん倒れちゃって動かないから、宿の人が来る前にじっくり観察させてもらっちゃった。こんな機会めったにないし…。あははは。」

それでどうしてそんなに笑い転げるのだ。俺はなんだか嫌な予感に囚われた。

「直哉くんねえ、知ってる? 君、うっすらとだけどねえ、蒙古斑が残ってるんだよ。お尻の割れ目の上あたりに…。」

ガンッと頭を殴られた気がした。
先生が俺に衣服をつけさせるのに孤軍奮闘したのは分かる。だけどそんなところまで観察することないじゃないか…。

「あははは…、だ、大丈夫、ちゃんとナイショにしといてあげるから。だけど、だけど…。」

先生はお腹を抱えて爆笑中だ。俺は先生の背中をさすろうとしていた手のやり場をなくして呆然としていた。
俺の今回の旅行の予定が、ガラガラと根底から崩れ去っていくのを感じていた。
もう今日明日くらいは、どう頑張ったっていい雰囲気にはなれそうもない。

「直哉くん………か〜わい〜い♪。」

俺の最後のプライドまで簡単にぽっきり折ってくれて、先生は笑いつづける。
俺は中途半端に腕を伸ばしたまま、先生の笑い声をバックに固まっていた。


「んもー、直哉くん、結構小食なんだもんな。さあ、食べて食べて。お菓子がいっぱい余っちゃった。」

帰りの電車である。
先生は乗り込むなりお菓子を広げて、消費に奮闘中だ。俺は呆れながらお相伴をしている。

「一体おやつばかりどれだけ持ってきたんです? こんなに食べきれるわけないじゃないですか。」
「だって、直哉くんがたくさん食べてくれると思ったし、電車に乗ったらまわりの人に回したりしない? 普通?」
「回しません。小学生のバス旅行じゃあるまいし。」

この2泊の旅行は、やっぱり思ったとおり、平穏無事に終わってしまった。
だけど祥先生の可愛い顔がしこたま見られて、俺は結構満足している。

「なかなかおやつがなくならないから、袋がイカ臭くなっちゃってさ〜。」
「…だからその、イカ臭いは止めてくださいよ。こんなところで。」
「どうしてさ。もう僕ら二人とも、立派にイカ臭いよ。」

そりゃイカ臭いに決まってる。俺は大きくため息をついた。

「この次はきっと、俺がイカ臭いの意味を教えてあげますから。」
「ん? もう教えてくれないの? イカ臭いの意味?」

先生はパチパチと目を瞬いて、それから見たこともない表情で笑った。

「………残念だったね。」
「え?」

俺は手にしていた柿ピーを落としそうになった。今のはどういう意味だろう。
電車は戸惑う俺を尻目に、一路東京へ向かっていた。





戻る