約束の手付け




隼人の暴走に始まった1学期も、何とか無事に終わった。

祥太郎はほっとしながら回りを見回していた。突発的に行われた球技大会もすっかり終えた生徒会室だ。
生徒会長の席に陣取った雪紀がまんべんなく視線を飛ばしながら話をしている。
2学期になれば、また新たに生徒会役員を選出する選挙が行われる。2年生の時から生徒会長としてこの学校を牛耳ってきた雪紀も直哉もさすがに引退だ。この最後の演説には感じ入るところがあるのだろう。

「堅っ苦しい話はもう終いにしよや〜、かいちょー。」

うずうずした様子で慎吾が言う。もう手にはプール用のバッグを握り締めている。

「こんなええ天気に、元気な男の子は部屋に篭っとるモンちゃうで〜。今日みたいなプール日和にはガンガン泳がな! 咲良、瑞樹! なんならコーチしたるで!」

「まだ泳ぐ気かよ。それにしても咲良は売約済みだ。コーチなら、瑞樹だけにしとけ。」

雪紀は渋い顔で言い、苦笑いして皆を見下ろしていた背中を上げた。

「まあしかし、慎吾の言う通りだな。堅い挨拶は無しにしよう。
それでは楽しい夏休みを。解散。」

若者らしい、清々しい微笑みを見せて宣言する。慎吾が歓声を上げて立ち上がると、部屋の空気が動いた。
それぞれが、輝く目をして、来る夏休みに思いを馳せている。
祥太郎はゆっくり立ち上がった。あの怪我以来、慎重に行動するのが癖になっている。

「先生。」

影のようにすっと直哉が付き従ってくる。これも、この数ヶ月繰り返されている事だ。直哉はあの怪我以来、祥太郎から目を離さない。

「独りで帰れるよ。もうほんと、すっかり大丈夫だって。」

何しろ今日は久しぶりにバドミントンまでこなしたのだ。

「先生の大丈夫は当てになりません。」

そう決め付けられると、祥太郎は首を竦めざるを得ない。
祥太郎は結局、怪我の後も、自分の決意通りに突発休みを取ることなく無事に通勤し通せた。だが、それは直哉が今のようにべったり張り付いてくれていたおかげなのだ。

保健教諭の前田や、医師が言っていたとおり、最初の数日は結構大変だった。特に傷めたのが右だったせいもあり、黒板の板書が辛かった。手を伸ばすと痛みが酷くなるのだ。
やせ我慢をして普通に授業をして、教員室に帰る前にちょっとだけ隅っこに行って蹲って痛みを堪えていると、いつのまにか直哉が傍に立っていて、憮然として背中や肩を摩ってくれた。
武道をやっている時に習い覚えたというマッサージは実に的確で、短時間でも祥太郎の疲れと痛みを大いに取り除いてくれた。

それでも1日の終わりには立っているのも辛くなった。
後数時間だから、何とか誰にも悟られずに我慢し通してしまおうと思うのに、その目論見はいつでも直哉には看破されてしまうのだった。
更に憮然とした顔で腕を掴まれて、保健室へ引っ張っていかれそうになってしまうので、抵抗してみると、怖い顔で

「抱っこがいいですか、それともおんぶですか?」

と凄まれてしまう。結局逆らいようもなくてしおしおと保健室に連れていってもらうと、終いには前田に呆れた顔をされてしまった。

「どっちがどっちの犬なんです?」

犬という突飛な言いように驚きもしたが、今の状態ではまったく直哉の飼い犬同様に思えて、返事も出来ない祥太郎だった。
しかしそれもせいぜい2週間の事で、後はさほど直哉に厄介をかける事もなかったと思う。それでも直哉は、祥太郎の傍を離れる事はなかったはずだ。

祥太郎は、今も傍に少しだけ距離を置いて立つ、直哉の精悍な顔を見上げた。
あの日あんなに酷い突っぱね方をした祥太郎を、直哉は驚くほどの辛抱強さで見守ってくれている。祥太郎はほんの少し気の毒になった。
自分なんかに引っかからなければ、直哉ほどの子ならいくらでも楽しい夏が過ごせるのに。
だから、祥太郎はそっと言ってみた。

「夏休みだよ、直哉君。しばらく会えないね。」

直哉は静かな目で祥太郎を見下ろすと、不意ににやりと笑った。

「そうですね、俺もちょっと予定があります。」

祥太郎ははっとした。当然、直哉は食い下がってくるだろうと思っていたのに、それがない。妙に肩透かしを食らった気分になってしまう。

「お聞きにならないんですか、俺の予定。」
「ど、どうして…。」
「淋しいって顔、してる。」
「べっ、べつに、直哉君が僕の傍にいなくたって淋しいこと…ないけど…。」

語尾が尻すぼみになってしまう。なんだか悔しくて、もう一度直哉を見上げた。

「俺、この間18になりました。だから、夏休みを使って、普通と大型、両方の免許をやっつけてきます。」
「え? 普通と大型…?」
「自動車免許と、大型2輪ですよ。合宿で、すぐです。」
「あ、免許…。」

祥太郎はほんの少し淋しく思った。合宿では本当に、数日は直哉と完全に会えないのだ。
そんな感想を抱いてしまう自分に驚いて、祥太郎は強く目を瞑った。

「それで、先生にお願いがあるんです。」
「ん? なに?」

すでに生徒会室は無人だった。大騒ぎする慎吾を筆頭に、みんな出払ってしまっている。楽しい夏休みを目前にして、いつまでもぐずぐずしてはいられないといったところだろう。

「誕生日のプレゼントと、免許取得のプレゼントを下さい。」
「あ…うん、そうだね。18歳だもん、お祝いしなくちゃね。」
「免許取ったらすぐにナナハンを買います。タンデムして下さい。」
「えっ、タンデム…?」

一瞬にして、直哉の広い背中に蝉みたいに張り付いている自分の姿を想像してしまう。
風を切る直哉はきっと颯爽とカッコイイだろうが、自分はてんで様になってないだろう。
祥太郎はプルプルと首を振った。

「だめだめ、そんな危ない事。熟練者ならともかく、免許取りたての人がタンデムなんて絶対だめ。他の事なら何でも聞くから、他の事にして?」

ね?と首を傾げて直哉を見上げる。
ほぼ祥太郎の癖のようになっているこの仕草だが、実は祥太郎には、これが自分の大きな武器になることにちゃんと自覚があった。
そもそもそれを自覚させたのが直哉だ。

赴任してきた当時、おっかないばかりだった生徒会副会長の前で、元々癖だったこの仕草をするたびに、副会長の仁王の表情が緩むのがわかった。
そう言えば祥太郎には滅法甘い瓜生も、この仕草が大好きだったような気がする。
それに気付いたから、以来祥太郎は、意識的にこの仕草をするようにしてきた。するとこの一直線な生徒は、面白いように操縦できた。
だから、祥太郎は、本当はずいぶん前から直哉の気持を知っているのだ。
それがこのところ、うまく操縦が出来ない。次第に強引になってくる直哉に押されっぱなしで、教師としても年上としても、リードを奪われっぱなしだ。

「そう言うと思った。」

直哉は祥太郎の返事を聞いて、落胆するどころかにやりと笑った。

「じゃあ、それは俺が熟練者になるまでお預けとして、第二候補いいですか。」
「う、うん。」

何でも聞くといった手前、簡単には引っ込めない。

「俺の新しいマンションにご招待します。そこに一晩泊まってってください。もちろん…二人っきりです。」
「…え。」

どきりと胸が躍った。頬がかっと熱くなるのがわかる。
これまでも直哉と二人で夜を明かした事がないではない。修学旅行も二人部屋だったし、熱海に行った時は完全に二人きりだった。
その度にうまく躱してきたのに、今回はそれが出来ないような気がする。

「…どうしました? 二人っきりで…一晩中ゲームをしたっていいんですよ。」

余裕たっぷりの直哉の笑顔。祥太郎は少しばかり悔しくなって、思い切り背中を伸ばした。

「うん、いいよ。そんなんでプレゼントになるのかわからないけど…、ご希望に応えてあげる。」
「確かに聞きましたよ。」
「うん。」
「前言撤回はありませんよ。」
「うん。大丈夫だって。」
「…先生の大丈夫は当てにならないんだよなあ。」

ぐっと一歩。直哉の足が祥太郎の両足の間に歩を進める。
思わず祥太郎は一歩後ろに引いた。背中が壁に当たる。割り込んできた直哉の長い足が邪魔になって、左右にも逃げ場はない。
黙って見下ろされていると、つい何もかも捧げたくなってしまうような熱い視線。祥太郎は慌てて言葉を繋げた。

「ほんとだよ…、今まで僕が直哉君に嘘付いた事ある?」
「あるじゃないですか。俺には祥先生の本音はちっとも聞こえてこない。」

可愛らしく首を傾げてみせたのに、どうした事だろう、今日の直哉にはちっとも通じない。
直哉の大きな手がゆっくり上がった。ふわりと頬を包まれる。
また広い胸が寄ってきて、祥太郎との隙間を塞ぐ。

「本当は待つつもりでいました。でもやっぱり止めた。
俺は確約が欲しい。」

祥太郎は大きく目を見開いたまま、動く事も出来ずに直哉の顔を見上げていた。
真剣な瞳は、今まで祥太郎が知っていた、ちょっと無愛想な彼とは違って見えた。
顎の裏に回っていた指に力が込められて、ますます上を向かされる。親指で眦から睫を撫でられて、祥太郎は思わず目を瞑った。

「とりあえず、約束の…手付け分を頂いておきます。」

手付けって何の事? 考える間もなかった。
ふわりと、直哉の髪の匂いがかぶさってくる。ほんの少し、煙草の煙の混じった匂い。

「あ…っ。」

のしかかるように覆い被さられる。壁際の背中はもう逃げ場がない。直哉の足が少し上がって、衣類越しに祥太郎の股間に触れている。

「あ…、んっ…。」

制止しようと声を上げかけた唇に暖かい物が触れる。直哉の唇だ。

「ん…っ、んっ。」

驚いて閉じかける口を咎めるように、ぬるりと舌が這い込んでくる。
迷いなく潜り込んだそれは、祥太郎の歯列を探り、からかうように縮こまる祥太郎の舌を撫で回した。

「ん…ふ…。」

目が開けられないのは、直哉の親指が睫を撫で回すからだろう。だが、大して力の込められてないこの手を払えないのはどうしてだろうか。
膝が笑う。頼りない体を壁に預けると、ますます深く直哉の足が食い込んできて、祥太郎はびくりと震える羽目になった。
胸が破裂しそうに波打っている。直哉に触れられている頬や唇から、全身に熱が伝わって、蕩けて流れ落ちそうだ。

「…先生…。」

ほんの僅か、唇を開放されて囁かれると、祥太郎は更に動けなくなった。
直哉のもう一方の手が、ゆっくりと祥太郎のウエストの辺りを弄っている。今にもそこからシャツを引っ張り出されて、直に肌に触れられそうだ。

「だ…め…、ぅん…っ。」

震える言葉で拒んでみると、またあっさり唇を塞がれてしまう。
直哉の体温と匂いが気持ち良くて気が遠くなる。
ずる、と背中が滑った。ふらつく体が、直哉の胸に縋り付いてしまう。
自分はこんなに弱々しかっただろうか。祥太郎はぼんやり思う。たかがキス一つで、こんなに骨を抜かれたようにクタクタとだらしない奴だったろうか。
直哉の毒に酔っているのだ。相手が直哉だから、こんなに安心して無防備になってしまえるのだ。
わかってはいるが認められない。殆ど溺れてしまいそうになっている理性のどこかが、警鐘を鳴らし続けている。
こんなところでは、今はまだ、だめ。

不意に直哉が身を竦めた。唇と、頬を押さえていた手が離れて、やっと祥太郎は目を開ける事が出来た。
弾む息を飲み込むように呼吸を落ち着かせる。見慣れた生徒会室の風景が、自分の立場と居場所を思い知らせてくれる。

「隼人だ。」

直哉が呟いた。なるほど、遠くの方から直哉を呼ぶ声が近づいてくる。
隼人はサイレンみたいに直哉を連呼しつつ、校内を練り歩いているらしい。

「うるさい奴だな…。先生、だいじょうぶですか? …立てますか?」
「だ、だいじょう…ぶ。」

反射的に返事をして、祥太郎は思わず首を振る。
これではまるで立場が逆ではないか。
いきなり直哉の大きな手が目前に迫ってきて、祥太郎ははっとなった。

「さ…触らないでよ! ここは学校なんだから!」

一瞬止りかけた腕はまた滑らかに伸びて、祥太郎の顎を捕らえた。

「俺を拒むのは…ここが学校だから、だけですね。」
「え…?」

睫を撫でていた、同じ指が伸ばされて、祥太郎の口の際から顎を拭っていく。
そこにキスの残滓が垂れていた事に初めて気付いて、祥太郎は一気に赤くなった。

「兄ちゃん! やっぱりここか! って、祥太郎も一緒かよ! おまえ、俺の兄ちゃんになにしてるんだよ!」

何をしたか? 冗談じゃない。なにかされたのは、こっちの方だ。祥太郎は情けなくそう思った。
直哉はというと、何事もない涼しい顔なのだ。

「行くぞ、隼人。先生、手付けはきっちりいただきました。さっきの約束…忘れないで下さいね。」

直哉はにっと笑うと、隼人を従えて悠々と部屋を出ていった。取り残された祥太郎はしばし呆然となる。

「何が…一晩中ゲームだよ。あんな手付け…、代価に見合わないよ。」

呟いた祥太郎は、こっそり唇を撫でた。



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