祥太郎の休日




鬱陶しかった長雨がやっと上がった。

直哉は、夏休み前の最後の難関、期末試験も難なくクリアーした。予定通り、5点差で雪紀に次いでの学年2位。
直哉はいつも雪紀との点差にもっとも心を砕く。本当は雪紀との実力は伯仲しているから、1位の座を奪おうと思えばできない事もない。雪紀もそれは良く承知している。
だが、天辺は彼に譲った方がいい。目立ちすぎるのは好きじゃないし、雪紀は持ち上げた方が扱いやすい。

余裕を持って臨める試験でも、期間中はやはり多少は緊張する。直哉でさえそうなのだから、一般の生徒はさぞかしだろう。
だが、今回の期間中、誰より緊張していたのはきっと祥太郎だ。

2日目の英語の試験のとき、祥太郎が監督にやってきた。本来1年の担当であるはずの祥太郎が監督に来るには、それなりのいきさつもあったのだろうが、とにかく彼はかわいそうなくらい緊張していた。
両手にしたプリントの端が、ガサガサ音を立てるくらい揺れ、カチンカチンに伸ばした背中で2度も教壇に躓きそうになった。

「けっ、ケータイはしまって!」

誰もがすらすら言うお決まりの注意事項も、何度もつかえた。

「残り時間は、ぼっ、僕が黒板に書きます。ケータイの時計は使わないように。
それから、ヒアリングテストの放送があります。きき、聞こえづらい人、いますか?」

あんまりがちがちの祥太郎センセが面白かったのだろう。何人かがふざけ半分にはーいと手を挙げた。それを見て、祥太郎はますます緊張した顔になった。

「ボ、ボリューム調節するから、聞こえなかったら言ってください。あんまり大きい音にしちゃうと、他の教室に迷惑だし、音が割れちゃうから…、でも…、聞こえないんじゃ困るよねえ…。どっ、どうしよう…。」

傍目に分かるほど狼狽して、祥太郎はスピーカーと腕時計を交互に見た。その仕草は直哉には、狭い檻のなかで飛び回るシマリスを連想させた。

「センセー、多分大丈夫。聞こえると思います。」

あまりの祥太郎の狼狽ぶりに、からかった生徒も気の毒になったのだろう。そんな声が三々五々上がった。

「センセーが静かにしててくれれば、きっと聞こえまーす。」

誰かが叫んだ。直哉は苦々しく振り返った。
余計な事を言う奴。あの生真面目な祥太郎にそんな事を言ったら、結果は目に見えているではないか。誰が言ったか知らないが、見つけたらシメてやる。

案の定、ヒアリングテストの間中、祥太郎は茹蛸みたいに真っ赤な顔で硬直していた。
きっと息を止めていたのに違いない。

すべてのテストが終わった日、しばらくぶりに祥太郎が生徒会室を訪れた。
普段はお茶目当てにちょくちょくやってくる祥太郎が来ないのは、きっとテスト期間を意識してのことだろう。教員室の、生徒入室禁止期間と、祥太郎の足の遠のいた期間がぴったり一致していた。

「あああ〜、疲れたよう〜。」

ソファーにへたり込むなり、祥太郎は弱音を吐いた。その言葉を実証するように、大きな目の下が僅かに黒ずんでいる。試験前にみっちり天音にやり込められた慎吾と良い勝負だ。

「神経使った〜。試験受ける立場の方が全然楽だったよう〜。」
「そんなに神経使う事ないじゃないですか。」

直哉はぶすっと言った。
いくら新卒の教師だからと言って、そんなに緊張しまくって監督をしているのは祥太郎ぐらいのものだ。古参の教師になると、監督中に居眠りをしたりして、生徒たちのカンニング天国にも気付かなかったりする。
祥太郎もそれくらい要領よくやればいいのに。

「…心配でしょうがないくせに強がっちゃって。」

直哉が真剣に話しているのに、横合いから雪紀が茶々を入れる。直哉はそれを一睨みして牽制した。

「たかだか学期末テストですよ。入試とかじゃないんです。そんなに緊張してどうするんですか。」
「たかだか学期末テストじゃないよ。これで人生決まっちゃう子だっているんだよ。」

珍しく祥太郎が声を荒げた。

「成績のいい君たちには分からないかもしれないけど、この試験のためにきっと何日も必死に準備してきた子もいるんだよ。外部の大学を受けようと思えば、内申だって気になるだろうし。」

そうやそうやと、慎吾が変なところで合いの手を入れる。
追試組に片足を突っ込みかけている慎吾には、祥太郎の言葉が骨身にしみるのかもしれない。

「だから、少しでも試験にいい環境を作ってやって、不正を見逃さない厳格な目で見守る事は、僕ら教師にとっての大事な使命なんだ。そりゃ、…僕が緊張し過ぎってのは認めるけど、神経使うに決まってるよ。」
「まあまあ、先生、咲良がおいしい紅茶入れてくれましたから。お茶菓子もありますよ。」

いいタイミングで天音が遮ってくれ、直哉は内心ほっとした。
こんな愚にも付かない事で、祥太郎と口論する気はまったくなかった。

祥太郎も同じ気持でいたらしい。なんだか頬を赤らめて目の前のお茶菓子を眺めていたが、やがて強ばらせていた肩を落とした。

「ありがと。疲れてるから、神経が苛立っちゃうのかな。ごめんね、大きい声だして。」
「大丈夫ですよう、イライラは副会長ので慣れてますもん。」

すかさず瑞樹が、なんとも直哉に不利なフォローを入れる。直哉は眉間に皺を刻んだが、とりあえず黙っていた。
久しぶりに祥太郎が生徒会室に来てくれて、誰より嬉しいのは直哉なのだ。ここで一人で怒り出すわけにも行かない。

それにしても。直哉はそっと嘆息する。
祥太郎は相変わらず生真面目で生徒思いだ。なんていじらしいんだろう。
このくらい俺の事も真っ直ぐ見てくれれば言う事ないのに。

祥太郎は紅茶のカップを大事そうに包み込んで持つと、ふわりと表情を和らげた。

「はあ〜。生き返るねえ。」
「やだ、おじいさんみたい、祥太郎センセってば。」

瑞樹と咲良がくすくすと笑う。かいがいしく祥太郎の世話を焼きながら、言葉を繋げた。

「今日でやっと試験も終わりですから、ゆっくり休んでくださいね。今日からお休みだし。」
「冗談じゃないよう。これからもっと忙しくなるんだよ。」

祥太郎は情けない顔をした。

「これから採点があって、連日国語部会と学年総会があって、総評とか傾向とか、まとめなくっちゃいけないんだよ。学生の試験休みは、教師にはちっとも休みじゃないんだから。」

はああ〜と、大きなため息をつく。

そうか。直哉は内心がっかりした。
試験休みに入ったら、祥太郎の家に遊びに押しかけようと思っていたのに。

「だけど、終業式終わったら僕の天下だよ! 初日から遊び倒すんだから!」

拳を握って力説する祥太郎に、直哉は密かにほくそえんだ。
夏休みに入れば、祥太郎を遊びに誘ってもいいらしい。



と言うわけで、直哉は祥太郎のマンションの下に立っている。夏休み初日だ。

「来たぞ…!」

誰にともなく宣言して、それでもなんだか足が進まない。直哉は珍しく気後れしている自分に驚いていた。

いきなり訪ねていって、拒絶される事が恐いのだ。こんな事は初めての経験だ。
かつての自分なら、こうと決めた事は強引すぎるくらいに押して、必ず自分の思い通りにさせてきたのに。

「………もしかして、あの人の事だから、まだ寝てたりするかもしれないよな…。」

思わず腕時計とにらめっこになってしまう。直哉はぶるぶると首を振った。こんな気弱な事でどうする!

思い切って1歩を踏み出しかけ、慌てて引っ込めた。
マンションのコンコースから、見覚えある小さな人影がやってくる。祥太郎だ。
直哉は思わず物陰に身を潜め、それから自分の行動に舌打ちをした。こんな所に隠れてしまっては、今更名乗りをあげるわけに行かないではないか。

情けなくうろうろする直哉にはまったく気付かずに、祥太郎は鼻息交じりで歩いていく。いつにも増して軽やかな足取りだ。一体どこへ行くのだろう。直哉は興味が湧いた。
そっと後をつけながら、直哉は祥太郎を観察した。
レモンイエローの格子のパーカーに濃いベージュのチノパン。髪は撫で付ける事も放棄してしまったのだろうか。耳の上あたりで一房ピンと跳ねている。その一房が足取りに合わせてぴょこぴょこと踊っている。おかげで、私服の祥太郎はますます子供じみてみえた。
直哉が弟だと紹介したら、きっと誰もが無理なく信じるだろう。

なんにせよ、あのしゃれっ気のない格好には、女っ気は感じられない。うっかりついていって、更に一回りカワイイ彼女を見せ付けられる心配はなさそうだ。

「どこへ行くんだ…?」

祥太郎は真っ直ぐ進んで駅に直行した。切符売場の前で、ずいぶん長い事料金表を見上げている。どうやら現在地と目的地がなかなか見つけられないらしい。

「やっぱり鈍臭い…。」

そう呟きつつも、あんまりいっしょうけんめいの様子が可愛らしくて、直哉はついくすくす笑ってしまう。
直哉のポケットには十分にチャージされたスイカもパスネットも入っている。新幹線なんかに乗られない限り、たやすく追跡できる。

やっと目的の駅を見つけたらしく、祥太郎は切符を買った。
少し間を置いて追いかけるつもりだった直哉だったが、いきなり祥太郎が走り出したのでびっくりしてしまう。どうやら電車が入ってきたらしい。
慌てて改札を通過してホームに駆け込むと、祥太郎はぎょっとするほど近くに立っていた。直哉は思わず声を上げそうになり、無様に身を翻してしまう。周りにいた数名がいぶかしげに振り返った。

ここで祥太郎に見つかったらどんな弁解をしたらいいのだろう。ここは明らかに祥太郎のエリアで、しかも逆方向なのだ。

だが、祥太郎はこっちを向きもしなかった。入って来た電車に釘付けなのだ。
直哉はなんとなく淋しい気分になりながら、祥太郎の隣の車両に乗り込んだ。
連結器の近くに陣取って、祥太郎の様子を窺う。電車はほぼ満席の込み具合で、祥太郎は首尾よく空席を確保したようだ。
ちょこんと膝を揃えて座っている祥太郎の表情は、直哉の位置から見ても、明らかに明るい。

「………楽しそうだな…。」

なんだかこうして壁に張りついて祥太郎の様子を窺っている自分がいじましく思えてしまう。

「こりゃいよいよ…ストーカーだよなあ…。」

独り言まで混じれば相当やばいのだが、直哉は思わず呟いてため息を吐いてしまう。

たった一駅乗ったところで祥太郎が腰を浮かす。降りるのだろうか。直哉は一足先に電車から飛び出した。
だが、祥太郎の小柄な姿が見つからない。焦って見回すと、彼はまだ電車の中にいる。吊革に掴まって、誰かに話し掛けているようだ。
直哉は慌てて、閉じかけたドアに身体をこじ入れる事になってしまった。

大ひんしゅくを買いつつもようやく間に合った直哉だが、祥太郎は隣の車両の騒ぎなどちっとも気付いていない。
またもやさっきの連結器部分に取り付いて様子を窺うと、さっきまで祥太郎が座ったところに妊婦が腰掛けて、しきりに祥太郎に向かって恐縮している。
祥太郎は上機嫌の笑顔でそれをかわしているようだった。

「なんつーかまあ…、あの人らしいっつか…。」

唯でさえ気恥ずかしい『席を譲る』と言う行為。直哉の年頃の青年なら、老人や、あからさまな怪我人にでさえ躊躇してしまう。増してや妊婦であれば、義務感は働いても、なおさら気恥ずかしい気分が増長されて、なかなかそんな行為はできないものだ。
祥太郎には、それを躊躇う様子が微塵も感じられない。まるで公衆道徳を習いたての小学生の正義感だ。それとも、うんと老成した、大人の余裕なのだろうか。

「………それはないな。」

思わずまた独り言に走ってしまう直哉だった。

それから電車を一つ乗り換えて、祥太郎が勇ましく降り立ったのは、都営新宿線の神保町だった。
いかにも学生らしい雰囲気の者が多く降りるその駅は、なんだか祥太郎にはとても似合った。

ここは東京有数の古書店街である。
同時に最近ではスポーツ店街としても有名を馳せているが、祥太郎の目的地がどっちかは、火を見るより明らかだった。
直哉は祥太郎の部屋にうずたかく積み上げられてあった古本の山を思い出した。どうやらあれらは、ここから入手した物らしい。

祥太郎はますます生き生きした表情で、足取りも軽やかだ。さも慣れた街を歩く様子ですいすいと足を進めて、古書店街の外れまで行った。
古書店と言うのは、初めての者にはなんとなく敷居が高い。本の劣化を避けるためだろうか、どの店も間口が狭く、高く積み上げられた本に遮られてか、照明も暗い店も多い。
なんとなく威圧感があって入りづらいのだ。だが祥太郎は、何の躊躇いもなく、一番端の店に古書店に入っていく。

「まさかとは思うが…。」

直哉はげんなりしながらその古色蒼然とした店構えを見上げた。

「端から全部制覇するつもりじゃないよな…。」

だが、直哉の杞憂は当たっているようだ。

30分ほどして店を出てきた祥太郎は、なんだか満足そうにため息を吐くと、次の店に向かった。そこにも30分ほど立てこもる。
そうして次々と店を回っていく。首を傾げる回数が多いのは、気に入った本が見つからないからかもしれない。
祥太郎はこんなに時間を費やしている割に、まだ1冊も本を買っていないのだ。
外で待っているだけの直哉は、次第にじりじりしてきた。今日は夏の割に涼しいと言っても、ずっと道で待ち続けるほどには涼しくない。
一体祥太郎は腹が減らないのだろうか。家を出たのが10時過ぎ。今は間もなく1時になるところだ。
もう少し駅の方に戻れば、何か食べられる店があるだろう。何とか誘い出して、デートらしく食事にでも誘おう。
とうとう痺れを切らして、直哉は祥太郎が入った本屋に踏み込んだ。

店の奥の方に祥太郎の小柄な姿が見える。ずっと上を向きっぱなしで首でも痛いのだろうか。片手がしきりに首筋をさすっている。
時々本を手に取るときも、いちいち踏み台を探してきてとらないといけないので大変そうだ。

直哉は視線を転じた。店の入り口には、客引きのためだろうか、漫画や週刊誌など、若者向けの軽い本が並んでいる。
見るとは無しにそれを眺めていた直哉の視線が止まった。

(あ、これ…、先週読み損ねたジャンプだ。)

特に執着する連載があるわけではないが、毎週新慎吾や咲良が持ち込む漫画を習慣のように読んでいると、抜けている号があるのはとても気持ち悪い。
直哉はそれを持ってレジへ向かった。ぶっきらぼうなオヤジが無造作にジャンプを茶袋に入れてくれる。それを 持って直哉はなんとなく胸を張った。これで祥太郎に声を掛けるきっかけができた。

奥に向かう。祥太郎は一生懸命片手を伸ばして上の方の本を取ろうと奮闘中だった。踏み台は他の人が使っている。
直哉は手を伸ばした。祥太郎の取ろうとしている本をひょいと取り上げる。
顎の下あたりであっと小さく声がした。

「はい、朝井先生、これでしょ。」

振り返って笑いかけると、祥太郎は渡された本を胸に抱きしめてぽかんとした顔をした。

「奇遇ですね。先生も探し物ですか。」

白々しく言うと、祥太郎の表情がぱっと変わった。

「直哉君! わあ、偶然だねえ、君も書店巡り?」
「……ええ、まあ…。」

まさか祥太郎のストーキング中だとは言えない。

「あっ、もう買ったんだ。何買ったの? 見せて?」
「や、これは…、くだらない本ですよ。」

そう来たか。直哉は焦った。これは一つ、何か見映えのする本を買わねばならないようだ。

「そういう先生は、何を探してらっしゃるんですか?」

慌てて話を擦りかえる。祥太郎は直哉が思った通り簡単に、話に乗ってきた。

「僕? 僕はねえ、芥川のいいのがないかと思って。」
「…芥川なら、先生もう読まれたんじゃないですか?」

直哉はあの風化しかけた芥川全集を思い出した。

「うーん、あれはねえ…。」

祥太郎は言いかけて唇を尖らせた。なんだか面白くない事を思い出したようだ。

「直哉君は普段どんな本を読むの?」

いきなり聞かれて、直哉は返事に困った。
普段愛読しているのは日経新聞。たまに本屋で手に取るのは、その時々のベストセラーやハウツー本。
あんまり胸を張って言える物はない。

「最近は…コ、コーンウェルの検死官シリーズを読みました。」

かろうじて出てきたのは、天音に押し付けられて読んだミステリーだ。
謎解きは面白かったが、検死官のケイという女がヒステリックで、どうにも好きになれなかった。

「あ、ミステリ好きなんだ。最近の洋物だったら、僕は断然ディック・フランシスだな。ドン・ウィンズロウとか、ハーラン・コーベンとか、…あ、パーネル・ホールなんかも軽くて面白いよ。和物だったら今は宮部みゆきかな。京極夏彦なんかも面白いけど、分厚くて持ち運びがね。岡嶋二人とか、柴田よしきなんかもいいかも。でもやっぱり古典で言ったら、ドイルとか、クリスティとか、横溝正史は外せないよね。」
「…………。」

やっと何とかひねり出した答えに、嵐のように返答を返されて、直哉は思わず沈黙する。
分かる名前があんまりない。

「み、宮部みゆきは少し読みましたが…。それより先生、食事はされましたか?」

これ以上祥太郎の得意分野に巻き込まれないうちに言うべき事は言っておかなければ。直哉は慌てて言葉を繋いだ。
朝以来何も食べていないことなど十分承知だが、まさか決め付けて聞くわけにも行かないだろう。
祥太郎は首をかしげて時計を見た。

「あ、もうこんな時間…。そういえば、お腹すいたかも。」
「よろしかったら、ご一緒しませんか。」

直哉はにっこりと笑った。
彼は雪紀と違って、笑顔を安売りしない。それだけに、何か手に入れたいものがあるときにはことさらに笑顔を付けることにしている。
見慣れない綺麗な笑顔の直哉に、たいていの者は引き込まれるように承諾してくれる。

祥太郎にも、直哉の笑顔は意外だったらしい。ぱちんと大きな目を見開いてびっくりした表情をした。それからさも嬉しそうにふんわりと表情を和らげる。直哉に笑いかけられたことが嬉しかったらしい。

「うん、いいよ。せっかくだから、僕がご馳走してあげる。」

直哉の肘のあたりに、少し冷たい祥太郎の指が絡んできた。祥太郎が猫みたいに身体を摺り寄せてきたのだ。
思いがけない祥太郎の行動に、直哉は思わず作っていた余裕ある笑顔も忘れて肩をこわばらせてしまう。

「せ、先生…。」
「大丈夫、君にご馳走するくらいの余裕はあるから。もっともそんなに豪華なものはご馳走できないけど。」

祥太郎はなんの屈託もなく笑う。直哉はすっかりペースを奪われてただ頷くしかできなかった。

だが、直哉が珍しく狼狽したのに、祥太郎は書店を出るとすぐ、するりとからませていた手を解いてしまった。
直哉は拍子抜けして、淋しくなってしまった腕を抑える。少しとがめるような目をしてしまったのかもしれない。祥太郎がくすりと笑った。

「こういう本屋さんは、狭くて動きが不自由なのが困るよね。」
「あ…、そういう理由…。」

直哉は少し眉間に力を入れた。また祥太郎に肩透かしを食らってしまったようだ。
だが、狭い書店内だからといって、本当にすがりつく理由があっただろうか?

「さあ、何が食べたい?」

祥太郎は先を切って歩き出す。もう直哉にすがってくるような隙は見せてくれない。
直哉はしぶしぶ祥太郎の小さな背中を追いかけた。

「なにかおいしい物をご馳走したいけど、何がいいかなあ。」

三省堂の前辺りまで進むと、だいぶ人気が多くなってきた。祥太郎は人波をすいすいと泳ぐようにすり抜ける。
祥太郎の小柄だからこそなせる技だろう。直哉は、追いつこうと足を速めた。
祥太郎は書店には詳しくても、他の店にはあまり明るくないようだった。食事をさせてくれるところを探して、きょろきょろ辺りを見回しながら進む。
食事そのものより祥太郎の顔を見ることが目的の直哉は、もうどこでもいいから腰を落ち着けたかった。呼び止めようと片手を伸ばす。

「先生、もう…。」
「祥!」

直哉の声に被るように、低い耳辺りのよい声が響いた。
直哉ははっとした。前を歩いていた祥太郎がぴくっと身体を震わせて足を止めたのだ。

「祥! ここだよ!」

もう一度、声がする。祥太郎は完全に歩みを止めて、辺りを窺った。
ぐるりと見回して、三省堂の壁に寄りかかっている大きな男を見つける。

直哉は祥太郎の視線を追って、一瞬の内に男を観察した。
ざっくり編んだサマーセーターに細身のブラックジーンズの男は、片手に持った文庫の間に指を挟ませて、いかにも本を読みながら誰かを待っていた風情だ。
ラフな服装でありながら、浅黒く日に焼けた整った顔と、直哉でさえ及ばない長身に筋肉質の体格は、雑誌から抜け出たモデルのようにスタイリッシュだ。祥太郎に向かって微笑むと、嫌味な映画スターみたいに歯が白い。
直哉はとっさには直感した。これは俺の敵だ。

「瓜生!」

祥太郎がにっこり笑って叫んだ。
その微笑みは、直哉がかつて見たこともないほどに甘く蕩けている。  



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