桜貝




佐為が遠い目をしてため息をつく。

「たった1度でいい。あの者と打ちたい。」

いつでも同じ言葉の懇願は、すすり泣くような声だ。
俺は唇を噛み締める。佐為の言葉は半分嘘だ。佐為が求めているのは、盤上の勝負だけじゃない。

「どうしてそんなに名人にこだわるんだよ。」
「どうして…と言われると、どうしてでしょうね。」

佐為は長い睫を伏せて、口元を扇で隠した。袂が風を孕むと、ふわりといい香りが漂う。1000年前に焚き染めた香の香りが、実態を持たない佐為の存在を証拠付けている。

「俺が打ってやってるじゃないか。それで満足しろよ。」
「ヒカルが?」

扇の影の口元がはんなりと笑う。またこの笑みだ。佐為はこの優しい笑顔で、俺の言葉を飲み込ませてしまう術を知っている。
あの人はマジやばい。言いかけた言葉を、俺は口にする事ができない。名人の顔を思い浮かべるたびに、俺は背筋が固まる気がする。こういうのを薄氷を踏む思いっていうのかな。名人の目は厳しくてまっすぐで、何よりとても澄んでいて、俺の心など簡単に見透かされてしまいそうに思えるのだ。
マジやばいのが、佐為にとってなのか俺にとってなのか、実は俺にもよく分からない。

「この身の虚ろが嘆かわしい。今の私には碁石一つ持つ事すら、重過ぎて耐え難い。」
「だーからぁ、俺が代わりになんでもしてやってるじゃん。」

俺は唇を尖らせる。佐為の懇願に負けて、ネットを通じて名人と碁を打てるように計らってやったのはつい先日だ。
名人はまだ、あの病院に入院している。俺があんなに苦労をして、その後も酷い目に会ったと言うのに、佐為は満足する事を知らない。

「そうではないのです。ヒカルには本当に感謝しています。けれど、やはり向かい合わせた席に着いて、相手の吐息を感じるほどの間近で、相手の思考をも読み取れるような…そんな真剣勝負をしてみたい。」
「………それって本当に囲碁のことかよ。」

やけくそ気味に俺が言うと、佐為は静かに目を伏せる。無言が遠回しな否定になるのを、佐為はちゃんと計算しているだろう。

「…あの者は、きっと桜貝のような爪をしているに違いない。」
「はあ?」

佐為はうっとりと視線をさまよわせた。名人の超然とした姿と桜貝とはいかにもそぐわない。これが塔矢なら…あるいは似合っているかもしれないけど。

「あんなおっさんに桜貝はないだろ〜。」
「そうですね、無論、あの者の元々の爪がそうだと言っているのではありません。爪も人の姿と同じように年齢を重ねますから。ですけど、私が言っているのはちょっと意味が違うのです。」

佐為は扇を持ち替えた。普段は長い袂に隠れている指先がちらりと覗いて、俺は胸をときめかせる。桜貝みたいな爪をしているのは佐為の方だ。

「棋士は、碁石をこう挟むでしょう。」

佐為の白い指先がすっと伸ばされる。綺麗に整えられたそれらは、思ったように淡いピンク色の爪を乗せている。

「こうして、碁石を置くときに、爪が少しずつ擦られるのです。」

重ねられた指先が、すっと滑った。何もないその先に、碁石を盤に置く硬質な音色が響いた気がして、俺は思わず目を見張った。

「ですから、勉強熱心な棋士は、必ず綺麗な爪をしています。ですが、人の生活によって爪の色も変わってきますからね。きっとあの者のような澄んだ雰囲気を持つ者なら、もっとも美しい指先をしているに違いないのです。」

確信を込めて佐為は言い、またため息をつく。ため息をつきたいのはこっちの方だ。
俺は佐為の言う事ならたいてい聞いてきた。囲碁は今では俺の楽しみでもあるけれど、最初は佐為を慰めるために始めたものだし、佐為の望むもの、行きたい所、子供に過ぎない俺のできる範囲でできるだけ叶えてきたつもりだ。
それなのに俺のできる事では、佐為に本当の満足は与えられない。

「…本当の事を言えよ。」

俺の一言に、佐為は驚いた目をする。俺だって驚いている。こんなにとげとげしい言葉を吐くつもりなんかなかったのに。

「佐為が望んでいるのは、囲碁の勝負なんかじゃないんだろ。なんであんなおっさんがそんなにいいんだよ。俺はいつでも…佐為が好きなようにさせてきたのに。」
「そう…、私とあなたとでは、育ってきた世界が違いすぎる。」

佐為は優しい目をした。俺を咎めるのではなく、駄々をこねる子供を優しく諭す母親みたいに。

「時代の話ばかりではありません。私もそれなりに幸福な子供時代を過ごしてきました。でもきっと、私とあなたとでは、価値観が…物の感じ方が違う。」
「名人なら、それが同じだって言うのかよ。」
「そう、おそらく、あなたよりは…ね。」

微笑みを含んだ言葉なのに、俺は酷く傷つけられた気分で目を逸らす。
こういう時の佐為は、電車やパソコンに単純に喜んでいる、子供っぽい彼とは別人みたいだ。そして間違いなくそれは佐為の一部で、俺の未だ知り得ない大人の彼を俺に見せ付けている。
こんな顔をされたら、俺にはどう足掻いたって適わない。囲碁ならもしかして、100回に1回、もしくは1000回に1回でも、俺は名人を負かす事ができるかもしれない。だけど時間の流れを楯にされたら、俺に勝ち目は全くない。こうして、名人を想って遠い目をする佐為の横顔を、指をくわえて見ているしかできない。

「私の生家は弱小貴族で、私は末子でしかも女房の子供でした。」
「…女房なら、うちのお母さんだって女房だよ。」
「今とは意味が違うのです。女房と言うのは、…そうですね、召し使いと言っても差し支えないでしょう。」

俺はなんで佐為がいきなりそんな話を始めたのか分からなかった。訝しげな顔をする俺に、佐為は優雅に微笑む。

「ですから私は、物心がつくとすぐに、藤原の家に養子に出されました。この家は藤原とは言っても傍流でしたが、当主は囲碁の名人として名高く、同じような境遇の兄弟子たちがたくさんいました。」
「…ひでえ扱いだな。末っ子だからって養子に出しちゃうなんてさ。」
「当時はそれが当然でしたし、母にしてみればそれは精一杯の愛情だったのでしょう。末子とは言え、女系家族のあの家では、うかうかしていれば子供がてらに暗殺されかねない時代だったのです。」

暗殺、という一言が、俺をどきりと竦ませる。テレビで見たことがある。自分の子供を殿様にしたいばかりに、他の奥さんが産んだ子供を次々と殺していく女。
そんなことが現実に行われる時代に、佐為は生きていたのだ。俺とは価値観が違うという佐為の顔を、俺は背筋を伸ばして見上げた。

「囲碁の名手で名を馳せるといえば、立派な趣味人ですから、彼が内弟子をたくさん取るのは他の意味もありました。私は…その中でも特別に目を掛けられていました。」
「…他の意味って?」

首を傾げると、佐為はほんの少し目を伏せた。いつも思うことだけど、本当に佐為は睫が長い。幼い頃にはどんなに可愛らしい子供だっただろう。

「…私が未だに髪を上げさせてもらえない事の意味ですよ。」

佐為の返事はますます俺を混乱させた。だけど佐為は、それ以上を俺に説明する気はないようだった。

「師匠が私ばかりを可愛がるので、兄弟子たちからはつまはじきにされました。だから私はひたすら碁に打ち込んだのです。すると元々の素質もあったのでしょうか、私はどんどん腕を上げ、ますます師匠は私に入れ込み、そして兄弟子たちから疎まれる…。私の子供時代はそんなことの繰り返しでした。
だから私は本当に、囲碁の事しか知らないのです。そして、…あの者からは、私が子供時代に感じていた孤高の空気が漂うのです。」

佐為はまた、遠い目をする。俺は俯いた。
確かに俺には囲碁のほかにも楽しみはいくらでもある。クラスの女の子や、あかりのことも気になるし、あやややミキティも大好きだ。ガンプラにもローラースニーカーにも興味あるし、Xボックスも買おうかどうしようか迷ってる。カラオケで誰よりクールに歌いたいと思うし、サッカーでも派手にシュートを決めたいと思ってる。
だけど今は何よりも佐為に心を砕いているのに。

「私の体に染み付いた習慣が、あの者の醸し出す空気を欲しているのかもしれません。」
「人間は二酸化炭素しか出さないよ。佐為が欲しいものなんか、名人が出してるもんか。」
「…ヒカルは、本当にまだ、子供なんですね。」

佐為はちょっと目を見張った後、おかしそうに笑った。おかしそうに笑っているはずなのに、なんだか表情が陰って見える。どうしても俺の力では佐為は心から微笑んではくれない。
だけど俺はやっぱり、佐為の希望は叶えてやりたいのだ。

「…明日、名人が退院するって。」

俺はやっと呟いた。佐為が微かに息を飲むのを、俺は俯けた頭の天辺で感じ取った。

「だから、もしお前が名人に会いたいんなら、今夜が最後のチャンスだぜ。」
「それは…ヒカル…。」
「お前がどうしても名人に会いに行きたいんなら、会いに行ってやってもいいよ。」
「…とても嬉しいのですけれども、でも…。」
「俺の体を貸してやるよ。」

思い切って言うと、佐為は僅かにのけぞった。
俺だって大胆なことを言っていると思う。佐為は多分悪霊なんかじゃないから、俺に悪い影響を残すことはないとは思う。けれども、そんなことをしてその後俺の体が誰のものになってしまうのか、大体、佐為に本当にそんなことが―俺にのりうつるなんてことができるのか―分かりはしないのだ。
だけど直に名人に会いたいというのなら、他に方法は無いだろう。名人にも誰にも、佐為の姿は見えないのだし、そもそも佐為の存在を知っているのは俺だけなんだから。

俺は両腕を広げた。佐為は大きく目を瞬かせて俺の腕の中を魅入られたように見詰めている。紅を刷いた唇が薄く開いて、溺れてるみたいに喘ぐ。
もしかして佐為は本当に溺れているのかもしれない。名人の出すという空気が足りなくて。

「………いいのですか、本当に…。」

佐為は、綺麗な切れ長の目を細めた。躊躇いがなくなって、俺を半ば脅すような鋭い光を湛えている。佐為のこんな真剣な顔は、碁を打っているとき以外は見た事がない。

「私はもしかすると、あなたにその体を返せなくなってしまうかもしれませんよ。」
「……いいよ。俺の佐為はそんな奴じゃねーもん。」

即答は無理だったけど、俺は何とか笑って答えた。声だって震えなかったはずだ。俺の佐為という言葉に秘めた、俺の気持ちも読み取ってはくれなかっただろう。

佐為はまた目を伏せた。聞き取れないほどの小さな声で感謝の言葉を呟くと、俺に向かって頭を垂れた。佐為の後れ毛がなびいている。佐為の決意が僅かな空気の渦になって、俺と佐為とを取り巻いた。
すっと佐為の姿勢が低くなる。佐為は胸に扇を抱きしめるように腕を抱えて、俺の懐に飛び込んだ。俺は急いで腕を閉じた。こんなに間近にいても触れたことの無い佐為を、抱きしめたつもりだった。だけど何一つ俺の腕には触れず、俺は突き飛ばされるような感覚を覚えた。

気がつくと俺は上空から俺自身を眺めていた。俺が俺を見上げている。いや、あれは…佐為なのだろうか。なんだか伸ばした背筋まで俺とは違う。

「視点が低い…。」

俺は、いや俺に潜り込んだ佐為は、両腕を上げて体を検め、俺を見上げてにっこり笑った。

「久しぶりです。実体の重みは。心地よい重みです。」

胸元に手を上げ、照れ臭そうな顔をする。あれは扇で口元を隠すときの仕草だ。規格の違う俺の体に潜り込んで、うまく動作がかみ合わないらしい。
佐為は全身のバランスを取るようにくるりと回った。俺はぐん、と引っ張られてちょっと焦る。素っ裸で空中に浮いているらしい俺の臍の辺りから、細長い紐みたいな物が伸びて、俺の実体に繋がっている。いつかあかりが借りてきた、心霊特集の載っている雑誌のとおりに、俺の体と魂とは臍の辺りでかろうじて繋がっているようだ。

「今の私はあなたの姿をしていますが、心有るものになら、私の真の姿が見えるはずです。」

その佐為の言葉は俺にはわかる。俺の体の輪郭線上に、佐為の姿が透けるように重なっているのが俺には見えるからだ。
俺は頷いた。声を掛けたが、佐為に届く前に掻き消えてしまう。どうやら今の俺には言葉は出せないらしい。

「本当に…感謝します。」

佐為の言葉が俺の口から俺の声を通して出るのを聞くのは、なんとも変な気分だった。確かに俺の高い声なのに、響きが全く違うのだ。こんなところでも俺は、佐為の言う、空気の違いを感じさせられた。

「では…参ります。」

一歩踏み出す。足音が全くしない。俺ははっとした。佐為が音を伴わないのは幽霊だからというばかりではなくて、歩き方さえも俺とは違うからだったのだ。姿勢も顎を上げる角度も、俺とは全く違う。
玄関を出ると佐為は待ちきれないように小走りになった。頬に僅かに風を感じて、俺は少し安心した。俺と俺の実態とは完全に切り離されたわけではなくて、俺の肉体に起こる事は、今の俺にも多少は感じ取れるらしい。

佐為の走る姿勢は、肩の線が殆ど動かない。心有るものが見なくても、俺とあれとは全く違うものだ。
俺は引き摺られるように空中を漂いながら、俺の姿をした佐為が、嬉しそうに頬を染めて進んでいく後姿を恨めしく見送っていた。

病院は、もうとっくに消灯時間も過ぎていた。一晩中開いている救急用の搬入口から忍び込む。うまいこと誰にも見つからずにエレベーターに乗れた。
名人の入院している特別室は、最上階にある。ここで誰かに誰何されるはずだと思ったが、ナースステーションも無人だ。
もしかして、佐為が何か俺にわからない力を作用させたのかもしれない。

あんなに急いで来たくせに、佐為は名人の病室の前で躊躇った。おっかなびっくりノブを掴み、顔を上向けて深呼吸をする。佐為の動揺が、俺の心臓を通して俺にも感じられた。
今なら引き返してもいいんだぜ。声にならないのを承知で、俺は佐為に囁きかける。だけど佐為はそれ以上躊躇わなかった。

扉が滑らかに開くと、名人は訝しげに顔を上げた。消灯時間はとっくに過ぎているのに、名人は端正に座って緩く腕を組み、膝の上に囲碁の本を広げて読んでいた。
みんなが着ている入院患者用のお仕着せが、名人が着るとなぜか瀟洒な着物に見える。きっと名人の涼やかなまなざしのせいだろう。
俺は少し気後れを感じた。だが、佐為は待ちかねたように凛と伸ばした背筋で進む。

「君は…。」

名人が、訝しそうに目を眇めた。俺が名人だってびっくりするはずだ。息子の友だちの俺が、こんな夜中に忍んで来たら。だけど名人には動じた様子は見えない。

「進藤君…、いや…、違うな。君は一体…。」

驚いたことに、俺の体に潜り込んだ佐為の正体が、名人には見えるらしい。名人は眉をしかめて眉間を揉んだ。そうしている間にも、佐為は名人の手を取れるぐらい近くまで進んでいった。

「あなたにお会いしたくて、ヒカルに無理を言いました。」

佐為の潜り込んだ俺の体が僅かに震えている。限界に近いほどドキドキ言っている胸の鼓動が、俺にも伝わってくる。少女みたいに胸をときめかせた佐為は、名人に縋るような目を向けた。

「あなたからは、私に生きる喜びを教えてくれた師匠と同じ匂いがします。」
「私も…今の君にはどこかで会ったような気がするのだが…。」

そう言って名人は、ますます眉間の皺を深くした。膝の上の本をパタンと閉じて、体ごと佐為のほうに向き直る。真剣に思い出そうとしているような様子だ。
俺は驚いていた。俺に潜り込んだ佐為がいきなり訪ねていっても、相手にされる筈はないと密かに思っていたからだ。だって俺は子供で、塔矢アキラの友だちで、単なる新人プロ棋士でしかないんだから。
名人がこんなに真剣になってくれることまで、佐為にはわかっていたのだろうか。

佐為が目を細めた。俺のどんぐり眼でも、佐為がするように細められると、雄弁に物言う瞳になる。静かに手が伸びて、名人の右手を取った。

「ああ…、この手です。この桜貝の爪に、どうしても触れてみたかった…。」

俺は空中を漂う不安定な姿でありながら、目を擦りたくなった。今までぼんやりと映っていた佐為の姿が、次第に色濃くなって俺を飲み込んでいく。
願いの一つを叶えられた佐為の喜びが、自らの存在を強く主張しはじめたのかもしれない。

名人の手は、やはり大人の男の手だった。大きくて少し骨っぽくてがっしりと頑丈そうだ。爪も厚くて白っぽくて、縦に筋が入っている。
だが、右手の人差し指の先だけが、磨き上げたように淡いピンク色をしていた。指の先まで繊細な佐為の手に変化した俺の手が重なると、まるでその二つの人差し指は、二枚貝である桜貝の一片ずつを重ね合せたようになった。

「ああ、もしかして…、君が佐為か…?」
「はい…。」

いまや完全に俺の姿を飲み込んだ佐為は、静かに目を伏せる。もう一度目を上げると、恥ずかしそうに微笑んだ。

「1000年の時を経て、浅ましくも蘇ってしまった私が望んでいたものは…もしかすると囲碁を通じてあなたに巡り会うことだったのかもしれません。」

佐為はすっと頭の上を払った。あの特徴的な烏帽子を脱いで豊かな黒髪をさらした佐為を、俺は始めて見た。

「師匠と同じ臭いのするあなた…、私の桜貝の片割れ…、心あるならばどうか、私にひとときの慰めを下さい。」

佐為はゆっくりと、自分の右手を名人の右手に絡めた。指と指とが組み合わさると、俺の手にまで暖かな名人の感触が流れ込んできた。



  突然俺の思考の中に、佐為の思考が紛れ込んできた。
今の俺よりももっと低い視点から見上げている佐為は、きっと子供時代なのだろう。目の前に優しそうな男の人がいる。
その男の人が、小さな佐為の手を取った。静かに指を絡めてくると、その感覚が名人のそれと重なった。

「利発そうな子だ。この子はきっとよい碁打ちになるだろう。」
「お…師…さま。」

呼びなれていないのか、舌足らずな声が、一生懸命にその男の人を呼ぶ。ほっぺたがくすぐったくて、小さな佐為は下を向く。男の人が、佐為のほっぺたを撫でているのだ。
薄い布団が延べられていて、二人はその上に向かい合って座っているのが分かる。

「何も恐いことはないのだよ。おまえは私の言うとおりにしていればいい。うんと可愛がってあげよう。」
「はい…、よろしくお願いいたします。」

小さな佐為は小さな両手を着いて深々とお辞儀をする。そうしていながら、彼の胸を塞いでいるのは不安と脅えだ。綺麗に揃えた指の先が震えて、小さな佐為はそれを悟られないようにそっと指先を丸めた。
男の人の大きな手が、ほっぺたを滑ってするりと襟元に忍び込む。小さな佐為は、思わず喉元で悲鳴を上げた。

「私が恐いのかい? 汗が冷えてしまっているよ。」

男の人は労るような優しい声を掛けた。だけど小さな佐為はますます恐くなって唇を噛み締める。ぎゅっと噛んでいないと、鳴咽が漏れてしまいそうだ。
忍び込んだ大きな手が、するりするりと小さな佐為の衣類を剥いで行く。その手が下帯にまで届くに至って、ようやく佐為は体を捩った。

「おし…お師さま、堪忍して下さい。」

男の人はむしろ嬉しそうに手を止める。

「私は、それを一人ではつけられません。いつもは…母上にしていただいていました。だから…。」
「可哀相に。お前はそれほどまでに小さいのだね。」

男の人は優しくそう言ったけれども、手は止まらなかった。
小さな佐為の縋るような抵抗も適わず、男の人は彼を抱きすくめると、あっけなくそれを毟り取ってしまう。すべての鎧を剥ぎ取られた佐為は、おののきながら俯くしかない。
やがて布団の上に転がされ、その上に男の人が覆い被さってくる。体中を撫で回す手に、悪心を感じながら、それでも小さな佐為はじっと唇を噛んで堪えていた。

「どうしたんだい? 私が恐いのだろう。泣き叫んでも、暴れてもいいんだよ。」

男の人は、噛み締めた佐為の唇をそっと撫でる。

「連綿と続いてきたこの風習が、お前たちに負担になる事も知っているし、酔狂物と後ろ指指されている事も知っている。それでも私にとってはお前たちは愛しいものだし、これを止めるつもりはない。だからせめて、暴れてもいいのだよ。初めての子達はみんなそうした。私もそれに慣れているのだから。」
「母上に…たんと言い含められて参りました。」

小さな佐為は、涙に潤んだ瞳を上げた。間近に男の人の顔が迫っている。相変わらずの穏やかな表情に、佐為はかえって涙を堪えきれなくなった。

「お師さまのおっしゃる事は何でも聞いて…、たんと可愛がってもらいなさいと。お師さまがどんな事をなさっても、決して逆らってはいけないと…。もしお師さまに嫌われたら、もう私の帰る家はどこにもないのだと…そう言い含められました。だから…。」

目を瞑ると、涙が零れて耳の中に流れ込む。小さな佐為は両手を上げて目を覆った。

「だから…、何でも我慢します。母上を困らせたらいけないし、私にはもう、帰る所がない…。」
「いじらしい…。」

男の人の声が格段に柔らかくなった。佐為のつややかな髪を一房掬い上げて、そっとそれに口付ける。

「私は、お前のような子を求めていたのかもしれない。」

男の人の言葉に小さな佐為は微かに目を見張る。母親以外、誰にも省みられる事のなかった佐為の警戒を解すような柔らかい響きが、その言葉の中にあった。

膝を取られて大きく足を割られる。足の間に塗り込められた物が枕元においてあったふのりだと知って、佐為は再び身を縮めた。
碁打ちであるその人の指は男にしては細いけれども、小さな佐為には太すぎる。優しく表面を撫でているだけだった指が、次第に支配欲を露に彼を苛み始めた。
やがて、塗り込められたふのりでぐずぐずになったそこに、灼熱が押し当てられる。ゆっくりゆっくりと、だが確実にその楔は小さな佐為を傷つけていく。

「ぎっ…、ひ…っ。」

噛み締めた唇の間から、苦鳴が漏れる。小さな佐為は折り曲げられた不自由な体勢のまま、男の人の袖に縋った。

「ああ、佐為、佐為。」

音を上げたのは男の人だった。

「こんなに脂汗をかいて。どうして嫌だと泣き叫ばないのだ。お前が我慢できるだけまでのつもりだったのに。痛々しくて見ておられない。そんなにもお母上の言われた事が大切なのか? お母上のために、そこまで我慢をするのかい?」
「違います…、お師さま…。」

小さな佐為は、消え入るような声で答えた。身を裂く灼熱は、彼を痛めつけはしても、快楽など微塵も与えてはくれない。それでも彼はけなげに微笑もうと努力した。

「実家では私は…、父上に愛しまれたことはありません。年の離れた兄上たちや義母上たちは、いつも私を嫌悪の目で見られました。私を求めて下さったのは、お師さまが初めてです。」

小さな佐為は一生懸命に息を継いだ。柔らかい腹部が上下すると、それだけで彼は激痛にうめき声を漏らした。男の人がそっと額の汗を拭ってやっても、それは反って彼の苦痛を増しただけのようだった。

「だから私は、自分のために我慢をします。私を求めて下さる方に喜んでいただけるのは、私にとっても喜びです。体が痛いのは…そのうち治ります。」

絶え入りそうだった声が、小さな悲鳴を最後に本当に途絶えた。男の人がゆっくりと体を動かしていた。
香を焚き染めた部屋の中に、僅かずつ鉄の匂いが広がっていく。蒼白な差為はうわごとのように男の人を呼んだ。

「可愛い佐為。おまえのお母上は一つだけ間違えられたのだよ。」

男の人は動きを止めて、小さな佐為の汗に濡れた額に口付けた。小さな佐為はぼんやりとした目を男の人に向けた。男の人の声がちゃんと彼に届いているかも分からないような視線だった。

「お前の帰る場所はなくなってしまったのではない。お前の母上のもとから、私のもとへと変わっただけなのだ。お前は新しく生きる場所を得たのだよ。」

抱きすくめられて、小さな佐為は喘いだ。

「愛しい佐為。私がいつでもお前の側にいてあげるよ。」

静かな吐息が漏れて、小さな佐為の視界は暗く沈んでいく。その沈む水底には、暖かい優しい水が満ちていた。



佐為はいつのまにか名人の腕の中に抱きすくめられていた。安心した柔らかい表情で名人の胸に身を任せている佐為が、青年でも俺の姿でもないあの小さな佐為に見えて、俺は目を強く瞬いた。

「私は卑怯者なのかもしれません。」

名人の手が、ゆっくりと佐為の狩衣に忍び込んだ。俺にはどうなっているのかさっぱりわからない複雑な作りの衣類が、佐為の許しを得たようにするすると解けていく。
佐為の肌は思ったとおり真っ白で、淡い桃色の胸の印だけが、やたら目立って俺をどきどきさせた。

「私の淋しさを紛らわせるために、あなたを利用しているのかもしれない。」

佐為は僅かに言葉尻を震わせた。名人の大きな手が、ゆっくりと佐為の背中を撫でていた。
名人の掌の感触は、僅かではあったけれども、俺にまで届いていた。暖かい掌が俺の全身を這い回り、思わず俺が顔を赤らめてしまうような所にまで、その感触は忍び込んできた。
気恥ずかしさから俺が何回気を逸らそうとしても、その感触は俺に纏わりついて離れず、それはまるで二人を覗き見している事を責めているようにさえ、俺には感じられた。

「でも、私を慰めてくれるのは、あなたでしか…ありえない。」

佐為の言葉が途切れた。大きな名人の手が、包み込むように佐為の頬を押さえたのだ。佐為はそっと目を閉じる。俺の大好きなあの長くて綺麗な睫に、名人が覆い被さっていく。労わるような優しい口付けに、佐為は身を震わせた。

どうして名人でなくちゃいけないんだ。声にならない声で俺は叫ぶ。いつだって俺は佐為を見ていた。
佐為は俺だけのもののはずだった。佐為は俺だけを見つめていればいいはずだった。
それなのに、佐為は名人が欲しいと言う。

名人の背中は広くて逞しかった。いつもの端然とした和装の姿しか見ていない俺には、名人の意外に厚い胸板はなんだかまぶしくて正視できなかった。
その背中に組み敷かれた佐為は、殆ど俺の視界から遮られてしまう。それはそのまま俺と佐為との距離を俺に突きつけているように感じられた。

佐為の、髪の裾を束ねている組紐が落ちている。流れるような黒髪は、そのまま白いベッドの上に広がって、二人のためにあつらえた絹の褥のように見えた。
白い腕が名人の背中を掻いた。ゆっくりと動く背中に合わせるように、佐為は顎を上げて喘ぐ。
名人の背中にある佐為の桜貝が、名人の背中に赤い痕を残していく。名人の持つ桜貝の片割れも、佐為の背中にその印を残しているのだろうか。

「ああ…、あなたに会いたかったのです…。」

白い足が名人の背中に絡まっていく。全身を傾けて、佐為は喜びを訴えている。俺は中空に成す術もなく浮かんだまま、切なさに身悶えていた。
名人の桜貝は当然のように片割れを求めて、俺の体を突き崩す。優しく解されると、佐為は安心しきって大きく体を開く。
それはそのまま俺の感覚で、俺は密着した体の重み、柔らかく撫で回されるむず痒さ、鋭い痛みを伴って進入してくる名人の熱さまで否応なく感じさせられた。
鋭い痛みは俺を痛めつけたが、本当に痛いのは佐為の喜びだった。佐為は苦痛に顔を歪ませながら、喜びに満ちているのだった。
体の中で緩慢に動く名人の熱さが次第に蕩けるような感覚を伴いだして、佐為の喜びはますます増した。そうしてがむしゃらに名人に縋り付く佐為は、その言葉どおり、ずっと淋しかったのだろうと俺に思い知らせてくれた。

俺は佐為の淋しさなんか考えたことはなかった。いつでも穏やかな笑顔を向けてくれる佐為が、こんなふうに人肌に飢えていることなど考えたこともなかった。
俺は佐為にとっては一番近くて遠い存在だったのだ。俺しか知るもののいない佐為は、だけど俺の肌を通してしか人とは触れ合えない。佐為が俺自身に触れる事は決してない。ああ。

俺に生きる希望と未来を与えてくれた佐為が、俺に絶望も教えてくれる。

佐為は中空をすかして俺を見た。僅かほんのひととき、佐為の視線が俺を捕らえた。
その視線は、俺に詫びているようにも見えたが、実に嬉しそうにあでやかに微笑んでいた。



くらい夜道をとぼとぼ歩く俺自身の背中を、俺はぼんやりと追っていた。佐為は、目的を果たしたのに、まだ俺に体を返してくれるつもりはないらしい。どうでもいいや。俺は投げやりな気持ちでそう思った。どうせ俺の体を返してもらっても、俺は佐為に触れる事もできない。

「すみませんでした、ヒカル。」

背中を向けたままの佐為が俺に向かって呟く。

「夢中になってしまって、あなたの体に負担を掛けてしまいました。おうちに戻るまでは、このままで行きましょう。」

本当は名人の香りが残る体を簡単に手放したくないのではないのか。俺はそう思った。だけど佐為は出かける前よりもっとしょんぼりしていて、そんな佐為を可哀相だと思ってしまう。

「私の記憶が見えましたか?」

佐為は立ち止まると、不意に俺を振り仰いだ。押し黙った俺を見上げてにっこり笑う。子供っぽい俺の顔なのに、時折佐為が見せる、淋しげな微笑みを湛えている。

「私の師匠は、確かに私を可愛がってくれましたが、それは他の子達に傾ける愛情と同じものでした。私は彼を独占したかったのかもしれません。」

また俺に背中を向け、前よりもっとゆっくりした足取りで歩き出す。

「師匠は私の碁の心得を教えて下さって、私が元服を迎える前に亡くなりました。私が師匠を偲ぶには、碁に打ち込むよりほかなかったのです。私の心は、まだあの小さな佐為のままなのでしょうね。」

佐為はゆっくりと顔を上げた。明かりを点けたままにしておいた、俺の部屋の窓が見える。なごり惜しそうに、佐為は俺の腕をさすった。

佐為が俺の体を開放してくれたのは、座り込んだ俺のベッドの上だった。佐為が俺から抜け出すと同時に、俺は体の中に引っ張り込まれ、重力に囚われた。
実体感のある体は妙にみしみしいった。全身が重くだるくて、俺は伏せたベッドの上から起き上がる事もできなかった。
佐為の顔が見たくて無理矢理体を起こすと、下半身が信じられないくらい痛かった。思わずうめき声を上げると、佐為は心配そうに俺の顔を覗き込んだ。

「大丈夫ですか? ヒカル…。」
「うるさい。大丈夫に決まってるだろ。」

そう、大丈夫に決まっている。佐為が望んでいた事、小さな佐為が我慢してきた事。俺に堪えられないはずがない。
俺が佐為にしてやれる、ほんの僅かな事なんだから。

「名人に取り付いて、…言う事を聞かせたのかよ。」

声まで掠れている。俺の不機嫌そうな声を聞いて、佐為は薄く笑った。

「そう、…あるいはその通りなのかもしれません。私はあの者の優しさにつけこんで、私の望みを果たしただけなのかも。だけど…。」

佐為は言葉を切って、俺の顔をじっと見下ろした。名人に抱きすくめられて嬉しそうに紅潮させていた頬が、今は透けるように白い。佐為は長い睫を伏せて、消え入るような声で呟いた。

「その中に、私の真実を求めては…いけないでしょうか。」

俺は唇を噛み締める。本当は俺は名人が佐為に操られていたのなんかじゃない事を知っている。
名人の病室を出て行く佐為の、後ろ姿を追う名人の思いつめたような目。思わず口に上った帰したくないという言葉は、俯いた佐為の耳には届かなかっただろう。それは俺の実体にではなくて、間違いなく佐為の長い黒髪に向けられていた。
だけど俺は、どうしてもそれを佐為に伝えられない。佐為が何より喜ぶであろう事も分かっているけど、これだけは。

蒼い月の光を浴びて、いつもよりもっと蒼白な佐為は、そのまま消えてなくなりそうだった。思いの一つを叶えたというのに、佐為は前よりもっと切なそうな目をしていた。

「私の行きつく先は…どこにあるのでしょうね。」

叶えられた思いが、ますます佐為を儚げに見せている。
俺の佐為がまた一歩、俺から遠ざかっていくような気がした。  



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