いろいろアキラ君 4




アキラは近頃すこぶる不機嫌だ。
なんだか何もかも思ったように事が運ばない。囲碁の成績だけはよかったが、それは当たり前のことで、特筆するに価しない。

父親が倒れたときには本当にヒヤヒヤした。彼にはまだまだ健在でいてもらわなくては困る。
今の時点では強力な後ろ盾として。時期がきたなら、乗り越えていく格好の踏み台としても。
もちろん父親としての彼を敬愛し、尊敬してはいるが、それはあくまでも生み育ててくれた恩義があるということ。囲碁人としての彼は、アキラをより成長させ、最後には踏みしめるに最適の屍役として存在していなければならない。

だから彼は病院にも足繁く通う。自慢の可愛らしい笑顔を見せて安心させ、少しでも早い回復を促したい。
どういうわけか大人どもは、言葉少なに微笑んでいれば、それを従順な態度だと受け取ってくれる。その笑顔の下でどんな姦計を張り巡らせていようとも、ちっとも気付かずに一生懸命庇護してくれる。
子供には身を守る武器や鎧は必要ないのだ。特にアキラのような美しい子供なら、大人たちはなんの見返りも期待せず身を呈してくれる。笑顔一つでアキラはこれまでにも多くの大人たちを手玉にとってきた。

突然前方が騒がしくなった。アキラは顔を上げ、反射的に身を隠す。場違いな大声と足音で病院の廊下を走ってくるのは、目下アキラを一番に悩ませている進藤と…緒方だ。

「待て、進藤!」
「失礼しますっ!」

追いすがる緒方を、進藤は振り払って駆け抜けていった。
顎の線で切り揃えた髪がふわりと揺れるほど近くにいたのに、進藤はアキラに気付きもせずにまろびだして行く。取り残された緒方は呆然と片手を差し伸べていた。

アキラは苛立ちに思わず親指の爪を噛んだ。
進藤は、アキラのもっともままならない人物だ。不思議に上下する囲碁の腕前はもちろん、その強く輝く瞳とくるくる変わる表情とがアキラを翻弄する。
取り込んでやろうと、手繰り寄せ手繰り寄せ、やっと関心を捉えたと思ったら、風の前の羽のようにふわりと寄り付かなくなってしまった。
こんなに思うようにいかない者は他にない。アキラの魅力の前には万人が平伏すはずなのに。それがやっかみから阻害へと姿を変えることはあっても、こんな風にあからさまに避けられることは今までになかったことだ。

「…あの女がいけないのかも。」

アキラは呟く。無理を言って参加した中学校の囲碁大会のとき、進藤の側に寄り添うように立っていた髪の長い少女─あかりといったか─あの子がもしかして、進藤のアキラへの関心を遮る盾なのかもしれない。

アキラは身を隠していた場所から一歩踏み出した。背後で硬直する緒方を十分に意識して進藤の去った後を見送る。それからゆっくり振り向いた。

「アキラ君…。」
「進藤と仲がおよろしいんですね、緒方さん。」

冷たい響きが加わるように意識して言葉を放つ。瀟洒なスーツを着こなした緒方がびくりとすくむ。この男がスーツを脱ぐと、子供のように乳首ばかりにむしゃぶりついてくるのを知っているのはアキラだけだろう。

「じゃあ。」

軽く頭を下げ、隣を擦り抜けると、上ずった声とともに手首を捉まれる。

「ま、待ってくれ、進藤とのことはなんでもないんだ。」
「離してください。進藤の後を追えばいいでしょう。」
「違うんだ、話を聞いてくれ。」

緒方の手は汗ばんでいて肌に吸い付いてくるようだ。
鬱陶しい。アキラは心底そう思う。この男がアキラにとって甘味でいられたのももうここまでかもしれない。

進藤がほしい。アキラは切に思った。
彼ならこうして縋るにしても緒方のように未練たらしくはしないだろう。他の大人たちのように、年上であることを嵩に着て、威嚇したり宥め透かしたりもしないのに違いない。烈火のごとく怒り狂うか、いっそ潔いほどに泣き喚いてくれるだろう。
あのまろい頬や肩をこの腕に抱きしめて、他の誰にも目がいかないように自分だけに従順に従うペットにしてみたい。進藤を包み込むことが出来さえすれば、アキラにはもう2度と彼が離れていけないように彼を虜にする自信がある。
そう、彼の肌の上を通りすぎていったほかの大勢の大人たちのように、彼なしではいられない身体に進藤を変えてしまえる自信がある。

そのためには邪魔物は排除しなくては。

頭の上でまだ緒方が何かしらわめいている。囲碁だの佐為だのと聞き取れるから、何を言っているかは大体分かる。だがそれはどうでもいい。

「緒方さん。」

アキラから声を掛けると、緒方は息を呑むように黙り込んだ。

「さっきなんでもするって…おっしゃいましたよね。」
「ああ、君がご機嫌を直してくれるなら…何でもするよ。」

食いついてくる。貪欲な獣のようにあぎとから唾液を滴らせているのが見えるようだ。

見返りなくしても誰からも尽くされるアキラには、見返りに飢えた緒方なら悪魔に魂をさえ売り払ってくれるだろう。

どのように説明しようか。あの邪魔なあかりという少女。進藤の関心が彼女から完全にそれるためには何をしたらいいのか。別に傷つけたり存在自体を消す必要はないだろう。今は、まだ。

アキラは無意識に唇を嘗め回していた。ふっくらした唇の上を可愛らしいピンク色の舌が蠢いていくのを、緒方が食い入るような目つきで見ている。それに気付いて、アキラは顔を上げた。

「じゃあ、一つお願いがあるんです。」

絡み付く視線を投げ、わざと舌足らずな口調で囁く。緒方に許しを与えてやるかのように、初めて大きく微笑んでみせる。こうしてアキラの手に入らなかったものはない。今までもこれから先も、きっと。

緒方が操られたように肯いて、震える指先でネクタイを寛げた。  



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