動物園へ行こう!またうつけが主殿を困らせている。俺は聞き耳を立てた。 「…だから、別にお願いしてるわけじゃありませんよう。一応、報告しているだけです。」 しかし、そう言いながらうつけの手はもじもじと胸の前で組み合わされている。あれはいわゆる、おねだりのポーズだ。 主殿は寝そべったソファーの上でぐるりと目を回した。何やら非常に困っておられるらしい。 「僕だって、この時期に天本さんに一緒に動物園に行って欲しいなんて、そんな無茶…言いませんよう。」 「だからなんでこんな炎天下にいきなり動物園なんだ。」 主殿は眉を潜めると、クーラーのリモコンを手にした。ピッピッピッと音を立てて室温を下げる。「炎天下の動物園」を想像しただけで暑くなってしまわれたらしい。 「だって、トラもキリンもライオンも、みんな南の国の動物じゃないですか。きっと今の時期が一番活動が盛んだと思うんです。僕、急に大きい動物を描きたくなっちゃったんですよう。」 俺は聞き耳を立てた羊人形の中でわくわくしていた。動物園とはまた聞いたことのない場所だ。トラとキリンとライオンとは、一体どんな物なのだろう。 思わずぱたぱたと人形の手が動いてしまったらしい。主殿がじろりと俺のほうを見た。 「だから、…動物園に行きたいんです。いえ、…行ってきます。」 うつけは未練たらしく主殿の顔を上目遣いで見上げた。ばかめ。一緒に行ってと言っているのが俺にも聞こえるようだぞ。 「…勘弁してくれ。そうだ、小一郎を連れて行くといい。」 主殿の力弱い声に、俺は思わず小さくガッツポーズをした。 しかし、うつけの目論見は外れたようだ。動物園とはこんなにだれた所なのか。キリンは小さな木陰に逃げ込んで、長い首をにょきにょき立てているだけだし、トラは冷房の効いた箱の中でだらりと腹を晒して寝転がっている。他の動物たちも似たり寄ったりだ。白熊に至っては、檻の中に入れられた大きな氷に張り付いて、標本みたいに動きやしない。 「これがお前の見たかった動物園なのか?」 俺は羊人形の中から、うつけの足をぺしぺし叩いた。うつけは慌てて俺を押さえる。 「だめだよ、小一郎、子供たちも大勢いるんだから。ぬいぐるみが動いたら、騒ぎになっちゃうよ。」 今日のうつけはごく軽装だ。涼しげなTシャツとチノパン。頭には大きな麦藁帽子。これは主殿がむりやり被せたものだ。そして、画材を入れるために背中に背負った大きなリュックが、うつけをますます幼く見せている。 俺はといえば、うつけの腰からキーホルダーのようにぶらぶらぶら下げられている。嫌々ついていってやるふりの手前、人型になるのは都合が悪かったのだ。 最初に入っていたポケットからは、暑いと言われてすぐにおっぽり出された。 「はああ、しょうがないなあ。日本の夏はサファリとはそんなに違うのかなあ。きっとみんな生き生きしてると思ったのに。」 考えが浅いのだ。俺がもう一度うつけの足を叩くと、思いがけないほど近くで息を呑む声がする。そちらを窺うと、子供が一人、目を皿のように見開いて、俺を凝視していた。 「お兄ちゃん、今、この羊さん、動いた!」 子供が大声で喚く。うつけはぎょっとした顔で俺を押さえつけた。むむむ、力一杯おさえるな。息ができんぞ。 「そ、そんなことないよ。見間違い見間違い。じゃあね、ボク。」 うつけはほうほうの体でその場を逃げ出した。 「あーもう。だから動かないでって言ったのに。あの子ついてきてるよ。」 うつけは困ったように振り返った。確かにごろごろ寝てばかりの動物たちを見るよりは、俺のほうを見たい気持ちは分かるというものだ。 「おまえがいかんのだ。動物園がこんなに面白くない所だとは思わなかったぞ。」 「動物たちが起きてればもうちょっとは面白いし、絵の題材にもなるのになあ。暑いし、あとライオンだけ見たら帰ろうか。」 ふむ、ライオンか。俺は少し期待を持ち直した。 ここに来る前にうつけから、ライオンは百獣の王だと散々聞かされていた。仮にも王であるならば、多少は威風堂々とした姿を見せてくれるだろう。 ライオンの檻は、小高い岡のように辺りが見渡せる場所にしつらえてあった。さすが王の住まいだ。ライオンが一声吠えたなら、その声は動物園中に響き渡るだろう。 しかしそこは捕らわれた動物の哀しさ。岡とはいっても二重の柵に囲われて、しかも内側の柵は、人の身長よりだいぶ深い位置まで掘り下げられている。大きな動物が伸び上がっても、簡単には脱走できない仕組みか。 そして、そこに囲われたライオンたちは、他の動物たちと何ら変わらない、惨澹たるありさまで寝そべっていた。なにが百獣の王だ。だらしなく四肢を伸ばして暑さに舌を大きくはみ出させて喘ぐその姿には、威厳などかけらも感じられない。 うつけが檻の側まで近付いてため息をついた。こんな姿では絵を描く気にもなれるまい。太陽に熱された鉄の柵に触って、うつけは驚いて飛びのいた。たいそう熱かったらしい。 「見えぬぞ。その柵の上に乗せろ。」 「見てもあんまり面白くないよ。ライオンでもばてるんだあ。あれじゃただの大きい猫だねえ。」 「ぬぬう、あのライオンは禿げているではないか。」 「…禿げてるんじゃなくて、あれはメスだよ。メスには鬣はないんだよ。」 「そうなのか? 禿のほうが元気がいいようだぞ。」 「ライオンのオスはメスになんでも働かせるって聞いたけど、動物園でもそうなんだねえ…。本当に動いているのはメスだけだもんね。」 「お、側に来た。見えぬぞ。もう少し…。」 「こ、小一郎、そんなに乗り出しちゃあ…。」 「やっぱり羊さん、動いてるぅ!」 突然の幼い叫び声に、俺は肝を潰した。それはうつけも同じだったらしい。熱い鉄の柵にくっつかないようにおっかなびっくり指先だけで俺をつまんでいた手が大きく震える。あっという間に、俺は墜落していた。しかも、檻の内側だ。 「こ、こいちろ…っ。」 うつけの押し殺した悲鳴が、妙に遠くで聞こえた。頭を下にしてひっくり返った俺が次に見たものは、メスのライオンの、真っ赤な口の内側だ。 ライオンは俺をあんむと咥えると、嬉しそうに小走りで、仲間のもとへ戻っていく。 「なにをする! 放せ! 無礼者!」 「小一郎! 動いちゃ…。」 うつけが何やら喚いている。だが俺は渾身の力を込めて羊人形の中で暴れた。 柔らかい木綿の手が、ライオンの鼻面をペシペシ叩く。噛まれたって痛くも何ともないが、この獣臭い息だけは我慢ならない。 いきなり叩かれて、ライオンはどんぐり眼で俺を口から零した。俺は立ち上がってライオンを睨み付けた。ふーっふーっと威嚇の声が漏れる。 「小一郎のバカ…。」 うつけが頭を抱えている。なにが馬鹿だ。こんな侮辱に耐えられるか。 だが、俺は次の瞬間、たじたじとなっていた。ライオンの、今まで気だるげだった目がランランと輝いている。うつけは何と言っていた? 大きな猫だと言わなかったか? まさしくこれはねずみを捕ってきた猫の目だ。 ライオンは肩を落として姿勢を低くした。ぐるぐると喉が鳴っている。あれが機嫌のいい声なのだろうか。前足を1本突き出して、ライオンは俺の体をちょいちょいとつついた。 俺はやけくそになった。探るような手をパシッと払う。 「にゃっ!」 そんなでかい図体で、にゃはないだろう! だが、ライオンはすっかり俺が気に入ってしまったらしい。いきなり猫パンチが来た。続けざまに2度3度、しかも両前足の特大の猫パンチだ。 俺はライオンの左右の前足の中で、バシバシ吹っ飛ばされる。たまにコントロールが狂って手の中からすっ飛ばされても、たちまち駆け寄られて咥えられてぶんぶん振り回される。 止めろ! 痛くはないが、目が回る! 俺はねずみじゃないのだ! 俺がこんな目に会っているのに、うつけはといえばきらきらした目で俺を、いやライオンを見つめている。 「すごいや、小一郎、これがライオン本来の姿なんだね!」 いや、違うと思うぞ。こいつはただの欲求不満だ。 「待ってて。今スケッチするから!」 ばかもの! 問題が違うだろうが! おのれぇ! 「あっ、だめっ、小一郎っ。いきなり人が現れたらパニックになっちゃうっ!」 それじゃどうしろというのだ! もう俺はこいつのよだれでぐしょぐしょなんだぞ! 「ライオンが飽きて、人がいなくなるまで、おとなしくしてて! お願い!」 なにがお願いだっ! 俺をなんだと思っているのだ! 不意にライオンが静かになった。俺をそうっと咥えるとすたすたと歩き出す。どうやらやっと飽きてくれたらしい。 俺はライオンの口からだらんとはみ出したまま、ようやく安堵の息をついた。ライオンの喉がぐるぐる鳴る。あんまり上機嫌な声で、俺はちょっとばかり不安になる。 やがてメスライオンの口からぽてっと落とされた。 「にー…。」 妙に可愛らしい返事があった。 岩場の影から覗いたのは、小さな二つの頭。メスライオンの呼び声に答えて、2頭の仔ライオンが、期待に満ちた目で俺を見ている。 な、なんだその目は。俺はおもちゃじゃないぞ。いや確かに羊人形だが、おまえたちと遊んでやる義理はないのだ。やめい! いっぺんに咥えて引っ張るなっ! 手足が…首がもげる! 「ああっ、仔ライオンだっ、可愛いーっ!」 この…大うつけ! 貴様俺の有り様が目に入らないのか! 「小一郎、そのままそのまま、すぐ描いちゃうからねっ。」 それどころではないと言うに! ぎゃ! たーすーけーろー…。 「あれっ、小一郎見えなくなっちゃった。まあいいや。いい絵が描けたし。えへへ。天本さんにも見てもらおう。小一郎つれてきて正解だったな。」 うつけの声がはるか遠くで聞こえる。 俺は仔ライオンのざらざらの舌で嘗め回されながら、己の不運を呪った。 「…それで、小一郎が頑張ってくれたおかげで、とってもいい絵がかけたんですよ。」 やっと俺が遊び疲れた仔ライオンたちの目を盗んで抜け出した頃には、もうとっぷり日が暮れていた。閉園時間になってしまったからと、うつけは薄情にも俺を残して先に帰ってしまったのだ。 よれよれのどろどろになってしまった羊人形を片手に、ようやく主殿のもとに帰り着いた俺を待っていたのは、うつけの声だった。さも嬉しそうに動物園での顛末を主殿に報告している。 電車に乗らねば移動できないうつけと違って、俺は移動に時間が掛からない。だから、帰宅はうつけとほぼ同時だったらしい。 主殿が、嬉しそうに俺を見る。とりあえずうつけを殴ってやろうと思った手が引っ込んでしまう。うつけはそんな俺の不機嫌さにまったく気付いた様子もない。 「ご苦労だったな、小一郎。ライオンと遊んだんだって? よかったじゃないか。」 主殿に誉めていただくと…うう、うつけめをどやし付けられないではないか。 それにしても主殿の顔が、なんとなく面白がっているように見えるのは…いや、気のせいに違いない。 うつけは、少し日に焼けた赤い鼻を得意げにひくひくさせて、無邪気に俺に笑いかけた。 「楽しかったね。また行こうね、小一郎。」 …誰が行くか! すっかり獣臭くなってしまった羊人形を握り締めると、ライオンどもの涎がぼたぼた落ちた。 |