瓜生くんの初恋 2




祥が髪を切ってしばらくして、近所に変質者の噂が流れ始めた。
その変質者は、命に関わるようなことはしないが、男の子ばかりを狙って衣服を剥ぎ取り、けしからん行為に及ぶのだという。
狙われるのは低学年の男の子ばかりだったが、小学校中が厳戒態勢になった。もちろん俺達の学年でも、担任が真面目くさった顔で注意を呼びかけた。
登下校は集団で。なるべく一人では外出しない。暗くなったらすぐうちに帰る等々。
俺達は、そんなことを素直に聞く可愛らしい年頃ではなかった。
だが、放課後の遊びというと、サッカーか野球がお気に入りの頃だ。だから、自然教師の言いつけは守られていた。
ただ、祥はみんなの中から少し浮いていた。

クラスのみんなは祥を特別視していた。俺がそうなるように仕向けたのだ。
祥は気が強いから、どんなに体格差のある相手でも、喧嘩を売られれば必ず買う。そして必ず負ける。
殆どは俺が割って入って腕力で方をつけたが、それだってすべてカバーできるわけではない。
また、意地っ張りな祥は、俺が割り込むと、その事でまた怒るのだ。
だが、俺は殴られて顔を腫らした祥や、まして翌日熱を出して寝込む祥など見たくなかった。

また祥は喧嘩を売られやすいガキだった。可愛い顔をして結構辛辣な事を平気で口にしたりするからだ。
憎からず思っている子には意地悪をしたくなる年頃だ。祥は格好の標的だったろう。

だから俺は祥を姫と呼んだ。すると、祥の可愛い顔に近づきたくてうずうずしていたクラスメイト達は、こぞって真似をした。
たちまち祥の周りには人の柵ができ、祥は大事なお姫様として、喧嘩を売られることもなくなった。
だが、弊害もあった。祥はみんなでする乱暴な遊びには入れてもらえなくなってしまったのだ。

意地悪からではなくて、大事だから離れさせておく。ショーケースに飾るお人形のように。
祥の虚弱さが知れると、それはますます酷くなった。

だからあの日、みんなでサッカーをしていた公園でも、祥は一人離れたところで本を読んでいたのだ。
コスモスが咲き乱れる花壇の脇のベンチが祥のお気に入りで、そこに膝を立てて本を読んでいた祥がいつのまにかいなくなったのに気付いたのは、遊びつかれて帰る頃だった。

俺は青くなった。祥が俺に一言もなく、一人で帰ることなどありえない。
それに何より、祥の大好きな本がそこに無造作に投げ出されてあるのだ。こんなことを祥がするはずはない。

「探せ!」

クラスでもリーダー格だった俺が声を荒げると、俺の恐怖が伝播したかのように、みんなが青くなった。
ボール遊びもできる広い公園だったから、探すところはいくらでもあった。だが、探索はそう長く続かなかった。
柵を1本隔てた、隣のブロックの薄汚いトイレから、争う音がしたのだ。
僅かな悲鳴と、薄い板に何度も物のぶつかる鈍い音は、まるで俺には祥専用のレーダーがあるかのように、敏感に察知できた。

木陰で薄暗がりになっているそのトイレは、誰もめったに使わない。
公園の管理者の目さえすり抜けてしまうのか、そこはとても汚くて、乱暴盛りの俺達さえ、いつもなら入るのに二の足を踏んでしまう。
だが、俺は躊躇なくそこに踏み込んだ。

たった一つの個室の戸が閉まっている。そこから物音と、脅しつけるような低い声がした。

「祥!」

俺は思い切り扉を叩いた。ぴたりと物音が止んで、代わりに小さなうめき声が聞こえた。
間違いない、祥だ!

俺は扉をよじ登った。
こんなトイレの扉は、必ず上部に隙間がある。取っ手に足をかければ、扉を上ることなど、大柄な俺には朝飯前だった。
俺の焦りに気付いたのか、あちこちに散った友達が集まってくる。俺達の様子に、大人も集まり始めていた。

俺はなんなく扉の上から個室を覗き込み、そこで思わず息を飲んだ。

二つの顔が俺を見上げていた。
この公園でときどき見かける浮浪者と、その下で汚い床と便器に押し付けられた祥。

祥の両手はその浮浪者に押さえられ、シャツが引き裂かれて上半身が剥き出しにされていた。
薄暗いそこで、日焼けを知らない祥の白い肌はまぶしいみたいに見えた。俺はその恐ろしい事実より、祥の白い肌に目が釘付けになった。
やがて脳天を突き抜けるように沸いた怒りは、もしかして先を越された悔しさだったのかもしれない。

そう、俺は、俺がほのかに夢想していたことを目の当たりにして激昂したのだ。

大声をあげ、扉をこじ開けようとガタガタ揺すると、浮浪者は大慌てで祥を放り出した。
だが、もちろん逃げ場などどこにもない。俺はそいつが祥にそれ以上近づかないように、罵声を浴びせつづけた。
狭い個室の中で、そいつが慌てふためいてうろうろするたび、祥にごつごつぶつかるのが許せなかった。

やがて、友達と大人たちが駆け込んできた。誰が通報したのか、そこには警察官の姿もあった。
浮浪者はそれ以上抵抗することもできず、おとなしく警察につかまった。
そいつは、このあたりで悪戯を繰り返していた変質者だった。俺達は、噂の変質者を捕まえたのだ。
小学生ながらの俺達の連携は素晴らしく、そのことは表彰物だということだった。

浮かれる友達を尻目に、俺は早く祥を連れて帰りたくて仕方なかった。
俺にはそんな浮浪者などどうでも良かったのだ。

奴を突き飛ばすようにして個室に入った俺は、蹲ったきり動けない様子の祥を、真っ先に助け起こした。
ようやく立ち上がった祥は、自分の両腕を抱くようにして、細かく震えていた。
声を上げられないように、口には何時洗ったか知れないぼろ布が押し込まれていて、それを外してやると、割れた唇から血が滴った。
かなり抵抗したのか、祥の華奢な身体のあちこちが傷だらけだった。白い頬がいっそう白くなって、抜け落ちるように見えた。
だが、剥がされているのは上半身ばかりで、俺はその事に僅かに安堵した。
そうして、自分の醜い欲望に気が付いた。

「気持ち悪い…。いきなり…キス、された…。」

祥は俺にだけ聞こえるような細い声で呟いた。

「新しい花の苗を見せてあげるからついておいでって言ったのに…、いきなり僕の事殴って…ここに引きずり込んで…。」

祥は縋るように俺の腕を握ると、震えを無理矢理納めるように爪を立てた。ふらつく身体を引き寄せると、足が縺れた。
いつも強気な祥の萎縮している様子に、俺は愕然とした。
だが、頭に血が上ったのは、キスという一言を聞いたからかもしれない。

俺だって、まだ祥の唇なんか触れた事もないのに。

「知らない奴に付いて行くなって…、幼稚園児だって知ってる! 何でのこのこついて行ったんだ!」

俺は思わず祥を怒鳴っていた。
大切に守りたい祥は、いつも勝手に俺の腕からすり抜けようとするのだ。
祥は呆然と顔を上げ、俺の腕をさらに強く握った。

「知らない人じゃないよ。いつも花壇の手入れをしている…いつもは優しいおじさんだったんだ。それに…僕のことをいつも大好きだって言ってくれてたんだ。だから、…あんな酷いことをするとは思わなかったんだよ。」
「バカ! そんなに簡単に誰でも信用するなよ!」

俺は真っ青になって、囁くように訴える祥を怒鳴りつけていた。
周りの目がみんな俺達に向いているのが分かったが、怒りに目が眩んでどうしようもなかった。

「そんなに簡単に大好きだなんて言う奴なんか、信用しちゃいけないんだ! もっとしっかりしろよ! そんな大好きなんて、口先だけに決まってるじゃないか!」
「じゃあ瓜生はどうなんだよ!」

震えるように身を竦ませた祥が、決め付けるように言った。
祥は俺の腕を両手で握り締めて、割れた唇から鮮血が流れるにも構わず叫んでいた。

「瓜生は、…瓜生だって俺のこと、いつも大好きだって言ってくれるじゃないか! 瓜生のことも、信用しちゃいけないの! 僕は誰も…信用しちゃいけないの?」
「…………そうだよ。」

びくりと祥の腕が震えた。
俺は決して言ってはならないことを口走っている。その自覚はあった。だがどうしても止められない。
引き裂かれたままの祥のシャツが、乱れた髪が、奪われてしまったという唇が、俺を暴走させる。

「俺は、おまえのこと、大好きだよ。誰よりも一番大好きだよ。だから…俺のことなんか絶対に信用しちゃいけないんだ。俺だって、もしかして…っ。」

無理やり口を閉ざした。これ以上はどうしても言えなかった。

もう祥なんか簡単に押さえつけられるほど大きく育ってしまった俺。
身体だけではない、性的好奇心も、その機能も、祥よりはるかに発達している俺なのだ。

さっき俺をなにより激昂させたのは、祥の腕を押さえつけるあの汚い手が、どうして俺の手じゃないのかということだった。
あの浮浪者は、俺の未来の姿だったのだ。

口が裂けても言えない。俺だって、もしかして、あの浮浪者みたいにおまえを襲うかもしれないなんて事は。

祥の震える腕が俺から離れた。少し後ずさると、祥は俺を縋るような目で見上げた。
必死なその目が、俺に今言ったことを取り消してくれと懇願しているのが分かった。
だけど俺は、その目に答えられなかった。

俺が唇を噛んで立ち尽くすと、浮浪者に殴られても泣いた形跡のなかった祥の瞳が、見る間に赤く潤んだ。
祥は俯くと、ただ黙ってぽろぽろと涙を零した。
割れた唇をかみ締め、祥は声もなく泣いているのだった。

俺はいつもみたいに祥を宥めることができなかった。
突然の出来事でいきなり自覚した思いは、同時に2度と口に出してはならないものになってしまった。
それは祥に触れれば、簡単に破れてしまいそうな封印だったのだ。

連絡を受けた茜さんがすっ飛んでやってきて、祥を俺の手からひったくった。
祥は抱きしめられると嘘のように涙を引っ込めたが、弱々しい笑顔までなんだかうそ臭かった。
強ばった微笑みを浮かべた祥は、俺の方を決して振り返ろうとはしなかった。

そのまま大人たちに送られて別々の家に帰った俺達は、何日かを会わずにすごした。
祥はいつものように熱を出してしまったし、俺はそんな祥の傍に行く勇気が出なかったのだ。

3日と空けずにじゃれ合うようにして育ってきた俺達には、そんな長いブランクは初めての事だった。
だが、俺は恐かったのだ。もし、祥が今までのように俺に向かって微笑んでくれなかったら。それは俺にとっては確実に恐怖だった。

だから、1週間ほどして、祥が笑顔で俺の前に現れたときは、本当に嬉しかった。
たとえその笑顔が、今までとはほんの少し違っていたとしても。



俺は天井の染みを見上げたまま目を細めた。
俺はあの時、堅く繋いでいた祥の手を振り解いてしまったのだ。
それからおずおずと繋ぎ直された手は僅かに緩くて、祥は俺に、いつでも振りほどいていいんだよと言っているようだった。

祥はあれから変わった。
相変わらずにこにこと誰にでも愛想のよい子供ではあるのだが、核心をかわすことがとてもうまくなった。
それは、すっかり大人になった今も変わらない。

突然スイミングスクールに通い出して、積極的に身体を鍛え始めたのもあれからだ。
透き通るみたいに華奢だった体も、祥の努力の賜物か、少しは男の子らしくなった。高校生になる頃には、結構みんなと遜色なく、スポーツもこなせるようになったはずだ。

祥を決定的に変えてしまったのは、多分俺の一言だったのだ。
祥に欠けていた警戒心を、強すぎる形で与えてしまったのは、多分俺の険しい顔と怒鳴り声だろう。

今でも時々思う。もしあのとき、立ちすくむ祥に一言でも優しい言葉をかけられたら。
いや、それよりもっと前、泣きじゃくる祥の細い背中をぎゅっと抱きしめてやる事が出来たら。
俺達の関係はもっと違う物になっていたのではないだろうか。

(お笑い種だな)

ほろ苦くそう思う。

どんなに悔いても過去は戻らないし、それに今は良好な関係を築いている俺たちなのだ。
物足りない思いは否めないにしても、今の状況を俺は甘受すべきなのだろう。
もうすべては過去のことなのだ。
俺はほんの数年前のことを思い出した。



大学に入って、俺達は初めて進路が分かれた。
教師を目指す祥と、公務員を目指す俺とではどうしても進路が折り合わなかったのだ。
俺達の初めてのお互いからの独立があの時だったろう。

すっかり育ちきって、それでもまだ幼い顔をほころばせて、祥は俺を見上げると笑った。
大きくなりすぎた俺は、祥の笑顔を間近で見ることさえ適わなくなっていた。

「初めてだね、瓜生と違うところへ行くのは。」
「大袈裟な。キャンパスはいっしょだろ。」
「うん、そうだね。でも、呼んでも届かないよね。」

中学、高校と進んでも、しばしば痛い目にあってきた祥は、誘いかけるのと突き放すのを同時にするような言葉遣いをよくする。

「…心細いんじゃないか。俺が傍に居ないと。」

俺は心もち、縋るような言葉を吐く。
本当に心細いのは俺の方なのだ。祥は見透かしているように首を傾げた。

「不安はあるけど、大丈夫。瓜生には本当にいろんなことを教えてもらったから。勉強ばっかりじゃなくて、その他にもたくさん。」
「おいおい、まるで2度と会えないみたいじゃないか。」

珍しく改まった口調で、俺は急いで口を挟む。
こんなところまで肯定されてはたまらないと思いながら。

「ううん、言っておきたいんだ。今を逃すともうチャンスがないような気がするから。
僕、瓜生に教えてもらったことの中で1個だけ、今でも納得いかないことがあるんだ。だからそれだけはきっとこれからも守れないよ。」
「………何のことだよ。」

祥は少し照れたような目をした。

「僕も、瓜生のことが一番大好きだよ。だから、瓜生のことは信じてる。これからもずっと。」

そういって笑った祥の顔は、子供の頃と変わらない、素直でまぶしいものだった。



あの時、俺は最後通牒を突きつけられた気分になったものだ。
いっそ、信じていないと言ってくれた方がどれだけましだったろう。
祥は無邪気な微笑とたわいない言葉で、完全に俺の手を払ってしまった。そんなに明るい笑顔で信じていると言われて、それでもなお祥の信頼を裏切る勇気は俺にはない。

俺の一途な初恋は友情にすりかえられて終わったのだ。

だが、もしかすると祥にはそんなつもりは毛頭ないかもしれない。
祥にとって俺は、初めからずっと、ただの親友だったのかもしれない。最近そんな気がしてならない。

俺はもう一度目を細めた。
最近いつも祥の傍に、祥を庇うみたいに立っている、強い目をしたガキを思い出したのだ。名前を滝 直哉といったか。

彼はきっと今、さぞかし戸惑っている事だろう。
祥の優しげな外見にそぐわない意志の強さ、思いがけない気の短さ、そしてどんなに押してものらりくらりと逃げてしまう不可解さに手を焼いているはずだ。

彼ならば、もしかして祥の懐に飛び込めるのかもしれない。
あんなに真っ直ぐ人を見る目をした男なら。

だが、…悔しいから奴には何も教えてやらないことにしよう。
祥の思わせぶりな言葉のわけとか、肝心なところですり抜けてしまう裏腹な態度の理由とか。
俺の手から祥をもぎ取っていこうとするなら、そのくらいの覚悟はいるだろう。

いや、やっぱりちょっとは教えてやろうか。
子供の頃の祥の、愛らしいロングヘアを見せてやったら、あいつは鼻血を吹くかもしれない。
そしてその頃の祥を一人占めしていた俺を、歯ぎしりして悔しがるかもしれないな。

「俺のシュークリームちゃん…か。」
「なにをぶつぶつ言ってるの、気持ち悪いわねえ。」

思わず低く笑うと、キッチンにいたお袋に突っ込まれた。
さすがにばつが悪くて、俺はソファーの上で居住まいを正した。

「祥ちゃん遅いわねえ。どうしちゃったのかしら。」
「なに、あいつが俺との約束を破ることなんか絶対無いさ。おおかた、お袋にプレゼントする花でも見繕っているんだぜ。」
「あら、嬉しいこと。」

お袋は、ちょっぴり頬を染めて笑った。慈しんだ我が子を迎えるような微笑だ。

俺達の会話を漏れ聞いたかのように、玄関でチャイムが鳴った。続いて、お飾りのノッカーがコツコツと音を立てる。
子供だった祥がよくしていた呼び方だ。

上機嫌の祥は、きっと明るい声で真っ先にお袋を呼ぶのだろう。
俺はほんの少し苦笑しながら、祥を招き入れるために立ち上がった。





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