リボンの袋




「あはははははははっ…。」

雪紀はソファーのクッションに大きくのけぞった。右手はさも苦しそうに腹を抱え、左手には直哉からせしめた映画のチケットをひらひらさせて。
直哉はいつもより更に深い仏頂面で雪紀を睨んだ。

ここは雪紀の自宅である。お坊ちゃまの雪紀の勉強部屋は、下手なアパートなら軽く一戸分の広さはある。幼馴染の直哉には勝手知ったる場所だ。
約束を違えるのが大嫌いな直哉だから、律儀にチケットを持ってきたが、本当は当分雪紀には会いたくなかった。雪紀に会えば根掘り葉掘り昨日の首尾を聞き出されて、こんな風にからかわれるのが目に見えていたからだ。

「たった二人っきりの先生の部屋に上がりこんで! 生着替えも目の前にして! 抱っこでベッドまで運んでやって!」

言葉の終わりにいちいち“!”がつくのは、雪紀が相当うけている証拠だ。

「それでやったことと言えば、食事の世話に掃除だけ! おまえって…、おまえって…!」

また雪紀は大笑いする。雪紀がこんなに開けっぴろげに笑うのは、小学生のとき以来見たことがない。もちろん直哉とて、好き好んで笑いものになっているわけもない。

「うるさい! いい加減にしろよ! 大体なあ…。」

不意に雪紀の爆笑が止まった。昔恐怖映画で見たゾンビみたいな無機質さでぐいっと上体を起こし、さっきまで笑っていたのが嘘みたいな真面目な顔で直哉を見る。

「もしかして、おまえって不能? それともジェントルマン?」
「ばっ…!」

直哉はあんまりの問いかけに、思わず言葉を失う。刻めるだけ眉間のしわを深くして雪紀を睨みつけると、彼はけろっとした顔で続けた。

「不能なわけないか。夜の巷をあんだけ徘徊したおまえだもんなあ。おまえが歩けば、その後を街じゅうの綺麗どころが鈴なりについていくって、やっかんだ兄ちゃんたちからけんか売られたことも一度や二度じゃきかないもんなあ。」
「ふざけんな! その行列の先頭はおまえじゃないか! 俺は単なるとばっちりだ!」
「へえ〜、そう思ってんの? 意外と慎ましいじゃん。」

直哉は再びぐっと声を詰まらせる。本当は、その責任の半分は紛れもなく自分にあることはよくわかっている。
鈴なりと言うのは大げさにしても、確かに女性と一部の男性には絶大な人気を誇る直哉と雪紀だ。

「あの奥手の瑞樹でさえ、ファーストキスを果たしたっていうのに、おまえがね〜。」
「おまえらはどうだか知らないが、俺はなっ…。」
「俺は…なんだって?」

直哉はまた唇を引き結ぶ。本当は自分にさえ、どうして祥太郎に手を出せなかったのかわからないのだ。このはしっこい親友にはどんな嘘をついても見透かされて、また笑われるのがわかっている。

「俺は…病気で弱ってる先生の意思も確かめずに、一方的に力で押すことなんかできねえって言ってんだよ!」
「へえ〜、意外とジュンジョー。」

平面的にかな文字で言われて、顔がかーっと熱くなる。その顔を見て、雪紀はまたひとしきり笑った。

「おまえも、ちっとは天音を見習ったら? 知ってる? あいつらの初体験…。」
「耳タコに聞いたよ。中一の夏休みだろ。ませてやがって、あいつら…。」
「違う違う、その前。」
「その前〜?」

直哉は思わず声を裏返してしまう。中一の夏休みといえば二人ともまだ12歳。十分すぎるほど早熟な二人だと思っていたのに、まだその前があるというのか?

「この前、慎吾がうっかり口を滑らしてさ、面白いから、この前の職員会議に提出する生徒会の書類のミスをネタに聞き出してやった。」
「おまえ、それ…、恐喝って言わないか?」
「言わない♪」

自信たっぷりに言い切る雪紀。直哉はため息をつく。この倣岸さが雪紀の魅力の一つであることは否めないが、友人にまでそれを振るうのはどうだろう。
もっともそうであるからより雪紀らしいと言えば言えるのだが。

「小学生の時は、長期休みに慎吾が天音の家に泊りがけで遊びに行くのが慣例になってて、3年の夏休みにも行ったんだって。
天音んちは旧家で、部屋がいくらでも余ってるし、お弟子さんたちもたくさん住み込みでいるから、ガキの一人や二人増えたってどうってことなかったらしい。
慎吾はまだまったくのガキで、天音んちに行ったらあれして遊ぼう、これして遊ぼうとかしか思ってなかったのに、いきなり天音が寝込みを襲ってきたんだと。
どうもな、天音はお人形みたいなガキだったから、お弟子の女の子たちが可愛がって遊びまくって、余計な知識を植え付けちゃったらしいんだ。
ま、普通、ガキの前で猥談したって、それをガキがきっちり理解するとは思えないもんなあ。
だけど、天音のヤツはきっちり理解して、おまけに実践に移したらしいんだ。
びっくりしたのは慎吾だよ。夜中にいきなり弄られたって、そんなガキのお道具が役に立つわけない。
それどころか、綺麗で可愛い天音ちゃんが急にヘンなことをすると思ってびびりまくったそうだぜ。マジ泣きで止めてもらったんだそうだ。
だからさ、今でも慎吾は天音に頭が上がらないんだと。」

長い話を一息にして、雪紀はまた楽しそうにカラカラと笑った。直哉は思わず目を瞑った。
慎吾のヤツかわいそうに。そんなネタを雪紀なんかにつかまれたら、そしてそれをつかまれたことを天音に知られたら、どんな報復が待ち構えていることか。

「それで?」
「それでって、何だよ。」
「とぼけんなよ。まだ俺に報告してないことがあるんだろ。」

雪紀は楽しそうに身を乗り出す。それに押されるようについ後ろに反ってしまう直哉だった。

「おまえはさ、ガキのころから、俺に隠し事があると眉間のしわが2本から3本に増えるんだよ。いつもより3割増でしかめっ面してるだろ。」

直哉は思わず眉間を押さえた。しわの数など数えたことはないが、確かに力はいつもより入っている。

「だからさ、喋っちゃえよ。楽になるぜ〜。」
「うるせー。プライバシーの侵害だ!」

陳腐なせりふだとは思うが、やっとそれしか言い返せない。祥太郎の部屋に男の痕跡があったこと、それに逆上して、何にも問えずに飛び出してきたことなど、どうしても雪紀には知られたくない話だった。

「ま、いいや。…で?」

笑顔で聞かれて、直哉は雪紀を見上げる。

「どうするんだ?」
「な、なにを…。」

雪紀の顔があまりにも楽しそうで、直哉は思わず及び腰になる。

「祥太郎センセだよ。夜の帝王が、こんなところで黙ってしおしお引き下がるのか?」
「…冗談!」
「そういうと思った♪」

なぜか嬉しそうな雪紀である。

「今日明日は学校も休みだし、次の日には祥太郎センセの風邪もよくなってるころだろうし、生徒会が楽しみだな!」

直哉はげんなりした。なんで俺と祥太郎センセの都合でこいつをこんなに喜ばせなくてはならないんだ。

すべては祥太郎が坊やのせいだ。



休日明けの生徒会室に足を運びたくなくて、直哉は思わず二の足を踏んだ。行けば雪紀ばかりでなく、他の面々にもいろいろ聞かれることは避けられまい。
特に咲良と瑞樹。あの二人は無邪気が服を着て歩いているようなものだから、腹芸など通じるわけもない。きっと直哉の困惑など気付かずに、しつこくからんでくるに決まっている。
しかし、行事が目白押しの生徒会には、これ以上の欠席は許されない。

直哉は思い切ってドアを開けた。まず目に飛び込んでくるのは、雪紀のいつものニヒルな笑顔。奥の方で鼻先を突きつけて真っ昼間からいちゃついている天音と慎吾。尻尾を振り回しているのが見えるような瑞樹と咲良。
そして、祥太郎先生。

「あ、直哉君。」
「なおやくん〜?」

直哉が反応するより先に、雪紀が頓狂な声を出す。他の面々もギョッとしたような顔で祥太郎と直哉を見比べている。直哉は急いで祥太郎の傍へ行った。

「この間はどうもありがとう。とっても助かったよ。僕、いろいろ迷惑かけちゃったみたいで…。」

祥太郎はにっこり笑った。生意気そうに少し上を向いている鼻の頭が赤い。直哉は黙って手を出した。
丸いおでこに無言のまま手を押し当てると、祥太郎はびっくりしたように大きな目を見開いた。

「鼻の頭赤いですけど、…もう熱は下がったようですね。」
「あこれ? うん、熱はもう下がったんだけど、鼻水がまだ止まらなくって、そのせいだよ、きっと。」

言われてみれば確かに鼻声だ。祥太郎は言い訳のように鼻をぐずぐず言わせた。

「センセ、直哉君って?」
「滝君って呼ばないの?」

早速子犬2頭が食いついてきた。雪紀や天音たちが耳をそばだてているのが分かる。二人に問い詰められて、一番びっくりした顔をしたのは祥太郎だった。

「あれえ? そう言えばそうだねえ。何かとっても自然に呼んじゃったけど…。
呼びやすいから、こっちの方がいいか。」
「ジェントルマンでも、する事はするんだ。」

雪紀がボソッと呟くのが聞こえた。

「あ、それでね、これ。」

祥太郎はごそごそと音を立て、小さな紙袋を取り出した。紙の面に赤いリボンが縫い込んであり、それを可愛らしく蝶々の形に結んである。女の子がするようなラッピングだ。

「はい。」

直哉は半ば呆然としたままその袋を受け取った。祥太郎からのプレゼントだろうか? この間の暖簾に腕押しが、やっと報われたのだろうか?

遠くで慎吾がおおっと声を上げ、天音に痛いほど小突かれている。

「こ、これを、俺に…?」

思わず声が上ずってしまう。祥太郎はにこにこと肯いた。

「僕、これから国語部会があるからもう行くけど、直接渡したかったんだ。」

貢ぎ物と呼ばれる類の物なら、星の数ほど受け取っている直哉だ。それなのに、こんな安っぽい紙袋一つでこんなに感激してしまうのは、やっぱり惚れた弱みだろうか。

「あ、ありがとうございます。俺…。」
「ううん、ぜんぜんたいした手間じゃないから。」

手間?

なんだか嫌な予感が、直哉の胸を過ぎる。

いきなり不安になってしまった直哉をよそに、祥太郎は軽い調子で「じゃね」と一言、生徒会室を出て行った。
直哉は胸に袋を抱きしめたまま立ち尽くす。袋の中身は見てみたいけれど、開けるのが恐い。
そうしていつになく油断していたせいか、背後に迫る大男に気付いたのは、袋を肩越しに攫われてからだった。

「あっ、慎吾…っ。」

慌てて奪い返そうとするが、僅かに届かない。がむしゃらにつかみ掛かると、慎吾の長い腕が伸びた。

「ほい、咲良、パス!」
「はいっ。」

袋は斜めにそれて飛ぶ。だが、運動神経のいい咲良は、横っ飛びで難なくキャッチする。慌てて追いすがる直哉の背中を、慎吾の太い腕が羽交い締めにした。

「ふざけんな! 放せっ!」
「うわっ、暴れんなや、楽しみはみんなで分かち合うもんやで!
おおう、咲良、瑞樹、早いとこ開けてみい!」
「「はーい!」」

いつでも息の合う子犬どもだが、こんな時の返事の素晴らしさと言ったら!

直哉は必死に身もがいた。腕っ節ならかなりの自信がある直哉も、ありとあらゆるスポーツに秀で、上背もある慎吾には及ばない。
それでも、直哉はどうしても袋の中身を人に見られたくなかった。
自分の予想が当たっていれば、そしてあの軽さと手触りからいけば、あれは恐らくそんなにみんなが期待するような物ではないのだ。

だが、子犬たちはなんとも嬉しそうな顔で遠慮なく袋を開けていく。もとより好奇心むき出しの雪紀に助けを求めれらるはずもなく、唯一この場をまとめてくれそうな天音までもが興味深げに事の成り行きを見守っている。
二人は小さな袋に顔を突っ込むようにして覗き込むと、そのまま沈黙した。

「何や? 菓子やろ! 軽かったからクッキーや、ハート型の!」

慎吾は極めて楽しそうな声で叫ぶ。二人はきょとんとした顔を上げた。

「ぺったんこの靴下でーす。」
「それも新品じゃない奴…。」
「はあ? なんじゃそりゃ?」

咲良が袋からそれを取り出した。真っ白で確かにぺったんこな靴下は、あの日直哉が祥太郎の家に忘れてきた物だ。あれだけぺったんこだということは、あのあと洗濯してアイロンでも掛けたのだろうか。

「ぶわはははははは…っ!」

雪紀がたまりかねたように笑い出す。前日、直哉を締め上げていろいろ暴露させていた彼には、その靴下がなんだか分かるのだろう。気取り屋の雪紀にしては手放しの笑い方だ。
雪紀のめったに見られない大爆笑に驚いたのか、慎吾の手が緩む。
直哉は力を込めてその腕を振り切ると、子犬たちの方へ大股で進んだ。首を竦める二人をじろりと睨みつけ、袋と靴下をひったくる。

雪紀はまだ馬鹿みたいに笑っている。好きに笑っておけ。

直哉は火照った顔で一同を睨み付けると、荒々しく生徒会室を出た。
扉を閉めても、雪紀の馬鹿笑いはまだ聞こえていた。



「勘弁してくれよ…。」

直哉は洗濯され、漂白され、アイロンまでかけられた靴下を片手にため息をついた。

広大な学園には至るところに一人っきりになれる場所がある。講堂の裏手の、このケヤキの下のベンチはそうした場所の一つで、直哉のお気に入りの場所だった。

鈍い鈍いとは思っていたが、祥太郎の鈍さには目を見張るものがある。
あんなに尽くしてやった自分に、あんなシチュエーションで忘れ物を返すやつがいるだろうか? もうなんだか、直哉はくじけてしまいそうだ。

そういえば、直哉は生まれてこの方、くじけたことなどない。

勉強もスポーツも、ほんの少しの努力で人並み以上にできた。親が資産家だったために金の力でなんとかならなかったこともないし、数多い取り巻きのおかげで不自由を感じたこともない。
こんなにままならないのは、しかもそれが悪意でないのは、祥太郎が初めてだ。

直哉はあらためて袋を眺めた。
祥太郎のチョイスなのだろうか、可愛らしい袋には、薄いピンクの水玉も入っている。少なくとも“瓜生”のセンスではないだろう。
祥太郎が自分に渡すためにいっしょうけんめいこれを選んでくれたのだろうか。
靴下だって真っ白で、しみの一つもない。直哉には、あの雑然としたバスルームで、いっしょうけんめい小さな背中を丸めて靴下を手洗いする祥太郎の姿が見えるような気がした。

直哉は首を振った。祥太郎は決してふざけているわけではないのだ。こんなものにまできっちりアイロンをかけてくれるのは、祥太郎の無知ではなくて、誠意だろう。
直哉にはわかる。あの部屋にオブジェみたいにかかっていた衣類には、どれもアイロンを当てたようすなどなかった。
祥太郎は精一杯の感謝をこの靴下に込めてくれたのだろう。

そう思うことにして、直哉は靴下を袋に戻そうとし、中に入っていた紙に気がついた。

水色の…あれは便箋だろうか。

直哉は慌ててそれを引っ張り出した。靴下の下敷きになっていたから、目ざとい子犬たちの目を免れることができたのだ。これは祥太郎のメッセージに違いない。
急いで広げる。緊張して指がこわばった。

『直哉君へ。
先日はどうもありがとう。心細い思いをしていたので、とても嬉しかった。
今度は、ゆっくり遊びにきてください。
      祥太郎』 

直哉は丁寧にその紙をたたんだ。興奮して鼻息が荒くなる。
遊びに行っていいんだな。確かにそう言ったな。
ようし、嫌になるほど遊びに行ってやる!

幸い、合鍵はある。まもなく夏休みにもなる。ちょっとストーカーっぽいと思わないでもないが、ニブニブの祥太郎にはそれぐらい押してやらないと、きっと自分の気持ちが通じないに違いない。
まだくじけるわけにはいかない。糸は切れてない。

直哉は張り切って小さく気合を入れた。何しろ祥太郎は自分からこんなに夢中になれたはじめての人なのだ。そんなに簡単に諦められるわけがない。
とりあえず、この靴下を履こう! 決意が薄れないように!

直哉はもう一度靴下を握り締めた。祥太郎の手にした靴下を履くと思うと、なぜか緊張する。
だが、直哉は履きかけた靴下をそのままに脱力した。本当に、この靴下からは祥太郎のいっしょうけんめいな思いが伝わってくる。
伝わりすぎて…ありがたいやら情けないやら、もう涙が出そうだ。

「先生…力入れすぎです…。」

祥太郎がいっしょうけんめい洗いすぎ、当てすぎたアイロンは、靴下のゴムや繊維を蕩かして、直哉の靴下を見る影もなくビロビロに伸ばしていた。



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