いろいろアキラ君 2




「アキラもそろそろスーツを揃えないといけないな。」

名人は端正に座って新茶を啜りながら言った。後援会のメンバーに茶畑を持っている人がいて、毎年一番に手揉みの新茶を送ってくれる。舌の上にふうわりと甘味を残す、清清しい香のこの新茶を楽しむのは、1年のうちでも特に大切なひとときだ。

「僕、欲しいブランドがあるんです。」

アキラが控えめな声を上げた。尊敬する父親の前で抑えた声だが、嬉しそうに弾んでいるのが分かる。だが名人はゆっくり首を振った。

「アル…なんとか言う奴だろう。お前にはまだ早い。そういう贅沢は、自分の身くらい自分で支えていけるようになってからするものだ。」
「はい…。」

明らかに落胆した様子でアキラは俯いた。側でお茶菓子を用意していた母は、微苦笑して親子を見る。
年がいってから授かった一人息子を、名人は溺愛している。本当はこの父親は、アキラが望む物なら何でも鼻の下を伸ばして買い与えたいのだ。事実、利発すぎるアキラが小学校に入るまでは、アキラの部屋は連日名人が買ってくるおもちゃの類で足の踏み場もないほどだった。
アキラに物心がつき、名人としての立場もいよいよ確立された頃から、彼は格段にアキラに厳しくなった。アキラの将来を考えてと、自分の厳格な父親像を守るために、彼はかれこれ10年以上もやせ我慢を続けているのだ。
その証拠に、言葉を濁しては見たものの、アキラが欲しがるブランドがすらすらと出てきたではないか。自分は普段和服にしか袖を通さず、興味もないのに。

「先生は厳しいなあ。アキラ君なら何でも似合うのに。」

今日も派手なスーツを着た緒方が軽い笑い声を上げた。パーティーに出るわけでもないのに、彼はいつも人目を引くスーツを着ている。胸にバラを挿してないのが不自然なほどだ。

「しかし、これはまだまだ背も伸びる。季節のたびに新しいスーツを新調するわけにも行かないだろう。」
「天下の塔矢名人のご子息で、自らも目覚しい新人プロのアキラ君ですよ。スーツくらい奢らなくてどうします。」
「…ああ、君には敵わないよ。正直、私にはスーツの類はまったくわからないんだ。」
「でしたら、僕が見立てて差し上げましょう。」

緒方が、自信たっぷりに胸を張る。ぎょっとした顔をしたのはアキラだ。

「お、お父さん、僕、アオキのフレッシュマンフェアの紺スーツでいいです。いま、買ってきます。」

その店なら近場にあるし、いつでも着られる出来合いが、サイズも取り揃えてある。緊急避難のつもりで口に出したアキラだったが。

「なんだ、そんなものでいいのか。それじゃあ車を出そう。僕が君にぴったりのものを選んであげるよ。紺スーツなんて地味なことを言っていないで。案外欲がないんだな、君は。」
「うむ。緒方君が一緒に行ってくれれば安心だな。それじゃ行ってきなさい。」

洋服に本当に無頓着な父は、上機嫌で二人を送り出す。アキラはがっくり首を垂れた。



「紺スーツはどうしてもダメだ! 没個性も甚だしい! 我々は地味とは言え人前に姿を晒す事で収入を得る職種の人間だ。だからインパクトが第一だ。アキラ君には…そうだな、君の優しい顔立ちなら、ピンクのスーツがいいだろう。」

緒方は店につくなり鼻息を荒くしてまくし立てた。アキラは有無を言わさず引っ張りまわされ、どこをどう通ったのか、目指す紺スーツとは程遠い売り場に連れて行かれた。

の前に満面の笑みを湛えた緒方が持っているのは、どこから探してきたと聞きたくなるような、濃いピンクのスーツだ。林家ペーパーだって、これほどのピンクは着まい。アキラは必死に眩暈を堪えた。

「お、緒方さん…、これは…ちょっと…。」
「なぜだ。よく似合うぞ。」

緒方はアキラの肩にスーツを押し当てて一人ごちる。アキラはキングサーモンで作ったレイを首に掛けられた気分になった。

「ピ、ピンクは…、父が嫌いなんです…。」

物心ついてからこの方、嘘などついたことのないアキラの口からは、そんな言い訳が精一杯だ。緒方は余裕で笑った。

「大丈夫。父君なら、僕が説得してあげよう。」

常人離れした父なら、その説得は簡単に通じてしまいそうだ。アキラは涙目になった。そんなチンドン屋みたいなスーツは断じて嫌だ。そんな服を着て、進藤の前に出ろというのか…。

「ち、父は最初に決めたことを覆すのが嫌いなんです。だから僕、やっぱり紺スーツを買います!」

アルマーニどころの騒ぎではない。いまやアキラは只のスーツを手に入れるのに必死になっていた。

「いや、君には絶対これが似合う。」
「似合いません!」

思わず泣き出しそうに叫んでしまう。流石に緒方も鼻白んだようだ。

「分かった分かった、そんなに言うなら、君の意思を尊重しよう。」

緒方は気障なポーズで両手を上げた。アキラは心底ほっとした。

「間を取って、これはどうだい?」



こうして、アキラのスーツは紫になった。 



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