直哉の決意




つい、あれもこれもと欲張って、気が付いたらずいぶんな荷物になっていた。

直哉は帰り着くなりためいきを付いた。予想はしていたが、案の定祥太郎はおとなしく寝ていてはくれなかった。
なぜか床の上に直接丸まって寝ている。熱のある体には床のフローリングが冷たくて気持ちいいのは分かるが、だからと言ってこれが分別あるオトナのする事だろうか?

「先生! そんなところで寝ないで下さい!」
「大丈夫…、邪魔にならないようにするから…。」
「そういう事を言ってるんじゃありません!」

直哉はぐんにゃりした祥太郎を引き起こすとソファーに寄りかからせ、買ってきた荷物を探った。底の方からパジャマを引っ張り出す。
祥太郎に似合いそうだと思ったのがなんだか面映ゆくて、ことさらに仏頂面になってしまう。

「冷えると悪化するじゃないですか。これ…着てください。プレゼント…しますから。」

頬に血が上っているのが感じられる。考えてみれば直哉は、告白された事はあっても自分から告白した事など一度もない。
こんなこっぱずかしいセリフを言うのは、生まれて初めてだ。
だが、直哉のシュミレーションに反して、祥太郎の反応がない。直哉はそっと祥太郎の様子を見た。
祥太郎はぼんやりした目つきで目の前のパジャマを見つめていた。首が大きく右に傾げられたままで止まっている。何か考え込んでいるらしい。

「これ、くれるの? 僕に?」
「あの…。」

あまり嬉しそうでない様子の祥太郎に、思わず直哉はおずおずと彼の顔色を窺ってしまう。

「僕、一応、教職なんで、生徒や父兄からなんかもらうの…まずいんだよね…。」
「……………。」

直哉は眉間に皺を寄せた。思ってもない反応だった。
祥太郎の、単純で分かりやすい性格だけを考えていた直哉は、祥太郎から拒絶される事などまったく考慮に入れていなかったのだ。
飛び切りの笑顔が見られると思ってはずんでいた気持ちが、見る見る萎むのが分かる。その落胆した様子を悟られたくなくて、直哉は更に眉間の皺を深くした。

「………でもま、いっか。誰も見てないし。」

急に祥太郎の声の調子が変わった。祥太郎と直哉との間に置いてあったパジャマをさっと取り上げると、胸にぎゅっと抱きしめる。パジャマが入っている薄っぺらいビニールの袋がひとしきりガサガサいった。
直哉は祥太郎の転身の速さに唖然として、その仕草を見つめた。

「本当は、生徒になんかプレゼントされるの、すごくあこがれてたんだ。」

熱のせいもあるのだろうが、頬を真っ赤に染めて、祥太郎はまっすぐに直哉を見つめる。それから、大輪の花が咲くみたいに、ぱあっと笑った。

「ありがとう! すっごく嬉しい。」
「う…っ。」

直哉は思わずたじたじと腰を引いていた。祥太郎の笑顔は、直哉の予想よりはるかに眩しかった。
期待させておいて裏切る。落胆させておいて、持ち上げる。極上の笑顔を付けて。こんな無邪気な笑顔を見せ付けられて、グラリと来ない奴がいるだろうか?
祥太郎はもしかしたらとんでもないタラシなのかもしれない。これが天然だとしたら、空恐ろしい。

直哉はかーっと血の上った頭で、ぼんやりと親友の雪紀を思った。
彼は自分のオトシのテクに相当自信を持っているようだが、はっきり言って祥太郎の足元にも及ばない。もっとも惚れた弱みでそう思えるのかもしれないが。

直哉ははっと我に返った。目の前では祥太郎が半ば毛布に埋もれたままで、ごそごそと着替え始めていた。
直哉の目の前をまったく意識しない無頓着さで、着ていたシャツのボタンを外していく。思った通り衣類の内側は輝くみたいに真っ白で、その折れそうに細い鎖骨を目の当たりにすると、直哉は落ち着いていられなくなった。
雪紀なら、これ幸いと襲い掛かるのかもしれない。いや、そんな言い方が大袈裟で失礼なら、じっとり潤んだ目で口説き始めるのかも。
いずれにしろ、直哉には真似できそうにない。それがどんなに魅力的な提案に思えても。

直哉は慌てて立ち上がった。

「先生、まだ寝ないで下さいよ。今、おかゆ作りますから。」
「……あんまり食欲ないんだけど…。」

予想された答えが返ってきたので、今度は少し安心して言葉を繋げられた。

「薬飲まなきゃしょうがないでしょう。おかゆ食べたら桃の缶詰もありますから。」
「桃缶! うわあ、大好き。良く分かったねえ、僕の好物。」

わからいでか。やっと直哉は自分のペースを取り戻してにやりと笑った。
お子様の風邪のお供は桃缶に決まってる。



「さて…。」

直哉は腕まくりをした。これからあの魔窟を掃除しようと言うのだ。
祥太郎は相変わらずソファーの上でうとうとしている。食べさせて薬を飲ませたら眠くなってしまったようだ。体が温まったからだろうが、熱の疲れも出ているのかもしれない。
今はおとなしくソファーの上に丸まっている祥太郎だが、ちょっと目を離すとまた床の上で眠り込みそうで、直哉としてはぜひともあの部屋を快適に眠れるように掃除したかった。

直哉の予想通り、祥太郎は甘やかされきったまま大人になってしまったようだった。
こじゃれた陶器のボウルを見つけておかゆを入れて持っていくと、つくづく感心した顔をした。

「へええ、滝くん、勉強やスポーツだけじゃなくて、料理もできるんだあ…。」

あんまり手放しの感心がくすぐったくて、直哉はぶすっと答えた。

「こんなのレトルトです。今時、電子レンジさえあれば大抵のものは食べられます。キッチンに立派なレンジがあったじゃないですか。使わないともったいないですよ。」

祥太郎は小さく首を竦めた。

「分かってるけど、後始末も面倒なんだもん。コンビニ弁当だったら、捨てるだけじゃない。」

食欲が無いという言葉を証明するかのように、おかゆを舐めるようにちびちび食べていた祥太郎は、今にも眠り込みそうな目で直哉を見上げて、照れくさそうに笑った。

「実家だったら誰かしらやってくれたんだけどさ。」
「だからって、あのキッチンはあんまりでしょう。」

とろりとした瞳にどぎまぎして、また心ならずもきつい言葉を吐いてしまう。だが、直哉のそんな態度にもだいぶ慣れたのか、祥太郎はたいして動揺しない。
出会った頃はいちいちびくびくしていたのに。

「いつもうるさいほど世話焼きたがる奴がいて、それが食糧補給とかしてくれるから、ついね。あ、そう言えば…。」

のろのろと動かしていたスプーンをついに完全に止めて、気まずい顔をする。

「今夜当り、家の者が来るんだったかなあ…。」
「………それまでには帰りますから…。」
「あ、別に、僕はいいんだけども〜。」

スプーンを咥えたまま動かなくなってしまう。おかゆは半分ほど食べたところでギブアップらしい。
直哉は諦めて、用意しておいた薬とガラスの器にあけた桃の缶詰を差し出した。

「はい、これ飲んだらこっち食べてもいいですから。俺はこれ終わったら片付けて…。」
「帰っちゃうの…?」

直哉はぐっと息を飲んだ。祥太郎の潤んだでかい瞳が直哉を上目遣いに見上げている。
またこの目だ。
どんな強面のガンつけより、この目の方が何度でも直哉を参らせる。

「具合悪くて一人だと心細いんだけど…、帰っちゃうんだ…。」

今度はその目がそっと伏せられる。思ったより睫が長い。直哉はため息をついて天井を睨んだ。
祥太郎に買ってきたパジャマは、少しサイズが大きくて襟元が開いている。その祥太郎の白いのどもとを見下ろしていると、怪しい気分になりそうだった。

「わかりました。まだしばらくいますよ。」
「本当!」

本当にぱあっと音がしたのではないか。直哉は自分の耳を疑った。それくらい、祥太郎の表情の変化ははっきりしていた。
祥太郎は無邪気な笑顔でひとしきり直哉を見上げていたが、やがてへにゃへにゃとソファーにもたれかかった。あわてて直哉が支えると、熱い身体はぐにゃぐにゃだった。

「先生! 寝る前に薬飲んでくださいよ! あと桃缶は? いいんですか?」
「う〜ん…、後で食べる〜…。」

まったくもう…。直哉はぶつくさ言いながらやっとの思いで祥太郎に薬を飲ませた。
安心したから力が抜けたのか、それともずっとやせ我慢をしていたのか。いずれにしても、祥太郎はたいした見栄っ張りのようだった。



祥太郎のねぐらを掃除するにあたって真っ先に直哉がしたことは、靴下を脱ぐことだった。
白い学ランに合わせて、直哉はいつも白のソックスを履く。祥太郎の部屋では、しみ一つないソックスが足の裏の形に黒く染まりそうだった。

掃除道具を探して目をつけていた扉を開けると、やはりそこには掃除道具一式が几帳面に収まっていた。
薬箱を整理した誰かがそこも揃えたのだろう。おそらく祥太郎の手も触れていないことは、一番目立つ位置に置かれた掃除機自体がうっすら埃をかぶっていることからも伺える。
振り返ると、祥太郎は早くもうつらうつらしている様子だ。
直哉は効率的な掃除機を諦めて、拭き道具一式と、束になったビニールひもを手にした。

祥太郎の部屋には、どう見てもクズ山にしか見えない本があちこちに積まれている。まずはそれをやっつけにかかる。
茶色く変色してカバーも崩れそうになっている「芥川全集」と「夏目漱石大全」と「江戸川乱歩の世界」を紐で括った。それが無いだけでだいぶ部屋がこざっぱりした感がある。
直哉はうとうとしている祥太郎を振り返った。

「先生、ここにある古本、捨てて来ていいですね。」
「………うーん。」

なんとも心もとない返事だが、一応了承は得た。
なにより、こんな古びて汚い本など、もう一度目を通す事など直哉には信じられない。本は消耗品であると言うのが直哉の考え方だ。
古典だって復刻版がいくらでも出るのだし、新しい方が読みやすいに決まっている。
本は読んだら処分する物だ。したくないなら、はじめから図書館などを利用すればいい。

部屋の外に古本をおっぽり出すと、直哉は雑巾を手にした。
壁にインテリアみたいに掛かっている洋服類は諦めて、ゲーセンの戦利品と思えるぬいぐるみをみんなベランダに出す。その後、ぬいぐるみの形に白く抜かれている埃を拭いて回る。
掃除は上から下へが鉄則だ。床の上の惨状にはひとまず目をつぶる。

目の高さの棚をみんな拭いてしまうと、ベランダに出てぬいぐるみを叩く。案の定埃が舞いあがる。
本当はピンクだったはずが、灰色っぽく染まっているうさぎなど全部捨ててしまいたいのだが、それはぐっと堪える。
祥太郎がこんなに誇らしげに飾っているのだから、きっとこれは彼の自慢の戦利品なのだろう。迂闊に捨てると後で文句を言われそうだ。
もっともゲーセンのぬいぐるみなど、いくらでも取ってやれる自信はあるが。

「あ、そうだ。」

思い付いて洗面所へ行く。思った通り洗濯はすっかり終わっている。
それを丸ごと洗濯機の上の乾燥機に放り込む。使った事はないが、1時間もまわせば乾くのではないのだろうか。タイマーをギリッと一巡させる。

ぬいぐるみを室内に戻す。
やはりどうしても壁の衣類が気になるが、さすがにクローゼットまで開ける気にはならない。プライバシーなんとか言うより、更に知らない世界が目の前に繰り広げられそうで恐いのだ。
それはまた今度、もっと祥太郎がしっかりしているときにチャレンジする事にしよう。

ベッドのシーツは意外なほどにきれいだ。祥太郎も言っていた通り、あまり使っていないのだから当然と言えば当然なのだが。
そこには手を付けず、床の上のテーブルに目を落とす。
口の開けっ放しのポテチは大きく散乱している。足元のざらざらはこれも一因らしい。
直哉は黙って飛び出している1枚を摘み上げた。すっかり湿気ってふにゃふにゃしている。こんな物、もう2度と口にしないだろう。
直哉はキッチンから45リットルの都指定ごみ袋を持ってくると、それにポテチを突っ込んだ。残り僅かなポッキーも後を追う。丸めた紙もごみと判断して突っ込んでいく。
新聞広告がテーブルの下においてあるのは何だろう? 直哉は少し考えた。新聞本体が無いところを見ると、新聞だけ持ち歩いて広告は抜いておいたと言う事だろうか。
それもごみ袋に直行だ。

「後は…。」

半ばまで満たしたごみ袋を手に、直哉は部屋の中を見渡す。
パソコンの脇のメモも気になるが、あれはまだ必要なのかもしれない。大体こんな物でごみはないだろう。

直哉はバケツの水を換えた。
開きっぱなしだった辞書とバインダーとノートを閉じてパソコンデスクに移動させ、床の上のテーブルを畳むと、結構広い床面が現れる。
直哉は雑巾を絞りつつ、それを片端から拭いていった。ざらざらしていたのはテーブル付近だけで、他は案外埃も乗ってない。
そう言えば掃除機の脇に、それだけ斜めに棒付きのダスキンが入っていたから、もしかして祥太郎もたまにはダスキンくらいは使うのかもしれない。

一通り床を磨くと、直哉は立ち上がって自分の労働の成果を眺めた。
元々新築のフローリングは、ちょっと磨いてやればすぐに美しいつやを取り戻す。
すっかり悦に入り、ワックスも買ってくれば良かったなどと一人ごち、はっと我に返った。

一体自分はなにをやっているのだろう。
生徒会をサボってまでここにきたのは、昼食も抜きで人のうちの床磨きをするためではないはずだ。

自分の凝り性が恨めしい。いや、どうせ恨めしく思うなら、祥太郎だろう。
そう思って振り返ると、彼は太平楽な顔で、ソファーの上で熟睡中だ。せめて自分の労働を一から十まで見守って労ってくれれば、少しは甲斐もあるのに。

直哉はどんよりと祥太郎の寝顔を見守った。
赤ん坊みたいに汗ばんだ祥太郎は、愛らしい顔ですぴすぴと寝息を立てている。労いの言葉などまったく期待できそうもない。
眉間の皺を深くする直哉を追い立てるように、乾燥機が終了の電子音を高らかに鳴らしている。



気が付くと、日も傾き始めていた。直哉はすっかりきれいに片付き、きっちり洗濯物まで畳んだ部屋を見回してため息をついた。
そっと足音を忍ばせて祥太郎の傍まで歩く。
せめて祥太郎の寝顔くらい心行くまで堪能しなくては、まったくのカラ労働になってしまう。

直哉はぐうぐう寝ている祥太郎の枕元に座り込んだ。薬が効いてきたのか、昼間よりはだいぶ楽そうにみえる。だが、頬の赤みはまだすっかり抜け切ってはいない。
身体の右側を下にして縮こまって眠る祥太郎は、その頬の赤みも手伝って、どう見ても自分より年上には見えない。顔の脇に揃えて置いてある軽い握りこぶしだって爪の先までピンク色で、少年、と言うより少女みたいなのだ。

「これで俺より5つ年上…。」

直哉は思わず呟いた。

目線を祥太郎の顔の位置まで下げてみる。間近で見る祥太郎は、ますます大人の男とは思えない。
色白の肌はつるつるで、夕べからへたっている割に、滑らかなあごには無精ひげさえ見当たらないのだ。
だが、祥太郎は間違いなく直哉より5年余分に生きている。
10代から20代への5年は大きい。祥太郎もこんな幼い顔をして、直哉の想像も及ばないようなさまざまな体験を経てきているのだろう。
そしてその中には、間違いなく「瓜生」との思い出もあるはずなのだ。
なんだか急にムカッと腹が立った。祥太郎の薄い瞼がぴくぴくと震えている。きっと夢を見ているのだ。
こうして直哉が清掃夫に甘んじている間にも、祥太郎は夢の中で瓜生に甘えているのかもしれない。
直哉は祥太郎の耳元に顔を寄せた。レム催眠中なら、夢の中でも外部から干渉できるかもしれない。せめて自分の存在を祥太郎の中に刻み込みたい。

「先生、これからは俺の事………滝君じゃなくて直哉と呼んでください。直哉ですよ、いいですね。直哉、直哉、直哉……。」

祥太郎の耳元で自分の名前を10回くらい連呼した後、なんだかとても空しくなって、直哉は顔を上げた。本当はもっと直接的な言葉を言いたかったのだ。
だが、病気で弱っている祥太郎に一方的に自分の感情を押し付けるのはとてもフェアじゃない気がする。

「ふう…馬鹿らしい。…そろそろ帰ろう。」

直哉は重い腰を上げた。夜には祥太郎の家族が訪れると言う。別にやましいところは何一つないが、なぜここに自分がいるのか説明するのは酷く面倒だ。
直哉は祥太郎の肩を揺すった。

「先生、起きてください。ベッド掃除しましたから、あっちで寝てください。」
「うー…ん。」

さっき着替えさせたパジャマが汗ばんでいる。しゃくだが、また着替えさせねばなるまい。せっかくのプレゼントだったのに。

「先生! 俺もう帰りますから。」
「ん…。」

起きない。直哉はげんなりした。
なるほどこれでは、朝食にはあんなゼリーしか食べられないわけだ。しかしこのまま放って帰るわけにもいかない。
直哉は慎重に、毛布ごと祥太郎を抱え上げた。抱きかかえた胸に、くたりと祥太郎が擦り寄ってくる。役得か、と思い返し、直哉はたちまち機嫌を直した。
どうせ寝かしたまま運ぶのならと思い、できる限り静かに歩いたが、やはり移動は響くらしい。2、3歩歩いたところで祥太郎が身じろぎした。

「うー…ん、…あれ?」
「今ベッドに移動しますから、ちょっと静かにしててくださいよ。」

うにゃうにゃと呟きながら目を開けた祥太郎に、言い聞かせるように言う。
ここまでして、今更このあったかい身体を手放す気は直哉には無い。
祥太郎は文句も言わず、おとなしくされるままになっている。寝起きでぼんやりしているのかもしれないが、こんな待遇に慣れているのかもしれないと思い、またちりっと胸が痛む。

「なんか…部屋…きれいみたい…。」
「掃除しましたから。」

確かに音を気遣って掃除機は使わなかったが、まったく音を立てなかったわけでもない。
こんなに何にも気付かずに熟睡してしまうのは、いったいどういうことだろう。無防備にもほどがある…と思いかけ、直哉は自分の都合のいい方に考えを変えた。
きっと俺のことを信頼しきっているのに違いない。そういえば、自分が掃除している間には、一度も床の上で寝たりするような手を焼かすことはしないでくれた。

「…洗濯物も…?」
「畳んでおきましたから、しまうくらいは自分でしてください。はい、降ろしますよ。」

あっという間にベッドにたどり着いてしまう。
直哉は物足りなく感じながら身体を折った。できるだけそっと、ベッドの上に降ろすつもりだった。
だが、祥太郎の重みがベッドの上に乗り切る前に、祥太郎がもぞもぞと動く。
祥太郎の身体を放しきる前に、細くて熱い腕が、首の周りに絡みついてきた。
直哉は思わず息を呑む。たった今まで抱いていた祥太郎に、抱き返されてしまったのだ。不意を突かれた直哉は、邪険にその細い腕を払うこともできない。

ズキン。

直哉の胸が大きく鳴った。思いがけず、祥太郎の熱に染まった顔が、鼻を付き合わせるような至近距離にある。

「あ、あの…。」
「直哉君って、優しいんだ…。」

とろりとした目が目前で瞬く。熱のせいか、唇はいつもより赤く、さくらんぼみたいにふっくらとしている。
直哉はぎしりと中腰の姿勢で固まったまま、そのふわふわ動く唇から目を逸らせないでいた。

(やっぱ…可愛いよなあ…。)

祥太郎を初めて見たときからずっと感じていた思いが、改めて胸を過ぎる。
全体的に骨格が小さいのだろう。祥太郎の顔はこんなに近くで見ても美少女タレントみたいに小さい。

直哉は、いつのまにか祥太郎が自分のことを直哉と呼んでいることに気付いた。ちゃっかりあの睡眠学習が効いたらしい。
こんなことならもっといいことを囁いとくんだったと思わず歯軋りをする。

「僕…君のこと、誤解してたかも…。」
「先生…ちょっと…。」

身体が密着しすぎだ。ほんの少し距離を開けようと背中を伸ばしかけると、ますます細い腕が強く直哉の首を抱く。
力を入れれば振りほどけないことはない。だが、直哉はいよいよ動けなくなった。
祥太郎の薄く開いた唇から、真っ白い歯が零れ、さらに柔らかそうな舌までが、いたずらに踊っているのが目に入る。
これはもしかして…キスをねだっているのではないのだろうか?

「いつも直哉君は怒ってばっかりで、怖くって…、きっと僕のこと嫌いなのかもって思ってた。」
「そ、そんなこと…ありませんよ。」

直哉は慌てて打ち消す。直哉が祥太郎のことを嫌いだと思ったことなど一度もない。
今だって、この可愛い唇にむしゃぶりつきたいのを必死に我慢しているんだぞ!

「だけど、こんな風に心配して来てくれて…、掃除や洗濯までしてくれちゃって、本当はすごく、優しいんだね…。」

言葉と言葉の合間に、時折祥太郎はゆっくり唇を湿す。
熱があるから唇が乾くのだろう。だけど目の前でそれをやられると、どうしても落ち着かない。
やっぱりこの位置で唇を舐めるというのは…祥太郎も期待しているのじゃないのだろうか?

「直哉君って…。」

祥太郎はいったん言葉を切ってふうわりと笑った。
熱で潤んだ瞳が細くたわむと、光を集めたみたいにキラキラ光る。
もう直哉も我慢の限界だった。

病人の寝込みを襲うなんて、自分の主義に反する。反するけど…。
…先生が誘ってるんだからいいじゃないか。
据え膳食わぬは、男の恥って言うもんな…!

「先生…。」

直哉は引き寄せられるままに、力を抜いた。目の前のさくらんぼの唇が大きく笑みの形に広がった。

「おかあさんみたぁい…。」

ガンッと後頭部に何かが落ちた感覚がした。
直哉は祥太郎の方にかたむいた間抜けな体勢のまま、ピシリと固まって動けなくなってしまった。

するりとあったかい腕が解けた。ぽすんと柔らかい音を立ててベッドに落ちた祥太郎は、身体の周りにわだかまっている毛布を抱き寄せると、くるんと直哉に背を向けた。そのまま胎児みたいな格好に身体を丸めると、すぐにすやすやと安らかな寝息が聞こえてくる。
直哉は見捨てられた哀れな格好のまま、しばらく動けないで硬直していた。

「おかあさんはないよな………。」

せめておとうさんにしてくれよ。直哉はつぶやく。いや。
おとうさんにしろおかあさんにしろ、唇をねだりはしないだろう。

「なんなんだよ………。」

期待してしまった分、落胆は大きい。

直哉は、肺の中の空気が全部抜けてしまうような大きなため息をついて、背中を伸ばした。ふと、祥太郎の頭上に目が行く。

ベッドヘッドの内側が小さな棚になっていた。そこから零れ落ちたのだろう。スタンドタイプのカレンダーが祥太郎の枕もとに転がっている。直哉は何の気なしに拾い上げた。
今日の日付のところに丸がついてあり、何か書いてある。

うりゅう。

直哉は思わず突き放すようにカレンダーを遠ざけた。ひらがなばかりで書いてあるそれは、間違いなくあのシャツの持ち主の名前だ。ご丁寧に、名前の後ろには真っ赤に塗りつぶしたハートまで書いてある。

これから訪れるのは、家族なんかではない、瓜生だ。
祥太郎は、直哉に嘘をついてまで、瓜生の来訪を隠しておきたかったのだ。

頭に血が上った。何がなんだかわからなくなった。
気が付くと、直哉は祥太郎のマンションの外に突っ立っていた。
持ってきた鞄だけは掴んでいる。だが、掃除する前に脱いだ靴下はなく、皮の靴に擦られる素足が痛い。

直哉は自分のこんな子供じみた行動が信じられなかった。何にも言わない祥太郎に裏切られた気分になって飛び出してきてしまったらしいのだ。ズボンのポケットの中で何かが動いた。無意識に探って、それがさっき作っておいた祥太郎の部屋の合鍵だと気付く。

祥太郎が起きたら無理にでも了承をとろうと思って、すっかり忘れていた。
おそらく寝込んでいる祥太郎の部屋の、窓も扉も開けっ放しだろう。
直哉はのろのろと振り返った。鍵ぐらい閉めてきてやらなければ。祥太郎はあんなに無防備でそそっかしいのだから。

だが、見上げた直哉の足はぴたりと止まった。
9階の東向きの部屋。間違えようもない祥太郎の部屋のカーテンが、たった今引かれたのだ。影にいたのは、決して祥太郎ではありえない大きな男。

あれが瓜生か…。

直哉はぐっとポケットの中の鍵を握り締めた。そういえば、階段を使って一気に9階から駆け下りてきたのは、上ってくるエレベーターを待ちきれなかったからだ。あれに瓜生が乗っていたのに違いない。
直哉はポケットから鍵をつかみ出した。大きく振りかぶる。鍵を投げ捨てようとして、…どうしてもできなかった。

直哉はそれが祥太郎自身であるかのように鍵を睨みつけた。祥太郎が顔も知らない瓜生に心を許しているとして、自分はあっさり彼を諦めることができるか? 
祥太郎の笑顔ばかりが目前に浮かぶ。いや。直哉は力いっぱい首を振った。

俺は、思い切り、諦めの悪い男なんだ。

もう一度9階を見上げる。今はすっかり静かになってしまったカーテンの内側で、いったい何が行われているのだろう。だが。直哉は唇をかみ締める。

見てろよ。絶対俺を振り向かせてやる。

直哉はもう一度祥太郎の部屋の合鍵をポケットに突っ込んだ。きつい眼差しで決意も新たに9階の部屋を睨みつけると、足音も荒く帰途についた。  



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