午前5時午前5時。夜は白々と明けている。 俺はパソコンの前で固まっていた。 さっきまでカシカシと小さくうめいていたパソコンが、どのキーを押そうともピクリとも動かなくなってしまったのだ。 「この段階でフリーズだと…?」 あまりのことに手がわなわな震えてしまう。もっとまめに保存をしておくべきだったと悔やんでも遅い。午後には編集者がやってくる。一晩かけて何とか捻りあげた30頁を反故にしてしまうにはあまりにも惜しい。しかし、こうなってしまってはにっちもさっちも行かない。諦めて再起動するしかないかもしれない。だがやはり…。 逡巡する俺の前で、ふいに画面が閃いた。小さく唸りをあげながら、固まりきっていた文字の羅列が瞬く。俺は小さく声を上げた。まさに神のご加護。だが、なんだか様子が変だ。 「は〜、やれやれ。毎度ごひいきにど〜も。」 文字が一旦渦を巻き、中央に集結しておもむろに拡散すると、そこには文字でなく、画面いっぱいの人影があった。 いや、これを人と判じていいものだろうか。完全に2頭身のでかい頭部。毛髪らしきものは1本も生えていず、頭の天辺にはアンテナと思しき突起物が突っ立っている。四肢は細いが、足のサイズだけが妙にでかい。つるつるした質感の銀色の肌は、皮膚というより装甲に近い。 「毎日律儀にオレッチをこき使ってくれるユーザーさんに、特別プレゼント。パフパフ。や、目出度いねええ。」 俺はふうとため息を付いた。ここのところ徹夜続きだから仕方ない。どうやら俺は疲労の局地に達しているらしい。こんなヘンな小鬼が見えるなんて。 「だーーーっっっ、待った待った待った!!!」 電源を切って強制終了しようとした俺を、画面の中の小鬼が喚いて止める。 「短気はいけねえっスよ、ダンナ! 別に壊れたわけでもフリーズしたわけでもなんでもねえんですから!」 「…………。画面が動かなくて、変な小鬼が見える。立派に故障だ。」 「だーかーら! 今! 今説明するから!」 俺の独り言に答えた小鬼は、画面の中で体をぶるぶる震わせた。 モニターがこんもり盛り上がる。 「え、よいしょっと。」 小さな掛け声を掛けて、小鬼は画面から身を乗り出した。まず頭がむりむりとはみ出ると、カラダはすぽんと落下する。小鬼はキーボードの上で、プルプルと首を振った。 俺は眩暈を感じて眉間を揉んだ。なんだか実に嫌なものを見てしまった気がする。 「ダンナ、いきなり消すなんてつれない事言いっこなしにしましょーや。」 …妙になれなれしい奴だ。 「それにオレッチはゴブリンじゃなくて、パソコンの妖精でさあ。よ・う・せ・い。」 「嘘だ。」 「っかーーー!」 一刀両断してやると、小鬼は額をぺちぺち叩いた。頭がでかすぎて、精一杯手を伸ばしても額にしか届かない。頭の天辺が痒いときはどうするのだろう? 「妖精はもっと優雅で可愛らしいものだ。第一、こんな無機物に妖精なんか宿るか。」 「ダンナ、そりゃありませんや。ここにこうしてオレッチがいるってのにさあ。」 小鬼は器用に、額と眉間に同時に皺を寄せた。 「だいだい、蔦の妖精なら信じられてパソコンの妖精が信じられないってのは偏見もいいとこだ。人種差別だ。オレッチへの侮蔑だ。片手落ちの博愛主義だ。」 「あああ、分かった分かった。」 言う事が次第に怪しくなってきた辺りで、小鬼を黙らせる。でかい顔面に押し付けた掌に感じる触感は、案の定ステンレスみたいな冷たさだ。ほんのちょっと押しただけなのに、頭でっかちの小鬼は、バランスを崩して尻餅を搗いた。 「で、その妖精が何のようだって?」 鷹揚に聞いてやる。とっととこの幻を始末して、仕事に戻らなければならない。 「おっ、やっとその気になってくれた? オレッチもさあ、ノルマこなさなきゃ帰るに帰れないんだよね。えーっと、ダンナのとこには…。」 小鬼は、光彩だけの目玉を忙しなく瞬かせた。なんとなく、そのでかくて黒いアーモンド型の奥に、数字の羅列が点滅しているのが見える。 「ああ、あったあった。これでさあ。すごいよ。なんと、意のまま思うままの24時間をプレゼント。しかも、周囲の人間のメモリーには、その1日が残らないというオプション付! こんな夢のような1日、ダンナならどう使う…って、ダンナ!!!」 盛んに身振り手振りを交えて演説していた小鬼が憤慨したように言葉を切る。俺があくびをかみ殺してみせたからだ。 「ああ、分かった分かった。せいぜい遅れている原稿に、その1日を有効に費やさせてもらうさ。」 「信じてねえ! 信じてねえでしょ、ダンナ!」 小鬼は地団太を踏んだ。キーボードがカシャカシャ鳴り、小鬼の頭の天辺のアンテナがくるくる回る。怒っている証拠なのだろうか。 「オレッチからプレゼントもらえるのはほんの極少数、しかもこの豪華版になると、地球に一人しかあたらないのにいいいい!」 「あああ、もう…。」 小鬼の頭の天辺を弾いてやろうとした指が止まった。視線が一点に吸い付けられる。 デスクの上に、華奢なガラスの一輪差しがある。そこにコスモスが一輪。 おととい、スケッチから戻った敏生がつんできてくれたものだ。コスモスの野原があんまり綺麗だったから、天本さんにもおすそ分け、と、コスモスに負けない綺麗な笑顔で生けてくれた。それが美しい円を描いて咲き誇っている。 夕方見たときには、花弁が二片ばかり散ってしまっていたのだ。欠けてしまった円を見て、少し物悲しい気分がしたのを覚えている。それがもとに戻っているという事は…もしかしてこの小鬼の言う事は本当の事なのか? 「コスモスが戻ってる…。もしかして…。」 ごくりとつばを飲み込んだ俺を、小鬼は腕を組んで満足そうに見上げた。 「お前、本当にそんな事が…できるのか?」 「やっと信じてくれる気になりやしたかい?」 偉そうにふんぞり返る。案の定、ふんぞり返りすぎた小鬼は、バランスを崩してひっくり返った。 「ま、オレッチ一人の力ってわけじゃないんだけどね。オレッチがプレゼントするのはレイヤー部分と思ってくれればいいんでさあ。」 「レイヤー…。」 「そう、レイヤー部分なら、いくらいじっても下絵には影響なし! んでもって、後からレイヤーだけ消去しちまえば、最初っからなああんにもない事にできるって寸法でさあ。」 「………。」 「レイヤー上なら、反社会的な事でも、反道徳的な事でもなんでもアリ! 普段思ってて実行できない事、手が後ろに回りそうな事でもなんでもやり放題だよ!!」 「思っててできない事…。」 不意に頭の中に、着物の前をはだけさせてよろめく敏生が浮かんだ。しどけなく裾を乱し、頬を赤らめて膝を着く。その敏生の帯を握ってだらしなく笑み崩れているのは…あれは俺か? 「ダンナダンナダンナ!!!」 連呼されて我に返る。俺は慌てて首を振り、不埒な幻を追い払った。 俺は決して、いつもそんな無体な事を敏生に懸想しているわけではない。今のはほんの気の迷い…に違いない。 だが、小鬼は俺の焦りまくった顔になにかを読んだらしい。また器用に額と眉間に皺を寄せた。 「…気に入っていただけやしたか?」 そのままの表情でにや〜と笑う。この邪な表情、これはやっぱり妖精なんかじゃないぞ。 俺は慌てて咳払いをした。 「その都合のいい話で、お前に何のメリットがある。」 俺はせいぜい偉そうに言う。当たり前だ。俺はごく常識的な人間だ。うまい話には裏があるに決まってる。 「メリット! あ〜やだやだ、これだから俗世の人間は…。」 小鬼は小馬鹿にしたように首を振った。 「いいですかい? シンデレラの魔女がかぼちゃの馬車のレンタル代金を請求しましたかい? 靴屋の小人が後で手間賃を交渉しに来たりしましたかい? 妖精ってのはそういう高尚な生き物なんでさあ。」 不意に短い指を胸の前で組み合わせ、似合わない殊勝な態度で俺を見上げる。 「オレッチの願いはただ一つ。これからも、このパソコンを大事に可愛がってね。これだけでさあ。」 光彩だけの瞳に、涙だかオイルだかを滲ませてさえ見せる。 どうも胡散臭い。だが、レイヤー部分の話は気に入った。 「そうだな。有り難く頂戴しておくか。」 「そうこなくっちゃ。」 小鬼はにたりと笑った。本人はにっこりのつもりなのかもしれないが、俺にはにたりとしか見えない。 パソコンの画面がぐるぐると渦を巻き始めた。俺の了承と共に、こいつは国に帰る事ができるシステムらしい。 慌ててよちよちと歩むと、小鬼は俺のパソコンのウインドウに足を突っ込んだ。 「それじゃあね、ダンナ。きっちり24時間だからね。時間切れに気をつけて、楽しい1日を過ごしておくんなさいよ。」 じゃね、と軽い挨拶を残し、小鬼はウインドウの向こう側に消えていった。 後にはさっきまで俺が睨んでいた文章が残っているだけだ。 俺は立ち上がった。小鬼は24時間と言っていた。少しの時間も無駄にはできない。 扉を忙しなく叩く。ノックは3度。いつも敏生に教えている通りだ。 「敏生、起きているか。」 扉の向こうから、ふにゃあと寝起きの猫みたいな返事が聞こえる。俺は静かに扉を開けた。 「出かけよう、敏生。どこへでも君の好きな所へ…。」 敏生は寝ぼけ眼で俺を見た。普段の俺なら絶対に起きてなどいない早朝だ。敏生が驚くのも無理はない。 敏生を驚かせた事に上機嫌だった俺は、だがふと言葉を切った。敏生のデスクの上に、見慣れた羊人形が乗っている。 俺に睨み付けられて、心なし羊の黒い顔が青くなった気がする。俺が執筆活動に入って構ってやれなくなると、敏生が淋しがるのは分かっているが、だからといって寝室に小一郎を引き入れる事はないではないか。俺ですらそんな事をしてはいないのに。 「天本さん、どうしたんです? 原稿は…?」 「いいんだ。今日は1日空きができた。どこかへ遊びに行こう。」 ベッドに座ったまま大きな目をぱしぱしと瞬いていた敏生は、やがて小さな歓声を上げた。 「いいんですか? うわあ、嬉しいなあ。」 幼い頬が、たちまちバラ色に染まる。この素直な反応が見れるだけでも小鬼に感謝しなくばなるまい。 「主殿!」 小さなつむじ風が舞った。黒衣の式神が、なんだかわくわくと俺の足元に跪いている。俺は眉を潜めた。 いつもは呼ばなければ決して俺の前に姿をあらわさない小一郎が、嬉々として出現するのはどうしたわけだろう? 敏生が兄弟のようにかまってやるせいか? それとも、敏感に遊びに行く事を嗅ぎ付けたからか? あるいは…レイヤー部分であるゆえのちょっとした歪みか? 「出かけられるのですか! 小一郎めもお供仕り…。」 「封印!」 全部言い終わる前に、俺は羊人形をぴっと指差した。式神の黒衣が、小さな渦巻きになって羊人形に飲み込まれていく。 「なぜだあああぁぁぁぁ………。」 許せ、小一郎。 お前を連れて行きたくないわけじゃない。 だが、せっかくの敏生との2人っきりのデートを誰にも邪魔されたくはないんだ。 それに、お前は俺に無断で、敏生の可愛い(予想)寝姿を拝んだじゃないか。それで十分だろう。 そしてこれはレイヤー部分だ。明日になれば、お前は俺の仕打ちもすっかり忘れているに違いない。 俺は引きつりそうになる頬を押さえて敏生の方へ向き直った。決して笑いをこらえているわけじゃないぞ。 「さあ、敏生、どこへ行く?」 p 美術館でも、景色のいい草原でも、どこへでも連れていってやろう。ただ、ハワイとかヨーロッパとか言うのは困る。せっかくの24時間が、移動だけで終わってしまう。だが、慎ましい敏生が、そんなにだいそれたお願いをするはずはない。 敏生は羊人形に飲まれた黒い渦巻きをびっくりしたように見つめていたが、やがて少しためらいがちに声を上げた。 俺は今度こそ頬が引き攣るのを感じた。 「楽しいですねっ、天本さん!」 「ああ。」 「僕、天本さんとここに来るの、夢だったんです!」 「…ああ。」 「あっ、次あれ! あれに乗りましょうよ!」 敏生の柔らかい手が俺の手を握って引っ張る。指差す先に、大きな螺旋を描く鉄骨のはしごが見える。まるでそのまま天に駆け上がっていきそうに高く伸び上がった鉄骨の上を、今まさに小さなトロッコが急転直下、滑り落ちていく。 敏生が指定したのは、遊園地、それも絶叫マシン満載で知られた所だった。 もう俺はすでに、カーペットやらバイキング船やらに文字どおり散々振り回されてグロッキーになっている。どうして敏生はこんなにグリグリ回りたがるんだ? ジェットコースター一つをとっても、ループがないと物足りないらしい。 自慢じゃないが、俺は子供の頃からこんな騒々しい所へ来た事がない。絶叫マシンなど、どれもこれも初体験だ。 重力に反した力が掛かるたび、足の裏がぞわぞわして胃袋が持ち上がるような感覚は、不快であれ快感などにはなり得ない。 だが、そんな弱音を誰あろう敏生にだけは見せるわけには行かない。俺は敏生の前でだけはスーパーマンでいたいのだ。 「? どうしたんですか? 天本さん、顔色悪くありません?」 …気付いているなら、ジェットコースターは止めてくれ。 だがそんな事は言えるわけもなく、俺は口をへの字に結んで虚勢を張った。 「平日はやっぱり空いてていいですね。僕、こんなに並ばないで乗り物に乗れたの初めてですよ!」 …そうだったのか。それは抜かった。待ち時間が長ければ、もう少し体力を回復する時間もあったろうに。 だが、無情にも、俺たちの並んだ列はあっという間に短くなる。敏生が歓声を上げた。俺たちの目の前で一団のトロッコの列が区切られたのだ。 「凄い! 僕たち最前列ですよ! うわあ、スリル満点だ!」 …勘弁してくれ。もう俺の三半規管は悲鳴を上げている。 妙に湿った感じのビニールのシートに押し込まれた。 係員の青年が仏頂面で、上からガションと巨大なゴムの蹄鉄のような形のパイプを押し下げる。それで上半身をすっかり固定された。 ガクンとつんのめるような乱暴な動きで、トロッコは前進し始める。間もなく体が斜めに傾いだ。急斜面を登り始めたのだ。 カンカンカンカンカンカン…………。 トロッコを支えるチェーンがレールに打ち付けられる音だろうか。背骨に響く金属音が、否応もなく緊張感を高めていく。 他のアトラクションが次第に見えなくなり、巨大な観覧車の天辺さえ視界の下に消えていき、代わりに妙に空が近くなったように感じられる。目の前の鉄骨のはしごが不意に途切れた。 「天本さんっ!」 敏生が手を伸ばして俺の手をきゅっと握った。だが、その声はむしろ楽しそうにわくわくと弾んでいる。 風がごうっと俺たちの顔に吹き付けた。 「うわあーーーーーっっっ!」 敏生が声を張り上げる。歓声は俺たちの背後からも沸きあがる。急降下による圧力に、後頭部がシートに押し付けられる。きっと俺は今、引きつりきった顔をしているだろう。 うむむむむむ。 こんなの、何が楽しいんだ! 胃が縮み上がる。血液が逆流する。髪の毛が…根こそぎ引っこ抜かれる! トロッコは容赦なく右に左に揺れる。風で目玉が痛い。レールが進行方向を変えるたび、俺はシートの中でごちごちとあちこちにぶつかった。掬い上げられては突き落とされるような感覚に、三半規管だけでなく、内臓すべてが悲鳴を上げている。 「天本さんっ、3回転ループっ!」 敏生がわずかにこちらを向き、にっこりと笑った。茶色い猫っ毛が忙しく風にたなびいて、敏生の紅潮した頬を叩いている。どうしてここでそんなに愛らしく微笑む事ができるんだ? それに何だって? 3回転ループ? 「手を上げるんですよ! 両手を挙げてバンザイするんです!」 敏生の華奢な腕が上がった。俺はつられて両手を挙げた。支えがなくなると気付いたのは、手を上げた後だった。 …間違いだった。 「わああああーーーーーい!」 敏生の嬉しそうな声がなんだか遠くで聞こえる。上半身を固定するチューブに全体重が掛かって、内臓がぎゅうっと圧縮される。足元がふうっと軽くなって、今度は肩に重みが掛かる。それが3回。視界が回る。遠くの山が…大観覧車がぐるぐる回っている。一旦上がってしまった手は元に戻るなど考えも及ばない。俺はまさしく嵐の中の木の葉のようにぐるぐると翻弄される。 ガックン、と体がつんのめった。急にざわざわと辺りがざわめく。俺はまだ両手を挙げたまま放心していた。 「あ〜、楽しかった。凄かったですね、3回転ループ。あれ? 天本さん? もう手は下ろしてもいいんですよ? 天本さん?」 ああ…、揺れない地面がこんなに有り難いものだと思った事があっただろうか。 俺はなんだか急に小一郎を尊敬したい気分になっていた。 「大丈夫ですか? 天本さん…。」 「…………。」 「もう、苦手だったら最初に言ってくれれば良かったのに…。」 「むう…。」 俺はかろうじて返事らしきうめき声を上げた。敏生の細い指が、俺の額の汗に張り付いた髪の毛を払ってくれる。 俺はベンチを一つ占領して、長々とそこに伸びていた。敏生が膝枕をしてくれているので、気分はさっきよりはだいぶいい。ただ、通りすがりにじろじろ覗き込まれる事だけが難点だ。 「…なにか冷たいものでも買ってきましょうか。」 「ああ、いい。もう大丈夫だ。」 一応強がっては見たものの、少し頭を浮かした途端にぐるりと視界が回り、俺はあえなく沈没する。情けない。張り切れない虚勢なら、最初から張らない方が良かったのだ。 敏生にはカッコ悪い所は見せたくないと思ったのに、結局一番カッコ悪い所を晒してしまった。 「だいじょうぶですか?」 心もとなげな敏生の声が耳に痛い。敏生はまだまだ遊びたいだろうに。 「…まだ乗りたいものがあるんだろう?」 そっと聞いてみると、敏生は素直に頷いた。 「えーと、後あれとあれとあれには乗ろうと思っていたんです。」 指差す先を追ってみると、相変わらずぐるぐる回されたりぶんぶん振り回されたりする乗り物ばかりだ。見ただけで気持ち悪くなった。 「…君一人で行ってくるといい。俺はここで待っているから。」 「んー…。」 敏生は人差し指をあごの先に押し当てると、少し躊躇う表情を見せた。それからにっこりと笑う。 「ちょっと待ってて下さいね、天本さん。」 俺の頭を抱えて膝から下ろす。少し慌てたのか、手を放すのが幾分早く、俺の頭はベンチの上でゴンと鈍い音を立てた。 飛び跳ねるように駆けていく後ろ姿を、俺は安心半分不満半分で見送った。 やはり敏生はまだ幼くて、遊園地の乗り物という誘惑には抗いきれないらしい。俺のためにその楽しみを奪わせてしまうのでは申し訳ない。 敏生が、俺の言葉どおりに素直に楽しんで来てくれるのは、俺を信頼してくれている証拠だろう。だからその点に関しては俺もやぶさかでない。 だが、今日という一日は一体なんなんだ。俺はあの銀色の小鬼を恨めしく思い出す。 何が意のまま思うままの一日だ。何も俺の思うようにはかが行かないばかりか、裏目に出てばかりではないか。これで敏生まで楽しんでくれていなかったら、目も当てられない。 「天本さん、ただいま。」 物思いに耽っていた俺の視界を、突然白い物が塞いだ。驚いて目を上げると、敏生がにこやかに立っている。両手に持っているのはソフトクリームだ。 「バニラとチョコミックス、どっちがいいです?」 一応お伺いを立ててはいるものの、今にもチョコミックスに噛り付きそうになっている。俺は苦笑を押し殺してバニラを受け取った。 「あ、起きちゃだめ。天本さんの頭は僕の膝の上です。」 「…しかし、膝枕じゃソフトクリームは食べられないぞ。」 「そこは努力して下さい。」 敏生はさも当然といった様子で、俺の頭を再び膝の上に乗せた。 「さっきからこのソフトクリームが美味しそうで、屋台が回ってくるのをずっと待ってたんです。」 「…君は乗り物に乗りに行ったのだと思った。」 「こんなへばってる天本さん置いて、遊びになんて行きませんよう。」 敏生は楽しそうに笑いながらソフトクリームに齧り付く。俺の手にしたバニラがたらたら垂れてきているのを見て、嬉しそうにそれにも噛り付いた。さてはこれも膝枕の目的だったのかもしれない。 「そりゃあ、アトラクションも楽しみだったけど、僕が本当に楽しみだったのは、天本さんと一緒に遊ぶって事だったんですから、僕一人で遊びに行ったってつまんないですよう。」 敏生は俺を覗き込んだ。口の端にチョコミックスがくっついている。 「ね。」 ご機嫌で言う敏生の唇を親指で拭って、俺はそれを口に含んだ。口の周りが汚れていた事にそれで気付いたのか、敏生が少し恥ずかしそうに頬を染める。 「こっちのバニラも食べていいよ。俺はこれだけで十分だ。」 「えへ。じゃあ、遠慮なく貰っちゃいますよ。後で半分よこせなんて言わないで下さいよ。」 ソフトクリームを両手にした敏生は、実に幸せそうに微笑んだ。 「今日は楽しかったです。天本さんの苦手も発見しちゃったし。僕でもたまには天本さんを庇ってあげられる事があるなんて、ちょっと嬉しいです。」 胸がちくりと痛んだ。今日がどんなに楽しくても、明日にはこの思い出は敏生の脳裏から抹消されてしまう。なんだか敏生を騙しているような気分になった。 だからといって、今日という日をもう一日繰り返すのは…なんとも気が進まないが。 「…そうだな。俺も楽しかったよ。」 やっとの思いでそう言う。少ししょっぱい顔になったのを敏生に感づかれたようだ。 「今日は、どのアトラクションが一番楽しかったです?」 覗き込む透き通った瞳を安心させたくて、俺は優しく言った。 「そうだな。…君の膝の上が一番楽しい乗り物だったよ。」 「…やだ! 天本さん、おじさんみたいですよう!」 敏生は目を丸くすると思い切り俺の腹を叩いて、あげく大笑いした。 結構マジだったのに…。俺はせき込みつつそう思った。 計算どおり。俺は腕を捲った。書斎のパソコンの前だ。 小鬼に与えられた24時間のうち、20時間は敏生とみっちり過ごした。遊びにも行ったし、久しぶりに凝った手料理を作った。暖かい食事に楽しい会話、そして可愛い敏生の笑顔。俺の幸せはここに集約しているといっていい。 後はその幸せを持続させるための、糧を得る作業に専念するまで。つまりは、明日こそ本当に訪れるであろう、編集者を納得させるための小説書きの仕事に没頭する事だ。 幸い、充実した1日を過ごしたお陰で、創作意欲は満ち満ちている。なにか今なら傑作を書けそうな気さえする。俺は勢いよく指を走らせた。言葉が泉のように湧いてくる。こんなにはかどるのは久しぶりかもしれない。 しかし、待てよ。俺は調子に乗って動いていた指を止めた。今この場面はレイヤー部分だ。ということは、いくら快調に指を走らせても、ある時間がくれば、これは白紙に戻ってしまうという事か。 俺は腕を組んだ。そう言えばこの画面だって、がちがちにフリーズしてしまって、如何様にも進まなかったはずだった。 これらはすべて幻なのだ。いくら作業に精出しても、それが実を結ぶ事はない。小鬼はこれは故障でもフリーズでもないと言っていたかな。ならば、その時間が来ると同時に、画面はフリーズする直前の状態に戻るというわけか。 俺は腹立ち紛れにパソコンの電源を落とした。画面を閉じる時に、しつこいくらい丁寧に、保存の有無を確かめられる。構うもんか。どうせここで保存しても、5時になれば白紙に戻ってしまうのだろう。 微かなうめき声を上げて、昨日からずっと点けっぱなしだったパソコンの画面が消える。再起動すると、画面がいつもより眩しい気がした。 俺は時計を睨んだ。午前5時まで後30分。いつのまにか時間が過ぎていたらしい。そのまま俺は、画面が戻るのを待つつもりだった。 今日一日を振り返る。せっかくのレイヤー部分だというのに、ちょっともったいない使い方をしてしまったかもしれない。もっと普段できなかった事をするべきではなかったのか。たとえば…。 俺は勢いよく首を振った。妄想が霧散していく。たとえすべてをチャラにできる空間であっても、敏生を悲しませるような事は俺にはできそうもないな。 それにしても、いつまで待っても画面が動かない。 変な汗が背中を伝い出した。30分はとっくに過ぎている。なんとなくデスクの上に目を走らせて、コスモスの花びらを見つけた。俺はその時、とてつもなく嫌な事を思い出した。 夕べ、1時過ぎに、俺は眠気覚ましのコーヒーを入れた。慌てていて、少しデスクに零した。それを拭いたとき、コスモスの花びらはそこには無かった。夕方にはもう散っていたはずの花びらが。 …そういえば、コーヒーを入れに行っている間に、画面がなんだか変わっているような気がしたんだった。ちょうど章の境目で頁を変えた所だったから、白紙の部分が多いのかと、たいして気にも留めなかったのだ。 腕を組む指に、無意識に力がこもる。爪が真っ白になっているのがちらりと見える。 小鬼は24時間と言っていたが、いつからとはついに一言も言わなかったのだ。レイヤー部分の24時間はもしかして、夜中の12時辺りから始まっていたのではないのだろうか。 小鬼は、多分遅れて現れたのだ。だからなんだかしつこいくらいに時間切れに注意しろと言ったのだ。そうに違いない。 してみると、あのフリーズ。あれは、フリーズしたから小鬼が現れたのではない。小鬼が現れるためにフリーズしたのだ。 「保存は………してなかったな…。」 一向に変わらない画面を睨み付ける。スクリーンセイバーの羊人形が点滅している。顔の黒い羊が、俺の努力の結晶の30頁プラスアルファを食い尽くした気がする。 俺は今まで書いてきた文章を何一つ抹消する必要はなかったのだろう。小鬼が去って、画面が元どおりに戻ったら、そこから数時間分だけを溯って作業し直せば良かったのだ。コーヒーを入れた後も、なんとなくはかどらなくて、わずか数頁分しか進まなかったあの部分だけを。 …そういえば、さっきも、変な所から文章が現れたと思ったんだ…。 「やっぱりあいつ…、妖精なんかじゃありえない…。小鬼どころか疫病神じゃないか…。」 ああ、朝日が射す。俺はしゃっきり背筋を伸ばして固まったまま、点滅する羊を睨み付けていた。 俺自身の時間切れも、もう間近に迫っていた。 |