隼人来襲




祥太郎は膝の上に読みかけの本を伏せたままぼうっとしていた。大好きな宮部みゆきだというのに、ちっとも頭に入ってこない。
テーブルの上に置いた携帯は、コトリとも音を立てない。何度も目をやっては、そのたびに軽い失望を感じてきた。
もう夏休みが始まって一週間になる。
終業式の次の日から合宿に参加したと言うメールが来て以来、直哉からの連絡はない。

今はどのあたりの工程を学んでいるのだろうか。祥太郎もペーパードライバーながら、普通免許は持っている。
大学在学中に、将来絶対使うからと、瓜生に無理やり誘われて取ったものだ。
瓜生は涼しい顔で学業との両立を成り立たせ、きっちり一ヶ月でパスしたが、祥太郎はその倍も、日程も金額もかかった。
もともと乗り気がしなかったから、と言い訳をしてみても、自分の鈍臭さの否定にはならない。
直哉ならば、嫌味なほどに颯爽と、普通と大型二輪の免許の両方とも、滞りなく取得するに違いない。

「…忙しいのかな…。」

もともと不精な祥太郎に、脅すようにして携帯を買い替えさせ、メアドの交換を迫ったのも直哉の方からだ。その割りに直哉はメールも時々しか寄越さない。
合宿なら新しい友達もたくさん出来るのだろう。もしかして、可愛い女の子と一緒かもしれない。そう思うと、なぜか胸の奥がちりっと熱くなる。

まだ若い直哉には、どんどん自分の世界を広げて、新しい可能性に挑んで欲しい。そう思うのも本当の気持ちだが、ここでこうして一歩も立ち行かない自分のことも忘れて欲しくない。
1学期の最後の日、あんな別れ方をしておいて、それきり放りっぱなしと言うのは、あまりに酷ではないかと思うのだ。
そう考えて、祥太郎は慌てて首を振った。何を女々しいことを考えているのだ。

「僕は…直哉君の彼女じゃないんだから…。」

そう、直哉の気持ちだって、もしかして好奇心旺盛な青年の、はやり病みたいな恋かもしれないのだ。
それにのめりこんでしまっては、自分ばかりでなく、直哉さえ大きく傷つけてしまう。

「僕は…教師として直哉君にして上げられることを考えるべきなんだ…。」

直哉は一生徒。ましてや受験生だ。自分なんかにいつまでも引っかからせていてはいけない。
でも、もし、直哉が卒業して、二人が対等の立場に立てる日がきたときに、それでもまだ変わらない気持ちでいてくれるなら…。

「止めよう! 何考えてるんだ、僕…。」

祥太郎は勢いよく首を振った。こんな風に家の中に篭っているから変な考えに浸ってしまうのだ。久しぶりに本屋めぐりでもしよう。
祥太郎は空元気をだして立ちあがった。



立ちあがってはみたものの、どうしてもエンジンがかかりきらない。
祥太郎はぐずぐずと支度をしていた。大好きな本屋めぐりだと言うのに、気が進まないのはどうしたことか。
やっと支度を終え、それでも往生際悪くもう一度メールを確かめ、それからようやく祥太郎は靴を履いた。部屋を一歩出て、その途端に足が固まってしまう。
そこには意外な人物が立っていた。

「あれ、隼人君…?」

慌てたそぶりで背中を向ける隼人。だが、そのフロアには大して部屋数もないのだ。とぼけるには分が悪すぎる。

「どうしたの、隼人君。あ、僕のところに来てくれたの?」
「祥太郎の部屋に来た訳じゃないやい。兄ちゃんが…いるかと思って。」
「え? 直哉君なら、まだ合宿でしょ?」
「合宿…って、なんの?」
「聞いてないの?」

祥太郎は思わずため息をつく。
いくら隼人が慕い過ぎで鬱陶しいと言って、2週間以上にもなる合宿を、弟にまで伏せてしまうというのは、あまりにそっけない。

「運転免許を取るんだって、合宿に入ってるはずだよ。普通免許と大型二輪の両方を組み合わせるって言っていたから、忙しくて連絡できないんじゃないかな。」
「俺っ、そんなのっ、…聞いてない!」
「しょうがないお兄ちゃんだねえ…。」

祥太郎は隼人が可愛そうになってしまう。
こんなに全身で懐いてくるのに、直哉は隼人を遠ざけるようなことばかりをするのだ。
口をへの字に結んだ隼人のきつい瞳から今にも涙が溢れてきそうに思えて、祥太郎はすっかり外出する気をなくしてしまった。

「隼人君、ちょっと上がっていかない? 今日はちゃんとお茶菓子もあるよ。暑いから、麦茶の1杯もご馳走してあげる。」

ついいつもの癖で首を傾げ、ね?と誘いかけると、意外なほど素直に、隼人は頷いた。



最初の頃、隼人はずいぶん扱いづらい生徒だと思った。
とにかく隼人の規準は直哉で、祥太郎には突っかかってくる。
祥太郎も、直哉と比べられては到底太刀打ちできない自覚があるから、なんとなく手を束ねる感じがあった。少しつつくと、それが3倍4倍になって帰ってくる感のある子だったのだ。

だが、慣れてくるに従って、隼人は少しずつ態度を改めるようになった。いや、祥太郎が隼人に慣れて、扱いを覚えたと言った方が正しいだろう。
隼人は、小学生のまま大きくなったような少年だった。体も頭脳も人一倍成長したのに、精神面だけ幼いままの少年なのだ。
それがわかってしまってからは、祥太郎も張っていた肩肘を下ろすことができたような気がする。
とにかく隼人は、直哉以上に真っ正直なのだ。



「そこ座ってて。昨日うちのうるさいのが来たから、今日はいろいろあるんだよ。隼人君、水羊羹好き?」

どうせ返事は期待していない。振り返って見つめていると、隼人はしぶしぶ頷いた。
祥太郎はにっこり笑って、姉のお土産の水羊羹を皿に乗せた。麦茶に氷も浮かすと、それなりにもてなす有様になった気がしてちょっと嬉しかった。

「僕もねえ、合宿先まで聞いていないんだけど、今メール入れてあげるから。」
「メール…。」
「もちろん隼人君はもう何回も入れただろうけど。」
「…俺、兄ちゃんのメアド知らない。教えてもらってない。」
「え…っ。」

いくらなんでも、そこまで排除するとは行き過ぎなのではないのだろうか。

「そんな…ほんと?」
「だって兄ちゃんは、兄弟でメアドのやり取りするのなんて変態だって言うんだ。いつだって会えるのに、そんなの必要ないって。そのくせちっとも家には帰ってこないし…。」

隼人は唇を噛むと、じっとりと祥太郎を見上げた。

「兄ちゃんのメアド…。」
「分かった分かった。教えてあげるからそんな恨みがましい目で見ないで。なんかこそばゆくなっちゃう。」

祥太郎は急いで携帯を操作して、直哉のメアドを出してやった。隼人は食い入るように必死な表情でそれを写し取っている。そのあまりにも真剣な姿を見て、祥太郎はほんのちょっと後悔した。
あの様子では、日に何度でも連絡を入れるだろう。
余計な事をしたと、直哉に叱られてしまうかもしれない。
すっかり満足そうな顔になった隼人を見ながら、祥太郎は話し掛けてみた。



「もう夏休みも1週間経ったけど、隼人君はどこか遊びに行った?」
「白鳳寮のイベントに…。」
「イベント? なにそれ?」
「寮長の筋肉蝶々が主催してる奴で、我慢大会とか、飲み…いや、変なすいか割とか、怖い話大会とか、泊まり込みでやるのに行きました…。」
「へえっ、楽しそうだねえ。」

祥太郎はにこにこと笑ったが、隼人は憮然としている。
隼人の扱いはすっかり読めたと思っていたが、今日の隼人はことのほか不機嫌だ。もしかして直哉の長い不在が響いているのかもしれない。

「それで、後は? まだ夏休みは長いよ。後は何して遊ぶの?」
「祥太郎はさあ…。」
「ん?」
「どうして遊ぶ事しか考えてないんだよ。」
「へっ?」

思いがけない返事が返ってきて、祥太郎は思わず目をぱちくりさせた。

「祥太郎はいっつもそうだ。面白おかしい事ばっかり言ってて、真剣な話する事なんかないじゃないか。俺はどうして、祥太郎みたいなダメ教師に、兄ちゃんがいつまでも夢中になってるのか全然わかんねえ。」
「や…ダメ教師…って…。」

いきなり切り込まれて、返事がしどろもどろになってしまう。
隼人はそんな祥太郎を見て、ますます苛々を高じさせたようだ。

「祥太郎のさあ、長所ってなに?」
「えっ? 長所…?」
「兄ちゃんが入れ込む理由だよ。何か人よりいいとこあんだろ?」

詰め寄られて一生懸命考えてみるが、思い当たる物がない。
本当に、直哉は自分のどこが気に入っているのだろうと、なんだか空しくなってしまう。

「長所でなきゃ特徴でいいよ! なんだよ、祥太郎の特徴!」
「え、な、何だろうねえ…、あっ。」

隼人の真剣な視線を避けようと腰を浮かし、手を付いたテーブルの上に、ちょうど麦茶の入ったグラスがあった。
鋭角的な音が響いて、グラスが割れ、麦茶が滴った。

「なにやってんだよ、祥太郎!」

立ちすくんでいると頭上から罵声が飛んでくる。慌てて欠けたガラスに手を伸ばすと、また怒鳴られた。

「俺がやるっ! おまえは座ってろ。まったく、ドジなんだから、祥太郎はっ!」
「ご…、ごめん。」

隼人は、家主である筈の祥太郎よりもよっぽどテキパキと片づけをこなしていく。
さすがに座ってもいられなくて、祥太郎はおろおろとその様子を見守った。
隼人がガラスをかき集めているのを見て、慌てて袋を持ってくると、またギロリと睨まれる。

「こんな薄っぺらな袋に直にガラスの破片捨てる奴があるかよ! 新聞紙の1枚も敷いてこい!」
「うわ…はい。隼人君、凄い、気が回るねえ〜。」
「祥太郎が気が回らなすぎ! ゴミ回収する人だって、危ないだろうが!」

隼人は終いには、ガラスの破片が散っているからと、祥太郎に掃除機まで出させて、ついでに辺り中に掃除機を掛けてしまう徹底ぶりだった。
祥太郎は隼人に追いやられたソファーの上からぼんやりその様子を窺って、やっぱり酷似した兄弟だとため息を吐かざるを得なかった。



すっかり掃除を終えた隼人は、ふんぞり返るようにして自分の奮闘の跡を眺めていた。
ご機嫌なのかと思ったら、突然うめいて蹲る。祥太郎は恐る恐る様子を窺った。

「あのう、隼人君…。」
「俺はなあっ!」

祥太郎は思わずひゃっと悲鳴を上げてあとずさった。
隼人が弾かれたように頭を上げたので、額同士がぶつかりそうになった。

「ちょっとはねじ込んでやろうと思って来たんだ。お前なんかぺっしゃんこにしてやろうと思ってなあっ! それなのに、どうしてこんなに丁寧に掃除なんかしてやってんだよ!」
「し、知らないよ〜、そんなの〜…。」

祥太郎は言いながら、つい笑ってしまう。
隼人は本気で怒っているようだが、今となっては彼の優しくてお節介焼きな性質が透けて見えて、怒り顔もちっとも怖くない。

「俺の兄ちゃん取り返そうと思ったのに…。」

祥太郎に笑われて、隼人は不服そうに口を尖らせた。

「取り返すも何もないよ。隼人君は直哉君の大事な弟だし、僕は唯の生徒会の顧問。それだけだよ。隼人君が心配する事なんかなんにもないよう〜。」
「祥太郎…馬鹿だろ。」

決め付けられて、祥太郎は頬を膨らませた。やってしまってから、幼すぎる仕草だと気付いて慌てて引っ込めた。そんな一部始終を、隼人は呆れたように見ている。

「兄ちゃんはさあ、すっごいキャパ小さいんだよ。」
「え? きゃぱ?」
「身の回りに置いとけるのは、ほんのちょっとしかいないんだよ。」

急に隼人の顔が大人びて見えて、祥太郎は我知らず背筋を伸ばした。

「兄ちゃんは、一旦自分の身内だって認識すると、それはもう大事にするんだ。絶対裏切らないし、何があっても信じてる。その中にいるのが、今までは俺と、両親と、雪紀さんくらいだったんだ。それが兄ちゃんのいっぱいいっぱいなんだ。そこに祥太郎が割込んできた。定員オーバーなんだ。」

隼人はじろりと祥太郎を睨みつけた。

「兄ちゃんの中の祥太郎が、俺をはじき出して、次に両親をはじき出そうとしてる。多分最後には、雪紀さんだって弾かれちゃう。祥太郎、手ェかかりすぎるんだよ。なんつーか、危なっかしくて、構ってやらなくちゃいけない気分になるんだよ。だから兄ちゃんは、祥太郎の方しか見れなくなっちゃってるんだ。兄ちゃん一人占めして、どうするつもりだよ。」
「一人占めって…そんな…。」

多分、今自分は、隼人に詰られているのだろう。それなのに、なんだか嬉しいのはどうしてだろう。
隼人の口を通して語られる、直哉の祥太郎への想いが、びっくりするほど心地よいのだ。
だが、祥太郎は嬉しがる自分を押し殺した。
直哉は自分の生徒で、隼人はその弟だ。その言葉がどれだけ真摯でも、踏み越えてはいけない一線がある。

「僕は…結局教師なんだから。」

祥太郎は静かに言った。さっきから試すような視線の隼人に、にっこりと微笑み返す。

「直哉君は、みんなより少し余計に仲のいい生徒。それだけだよ…。」
「それじゃ兄ちゃんがかわいそうだろ!」

不意に怒鳴りつけられて、祥太郎はびくりと震えた。隼人は噛み付きそうな目で祥太郎を睨んでいる。

「兄ちゃんが、どんな目でお前を見てるか、分からないのかよ! 俺は…、兄ちゃんの懐に入れてもらいたいけど、その為に兄ちゃんががっかりするんじゃ駄目なんだ。悔しいけど、今はお前の方が俺より勝ってる。それなのに…どうしてそんなノラクラした事ばっかり言うかよ!」
「だ、だって…。」
「大体おまえのその自信、どっからくるんだよ! そんな態度をしてても、兄ちゃんがおまえを嫌いになることなんか絶対にないって思ってるんだろ!」
「…………。」

隼人の勢いに負けて、祥太郎はあとずさった。
隼人の気に入る回答を返したつもりでいたのに、この激昂ぶりはどうしたことか。
気が付くと隼人の目が潤んでいた。

「兄ちゃんだって心変わりするんだからな! 兄ちゃんだって、きっと…多分…もしかして…祥太郎の事なんか忘れられるんだから! 俺にこんな風に冷たい態度するみたいに…。」

祥太郎はぎくりと肩を強張らせた。
それを誰より望んでいたのは自分のはずなのに。どうして隼人から、切り付けるような言葉を掛けられると、こんなにも胸が痛いのだろう。

「俺…ちょっとはお前の事好きかもと思ったけど…やっぱり大っ嫌いだ、お前なんか!」

隼人は忌々しそうに足を踏み鳴らした。
初めてこの部屋に来た日と変わらない、その子供っぽい仕草が、なんだか妙に痛々しく見えた。

「祥太郎のバ────────カ!!!」

最後に一声叫ぶと、隼人は身を翻した。
祥太郎はぽつんと取り残されたまま、呆気に取られていた。

「な、なんだよ、もう…。」

一体どうしろというのだ。直哉の事を好きでも嫌いでも、結局隼人のお気に召さないのではないか。
祥太郎は座り込んでため息を吐いた。なんだか胸が痛くてやりきれなかった。



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