祥太郎と秘密の部屋!




(あの時、俺があんなに世話してやったのに、ぜんぜん俺のこと覚えてなかったんだよな、この人は。)

直哉は当時を思い出して嘆息した。その日の放課後、新しい生徒会の顧問として紹介された祥太郎は、見事に直哉のことなど覚えていなかったのだ。
壇上での出来事が強烈過ぎて、その前に言葉を交わした親切な生徒会役員のことなどすっかり頭から抜け落ちてしまったのかもしれない。

直哉はといえば、あの珍奇な挨拶からこっち、祥太郎のことが頭から離れなくなっていた。
と言っても、最初から今みたいに自覚できるほど、祥太郎のことが好きだったのではない。むしろその逆だ。
なんだか頼りなくて厄介ものらしい新任の教師。自分が気をつけて見ていてやらないと、どんな失態をしでかすことかと心配でならなかったのだ。

だが、直哉の予想外に祥太郎は頑張った。生徒たちの祥太郎への人気も、意外なほどに高かった。
直哉の危惧したとおり、祥太郎はあっちこっちで躓きながら、それでも着々と人気教師としての地位を築きつつある。
しかしそうなったらそうなったで、なんとなく面白くない。一番初めに祥太郎の危なっかしさ、かわいらしさに気付いて手を出したのは俺なんだと言う自覚が直哉にはある。
うっかりそれを口にして逆に恋心を雪紀にまで指摘されてしまったほどだ。それ以来、直哉はなんとなく雪紀には尻尾をつかまれてしまった気分だ。

(あれ? そういえば…)

祥太郎によく似た女性の写真を握り締めて物思いに耽っていた直哉は、ふと自分の立場を思い出した。

(祥太郎先生はどうしたんだ?)

何か飲み物を煎れると言ったきり、長いこと放置されている。

直哉はキッチンを振り返って唖然とした。
キッチンのフローリングに、祥太郎が直接ぺたりと座り込んで、大きな冷蔵庫になついているのだ。
冷蔵庫の白い扉にこすりつけられたほっぺたが、上にずれあがって変な顔になっている。

「先生! 何をやってるんです!」
「はぁ〜、冷たくて気持ちいい〜。」

直哉のキツめの声にも動揺せず、祥太郎はポケッとそんな返事をした。
一応、次になにをするべきかの自覚はあるらしく、のろのろと体を起こすと、冷蔵庫のドアを握った。だが、またすぐへたりと扉になついてしまう。
とろんとした目を直哉に向けて、祥太郎は薄く笑いながら言った。

「ごめんねえ、やっぱ僕、今日はなんかダメみたい。」
「ダメって…。」

直哉は顔を顰めかけ、それからはっと息を飲んだ。
今にもとろとろと眠り込んでしまいそうな祥太郎の顔色を見て、自分がここへきた目的を思い出したのだ。
慌てて写真立てを戻すと、大股でキッチンに向かう。掴んだ祥太郎の二の腕は、シャツの上からでも明らかに熱かった。

「熱い…! なにやってんですか、こんなところで! 寝てなきゃ駄目じゃないですか!」

思わず怒鳴りつけると、祥太郎は困った顔になった。

「だって…、チャイムいっぱい鳴るし…。」

直哉は言葉を飲み込んだ。その、いっぱいチャイムを鳴らして祥太郎を叩き起こした張本人に怒鳴りつけられたのでは、祥太郎も立つ瀬がないだろう。

「だからって…! それになんで、こんなに熱があるくせに、そんなスカスカしたカッコしてるんです!」
「耳元で怒鳴んないでよ…。」

祥太郎は弱々しいしぐさで直哉の言葉を遮ると、口を尖らせた。怒ったのかと思ったが、そうではなくて、次の言葉が発音しにくいようだった。

「ウリューが忘れていったんだ…。」
「は? ウリュ?」

直哉は思わず聞き返したが、それがすぐに人名だと分かった。祥太郎の着ている、オーダーメードらしいシャツの胸に“瓜生”と縫い取りがあるのを見つけたのだ。
いかにも社会人然とした白いストライプシャツ。直哉が着ても、まだ余りそうな広い襟元と長い袖。
これをオーダーメードで着る男が、しばしば祥太郎を訪れるのだろうか。どんな過程で、シャツを忘れる(脱ぐ)なんてことになるのだろう。

直哉は、頭にカーッと血が上るのを感じた。

「脱ぎなさい、そんなの! 風邪が悪化するばっかりじゃないですか!」

後半の言葉は、我ながら付けたしだと思った。祥太郎が他の男のものを纏っているのが許せないのだ。

だが、意外に祥太郎は頑固だった。

「やだっ!」

一言叫ぶと、手足をきゅっと抱え込んで縮こまってしまう。まるで駄々っ子だ。

「夕べパジャマ洗濯機に入れちゃったの! もう代えがないんだもん。」
「ないんだもんじゃなくって…。」

熱のせいだろうか。祥太郎がことさらに幼児化している気がする。
祥太郎は、手を出しかねて渋い顔をしている直哉を上目遣いに見上げた。

「だって、夕べ、お風呂に入って本読んでたら具合悪くなってきちゃって…。」

帰ったら寝るだけだって言ってたくせに。直哉は思わずきつく祥太郎を睨んでしまう。

「寒いし、暑いし、気持ち悪いし、…誰もいないし。」

だが、直哉は言い返そうとしていた口をうっとつぐんだ。祥太郎の大きな目にじわじわと涙が滲んでくるのを目撃してしまったのだ。
うう…っ。直哉はたじろいだ。
か、かわいいじゃないか。

祥太郎は、そのか弱そうな外見に反して、結構強気だ。学生たちにこっぴどくからかわれる事も再三あるが、それに対して怒りはしてもこんなに弱気になることはない。
それなのに、こんな些細な事で、涙を見せるなんて。

「これ着てると、ウリューが…誰かが傍にいるみたいで、心強かったんだもん…。」

くすんと鼻をすする。
お、俺か? 俺が泣かせたのか?
俺、別にいじめてねえぞ!

直哉はおろおろと両手を振りまわした。
腕っ節自慢ならどんな奴にも負けない自信はあるが、こんな風に可愛い顔で泣かれるとどうにも手を束ねてしまう。

「わ、分かりました! それ着てていいですから! 泣かないでくださいよ!」
「泣いてなんかないもん。」

祥太郎はもう一度鼻をすすると、くたりと冷蔵庫によりかかった。その仕草で直哉は我に返った。
なんだか急に無抵抗になってしまった祥太郎の額に恐る恐る手を翳してみる。案の定、とんでもなく熱かった。

「まったく…もう!」

慌てて抱き上げる。いつかのような抵抗はないが、あの時よりもっと軽くなってしまった感じがする。
とりあえずソファーまで運ぶ。さっきのキャビネットの中の目立つところに、救急箱があったのを思い出したのだ。
ずいぶんと充実した救急箱だった。それも、胃腸薬の類が多い。
直哉は祥太郎に飲ませる風邪薬を物色しながら、この救急箱には第三者の手がかかっている事を確信した。祥太郎の部屋の様子と、この箱の中身がそぐわないのだ。
この、気の回る第三者がこんなに胃腸薬を用意したのだから、多分祥太郎は胃腸が弱いのだろう。
面白くない気分で、ソファーに転がした祥太郎を振り返る。

「先生、今朝なんか食べましたか?」

直哉にも、風邪薬が胃を荒らすくらいの知識はある。祥太郎はあてがわれたクッションに沈み込みそうになりながら、薄く目を開いた。

「…夕べ牛乳飲んだ…。」

つまり、何も食べてないという事らしい。直哉はため息を吐くとキッチンに向かった。

背の高い食器棚の中には、使われた形跡のない小奇麗な食器が一揃い並んでいる。ここにも第三者の存在が感じられる。
直哉は苛々しながらあたりを見回した。恐らくこの部屋にはその誰かが通ってくるのだろう。だが、最近はそのおとないがないのだろうか。まったく見事に食料の見当たらないキッチンだった。
一人暮らしには大きすぎるジャーの中にも、米粒ひとつ残ってない。

「何食って生きてるんだ、あの人は…。」

直哉はぶつぶつとつぶやき、冷蔵庫を開ける。そして愕然とした。

まったくお粗末な中身だった。夕べ飲んだと言う牛乳が底のほうに少しだけ残っているパックと、ゼリー状の栄養補給ドリンクがごろごろ入っているだけ。
野菜も卵もない。それなのになぜか、練りからしと練りわさびがきちんと並べられている。

「何ですか、このふざけた冷蔵庫は!」
「………ゼリーがあるでしょ…。」
「そんなもんばっか食ってっから育たないんですよ!」
「…朝食べてる時間なんかないもん…。」

昼は学校で食べるし、夜はコンビニでいいし…と、ごにょごにょつぶやく声が次第に小さくなる。
直哉は舌打ちして立ち上がった。買出しに行かなくてはならないようだ。

「先生、薬飲む前になんか胃に落とした方がいいと思いますから、買い物行ってきます。なんか欲しいものあります?」
「………帰っちゃうの?」

一応断りを入れると、祥太郎は不安げに大きな目を瞬いた。
p 直哉は、なんだか身の置き所のないような気分になる。頬を紅潮させた祥太郎が目を伏せると、なにやら誘われているような気がして仕方がないのだ。

「す、すぐ戻ってきます。おとなしく待っててくださいよ。」
「ん。」

思いがけず従順な返事に、また胸をどきどき言わせながら、直哉はタオルを探しに洗面所へ入った。
きっちり四隅をそろえたタオルがちゃんと積まれている。こんなところだけは几帳面なんだなと変な感心をしながら、ついでに洗濯機を覗き込んだ。

「…どうしてここまでやって、回すだけをサボるかな…。」

洗濯機の中には、祥太郎の言葉どおりパジャマと他の衣類が水に漬け込まれていた。ついでとばかりに直哉はそこに洗剤をぶち込んでスイッチを入れる。全自動洗濯機だし、乾燥機もあるから、パジャマが乾くまでここに居る口実ができそうだ。

手早くタオルを絞ると、直哉は祥太郎の所へ戻った。
冷却シートを買うまでの間に合わせに、祥太郎の頭をそのタオルで冷やそうと思ったのだ。だが、また足が止まってしまう。

祥太郎は、ミジンコみたいに丸まっていた。

大きいシャツの中に抱えた膝まで突っ込んでしまっている。だからミジンコみたいに見えるのだ。
だが、そんなことはどうでもよかった。祥太郎はがたがたと震えていたのだ。

「先生、大丈夫ですか?」
「………寒い…。」

驚いて聞くと、そんな返事が返ってくる。直哉は焦ってあたりを見回した。
着せ掛けるようなものは何もない。意を決して祥太郎の私室と思わしい部屋の引き戸に手をかける。ここなら寝具があるはずだ。
他人の目を拒むように締め切られた部屋に無断で入るのはどうにも気が引けるが、そうも言っていられない。口の中で小さく「失礼します」とつぶやいて、直哉は思い切って引き戸を開けた。

開けた途端、またも足が硬直してしまった。ここに来てから何度目だろう。
この部屋はまた、他の二部屋とはまったくの別世界を作り上げていた。
とにかく物が多い。
あちこちにハンガーにかかった洋服が揺れていて壁が見えない。床に直に置かれたテーブルの上には、書きかけの書類だの、開きっぱなしの辞書だのが置かれていて、その間にこまごましたゴミだかなんだかわからないものが積んである。
ポテチとポッキーが口を開いたまま、きちんと並べられてすぐにも手を突っ込めるようになっている。衣類ダンスの上には、ゲーセンで取ったのだろうか、安っぽいぬいぐるみが所狭しと並べられているが、どれも埃をかぶってしまっている。
中でも目を引くのが、大量の本だ。大きな本棚に収まりきらない本が、テーブルの上はもちろん、パソコンデスクの上、床の上、さらにはベッドの上にまで積み上げられている。それも、古びた本が多い。直哉の目には捨てるしかないガラクタに見える本が大量に積んであるのだ。

「な…なんなんだ、ここは…。」

思わず絶句し、気を取り直して部屋に踏み込む。
掃除はしてないのだろうか? 足の裏がじゃりっと言った。

「先生! 何ですか、この部屋は!」

たまりかねて叫ぶ。ソファーの上の祥太郎がかろうじて首を上げるのが見えた。

「あ…、開けちゃったの、そこ…。
決して開けてはいけないって言〜っ〜た〜の〜に〜。」
「聞いてません! 鶴の恩返しかよ…。」

直哉はこう見えても几帳面なほうだ。こんな状態の部屋は許せない。
ぎゅっと目をつぶって部屋に入る。とりあえず窓を開け放つと、淀んだ空気が一掃されるような気がする。
ベッドの上の書籍類を床の上に降ろして、代わりに丸まった毛布を持ち上げる。いつ乾したか分からない埃っぽさに閉口しながらベランダに出て、嫌になるほど振るった。いつまで振りまわしても埃が霞みたいにでる。
やっと何とか納得できるところまで振るって、それを祥太郎のところまで運んだ。
祥太郎はまだ細かく震えている。額を触っても、熱の下がった感はない。
毛布をふわりと広げて着せ掛ける。簡単には蹴り落とせないように裾をたくし込んでやると、祥太郎がぼんやりと目を開けた。巻き付いている毛布に少し驚いた顔をする。

「あ、これ…、持ってきてくれたの? すごい部屋だったでしょ。」
「はい。」

他にどう返事のしようもなくて、直哉は仏頂面で肯く。祥太郎が小さく首を竦めた。

「あんな所で寝てるから、風邪なんかひくんですよ。ベッド使った形跡なかったじゃないですか。」
「あ、分かる? いつもパソコンの前かテーブルの前で寝ちゃうんだよね〜。」
「…ったく。」

もっと文句を言ってやろうと思った直哉だったが、祥太郎があんまり邪気のない顔で笑うので、それ以上言葉を繋げられない。

「…鍵貸してください。買い物行ってきますから。」
「開けっ放しだって大丈夫だよ〜。」
「駄目です! 先生は危なっかしいんだから!」

本当に、目を離してはいられない。怒鳴りつけると、祥太郎はまた首を竦めてのろのろと腕を伸ばした。指差した先に、鍵が放置してあるらしい。
やっぱり祥太郎は無防備に過ぎるのだった。

「すぐ帰ってきますから、おとなしくしててくださいよ!」

無造作に放り出してあった鍵を引っつかむと、直哉は祥太郎を振り返った。
祥太郎はうるさいと言いたげに顔を顰めて、もぞもぞと毛布の中に潜り込んだところだった。



祥太郎のマンションは、駅から徒歩7分の位置にある。マンションの周りこそ少し引っ込んだ閑静な場所だが、1本道を出るとすぐに大通りにぶつかる。
真っ先にコンビニが目に入るし、駅までの道すがらは小さな商店街になっている。なかんずく、駅向うには大型の百貨店さえ軒を揃えているのだ。
祥太郎の徒歩10分内で大抵のものは手に入る。高級住宅街に居を構える直哉の自宅より、実はよっぽど便が良い。

「こんなに便利なとこに住んでるのに…。」

直哉は目に付いた寝具店でパジャマを物色しながら呟いた。自分の体にパジャマを押し当てて祥太郎の小さな体を想像するのはなんだかとても面映ゆい。

「なんだってあんなにズボラなんだ、あの人は…。」

しかめっ面を作ろうとして、失敗して無様ににやけてしまう。パジャマをプレゼントしたときの祥太郎の笑顔が容易に想像できるからだ。
祥太郎は、直哉の身の回りではもっとも開けっぴろげな人物だった。

「いや、あれはズボラなんじゃなくて…、甘ったれなんだな。」

誰に対してもいつも無防備な祥太郎だから、だれしも世話を焼きたくなるのだろう。
直哉は、自分が決して温情家ではない事を知っている。こんな自分が思わず手を出したくなるのだから、大抵の者なら、手を出さずにはいられないだろう。
その結果が多分あの部屋なのだ。そうして自分も祥太郎の張っている緩い罠に捕らえられたというところか。

「…よし、これなら合いそうだな。」

少し悩んだ末に直哉が選んだのは、ネイビーブルーのギンガムチェックのパジャマだ。
本当は赤のチェックにテディ・ベアが散っているのを選びたかったのだが、どうも祥太郎の反発を買いそうな気がして手が出なかった。
洗濯中のパジャマはすぐ乾くけれども、一刻も早くこれを持ち帰って、あの瓜生のシャツを脱がせよう。やはりあれだけはどうにも我慢がならない。

直哉はあのシャツにこだわってしまう自分が不思議だった。大体において淡白な自分が、こんなにもあのシャツに執着するなんて。

直哉はポケットに突っ込んだ祥太郎の部屋の鍵に触れた。ふと、合鍵を作っておこうと思い立つ。
別に悪用するつもりはないが、そそっかしい祥太郎にはこれから先も助けが必要な場面がありそうな気がする。
ほんの少し愉快な気分になって、直哉は足を急がせた。  



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