夜の街で




祥太郎は途方に暮れていた。

「どうしよう…。」

手の中の携帯を見下ろす。最後の着信は直哉から。

「今晩迎えに行きます。」

それだけの短いメールに、祥太郎は慌てふためいて、着の身着のままで逃げるように出てきてしまったのだ。
祥太郎の脳裏には、1学期最後の日の、直哉の真剣な目が焼き付いている。
一晩泊りに来いというのは…つまりそういう事なのだろう。祥太郎だって子供ではない。それがどんな結果を招くかは十分に分かっている。
だからといって…逃げ出してどうなるというのだ。よりによってこの辺りは直哉の庭とも言える地域だ。しかも。

「携帯持って出てきちゃったら…捕まえて下さいって言ってるようなもんじゃん…。」

我ながら情けないのである。
それともどこかにそんな甘ったれた気持ち…直哉に追いかけてもらいたいと縋るような気持ちがあるのかと、祥太郎は胸を掴んだ。



学校が夏休みに入ってから、一度瓜生の家に遊びに行ったきり、祥太郎はほとんど動いていない。
それがどうやら直哉のメールを待っての事らしいと気付いたのはつい最近だ。

直哉からのメールは今日までに2度来た。一度は合宿に入った事を知らせる物だった。
合宿は最短で16日かかると聞いている。だったら少なくともその間は、祥太郎は自由に動ける筈なのだ。
それなのに、携帯を睨み付けるように蹲ったまま、じっと事の成り行きを見守ってしまうのは、直哉が別れ際にあんな事をしたからだ。

今でも思い出すだけで頬が火照る。
決して乱暴ではないのに、有無を言わさぬような強引なやり方で、直哉は祥太郎に烙印を残していった。
五つ年下の教え子は、祥太郎のはるか上からの視点で祥太郎を見下ろして、大きな手で祥太郎の頬を押さえた。
力ずくでされたわけではない。どちらかというと、まるでひな鳥を捕まえでもしたかのような優しい手だった。
あの手があんなに優しくなかったら、きっと祥太郎は今まで通り冗談に紛れさせて、あの手を振り解けたのだ。今まで通り軽い笑い声を上げて、無邪気な子供を装えたのだ。
だが、あまりにも優しい接触は、祥太郎の決意を崩し、改めて自分の中を見渡すきっかけを作ってしまったのだった。



当てもなくとぼとぼと歩いていると、見覚えのあるところに出てしまった。一度だけ直哉に連れられて来た、クラブに向かう方向だ。
なんだかますます、直哉の懐に飛び込んでいこうとしているようで、祥太郎は自分に嫌気が差した。
とりあえずこんなところに、本来の祥太郎は用がない。一旦帰ろうと踵を返しかけたところへ、よく見知った人影が横切るのが見えた。隼人だ。

だが、祥太郎がぎょっと足を竦めたのは、隼人を見たからではない。彼の少し前を行く、胡乱な男に目がいったからだ。
あの顔には見覚えがある。直哉が鮮やかな腕前で倒した男達の、リーダー格の奴ではなかったか。
あの時、直哉は男の持っていた物を取り上げて、それを店に委ねた筈だった。だが、その結末までは見ていない。
もしかして、直哉と祥太郎の預かり知らぬうちに、もう一つのどんでん返しが待っていたのかもしれなかった。

前を行く隼人は、眉をひそめて険しい表情を作っている。どうやら、件の男達を追っているようだ。
ぞくりと腕が泡立った。あの男達の乱暴さと、隼人の無鉄砲さが思い起こされたのだ。
だが同時に、祥太郎は足を強張らせた。直哉からの2度目のメールを思い出したからだ。

いつもと変わらない素っ気無い文字が、淡々と並んでいる。
「携帯を替えました。こちらを登録し直して下さい。」との言葉に、祥太郎は胸が塞がった気分になった。

それは、隼人が直哉のメアドを控えていった直後のメールだったのだ。何が起こっているかは、火を見るより明らかだった。
隼人のメールを鬱陶しく思った直哉が、知られてしまった携帯を廃棄したのだ。

どうしてそこまで隼人を排除しようとするのか、祥太郎にはさっぱり分からない。
別に直哉は、隼人を嫌っているわけではないはずだ。それなのに、今の直哉は、隼人を徹底的に遠ざけようとしている。
祥太郎はそのメールを見て、隼人の気持ちを思って胸が潰れそうになった。
やっと知ったメアドに連絡を入れた途端に、根底からきっぱり排除されてしまったのだ。
それも、着信拒否などという生易しい手段ではない。まるで、おまえは要らないと宣告するようなやり方ではないか。

そう、祥太郎はちゃんとわかっている。
直哉は隼人だろうが誰だろうが、今はきっぱり要らないと言いきれるのだ。祥太郎を手中に入れるまでは。
そしてそれは、隼人にもわかっているのだろう。

ここで今、隼人に声を掛けたとしても、いたずらに隼人を傷つけるだけかもしれない。
まっすぐ直哉の方だけを見つめている隼人が、直哉の一番の関心の元である祥太郎に声を掛けられて嬉しいわけがないのだ。

だが、やはり祥太郎は声を掛けずにはいられない。
隼人はまるで、まったく無防備に、火の中に栗を投げ入れようとしているように見える。
このままでは遅かれ早かれ、痛い目を見るだろう。

「隼人くん!」

祥太郎は思いきって一歩踏み出した。



肩を怒らせた隼人は、呼びとめられて立ちすくんだ。祥太郎を振りかえって唖然とした顔をする。
祥太郎はほんの少し安心した。隼人の格好が、いつかの直哉みたいにびしっとしていなかったからだ。
無造作に肩を捲り上げたTシャツとジーンズは洗いざらしで、逞しい腕や胸に、汗の玉が光っている。
夜の帝王と称される直哉と程遠い格好は、隼人の目的が直哉とは遠い事が伺える。
少なくとも、隼人の目的は、このきらびやかな夜の街ではないようだ。
では、なぜこんなところをうろついているのだろう。

「祥太郎、おまえ…っ!」

案の定、隼人は祥太郎の顔を認めた途端に眉を吊り上げた。
祥太郎は慌てて駆け寄ると、隼人の腕をつかんだ。

「こんなところで何してるの? 帰ろうよ。君の格好、ここには似合わないよ。」
「……。うるせー! おまえに言われたかねえや!」

一瞬絶句した隼人は、すぐに掴まれた腕を振り払った。じろりと睨まれて、祥太郎は思わず自分の格好を見回してしまう。
隼人の言うのももっともだ。自分こそ普段着のままのラフなシャツと綿パンツで、教師どころか成人にも見えない格好だ。

隼人は祥太郎を睨みつけたものの、まもなく自分から目を逸らした。
もっと酷い罵声が降ってくるものと覚悟していた祥太郎は、その隼人の意外な様子に、返って驚いてしまう。
あの聞かん坊の隼人が、まるで自ら負けを認めるかのように弱々しいのだ。

「隼人君…。」
「ほっとけよ、俺の事なんか。」
「そ、そんなわけにいかないよ!」
「るせえな、見失っちゃうだろ!」

隼人は伸び上がるようにして、前方を眺めた。

「あいつ、最近兄ちゃんたちの領域でちょろちょろしてやがるんだ。この間兄ちゃんに痛い目に会わされたのを逆恨みしてる。あいつを排除できたら…兄ちゃんは俺のこともちょっとは認めてくれるかもしれない。」
「え…、だって…。」

隼人の言うあいつが、間違いなく祥太郎の危惧している相手と同一人物であることがわかって、祥太郎はどきりとした。
あいては集団で一人に襲いかかるような奴なのだ。まき返しを狙っているのなら、懐に刃物くらい呑んでいるかもしれない。
そう思うと、不安でたまらなくなった。

「やっぱりダメだよ、帰ろうよ、隼人君!」
「るせえな! おまえは帰ればいいだろ!」

隼人は低い声で言うと、キッと祥太郎を睨みつけた。

「おまえはなんにもしなくたって兄ちゃんの関心を引いていられるんだろ!
俺は…これくらいしなきゃ、兄ちゃんに認めてももらえないんだ。だから邪魔するなよ!」

祥太郎は思わず後ろによろめいた。今度こそ、隼人の悲しい声を聞いた気がした。
祥太郎がひるんだのを見た隼人は、ひらりと身をかわして走っていってしまう。まるで逃げ出したようだ。
慌てて追おうとした祥太郎のポケットで、携帯がかすかに鳴った。



「あ…、待って、隼人君!」

祥太郎はあたふたと携帯を引っ張り出した。急いで耳に押し当てる。
隼人を見失わないように目で追って、上の空で返事をした。

「はい、朝井です。」
「祥先生、俺です。」

間違えようのない、落ちついた声が聞こえて、祥太郎は息を飲んだ。
名前など聞く必要もない、直哉の声だった。

「今どちらです? お迎えに上がりますよ。」

笑いを含んだような声にどきりと胸が弾む。
悔しいが、やっぱり祥太郎は、直哉が声を聞かせてくれるのを待ち望んでいたのだ。
胸の奥から、暖かい気持ちと、驚くような勇気が涌きあがってくるのが分かる。
直哉は絶対に祥太郎の信頼を損ねる事はないと確信する気持ち。祥太郎は一つ大きく息をした。

「今…六本木。隼人君が…!」
「隼人…?」

途端に不機嫌そうになる声の調子を無視して、祥太郎は囁く。

「僕もう行く! 直哉君は、僕が一番大事だっていつか言ってくれたよね。」
「はい。」

間髪を入れずに返事が返ってきて、祥太郎は携帯を、まるで直哉の手であるかのように握り締めた。

「じゃあ、僕頑張るから…、絶対持ちこたえるから。
僕が心配なら探しに来て!」

遠くで、隼人が男たちに突っかかるのが見える。
祥太郎は直哉の返事を待たずに通話を切り、隼人に向かって走り出した。



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