急接近!未知との遭遇!「はああ〜。」 「祥太郎センセ、ため息4回目。」 生徒会室の応接セットの、向かいに座った瑞樹が、軽く祥太郎を睨む。 瑞樹は計算機片手にクラブ予算に首っ引きになっていた。会計用のデスクもちゃんとあるのだが、資料を目一杯広げてもまだあまる、この大きな応接セットが瑞樹のお気に入りだった。 「ため息付くと、幸せが逃げるんですよ。」 「君、言うことが意外と古いよねえ…。」 祥太郎は力なく笑う。1年C組の嫌がらせは次第に陰険さを増してきて、祥太郎を悩ませていた。 「僕、職業選択間違っちゃったかなあ。」 「珍しい、祥太郎センセがそんなこと言うなんて。天職だって言ってたじゃありませんか。」 「うーん、…最近生徒にばかにされちゃってね…。」 瑞樹はそれを聞いて訝しそうに眉を潜めた。 実際のところ、祥太郎はかなり人気のある先生だった。授業は丁寧でわかりやすいし、熱心で親切だし、なにより可愛らしいというのがその主な評判だった。 「あ、わかった、C組でしょう。うるさいんだもん、あそこ。他の先生達もみんな困ってますよ。」 「そ、そう、…僕だけじゃないのかなあ、…可愛いなんて言われちゃうの。」 「………それはセンセだけだと思いますけど。」 瑞樹の答えを聞いて、祥太郎はまたため息をついた。やはり馬鹿にされているらしい。 瑞樹は目の前の気さくな先生のために一肌脱いでやりたい気分になった。 「形から入ってみたら如何です? もっと大人を演出したらいいですよ。先生は…その、華奢だから、いっそダブルのスーツでも着てバシーッと…。」 「ダブルのスーツ? 僕に似合うと思う?」 「………………。」 「………………。」 「七五三だな。」 どこから聞いていたのか、いきなり副会長の直哉が口を挟む。それを聞いて祥太郎は顔を赤らめて口を尖らせた。 「…もとい、スーツはともかく、ヘアスタイルを変えるとか…。」 「ヘアスタイル?」 「そう、七三じゃあんまりだから、オールバックにするとか。とにかくその前髪、可愛らしすぎますよ。」 「う〜、君にまで可愛いって言われちゃうのか…。」 「や、だから…、ちょっと待って下さい。」 瑞樹は席を立って何か探し物を始めた。後ろの方で会話をしていた運動部部長である慎吾と、生徒会長の雪紀は、興味をそちらに向けた。 「…なにやってんねや、ちびっこズは。」 「さあ。面白そうな展開だけど。」 「どれどれ。」 慎吾が引っ張られるように空いたソファーに座ると、瑞樹が戻ってきた。 「あったあった。これで研究しましょうよ。」 瑞樹は尻で慎吾を押しのけるようにして座った。持ち出してきたのは鏡と誰かの使いさしのディップだ。彼はそれらを祥太郎の前に置いた。 「やっぱ前髪は上げたほうが大人っぽいですよ。上げてみましょ。 それにしても先生、肌きれいで女の子みたい。にきびなんかできたことないでしょ。」 祥太郎は苦笑した。 「大の男に向かってそれは誉め言葉じゃないなあ。…にきびくらいできたことあるよ。中3の夏にここんとこに。」 祥太郎はほっぺたを指した。今度は瑞樹がため息をついた。 「何時できたかまで覚えていられるようなのは、にきびとは言わないんです。俺だってきれいなほうだけど、額なんか一杯できてますよ。」 瑞樹は前髪を上げてみせた。普段髪の下に覆われている素肌に、なるほど、赤いプチプチがいくつかできている。 「うーん、そういうのはないなあ…。」 「だからね、おでこ出したっていいじゃないですか。髪上げてみてくださいよ。」 「う───ん、僕、結構でこちんなんだよねえ…。」 祥太郎はしぶしぶ前髪を上げた。 少年を思わせる、広くて丸いおでこが現れた。瑞樹が指摘したとおり、にきびどころか毛穴の一つも見当たらない、剥き卵みたいな肌だ。 瑞樹は戸惑った。可愛い。可愛すぎる。これは額を上げると返って子供っぽいかもしれない。なんというか…そう、赤ん坊のおでこだ。この人はとことん老けないようにできているんだ。そんなことを思っていると。 視界を何かが遮った。 すぐになんだかわかった。隣に座っている慎吾の広い背中だ。 慎吾は吸い寄せられるようにふらふらと、ぽかんとしている祥太郎の方へ身を乗り出した。祥太郎の瞳がきゅうっと中央に寄せられる。視点の先がどんどん近付いて来た証拠だ。 祥太郎の見ていたものは、慎吾の尖らせた唇だった。慎吾の接近にのけぞった祥太郎のおでこは、慎吾には格好の標的になった。 慎吾の背後にいた瑞樹には、何が起こっているのかよく分からなかった。目に移るのは、祥太郎の硬直した表情だけだ。だが、何が起こっているのかはいやでも知れた。 音がしたのだ。 ちゅううぅぅぅぅぅぅ………。 え? 瑞樹はわが耳を疑った。音の原因の、想像はつくが認識したくはない。だが、祥太郎の前に置いた鏡が、現実をしっかり映し出してしまっていた。 硬直した祥太郎のつるつるのおでこに、恍惚とした慎吾が吸い付いている。 すぽん、と、なんだかマヌケな音を立てて、祥太郎のおでこから慎吾の唇が離れた。 祥太郎の手が、ぱたりとソファーに落ちた。表情はといえば、放心しきっている。 「………ぎゃあああああああ!」 瑞樹のおぞましげな悲鳴に、祥太郎を除く全員が我に返った。もちろん慎吾も例外ではない。 「わあ! 堪忍! 白おてまぁるいモン見るとつい…。」 慌てまくる慎吾が肩を揺すっても、祥太郎は魂を飛ばしたまま現実世界に返ってこない。 慎吾の首に、後からするりと腕が回された。 「桜庭〜〜〜〜〜。」 「げぇ! 滝、堪忍やて! あんまし可愛かったからつい…。もうしませんから堪忍してくださいって。……滝、ほんまに入ってるって…、ロープ、ロー…プ…。」 「おやおや。」 雪紀は楽しそうに近づいてくると、祥太郎の頬をぺちぺちと叩いた。数度の刺激で、ようやく祥太郎は遠くから帰ってくる。 「先生、桜庭は悪気があったわけじゃないんですから、勘弁してやってください。彼の可愛いもの好きには定評があるんです。」 「う…ん、そ、そうだよね、悪気があったわけじゃないよね。」 動転の収まらない祥太郎は、雪紀の話の後半をすっ飛ばして聞いてふらふらと頷いた。 「直哉も、いいかげん許してやれよ。桜庭の顔が紫色になってきたよ。」 「ふーっ、ふーっ。…今度やってみろ。その口引っこ抜くからな!」 口を引っこ抜くというのは、用法的に間違っているのではないのだろうかと雪紀は思う。だが、興奮しきりな直哉はそれには気付かない。 やっと開放してもらった慎吾がヘロヘロと頷いた。 「それにね、先生も、これくらいの事でそんなに驚いていちゃ、この先この生徒会室には入れませんよ。」 雪紀はまだぼんやりしている祥太郎を立たせると、そうっと出入り口まで導いた。廊下に出してやるとふらふら歩いて職員室の方へ向かう。しばらく見送った後、雪紀は後ろ手に扉を閉めた。 すっかり腰を引いた瑞樹が、慎吾を汚いものでも見るような目で睨んでいる。 「もう! 桜庭センパイってばいきなりなんだから! あんまりヘンな事しないで下さいよ!」 「…なこと言うたって…。あんな可愛いもん見せられたら、俺じゃのうてもヘンになるわ。おまえかて、仔犬やら仔猫やら可愛いゆうて抱っこしたりするやろ! 俺のはそれと同じや。」 「確かに可愛かったですけど! でも!」 「まあまあ。その辺で勘弁してやってよ。」 雪紀は瑞樹をたしなめる。興奮している瑞樹から聞き出したいことがあったのだ。 「C組…、1年C組が荒れているって噂は本当なのかい?」 「は…、はい。」 瑞樹は雪紀に向き直って背中を伸ばした。この端麗な生徒会長の前ではあんまりみっともない場面は見せられないと思ったのだ。 「C組に、陸上のスポーツ推薦枠で入学した学生がいるんですけど、入学後たった1ヶ月で足を壊しちゃったんです。そいつが中心になって、授業妨害をしているって聞きました。」 「ふうん。」 「まあ、確かに、スポーツ推薦で入学って足の故障じゃ、居た堪れなくなるだろうな。」 直哉が顎を擦った。強硬手段をとるときの直哉の予備行為みたいな物だが、そんなことは瑞樹は知らない。 「あんまり朝井先生の手に余るようなら、私が…。」 「まあ待って。もう少し様子を見よう。先生が匙を投げてもいないのに、我々生徒が介入するのは、先生に対しても失礼だよ。」 「そうですね、さすが会長。」 瑞樹は素直に感動する。さすがに雪紀は慎吾などとは大違いだと、横目で睨んだのを、慎吾は敏感に感じ取ったようだ。 「な、なんやねん、その目は! ちょっとした出来心てゆうてるやろが!」 「出来心ねえ、ふーん。」 「な、なんやねん…。」 慎吾は思わずあとずさった。雪紀の目に、不穏当な何かを感じ取ったのだ。 「いや、ただね、天音がいなくて良かったなあって思って♪」 慎吾が凍りつく。慎吾と付き合っている天音は、冷静そうな表情の下に嫉妬深い一面を持つ。確かにこの場に彼が居合わせれば、おそらく血を見ることは避けられないだろう。 「貸しにしとくから、よく覚えておいてね。」 慎吾はただうめくばかりだ。 その頃、祥太郎は大きく蛇行しながらも、やっと職員室まで辿り着いていた。 学生時代から可愛いといわれるのには慣れている。だが、こんなに直接的な行為をされたのは初めてだった。社会人としての自覚に大きく膨らませていた胸がみるみる萎む気がする。 「だけど、生徒会長もああ言っていたし…、悪気があるわけじゃ…ないんだから…。」 さっきから、僕は生徒に好かれていると無理矢理思い込もうとしては失敗を繰り返していた祥太郎なのだった。だが、さすがに落ち込んでばかりもいられない。 「大丈夫、住園君の言うとおり、あんなことで驚いてちゃ、生徒会室には入れないよな…………ん?」 祥太郎ははたと足を止めた。初めて不自然な彼の言葉に気がつく。 「あのくらいで驚いてちゃ…ってことは、あれ以上のことが起こってるってこと……?」 祥太郎の足は完全に止まった。いくら首を傾げなおしてみても、こればっかりは解答が出ない…いや、出したくない。 祥太郎は次第に怖くなっていく自分の想像を打ち消すように首を振った。 「嘘でしょ………ねえ。」 祥太郎一人が立ち尽くす廊下では、当然誰も答えてくれない。 |