公園に行こう!




陽気がうららかになってくると、たちまちうつけめがそわそわしだす。

「天本さん、お花見に行きましょうよ。もう公園のサツキが見頃ですよ。」
「ああ、…そうだな。」

一仕事終えられたばかりの主殿は、眠そうに目をしばたたく。俺はそんな二人の様子を、いつもの羊人形の中からはらはらしながら見守っている。うつけが主殿にまた難題を吹っかけねばいいのだが…。

「平日なら人出も少ないし、今ごろは外でお昼寝してもいい時分ですよ。だから、ね、行きましょうよお花見。お弁当持って。」
「弁当か…。君の目的は、本当は花じゃなくてそっちなんだろう。」

主殿が苦笑しながら言われると、うつけは鼻の頭に皺を寄せて笑った。照れくさいらしい。

やれやれ、またうつけの“おねだり”が成功してしまったようだ。主殿は少し大儀そうに腰を上げられた。

「泣く子と何とかには敵わないな。さて、春らしく散らし寿司でも作るか…。」
「えー、僕、泣いてまでお願いしてませんよう。」

うつけが頬を膨らまし、それでも嬉しそうに主殿の後を追いかける。本当に主殿はうつけには甘いのだ。俺がうつけめを見張っていなくては、主殿は振り回されて疲れきってしまわれるだろう。
俺は張り切って身づくろいをする。二人について行ってしっかりうつけの手綱を握っていなくては。それに、花見というのにもちょっとは興味があるな。



ばす”という大きい不恰好な乗り物に乗って少し行った所に、広い公園がある。緑の芝生に覆われた園内には所々に木立が生い茂り、小川なども流れていて、人々の絶好の“おあしす”になっているそうだ。
正直、俺もここの雰囲気は嫌いではない。明るい庭園内には遮るものが少ないから日当たりがよく、ぽかぽかと暖かい。そして、日光を遮るものがあるところ─作られた日本庭園や東屋など─は、一種の吹き溜まりのようになっており、明るいところを逃れるために雑霊が寄り集まっていて、俺にとっても絶好の“おあしす”であるのだ。

うつけは大きなランチボックスを抱えて嬉しそうに小走りになる。大きなビニールシートを小脇に抱えた主殿はゆっくりとした足取りだが、それでもうつけと大して進む速度が違わないのはどうしてだろうか。

「天本さん、ほら、ここが園内でも一番のサツキのポイントですよ。これだけカラフルに咲いているのを見られるのは、ここだけなんです。僕、ちゃんとリサーチしてきたんですよ。」
「ほう、なるほど、君のお眼鏡に適っただけはあるな。見事なサツキだ。…なんだ、もう昼飯の催促か?」
「えへへ、だってさっきからものすごく美味しそうで、待ちきれないんですよう。」
「しょうがない奴だな。」

うつけは主殿から奪うようにビニールシートを受け取ると、芝生の上に広げた。小さな星型が色とりどりに咲き誇っている潅木の前だ。柔らかい風に乗って、ほのかに花の香りもする。小さな灰色の蝶などもひらひらと舞ってきて、目を癒してくれる。
なるほど、園内に人はまばらで、時折数人が通りかかる程度だ。てれびで見た花見の、花を見てるんだか人を見てるんだか分からないような人込みとは雲泥の差だ。これなら純粋にサツキを楽しめるだろう。

うつけはさっそくシートの上にぺたんと座り込んで、ランチボックスを開けた。それから思い出したように羊人形をポケットから引っ張り出す。
尻ポケットの中でうつけの下敷きにされかかって、ひやひやしていた俺はほっとため息をついた。だが、なんだか主殿の俺を見る目が冷たいような気もする。

「敏生、小一郎も連れてきたのか。」
「はい。こんないいお天気にお留守番じゃ可哀相だから。それにね、なんだか行きたそうに手がぱたぱたしているのが見えちゃったんです。」

む、余計な事を言うな。主殿が冷ややかな目で俺の方を見られているではないか。
俺が冷や汗を垂らしつつ、うつけの方をじっとり見つめているのも、奴めは気付かない。さっそく主殿お手製の弁当を広げてご満悦の表情だ。
p 「うわあ、天本さん、このお弁当すっごくキレイ。天本さんてお料理ももちろん上手だけど、色彩感覚とか、センスもいいですよね。本当に見るからにおいしそう。」
「そう言ってもらえると嬉しいが、本当は君に美味しそうに見えない弁当を作る方が難しいんじゃないのかな。」
「そんな事ないですよう。それじゃ僕、まるで食欲大魔王じゃないですか。」

そのとおりではないか。俺は呆れてうつけを見る。すると、何を勘違いしたのか、うつけは俺の前の紙皿にころりと鳥のから揚げを転がした。

「食べてみる? すっごく美味しいよ、天本さんのから揚げ。」

ばかもの。いつも人前で姿を現すなと言うのはお前ではないか。羊人形がこんなもの食えるか! ものすごく食いたくはあるが。
俺がから揚げを睨み付けていると、ひょいと体が浮きあがった。主殿がいつもどおりの冷たい手で、羊人形を握り締めていた。

「仲がいいんだな、二人とも。最初の頃はどうなる事かと思ったが。」

な、なんだか声に刺があるように感じられるのは、俺の気のせいか?

「そうでもないですよう。小一郎って時々とってもわからんちんなんですもん。」
「ほう、たとえば?」
「そうですねえ…。」

うつけはほっぺたに人差し指を押し当てて首を傾げた。指先に米粒がついていたのだろうか、それがそのままほっぺたに張り付いた。

「そうそう、あの大雪が降った日に、小一郎ってば冬将軍ってどんな奴だって大騒ぎしちゃって。」
「冬将軍?」

心持ち、主殿の俺を握り締める手が緩んだ気がする。

「そう。テレビかなんかで見たらしいんですけど、攻めてくるなら備えねば!とか言っちゃって、大変だったんです。」

…古い話を蒸し返すな。ちょっと勘違いしただけではないか。

「だからね、その後庭に出て、雪を使って冬将軍の講習ですよ。お陰ですっかり冷えちゃって。」
「……ああ、君が風邪をひきかけたあの日か。」

うつけは呑気そうに笑っているが、主殿の声は殊のほか冷たい。何やら首筋まで冷たい…気がするぞ。

「だからね、その後二人でお風呂に入ったんです。羊人形もドロドロになっちゃったし。」
「…ほほう。」

だっ、だからそれが余計だというのだ。俺は思わず主殿の手の中だという事も忘れて手足をじたばたさせる。途端にぎゅっと冷たい指が巻き付いてきた。

「ちょっと乱暴だったけど、羊人形も綺麗に石鹸で洗ってあげて、汚れはちゃんと落とさないとねって教えてあげたんです。そうしたら、なんだかお尻がむず痒くなって。」
「…………。」

もういい! その辺にしておけ! 主殿が黙り込まれてしまわれたではないか!
俺には叱られるより、何やらよほど恐ろしいぞ!

「僕、自分のお尻なんか見たことないから、何がついているのかと思って、浴槽の中でグルグル回っちゃいましたよ。そうしたらね、そこに小一郎が張り付いているんです。」
「………ほーう…。」
「僕のお尻にね、黒子があるんですって。それを、『粗忽もの、まだ汚れが残っておる!』とか言いながら、ごしごし擦っているんですよ。」

………主殿? て…、手力が…強…。

「? どうしたんですか、天本さん。何か変な顔色ですよ。」
「…気のせいだろう。」

主殿はにっこりと笑われるが、俺の背中の辺りはめきょっと変な音を立てている。
主殿…、首が…妙なほうを向いてしまいましたが…。

「それでね、…あっ!」

また何か余計なことを言いかけたうつけが、途中で言葉を切った。目がキラキラ輝いている。何事かと思っていると、茶色い巨大なモップみたいなものが転がり込んできた。

「わあ、綺麗なゴールデンレトリバー! うわっ、ちょっと待って! わわわわ!」

犬か! 俺はほっとしたが、主殿は腰を浮かしかける。
座り込んだうつけより大きい犬は軽くうつけをなぎ倒し、ほっぺたをぺろぺろ舐めまわしている。さっきうつけがくっつけた米粒を狙っての所作か。
目の前に広がるご馳走の山に鼻を突っ込まないのは感心だが、それにしても意地汚い奴だな。

うつけが楽しそうに笑っているのを見た主殿は、返って不機嫌そうな顔になられる。主殿専用の頬に、畜生が口をつけるのが気に入られないのだな。それはそうと…手を少し緩めては下さるまいか。

「ごっ、ごめんなさい〜。」

丸顔の女が、あたふたと走ってくる。見ると女の後方には、他にも数人の人影と、たくさんの犬たちがいる。

「フリスビードッグの訓練中なんですけど、どうにもやんちゃな子で…。こらっ、ジョンってば!」

女は犬の首辺りを探った。きらきら輝く長い茶色い被毛の中から、赤い首輪が現れた。それを掴んで引っ張られて、やっと犬はうつけからはがれた。

「大丈夫ですよう。僕達、ワンちゃん大好きですから。ね、天本さん。」
「………ああ。」

仏頂面の主殿は懸命に笑顔を作られた。犬はよほどうつけが気に入ってしまったらしく、ようやく起き上がったうつけの横にぴったり座り込んで動かない。それはそうだな。うつけのほっぺたは本当につるつるで気持ちがいいのだ。
こんな事、間違っても主殿の前では口にできないが。

「フリスビードッグって、フリスビーを空中でキャッチする、あれですか?」
「そうなんですけど、この子はまだあんまり上手にできなくて。」

女は恐縮したように犬を引っ張る。だが、どっしり腰を下ろした巨体は、ちょっとやそっとの力では動きやしない。

「わあ、すごいんだねえ、おまえ。」

うつけは愛しそうに犬の頭を撫でた。犬はそれに、うつけの頬をべろりと一舐めする事で答える。
うつけの楽しそうな笑い声に、主殿の腕が強張った。

「…まだたくさん犬を連れておいでのようだ。」
「ええ、そうなんですよ。サークル活動なんですけど、今日は人手が足りなくて…。」

女は無邪気に答える。

「どうだろう、その犬は我々がお預かりしてもいいんだが…。ちょっと遊ばせてやるぐらいなら、これもその子が気に入っているようなのでね。」
「えっ、いいんですか? 天本さん!」

うつけの目が輝く。女は明らかに期待した顔になった。確かにあそこに見える犬の数と人の数はつりあわない気がする。1頭預かるだけでも大助かりだろう。

「でも、訓練が…。」
「物を取ってこられればいいんでしょう。」

不意に俺は、俺にとうつけがくれたから揚げの上にぎゅっと押し付けられた。

「…しっかり掴んでいろよ、小一郎。」

俺にしか聞こえない声で主殿が囁かれる。
こ、これを掴むのですか? な、なんかヒジョーに嫌な予感が…。
だが、主殿の申しつけというのであらば、逆らうわけにも参るまい。
俺はぎゅっとから揚げを抱きしめた。

「そら、ジョン、取ってこい!」

や、やっぱり〜…。

一瞬犬の鼻先を掠めてから揚げの匂いを確認させ、主殿は羊人形ごとそれを放り投げた。綺麗な放物線を描いて、俺は空を舞う。

「わふっ!」

犬はぴょんと跳ね上がると、一直線に俺を追ってくる。垂れた耳や、長い毛が風に靡く様は確かに見事だな。俺はくるくる空中を回りながらぼんやりそう思った。
やがてぼてっと地面に落ちる。衝撃でから揚げがころころ転がった。俺は少し離れた所に落ちているそれを焦りながら見ていた。なんだかこんな場面、前にもあったぞ。

犬が追いついてきた。俺には目もくれずにから揚げに食いつく。あっという間にそれは奴の胃袋に納まった。
匂いがするのだろう、奴は地面に鼻を近づけて、匂いを嗅ぎながら俺に接近する。そして俺を見つけた。

や、止めろ〜。舐めるくらいはいい。咀嚼するな、咀嚼を〜!

犬は、俺をもぐもぐやっても美味しくない事に気付いたらしい。俺を咥えたままダッシュした。ぺっと投げ出されると、それはあの懐かしいシートの上だ。

「…なんだ、もう戻ってきたのか。」

主殿、それはあんまり…。

頼みの綱のうつけは、すっかり犬の美しい毛並みに夢中になっていて、俺がどんな目に会っているかなど気付いていない様子だ。
丸顔の女はもういない。すっかりこのデカ犬を主殿に託して、自分たちの訓練とやらに血眼になっているようだ。
主殿が犬に構わないので、奴はそわそわしだした。シートの上でもじもじ動く俺に向かって盛んに尻尾を振り、飛びつきかける。

ええい、鬱陶しい、近寄るな!

しかし俺とて学習するのだ。こんな奴等には威嚇しても埒があかない事は実証済みだ。
こんな時にはとりあえず、なんともしゃくだが、愛想を振り撒くに超した事はない。

奴等の挨拶は…尻尾を振ればいいのだな! よし!

ふり。
ふりふりふりふりふりふり。

「…なにをやってるんだ、小一郎。」

くううっ、俺には振れるほどの尻尾はないっ! 尻尾を振ろうとすればどうしても尻ごと振れてしまう!
なにかとても悲しくなって、俺は無駄な抵抗を止めた。

「そうか、もっとこの犬と遊びたいのか。」

あ、主殿、その微笑みは一体…。

「次はチーズがいいか? いっそ、ケチャップでもまぶしてやろうか?」

チ、チーズでいいです…。

俺は泣く泣く、自らチーズにしがみついた。初めて気がついたように、うつけが目を丸くする。

「どうしたの? 小一郎?」
「小一郎は、この犬の訓練に、一役買いたいのだそうだ。」
「すごい! 優しいんだ、小一郎ってば!」

…素直に感動しないでくれ。

主殿は満面の微笑みを湛えると、立ち上がって俺を大きく振りかぶった。
爪先が綺麗に上がって千切れた芝生を舞い上げる。こんな場面でありながら、俺は一瞬主殿の見事な投球フォームに見とれた。

「カッコイイ! 消える魔球みたい!」

消えるのは俺なのに…。俺はうつけの声をむなしく聞きながら空を舞った。



落下した地点は、かなり二人のシートから離れた砂利の上だった。遊歩道になっているらしいそこには、ベンチが点在している。

俺は着地するかなり前からチーズを手放していた。犬はそっちの方に行ってしまっていて、今は俺を見失っている。
俺は慌ててすたこら逃げた。俺に美味しいご馳走がくっついている事を知った奴は、また俺を咥えもどすだろう。
えんどれす。嫌な言葉が俺の胸を掠める。
いや、まさかそこまで主殿もアレではないと思うが、逆鱗に触れてしまった今、おとなしく嵐が過ぎるのを待つに限る。
だが、くたくたの羊人形では奴の四つ足にすぐに追いつかれてしまうのは必至。人形を残して本体だけ逃げ出せば、後でうつけめに何を言われる事か。
俺はよちよち進んだ。後方からは、早くもチーズを丸呑みした奴が、鼻をふがふが言わせながら辺りを嗅ぎまわっている。どこか隠れる所、隠れる所…。

あった!

茶色いベンチの足が、蠱惑的につやつや光って俺を誘っている。なにやら強い臭気もしている。きっと鼻の利く犬になら、あの臭気は魔よけのように効くだろう。
俺は必死に走りこんだ。ベンチの足の1本に縋りつく。四肢に力をこめてぎゅーっとしがみついた。

どうやら犬は俺を見つけたらしい。犬が口をあけて舌を出すと、笑った顔に見えるのだな。奴はそんな顔をしながら走り寄って来た。
やっぱりダメか? だが奴はベンチ手前で急停止した。尻尾を足の間にはさみ込み、嫌そうに鼻の頭を前足で擦る。
ふははは、思ったとおりだ。やっぱりこの臭気は犬にとっては天敵だったのだ!
俺は勝ち誇って、それでも手足はベンチにしがみついたまま犬に向かって哄笑した。少々情けないが致し方ない。犬めは俺がここから離れるのを虎視淡々と狙っているのだ。

しかし奴はなかなかに強情だった。ずっと俺を視界の端に捕らえたまま、その辺をうろうろとしている。俺がここを離れたらあんむと食いつこうという算段だろう。そうは行くか。
俺は犬と睨み合ったまま、気がつくとそろそろ空の色が変わるころにもなっていた。

遠くであの丸顔の女の声がする。犬はぴょんと起き上がると、なごり惜しげな目をして俺の側を去っていった。
やれやれ、やっと行ってくれたか。これで主殿の元に帰れる。俺はずっとしがみつきっぱなしだったベンチの足を離そうとした。だが。

ん?
んん?

な、なぜだ、なぜ離れないのだ? 俺は焦ってじたばたする。だが、言葉ほどには体は動かない。
無理に離そうとした腕の辺りで、何やらピリッと不吉な音がした。

「天本さん、こいちろってば、どこまで行っちゃったんでしょうねえ。」

砂利を踏む音と共に、うつけの声が近付いてくる。ベンチの影でよく見えないが、主殿も隣にいらせられるようだ。

「結局お弁当も食べに来なかったし。もう夕方なのに、お腹空かないのかなあ。」
「きっと犬の相手に飽きて遊びに行ったんだろう。しょうがない奴だ。」

そ、そんな! 主殿、小一郎めはちゃんと主殿のお言い付けを全うしておりました!
叫ぶような念が、主殿の耳に届いたのかもしれない。主殿はふと足を止められた。

主殿! 俺はここに控えております! 俺は必死に訴えた。動かない体では、俺の抵抗を示すのは情けなくふりふり揺れる小さな尻尾だけ。

「? 天本さん、なにか聞こえません?」

だが、反応したのはうつけだった。うつけはベンチの下を覗き込もうとしているらしい。そうだ、もうちょっと下を見ろ。うつけなんぞに頼るのは小癪この上ないが、背に腹は変えられん。
俺はいよいよ激しく尻尾を振る。その時、主殿が微かに笑われたようだ。

「敏生、あんまりそのベンチに近付かない方がいい。そこに張り紙があるだろう。ペンキ塗り立てだそうだ。」
「えええっ!」

うつけはオーバーアクションで大きく跳びすさった。飛び跳ねた小石が俺の顔にピシピシ当たった。

「まだペンキが乾いていないようだ。うかつに座ったりすると、べったり張り付くぞ。ゴキブリなんとかみたいにな。」
「うわ、だからこの辺シンナー臭いんだ。危ない所でした。」

ま、待て、簡単に諦めるな。せめてもう一度確認していけ!
俺は必死に訴える。だがもうすっかり気の散ってしまったうつけには、俺の声は遠く届かない。
うつけは何やら騒ぎながら遠ざかってしまう。後には主殿が残された。

「それとも…こいちろホイホイかな。」

ああっ、主殿、今、確かに笑われましたな!

主殿は、それきり行ってしまわれた。颯爽とした足音が俺の耳にいつまでも残る。
気がつくとあの犬が戻ってきていた。相変らず俺を遠巻きに眺めながら、ふさふさの尻尾をぶんぶん振っている。
お、おのれ、元はと言えば貴様のせいだ。俺は奴を睨みつけた。ビーズの目玉さえ、情けなくて潤むぞ。
奴はくーんと鼻を鳴らすと、俺の前にぽいと咥えていた何かを投げ出した。

齧りかけの何かの骨だった。

犬は俺の方に思い切り同情のこもった目を向けて、優雅に去って行く。
…待て。俺にこの骨をどうしろと言うのだ。こんな同情など…掛けられても嬉しくないわ。

日の落ちた公園に、俺と何かの骨だけが取り残された。



「ああっ、お帰り、小一郎! 一体今までどこへ行ってたのさ。」

うつけが声を張り上げて俺を迎える。居間のソファーに足を組んで腰掛けている主殿は、俺を一瞥するとなにか意味ありげに笑われたきりだ。

あの公園の日から5日が経っていた。
俺だって好き好んでこんなに遅くなったわけではない。脱出に3日、羊人形の洗濯に2日掛かってしまったのだ。
俺はこの2日で市販されている洗剤のありとあらゆる物を使ったぞ。それでもペンキという物は…あんまりよく落ちてはくれなかったのだが。

俺が留守にしていた間、一体何があったのか知らぬが、やけにうつけの頬がつるつるになっておる。…いや、よく見ると、主殿の頬も殊のほか血色がいいようだな。

「あの後聞いたんだけど、あの公園ってねえ、なんか出るらしいんだよ。僕たちが行ったときには何にも感じなかったけど。」

こ、こいつ…、それは…。俺は震える拳を握り締めた。

「あ、もちろん、小一郎がそんなのに負けるなんて思ってないよ。思ってないけど、ちょっと心配だったんだよ、引かれちゃうんじゃないかと思って。」

主殿がゆっくりと首をもたげて、俺の顔を見詰められる。
分かっております、主殿。これも俺に与えられた試練なのでしょう。主殿のなさる事に齟齬のあるわけはないのだ。
これも試練、あれも試練。そうして陰ながら主殿は俺を鍛えられているのに違いない。

それにしても、主殿がいやに満足そうな顔をしておられるのは…、いや、それは俺が試練を乗り越えてきたからだ! きっと、おそらく、…多分そうに違いない。

「あんな綺麗な公園に出るお化けって、どんなのだろう。小一郎、会えた?」

うつけは相変わらず太平楽だ。
俺は主殿の視線を感じながら、夜な夜な泣きながらベンチの影に蹲る黒衣の幽霊の正体だけはうつけに悟られないようにしようと心に誓うのだった。  



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