かけがえのない人ふわふわと漂っているような気分だった。 指先まで熱く脈打っていて、胸が弾むのに、なんだかそれがとても心地いいのだ。 大きな暖かい手が、飽きる事なく背中を擦ってくれていて、酷く安心した気分になっていた。 絶対に裏切らない、大きな物に包まれている。それが分かる。 だから何も心配してはいなかった。 遠くでずっと聞こえていた喧燥が、急に大きくなった。 祥太郎はぼんやりと耳を澄ませた。どうやら耳元で連呼されているのは、自分の名前だ。 薄暗い、生ぬるい場所で心地よくたゆたっていた意識が、急激に引っ張りあげられる。目の前が明るくなってくると、急に何もかも吐き出したいくらいの酷い悪感に晒され、祥太郎はぼんやり深海魚を思った。 急に釣り上げられると、水圧の差で内臓をみんな吐き出してしまうという深海魚。 今の自分は彼らと大差ないかもしれない。 「朝井さん、朝井…ああ。」 「あっ、祥太郎、目ェ覚めたかよ!」 薄目を開けると光が突き刺さってくるように眩しくて、祥太郎はぎゅっと目を瞑り直した。端に胸の奥から、熱い固まりが逆流してくる。 ザアッと血の気が引くのが分かった。ほんの一瞬で、腿にまで冷たい汗が浮かんだ。 たまらなく気持ち悪くて、口を覆ってしまいたいのに、手足は綿でも詰まっているかのように動きもままならない。必死に身を捩ると、頬に冷たい物が押し当てられた。 「祥先生、全部出しちゃっていいですから。」 声と一緒に、背中をゆっくりと擦られる。頬に押し付けられているのは、銀色に光るそら豆みたいな形をした容器だった。祥太郎は夢中で屈み込んだ。 喉を焼くような、苦くてすっぱい物が逆流してくる。からえずきがいつまでも止らなくて、祥太郎は涙をこぼした。 鼻先の吐瀉物が酒臭い。ぼんやりそれを押しやろうとすると、頬に冷たい物が押し当てられた。水の入ったコップだ。 「口、ゆすげますか?」 そう言えば、口の中が汚れていて酷い味がする。 ありがたくコップを受け取ってうがいをし、返す為に上目遣いに見上げかけて、祥太郎は途端に後悔した。 「あが。」 頭の中で室伏がハンマーを振り回している。内側から殴られ続けているような酷い頭痛が起きて、祥太郎はひくひく震えた。 何しろ、のたうつと、更に痛みが酷くなるのだ。 「いだ…、あ…だまいだい…。」 うめくと、なぜか回りからはほっとしたようなため息が聞こえた。 「まあ、特に重篤な症状はないようだし、今夜はここでゆっくり休んでいけばいいでしょう。」 こんなに頭が割れるみたいなのに、重篤でないというのはどういう事だろう。 祥太郎は心臓の鼓動と一緒にガンガン言い続ける頭を宥めながら、そっと目を開けた。 見慣れない白い部屋。目の前に立っている男には見覚えがある。ぼんやり考えて、あ、と思い出した。 生徒会長の、お目付け役の佐伯氏だ。そのとたん、ありとあらゆる事を思い出した。 夜の町を走って。隼人を見つけて。大きな男に無謀な勝負を挑んで。 その結果、やっぱりだらしなく昏倒してしまって。 「は、隼人ぐが…!」 「ああっ、きったねえ! ゲロ拭けよ!」 跳ね起きると頭の中のハンマーが一際大きく振りまわされて、祥太郎はあっけなく沈没した。 言葉ほどには乱暴でなく、隼人が顔を拭ってくれる。冷たいお絞りが気持ちよくて、祥太郎は思わずされるままに縋ってしまう。 「頭痛がしますか? 急性アルコール中毒を起こさなかっただけでも奇跡みたいな物ですから、致し方ない。我慢なさい。」 「こ、ここは…。」 「住園の病院ですよ。まったくとんだ無茶な先生だ。直哉君が血相を変えて来て、何事かと思いましたよ。」 「え…、病院…? 今夜はここでって…?」 「酔っ払いの方は時間が何とかしてくれるのを待つしかありませんから、一晩泊まってお行きなさいと言っているんです。まったく、ご立派な肝臓に生んで下さったご両親に感謝しなきゃいけませんよ。」 「や、もう僕帰…、いだだだだだ…。」 ほんのちょっと大きな声を出すだけで、頭がグワグワ鳴って、抗議の言葉も満足に続きやしない。 それを見下ろす隼人はそわそわしているが、佐伯は涼しい顔だ。 「まだ点滴も終わらないし。」 なんだか楽しそうににっこりする。 「そう焦らないで。この前の時もあんなにお引き止めしたのに無理矢理帰ってしまわれて。私は自信を無くしそうですよ。」 楽しんでいる…。祥太郎は恨めしく思った。 肋骨を骨折した時、散々引き止められたのを振り切って帰ってしまった事を根に持っているらしい。 雪紀のお目付け役というだけあって、なかなか一筋縄には行きそうにない男だ。 そういえば、こんな時必ず助け船を出してくれる直哉はどこへ行ってしまったのだろう。さっきまで背中を擦ってくれていた大きな手は、直哉の物に違いないのに。 「兄ちゃんなら、さっきの片づけがてら、祥太郎の携帯持って出てったきりだよ。」 「えっ、さっきのって………あう。」 ますます頭痛が酷くなる。 よりによって直哉に、自分の吐瀉物を始末させてしまったようだ。 「何今更言ってんだよそんなの。祥太郎、兄ちゃんに抱っこでここに連れてこられる途中で、思いっきり寝ゲロしたんだぜ。お前も兄ちゃんもどろっどろでさ。」 「ひぃ…、勘弁して下さい…。」 「まあそのおかげでこの程度で済んでいるんでしょうから、そう悲嘆しなさんな。」 からかっているんだか慰めているんだか分からない佐伯の言葉に、ますます身の縮む思いがする。 次々と暴かれる自分の行状に、祥太郎は泣きそうになっていた。 なんだか変な匂いがすると思ったのは…そのせいか。 「そんで、携帯がずっとぶるぶる言いっぱなしでさ。病院内は携帯禁止だろ。俺は電源切っちゃえって言ったんだけど、兄ちゃんは表示見て、怖い顔になっちゃってさ。」 「えっ、その…表示って…。」 恐る恐る聞いてみる。祥太郎には予感があった。 「瓜生って、書いてあったぜ。」 「ああああああ〜、やっぱり〜!」 祥太郎は反射的に叫んで、またも頭痛に蹲った。 瓜生は子供の頃から心配性で口うるさいのだ。定期的に連絡を入れないと、心配になるらしく探し回るところも、子供の頃から変わってない。 こんな失態が知れたら、何を言われることか。 祥太郎がベッドの上で悶々としていると、直哉が帰ってきた。手には祥太郎の携帯を持っている。 祥太郎と目が合うと、眉間に皺を寄せて、一直線に進んできた。 「先生、具合いかがです。もう起きてていいんですか?」 なんだか前にも聞いた事があるようなセリフだと思いながら、祥太郎は直哉を見上げた。 少し青ざめて見える直哉は、いつもより取り乱して見えた。 「もう大丈夫。まだちょっと頭が痛いけど…、心配かけちゃってごめん。」 まだ酔いは抜けていないらしく、頭はガンガンしたし吐き気も健在だったが、とりあえずゆっくり体を起こしてみせると、直哉の表情は目に見えて和らいだ。 大きく腕が広げられると、包み込むようにふんわりと抱きすくめられていた。 「…まったくですよ。」 直哉の声が少し震えているのに、祥太郎は気付いた。 「心臓が…止るかと思いました。」 こほんと咳払いが聞こえる。佐伯がなにか行って、出て行くのが感じられた。 妙なところを見られてしまった。まだ部屋には隼人もいる筈だ。 だが、祥太郎はそんな事はもうどうでも良くなっていた。自分を抱きすくめている、自分よりずっと大きな直哉が可愛くて仕方がなかった。 そっと広い胸に擦り寄ると、柔らかく抱きしめている腕が、応えるように力を込めるのが分かった。 「…本当にごめんね。もうこんな心配かけないから。」 「………うん。」 珍しく、素直な返事が返ってきた。祥太郎は薄く笑い、静かに腕を上げた。 抱き返してあげてもいいのかもしれない。今までずっと示してこなかった好意を、態度で示してもいいのかもしれない。 初めて見せられる直哉の子供っぽさは、祥太郎をそんな気分にさせていた。 だが、祥太郎の決意は実行に移される事はなかった。 「祥!」 扉がものすごい勢いで開かれると、いきなり瓜生が叫んだ。 祥太郎はあっという間にふんわりした気分を引っぺがされてしまった。それは直哉も同じだったらしく、しっかり巻き付いていた腕がいきなり離れて行ってしまった。 祥太郎は少しもったいなく思いながら、瓜生を見上げ、小さく肩を竦めた。 ものすごく怒っている。この分では言い訳を聞きいれてくれるかどうか。 「祥、どうしたっていうんだ! なんで入院なんか…!」 「いだだだ…、頭痛いんだから怒鳴らないでよ…。」 ずかずかと傍に来た瓜生は、顔を顰めた。敏感にアルコールの匂いを嗅ぎ取ったようだ。 「あの…、ただの酔っ払いなんだから、そんなに心配してくれなくても…。それにしてもよくここが分かったねえ…。」 「俺が知らせました。」 直哉がぼそりという。もう彼は、さっきまで祥太郎に見せていた気弱な顔をすっかり押し隠していた。 瓜生は一瞬息を飲んだ。見る見る顔が赤くなる。ギリ、と奥歯を噛み締める音が聞こえた気がした。 振り向くのと拳が繰り出されるのが同時だった。 ガッと鈍い音がして、直哉がたたらを踏んだ。瞬く間に鼻血が滴った。 祥太郎は息を飲んだ。直哉の名前を叫ぶと、自分も殴られたように頭が痛んで目眩がした。 瓜生が直哉を殴ったのだ。痛烈な一撃は、直哉の顔面を確実に捉えていた。 「瓜生っ!」 「祥は…っ!」 祥太郎の叱咤の声を完璧に無視して、瓜生は怒鳴った。今直哉を殴ったばかりの握りこぶしがぶるぶると震えている。 「酒だけは強いんだ。一升瓶くらい平気で空けちまう。誰も祥の酔っ払ったところなんか見た事ないんだ。それをこんなになるまで…! 一体どんな無茶をさせたんだ!」 「直哉君は悪くないんだ! 僕が勝手に…!」 頭痛で大声が出しにくい中叫んでも、あまり効果はないらしい。祥太郎は急いでベッドを降りた。 僅かな不調で体力が落ちているのか、冷たい床を感じた途端に膝ががくりと折れる感じがする。 腕が引っ張られて、点滴がついたままなのを思い出した。さすがに針を毟り取るのは恐ろしくて、へっぴり腰の中途半端な体勢で、なんとか瓜生と直哉の間に割り込む。 「どけっ、祥!」 「どかない! 直哉君は僕を守って…!」 「いいんです、祥先生。」 大きな手が肩を包んだ。祥太郎は自分の肩を庇うように抱いている直哉を、驚いて見上げた。 「瓜生さんの怒るのももっともだ。俺が短慮だった。今夜のことも、隼人のことも何もかも、俺に責任があります。」 優しいけれども強引な手が、祥太郎をベッドの方に押し戻す。ベッドに腰掛けて、子供のように足を宙ぶらりんにさせながら、祥太郎はぼんやりと直哉と瓜生を見比べていた。 直哉は、いつもよりも更に、大人びた表情をしていた。 「俺は、こんな無茶をさせるために、大事な祥をおまえに委ねたわけじゃないんだ…!」 大型獣が低く威嚇するような声で、瓜生がうなる。力の漲った拳が、今にもまた直哉を殴りそうに思えて、祥太郎は思わずきつく目を瞑った。 「わかってます。今回のことは、全部俺の愚かさが引き起こしたことだ。なにより、祥先生をこんな目に合わせてしまって…、俺は悔やんでも悔やみきれない。」 どうやらこれ以上の乱闘騒ぎにはならないようだ。祥太郎はそっと目を開けた。そのまま、その目は大きく見開かれた。 直哉がゆっくりと膝を折っていた。ピンと伸ばした背筋のまま、美しい正座をした直哉は、まっすぐに瓜生を見上げた。膝の前に手を突くと、そのまま深深と頭を垂れる。 土下座をしている。誰にでも昂然と顎を上げる、誇り高い白鳳の守護神が、祥太郎一人の為に地べたに這いつくばって許しを請うているのだ。 「申し訳ない。俺はあんたの期待を裏切ったのかもしれない。 だけどもう二度と祥先生を傷つけないと誓う。許してくれとは言わない。もう一度俺にチャンスを与えてくれ。」 床に伏した背中は、静かに揺るぎ無い。祥太郎はびっくりしてその背中を見守り、それから、なぜだかドキドキと胸を弾ませている自分に気がついた。 直哉の真剣さがこんなに胸を弾ませるのだ。嬉しいのかもしれないし、怖いのかもしれない。 間違いなく全身で語られる思いに、祥太郎はますます頭がクラクラしてきた。 瓜生が立ち尽くしている。拳はまだ堅く握り締められたまま、歯を食いしばり、きつい目で直哉を見下ろしている。 祥太郎はもう一度床に降り立った。さっきよりも足がふらつく。そろりと歩いて、瓜生と直哉の間に立ちはだかった。 「瓜生…、僕の直哉君にこれ以上乱暴なことしないで。もしどうしてもするっていうんなら…。」 瓜生は祥太郎をゆっくり見下ろした。それから少し落胆したような顔をして、拳をほぐした。 「するって言うんなら…どうするんだ? 祥?」 祥太郎はちょっと躊躇した。この胸の迫る感じは覚えがある。今の祥太郎に瓜生を撃退するすべがあるとしたら、…情けないけどこれぐらいしかない。 「……………吐くぞ。」 「…………。」 瓜生の肩が、拍子抜けしたようにカクンと落ちた。 「うわあっ、またかよ、祥太郎! ちょっと待ってろ、さっきの盆が…、ちょっとまだ我慢しろって!」 ずっと静観の構えだった隼人が、祥太郎の額に浮いた汗に気づいて大慌てで容器を差し出してくれた。祥太郎はそれを受け取ると、情けなく屈みこんでしまう。 いつのまにか、手を上げた直哉が、祥太郎の背中を擦ってくれている。 祥太郎は気持ちの悪さに涙を浮かべながら、この優しい手だけは、決して離せないと悟った。 二人の背後で、瓜生が深いため息をついた。 やっと吐き気がおさまって、息を乱した祥太郎に向かって、瓜生が声を掛けた。 「祥…俺はもう行く。無理しないで、今晩はゆっくり休めよ。 それから…ちょっと直哉君を借りてっていいか? 話があるんだ。」 「いいけど…不穏な話しは…。」 「はは、全然違う。そうだな、コーヒー一杯飲むくらいの間かな。 祥は無茶しいだから、直哉君に知っておいてもらいたい事が沢山あるんだぜ。」 瓜生は背中を向けたまま腕をしゃくった。直哉は少しの間考えていたが、やがて部屋を出ていった。 こうして、部屋には祥太郎と隼人だけが取り残された。 「はあ…。」 祥太郎はため息をついた。すぐに帰って来るかと思われた直哉は、なかなか帰ってこなかった。 瓜生がちゃんと約束していったのだから、よもや流血沙汰にはなっていないと思うが、祥太郎は心配でゆっくり眠ることも出来ない。 「祥太郎、起きてるか…? 寝てるよな。」 隼人の言葉に返事をしかけた祥太郎は、言い聞かせるように続いた言葉に、そのまま返事を飲み込んだ。 隼人は眠っている祥太郎に話したいことがあるらしい。 「……俺んちはさ、親父もお袋も仕事人間なんだ。特にお袋は、俺が産まれてまもなく企業を立ち上げて、3歳になる頃には片手間にやるような規模じゃない仕事をやってた。 俺と兄ちゃんの世話は雇った家政婦に任せっきりで、しょっちゅう飛びまわってた。日本だけならまだしも、海外に低賃金の優良な人手を求めたから、月の半分は海の向こうで…、だから俺は、小さい頃から兄ちゃんにずっと引っ付いて育ったようなもんなんだ。」 隼人は、祥太郎の寝ている足元に、うずくまって座っていた。 身じろぎするとベッドが揺れて、隼人が珍しく、小さく背中を丸めているのが分かった。 「家政婦たちはみんなあんまり長続きしなかった。きっと俺らがあんまり懐かなかったのがいけなかったのかもしれない。だって知らない人が入れ替わり立ち代りで、俺は特に、いつも緊張してたんだ。 だから大抵の人は、時間が来るとぴったり帰っちゃって、俺たちは夜でも大人の誰もいない部屋で寝なきゃいけないこともしょっちゅうだった。 俺らは食い盛りでしょっちゅうはらぺこだったし、暴れ盛りだったから、兄ちゃんは良く俺の為に夜食を作ってくれたり掃除をしてくれたりした。 俺と二つしか違わない小さい兄ちゃんが、夜中に一生懸命ホットケーキを焼いてくれたりするんだぜ。すっげいびつな形のホットケーキだったけど、凄く美味しかった。 怖いテレビを見た後に、夜中にトイレに行くときも、喧嘩をしてぶん殴っちゃった相手に謝りに行くのも、いつも兄ちゃんが来てくれて、俺にとって兄ちゃんはずーっと、スーパーマンだったんだ。」 祥太郎は幼い直哉と隼人とを思い浮かべた。 二人の幼児のきつい眼差しは今でもはっきり想像できて、ちょっとおかしくなった。 そうして、そんなふうに擦り寄って育ってきた兄弟を思うと、鼻の奥がツンとするような切ない思いもするのだった。 「兄ちゃんが道場に通うようになって、雪紀さんと過ごす時間が長くなっても、相変わらず兄ちゃんは、ずっと俺にとってのスーパーマンだった。その頃には兄ちゃんは、できないことはないくらい自信に満ち溢れてて、武道でも、株でも、大人と対等に渡り合う姿は、かっこいいとしかいいようもなかった。 事実、兄ちゃんたちはものすごくもてたんだ。いつも違う種類の香水の匂いがして…、綺麗なお姉さんたちが、二人をほっとかないのが分かった。それでも兄ちゃんは、なんにつけても淡白で、好きな人なんかいないんだと思ってた。俺以上に、兄ちゃんに心を砕かせる奴なんて、全然出てこなかったんだ。 だから、兄ちゃんが祥太郎のことを嬉しそうに話し始めた頃は、本当にびっくりした。」 くすん、と小さく声が漏れるのを聞いて、祥太郎は静かに息を吐いた。隼人はますます背中を丸めて、目を擦っているようだった。 「いつもカッコ良くて、プライドに満ち溢れてた兄ちゃんが、どんどん柔らかい表情になってくるんだ。そうして肩肘張らなくなった兄ちゃんは、前とは違う雰囲気だった。 日替わりで香水の匂いをさせてこなくても、兄ちゃんが毎日充実してるのが分かった。でも俺は嫌だったんだ。俺の大好きでカッコイイ兄ちゃんは、そんなふうに和やかな顔をしたりしない。いつも胸を張って、誰も寄せつけない堅い表情で、でも俺にだけは優しいのが俺の兄ちゃんなんだ。今の兄ちゃんは、…俺の兄ちゃんじゃない。」 いつのまにか隼人がすすり泣いている。祥太郎はそっと起き上がった。隼人の背中が、年相応の少年の背中に見えた。 「今日だって…あんなぬるいパンチ、本当の兄ちゃんなら絶対避けられるんだ。兄ちゃんは、あえてそれをしなかった。殴られるつもりでいたんだ。 それに例え自分が悪いって分かってても、あんな人前で土下座なんて…今までの兄ちゃんだったら考えられないことなんだ。あんな風にペコペコ謝って…。あんなカッコ悪いの、兄ちゃんじゃない。 でも、…カッコ悪いんだけど…、凄くカッコよくもあったんだ…。兄ちゃんの真剣な思いが…凄く…カッコよくて…、ちくしょう。」 祥太郎はたまらなくなって隼人の背中に手を伸ばした。 眠っているふりを続けた方が隼人は話しやすいのかもしれない。でも、震える背中がかわいそうで、祥太郎は手を伸ばさずにいられなかった。 「あれは兄ちゃんじゃない。俺の大好きな兄ちゃんはもういなくなっちゃったんだ。だから、あれは…おまえにやるよ、祥太郎。てゆーか、おまえのもんだ。」 隼人はことばを切った。ぐすんと盛大に鼻をすすり上げて、不意に祥太郎を振り向いた。 外はすっかり闇に落ちた病室で、涙に濡れた目に射すくめられて、祥太郎は思わず背中を伸ばした。 「俺の兄貴…、大事にしてやってよ。」 「………うん。」 祥太郎は深く頷いた。隼人が涙の残る頬で、にっこり笑うのが見えた。 それからしばらくしてようやく、直哉が帰ってきた。 すっかり屈託ないようすで祥太郎と話をしている隼人を呆れたように見やって、直哉は祥太郎のベッドの脇に座った。 祥太郎の酔いもだいぶ覚めてきている。少し眩しい思いで、直哉を見上げた。 「直哉君、瓜生との話は…もういいの?」 「はい。」 言葉少なく頷く直哉に、祥太郎は改めて自分の気持ちを知った。 隼人がなにか買ってくると言いながら部屋を出ていく。彼なりに気を効かせてくれたのかもしれない。祥太郎は、決意をした。 二人っきりになった今、直哉に伝えておかなければいけないことがある。 「直哉君…、僕、ものすごく感謝してる。直哉君に出会えたこと。自分の気持ちに素直になれたこと、全部の事に。」 「…はい。」 ほんの少し訝しげな表情で、直哉は頷いた。 祥太郎は直哉を手招いた。なんの疑問もなく顔を寄せる直哉を両手で捕まえて引き寄せた。ほっぺたに触れるだけのキスをする。 目を白黒させている直哉に、そのまま話しかけた。 「この間、直哉君の部屋に招待してくれたよね…。あれまだ有効?」 「え…?」 「僕、直哉君の部屋に遊びに行きたいんだ。それで…。」 ごくんと喉を鳴らした。勇気を振り絞る。 「直哉君の、一番近くに居させてほしいんだ。」 かっと頬が火照る。とんでもなく恥ずかしいことを口走っている。でもこれが、偽らざる自分の思いだ。 しばらく沈黙していた直哉が、やがて大きな腕で祥太郎をぎゅっと包み込んだ。 祥太郎は初めて直哉を抱き返すと、小さく呟いた。 |