ボーイ ミーツ ボーイ?「来ないじゃないか。」 「来ないねえ。」 直哉は雪紀を睨んだ。雪紀は知らん顔で各クラブから提出された活動状況報告書に目を通している。 「やっぱり風邪が悪化したんじゃないのか?」 「そうかもねえ。」 直哉は時計を睨んだ。もう10時を回っている。 休日を押しての生徒会活動は9時から始まった。直哉の待っている祥太郎は、本当ならもうとっくに姿を見せてもいい頃だ。 「大体おまえがあんな無茶を通すから!」 「毎年やってる事じゃないか。それだって今まで風邪なんか引いた1年いなかったよ。」 「それはちゃんと水着を着てたからだろう!」 そうだっけ、と呟いて、雪紀は小さく舌を出した。 「だけど、祥太郎センセに、風邪が治らなければ来なくてよろしいなんて言ったの、おまえじゃないか。俺が怒られる筋合いないね。」 今度は直哉が悔しそうに歯を食いしばった。 瑞樹はそうっと腰をかがめると、通りかかった慎吾を呼び止めた。 「桜庭先輩、なんだか会長と副会長が恐いんですけど。」 慎吾は二人のほうを眺めて、それから長身を折って声を潜めた。 「雪紀は白鳳マーメイドに遺恨があるんや。」 「え? 遺恨って?」 瑞樹にくっついてきてちょろちょろ遊んでいた咲良が頓狂な声を上げる。慎吾は慌ててしーっと息を吐いた。 「俺らの時の白鳳マーメイドが、天音やったんや。あれはカワイイゆう理由で選ばれよるからな。雪紀は、どう見てもカワイイゆう感じちゃうやろ。だけど、何でも一番が好きな奴やからな。静かに拗ねる拗ねる、大変やったんや。」 「そんな事、あったんですか? 会長が拗ねるなんて、考えられない。」 瑞樹もつられてひそひそと小声になった。 「なに言ってんねや、雪紀の自己顕示欲ゆうたら、すごいもんがあるで。以来、白鳳マーメイドは雪紀の鬼門なんや。今年はお前ら二人がフケたし、次点には先生が入ってるしで、意地悪な気分になったんやろ。だけど、直哉は直哉でアレやからな。」 「「慎吾、聞こえてるぞ。」」 見事なユニゾンで名指しされ、慎吾はひゃっと首を竦めた。 「あー、俺、コピー取ってくるわ。」 「わ、ずるい。じゃ俺達も、買い出し行ってきまーす。いこ、咲良。」 「う、うん。」 3人は、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。生徒総会の草案を練っていた天音がくすくす笑った。 「逃げられちゃったね。」 「まったく、古い話を…。」 雪紀は珍しく渋い顔になった。だが、さらに渋い顔の直哉を見て、方頬を緩める。 直哉は1分おきに時計を睨んでいた。祥太郎が連絡も入れずに来ない事が心配でたまらないのだ。 「直哉、ちょっとは落ち着きなよ。」 雪紀のお気楽な言葉に、直哉はきつい視線をくれる。それをゆっくり楽しんで、雪紀はポケットからメモを取り出した。 「そんなに心配だったら、祥太郎センセの様子でも見に行ってくる? 特別に今日は生徒会、免除してあげるよ。これ、センセの住所。」 指に挟んだメモをひらひらさせる。直哉はしばらく難しい顔で、そのメモと雪紀の顔を見比べていたが、やがて諦めたように手を出した。 だが、直哉がメモを取る直前で、雪紀はさっと手を引っ込めた。 「………おい。」 「そうだなあ、ターミネーター3、2枚で手を打とう。咲良が見たがってるんだ。」 直哉は大きく眉間に皺を寄せた。昨日からの雪紀の上機嫌の理由がいっぺんに読めた気がした。 「…いいよ。職員室へ行って教員名簿を見れば…。」 「今日は休日だから、職員室の鍵は開いてないよ。ちなみに事務室も閉まってるからな。」 「おまえまさか…、そんなもののために先生を犠牲にしたんじゃないだろうな。」 「まさかぁ。それはお前の考えすぎだよ。」 どうだか、と直哉は思う。この計算高い親友は、そんなこともしかねない。 直哉は仕方なく掌を雪紀に差し出した。 「…チケットは明日持ってくる。」 「そう来なくっちゃ。」 雪紀はニコニコと笑うと、はいと、直哉の掌にメモを乗せた。直哉は仏頂面のまま鞄を引っつかむと、まっすぐ生徒会室を出て行った。ドアを閉める音が大きくバタンと響いた。 天音は直哉の剣幕にちょっと首をすくめた。彼には雪紀がチケット代をケチってあんなことをしているわけではないのもちゃんと分かっている。 「あーあ、直哉の奴臍曲げちゃったよ。雪紀も意地悪しないでさっさと教えてやればいいのに。」 雪紀はふふんと楽しそうに頬杖を付いた。 「先生はあのとおり鈍感だし、直哉も案外意気地がないんで、ちょっとおせっかいしたくなったのさ。 そうでもしなきゃ、あいつ、生徒会サボって先生のとこまでいく理由なんか作れないだろ。せめて俺と咲良くらい進展してくれなきゃ、話も合いやしない。 おまえたちほどべたべたになって欲しいとは思わないけどな。」 天音は、からかいに満ちた雪紀の言葉に一つも動じないで、ニコニコ笑っている。少しは照れるとかしてくれないと面白くない。 治まりきった主婦みたいな奴だと、雪紀はこっそり呟いた。 「ここか…。」 直哉は雪紀から受け取ったメモを片手に、上を見上げた。 新築の10階建てのマンションの9階。賃貸とは言え2LDKに住まうのは、祥太郎のような独身の社会人1年生にとっては豪勢なものだが、お坊ちゃまの直哉にはそこまでは分からない。 直哉は天井の高いコンコースにもなんら気後れすることなく入っていった。 エレベーターでまっすぐ9階まで。祥太郎の部屋は、部屋番号によると東向きの側にある。郵便受けの上には、祥太郎の手書きにしてはいやに立派な楷書で、祥太郎のフルネームが書かれている。 直哉はここまで来て初めて躊躇った。祥太郎に会ったら、何でここまで来たと言えばいいのだろう。 だが、昨日の祥太郎の青い顔を思い出して勇気を振り絞る。チャイムを押してみた。ありきたりなピンポン音が響いているのが聞こえる。 「……………あれ?」 何の反応もない。直哉は少し考えて、今度はチャイムを連打してみた。 ピンポンピンポンピンポン…。 待つこと30秒。やはり何の反応もない。こんなマンションでは、聞こえないことも、扉に近づくのに時間がかかることもないだろう。 直哉は首を捻って携帯を取り出した。もしかして行き違いになってしまったかもしれない。雪紀に連絡を取ってみようと思ったのだ。 だが、携帯を開いた時、部屋の内部でガタッと音がした。やはり中に誰か居るようだ。なんとなく緊張して待っていると、もう少し近くで更に音がした。確実に近づいてきている。そして。 ゴンッ。 「…ゴン?」 なんだか異様な音がして、直哉は心配になった。 中に居るのはおそらく祥太郎だろうとは思うが、何でそんな音を立てるのだろう。それに、またぱったり音がしなくなってしまった。 直哉はしばらく躊躇ったが、直接呼びかける事にした。 「先生、朝井先生! いらっしゃるんでしょう?」 ドアの隙間に顔をくっつけるようにして叫ぶ。ついでにドアを拳で叩いてみる。子供の頃だってこんな幼稚な真似はしなかったなと自嘲気味に思っていると、やっと内側から反応があった。 ギ、と微かに扉が軋んで隙間が空く。ちょうど直哉の喉の下、抱きしめると顔が胸に埋まる位置に、祥太郎のとろんとした左目が見えた。 てっきりインターホンを通して誰何があると思っていた直哉は、慌てて身を引いた。 「先生、……おはようございます。」 言葉に詰まって、とりあえず挨拶をしてみる。 扉の向うがゆるりと動いた。隙間から見える範囲が移動する。左目、右目、左目。 直哉はつられて顔を動かし、それからはっとした。これはいつも祥太郎が考え事をしているときにする首を傾げる癖だ。 まさかとは思うが、俺の名前がわからないんじゃないよな。 「あ、…えと、滝…君。」 「はあ…。」 図星だったと、直哉はがっくり首を垂れた。扉の向こうの祥太郎は、直哉を招き入れようとしているらしい。扉が押されてガシャンと派手な音を立てた。 「あれ…あれ?」 「先生…、チェーン…。」 チェーンを掛けたままの扉をガシャガシャ押していた祥太郎は、直哉の指摘に初めて気がついたように一旦扉を閉めた。内側でまだるっこしいほどガチャガチャやってから、やっと扉が開かれた。 「どうしたの? とりあえず入って。あんまりきれいじゃないけれども。」 祥太郎の丸いおでこが赤くなっている。どうやらさっきの異様な音は、扉におでこをぶつけた音らしい。少し声も掠れているようだと、直哉は素早くチェックした。 「先生、具合如何ですか? 今朝いらっしゃらなかったから…。」 「今朝? 今朝は学校お休みでしょ〜。」 のんびりした声に、へらへらと笑いが混じる。なんだかいつもと様子が違う。 「あの、もしかしてお忘れですか? 生徒会…。」 「………え?」 祥太郎はその場で首を傾げた。たっぷり5秒。 「あああっ!」 直哉は思わず上体をのけぞらした。祥太郎の大声の直撃はとにかく脳天にくる。 「ど、どうしよう、もう11時? うわあ…。」 「も…、今日はいいと思いますよ。俺だって今日は免除なんですから…。」 おろおろとうろたえる祥太郎を宥めようとして、今度は直哉が固まった。祥太郎の格好がすごいのだ。 明らかにサイズが違うと思われる大きなシャツを素肌に1枚羽織ったきりで、白い素足がにょきにょきと伸びている。健康な男子が妙齢の女の子にさせたいと思うようなしどけない格好は、華奢な祥太郎にはよく似合った。 だが、生徒の前でする格好だろうか? 大体、成人男子がそんな格好が似合っていいのか? 「せ、先生…、なんすか、その格好…。」 直哉がやっと言うと、祥太郎は酷く落胆した様子で自分の姿を見下ろした。 「これ? パジャマの代わり。」 そうじゃなくて、と突っ込みたいのを、直哉はやっと我慢した。 祥太郎はよろよろと自分の部屋へ戻っていくところだった。 「ごめんねえ、顧問失格だよねえ、こんな時間に寝起きだなんて…。」 寝起きなのか、と直哉は少し安心した。 寝起きだからこんな風に妙に無防備なんだな。これが祥太郎の素顔なら、直哉は困ってしまうところだ。 「今から支度するから…、ちょっと待ってて。」 「本当に今日はもういいですよ。どうせ、みんな午前中だけで帰ると思いますから。」 つられて上がりこみながら、直哉は祥太郎に声を掛けた。 玄関を入ると短い廊下に繋がっている。右手に扉が2枚。おそらく洗面所や納戸だろう。突き当たりは横長のLDKで、更にその奥に並んで2部屋。 LDKと2部屋が引戸で仕切られていて、総て開放してしまえば大きな1部屋になるようになっている。今は1部屋分だけが引戸で仕切られ、LDKとその奥の1部屋はL字型に開放されている。 こざっぱりした、というよりはあまり生活臭のない部屋だった。家具が少ないのだ。 独り者らしく、キッチンには最小限のキッチン用品があるだけ。リビングに使っているらしい奥の部屋には、家具といえばソファーセットと大型のテレビと腰高のキャビネットしか見当たらない。 目を引くのは大きな観葉植物の鉢。リボンがくくられているところを見ると、プレゼントなのだろうか。 「その辺に座ってて。今なんか煎れるから。なんか…あったかなあ。」 祥太郎は裸足のままぺたぺたとキッチンに入っていく。後頭の髪がめちゃくちゃになっている所を見ると、本気で寝起きらしい。 ここには寝具の類は一切見当たらないから、引戸で仕切られた1部屋が実質、祥太郎の居室なのだろう。 直哉はぐるりとあたりを見回した。一見きれいに整っているように見える部屋は、実は結構乱雑だ。 キャビネットのガラス戸の中の書籍はばらばらで横に詰まれたりしている。部屋の隅には三角形に埃が溜まっていて、掃除機の掛け方が甘いことを物語っている。 首をめぐらせていた直哉の視点が一点で止まった。キャビネットの上に銀製の写真立てが置かれている。その中で微笑んでいるのは、祥太郎によく似た女性だ。 祥太郎の恋人にしては顔が似すぎている。母親だろうか? それにしては若すぎる。直哉は写真を手にとって首を傾げた。 「それ、僕の母だよ。」 直哉が聞くより先に、祥太郎が言った。祥太郎は甘酸っぱい目をして、遠くから写真を見ている。 「若いだろ。僕が3歳のときに亡くなったんだ。だから僕は殆ど彼女の事は覚えてない。」 「え、それじゃ、ご家族は…。」 直哉が思わず聞くと、祥太郎はふいと目を逸らした。 「今は義理の母もいるけど…、あれは家族って言うのかな…。」 珍しく、祥太郎らしからぬ小さな声に、直哉はドキンと胸を竦ませた。 直哉が祥太郎をはじめて見かけたのは、4月の始業式の日だった。 今年白鳳学園には新任の教師が3名入ってきた。 学生にしろ教師にしろ、新入りはどこでも初々しいものだが、祥太郎は群を抜いていた。何しろ小柄である。下手をすると中学生ではないかと思える彼の風貌が、直哉に軽い疑問を抱かせた。 あんな小柄な男が教師のわけはない。 だがそこは、間違いなく新任の教師たちのいる場所で、それぞれ緊張を隠せない新米教師たちの中でも、祥太郎はめだって緊張していた。 明らかに新品の、少し大きめのスーツに隠れてしまう小柄な体が、少し離れた直哉の位置からも小さく震えているのがわかる。 直哉は思わず生徒会役員として同じく隣に立っていた雪紀の制服の裾を引っ張った。 「おい、あれ…、中学生が紛れ込んでるんじゃないだろうな。」 「大概失礼なやつだな、おまえも…。」 雪紀は苦笑したが特に否定はせず、手にした書類を指し示した。 「今度古文を担当される、朝井先生だよ。傍まで行って見てくれば?」 言われなくてもそうするつもりだった。なんだか妙に好奇心を煽られるのだ。 直哉は小さく頷くと、なんとなく罪悪感に襲われて、足音を忍ばせて祥太郎の傍まで行ってみた。 祥太郎は他の教師たちに背を向けていた。なにやら細い肩をいからせて、一生懸命に自分の手のひらを睨んでいる。何をしているのか気になって覗き込んでみた。 いかにも文系らしい、白くてふくふくした手のひらに、右手の指が押し当てられて何やら文字を書いている。直哉が見ている目の前で、祥太郎はその文字をぱくんと飲み込んだ。 武者震いのように体を震わせて、それから肩越しに覗き込んでいた直哉に気付く。祥太郎は振り向くと気恥ずかしそうに笑った。 並み居る新1年生たちよりまだあどけない笑顔で、直哉はぎゅっと胸を掴まれた気がした。 「な…なにをしているんです?」 思わず問い掛けていた。なんだか自分がこれ以上ない間抜け面を晒している気がして、場を取り繕いたかったのだ。 「ああ、これ? 緊張しないためのおまじない。」 言う事もやる事もガキっぽい祥太郎は、ちょっと首を竦めた。 「さっきから緊張しちゃって、マイクの前に立てそうもないから、ちょっとね。こうやって人を書いて飲むと、あがらないんだって。知ってる?」 よくあるまじないだ。もちろん直哉はそれを知っているが、祥太郎はまるで小さな子供に諭すように、自分の手のひらにまた文字を書いた。 直哉は目を強く瞬いた。 「あの…その今書いたの、人じゃなくて、入るじゃないですか?」 「え…?」 祥太郎は大きい目を更に大きく見開くと、ゆっくりと文字を書き直した。左に払いかけた二画目の指を止めて、そのまま固まる。 「ああっ!」 講堂の舞台の裾だというのに、祥太郎は周囲が振り向くような大声を上げた。 「もう30回は飲んだのにっ、どうしようっ………あ。」 一気に叫んだ祥太郎はまた固まった。 他の新任教師たちが白い目をしてこっちを窺っているが、テンパっている祥太郎はそんな事には気付かない。 彼は大きく口をぱくぱくさせると、じっとり直哉を睨んだ。半べそみたいな表情で、心なし瞳も潤んでいる。 「今ので、せっかく練習してきた新任の挨拶…全部飛んじゃったよう…。」 「はあ?」 俺が悪いのかよ! 直哉は思わずあとずさった。 祥太郎の全身からどうにかしてよと言いたげなオーラが滲み出している。 だが、直哉は思いのほか早く開放された。教頭から、新任の教師の紹介があったのだ。 祥太郎は小さくうめくと、直哉に恨みがましい一瞥をくれて、とぼとぼと壇上に上がった。 例年の事ながら、新任の教師たちは生徒たちには格好のからかいの的だ。今年はそれが祥太郎に集中した。 小さくて華奢な祥太郎は、見るからに遊び相手には最適だ。 なんとなく気になって舞台裾を離れられない直哉の見ている前で新任教師たちの挨拶が始まった。挨拶とは言ってもいつも簡単なものだ。氏名とちょっとした抱負を述べるだけ。 こんなのに練習も何もないだろうと、直哉は密かに思っていた。 どういう順番だか知らないが、祥太郎の挨拶は一番最後だった。 今年は珍しく、抱負を語る部分が長い。厳しい就職難を潜り抜けてきた新任教師たちだ。それなりに胸に気負うものも大きいのだろう。 だが、壇上の祥太郎は気が気ではないらしい。なにしろ前の二人が一言ありふれた言葉をしゃべるたびに、無難にまとめたい祥太郎の語彙が減っていくのだ。 直哉はこっそりため息をついた。祥太郎の顔色はここから見ていても緊張のあまり真っ赤に染まりつつある。 いよいよ祥太郎が呼ばれた。 直哉は無意識に肩をいからせた。緊張しきった祥太郎のしぐさを見ていると、背中の強ばりが移るのだ。 祥太郎は釣り上がった目をしてマイクに近づいていく。近づき過ぎだ、と直哉が思う間もなく、ボコンと間抜けな音が講堂中に響き渡った。 前方不注意な祥太郎のおでこがマイクを直撃したのだ。 「うわ…。」 直哉は思わず頭を抱えた。 整列した生徒たちがいっせいに笑う。それはそうだろう。一昔前にはやったギャグそのままの姿で、祥太郎は硬直している。 せめて額からマイクを離せばいいのに。直哉は慌てて壇上に駆け上がった。舞台の裾では、放送委員までが腹を抱えて笑い転げていて、使い物にならない。 直哉は慌ててスタンドマイクの高さを調節してやった。ついでに祥太郎の顔を覗き込む。色白の祥太郎の顔が限界まで赤く染まっている。 少し前のめりに立った祥太郎は、せっかくのおまじないも空しく、上がりまくっていた。 「先生、自己紹介。名前を言うんです。」 直哉はつい耳元でささやいた。ひそひそとした声が全部マイクに拾われて、ますます生徒たちの笑いを誘う。 だが、その一言は、祥太郎にとっては天与の水にも等しかったらしい。彼は不意に背中をぴんと伸ばした。我に返ったのだろう。そして、彼のトレードマークとも言うべき大声を張り上げたのだ。 「ぼっ、ぼっ、僕は…。」 マイクがキィンとハウリングする。 「僕だって。」 「僕だってよ。」 講堂の中を小波のように、生徒たちのつぶやく声が伝わっていく。ぼくぼくぼくぼくと、なんだか木魚を叩くかのような共鳴が、ますます祥太郎を硬直させる。 だが、祥太郎は果敢にも自己紹介を続けた。それがまずかったのかもしれない。 「あっ、朝井ぃ、祥ゥォウたろ…。」 見事に声がひっくり返った。 「あちゃー…。」 直哉は思わず片手で顔を覆った。 講堂の中を生徒たちの笑い声や指笛がこだまする。いくら教師たちが牽制しても止まない騒ぎの中に、祥太郎はぽつねんと取り残されて、酸素不足の金魚みたいに口をパクパクさせていた。 かくして、祥太郎には「祥太郎センセ」が定着してしまったのだ。 |