真面目君の造反




祥太郎は引戸の上部を見上げて何も挟まっていないことを確認し、静かに戸を開けて足元に何もないことを確認して小さく気合を入れた。

初めての教師生活は概ねつつがなく進行していた。だが、どんなことにも例外はある。今のところ祥太郎の鬼門は、ここ1年C組だった。

そもそもこのクラスは、祥太郎の一番初めの授業があったクラスだった。緊張しきっていた祥太郎は、初めてのクラスに向かって、引戸が細く開いていることに疑問を抱かなかったのだ。ドキドキ言う胸を抑え付け、元気よく引戸を開けると、最初に出迎えてくれたのはチョークの粉を一杯に含んだ黒板消しの落下だった。

実際のところ、引戸を開けると同時に突進して教室に入る教師などいない。だからその黒板消しが頭の上で炸裂する可能性など皆無に等しい。ご多分に漏れず、祥太郎もその攻撃は免れた。だが、いきなりの頭上からの攻撃は、緊張しまくった新任教師を脅しつけるには実に効果的だった。
無防備な目の前数センチを大きな物体が落ち、足元で白い粉をぱあっと広げるのだ。心積もりがあっても、それなりにびっくりはするだろう。

「ひゃいっ!」

自分でも聞いたことのない裏返った声で悲鳴を上げてしまうと、大きな笑い声で教室が満たされた。驚きと恥ずかしさでかあっと顔面に血が上り、耳の中がくわんくわんと音を立てた。
それでも使命感に燃えた祥太郎は勇ましく教室に足を踏み入れたのだ。ただ、その足取りはどうにも不自然だった。右手と右足が同時に出てしまうのだ。

歩き方が変だと思ったときにはすでに遅く、祥太郎は教壇の段差に勢いよく足を引っ掛けていた。これ以上はないほどきれいなバンザイの姿勢で、音高く教壇に突っ伏した祥太郎を、つかの間の沈黙が迎えた。

やがてその沈黙は大爆笑となって彼を取り巻いた。調子に乗った学生達は、大笑いしながら机を叩き、足を踏み鳴らして、ますます祥太郎を困惑させた。中でも誰かが大声で叫んだ一言が特に祥太郎の耳についた。

「すっげー! いまどき漫画だってないぜ、あんなコケかた!」

そんなこと、祥太郎にだって自覚はある。だが、冷静さを取り繕おうとしても、ピークに達した緊張感は手足を震わせてしまい、どうにも祥太郎を解放してくれない。

結局その日の授業では何をしたのか、祥太郎はよく覚えていない。覚えているのは、黒板に字を書く自分の手がみっともないくらい震えていたことと、いつまでたっても引かなかった顔の熱さだけだった。

だが災難はその日だけでは済まなかった。祥太郎はいわゆる面白いターゲットに認定されてしまったらしい。次の授業では、引戸の上ばかり注意していた祥太郎を待っていたのは、足元のバケツに満たされた雑巾水だった。お約束のようにその中に足を踏み入れた祥太郎には、やんやの喝采が浴びせられた。

また、授業前の黒板に、これでもかと思うくらいびっしりと、なにやら卑猥な言葉が書き連ねられていたこともある。これには祥太郎は怒るよりもむしろ感心してしまった。何しろその黒板には一つとして同じ語彙はなかったのだ。
どこでこんな知識を仕入れたか、また書くのだけでも大した苦労だったろう。一つ一つの言葉にいちいち目を通しながら消していく祥太郎の背中を、学生達はなんだか拍子抜けしたように見ていた。

祥太郎はもう一度深く息を吸った。このクラスに入ると、何かしら仕掛けがある。問題のクラスだが、ほんの少しそれを楽しみにしている自分がいる。
学生達は、まるで自分とのコミュニケーションのように様々な悪戯をしては、祥太郎の反応をわくわく待っている気がするのだ。被害といってもそんな大した事はない。雑巾水に突っ込んでしまった靴が痛かっただけの話だ。
ひとたび授業が始まってしまえば、学生達はごく平均的な授業態度だった。だから祥太郎は、これらは一つの過激なスキンシップだと思おうとしていた。

自分だって、学生の頃には様々な悪戯をした。若い先生には、特にちょっかいを出したくなる。自分がそんな風に思われているのだとしたら、それはおそらく好意の一部なのだろう。
祥太郎は胸を張った。ここは踏ん張りどころなのだろう。

だが、今日の教室は、なんだか雰囲気が違った。

祥太郎は首を傾げた。教室内の様子が違う。そして、学生達の様子もなんだか変だ。

教室の変化のわけはすぐに分かった。教壇の前に置いてある教卓がないのだ。それは窓際に押し付けられていた。そしてその代わりのように、牛乳ビンが入っているケースが伏せておいてある。
祥太郎は教壇に進んだ。日直が号令を掛ける。

「どうして教卓を片付けちゃったんですか?」

礼を終えた学生達ががたがたと席につくのを待って、祥太郎は声を掛ける。最前列の学生がさっと目を伏せた。いつもなら悪戯の反応をするときには、どの学生達もいやに嬉しそうに答えてくれるのに。すると、どこからか声がする。

「センセーがちっこくて、教壇があるとよく見えないからで〜す。」

祥太郎はあっけに取られて見回した。後ろの方から声がしたようだ。教室の後の方には、制服をだらしなく着た数人の学生が、足を伸ばしきって座っている。
祥太郎は首を傾げ直して考えた。もしかすると彼らは、いつだったか荷物を抱えて転びそうになったとき、真っ先に声を掛けてくれた学生達かもしれない。

「…じゃあ、このケースは?」
「センセーがちっこくて、黒板の下のほうばっかり使うからで〜す。」

さすがにこの言葉にはカチンときた。確かに祥太郎は黒板の上部には手が届きにくい。だが、決して見えないほど下ばかり使っているわけではない。それにそんなクレーム、他のどこのクラスでも出てこない。

「…分かりました。努力しましょう。」

祥太郎はやっとの思いでそう言った。口の中で、大人なんだからと5回ぐらい唱えた後である。

「だけど教卓は戻してください。いくら僕が小さくたって陰に隠れちゃうことはないでしょう。」

自分なりに厳しいつもりの口調でそう言って、祥太郎は教室を見回した。特に後の方をじっと見る。

「それとも、そんなに目の悪い人、いますか?」
「は〜い。」

いやに間延びした返事があった。それからややあって、一人の学生がおずおずと立ち上がる。
いまどき珍しい黒ぶちの眼鏡を掛けた小太りの学生だ。いつもおとなしくて、クラスぐるみの悪戯をするときでもただニコニコと笑っている印象のある子だった。彼がそんなに表立った反抗をするとは思えない。

その違和感を裏付けるかのように、彼は困惑の表情を隠せないでいた。一度も伏せた目を上げて祥太郎を見ようとしない。彼の心細げな仕草より、祥太郎のカンに触ったのは、彼の後ろに座っている学生達の、人を小ばかにしたようなニヤニヤ笑いだった。

「………分かりました。」

しかし、実際に見えないというのであれば、それが嘘でも仕方ない。祥太郎はしぶしぶ教科書を開いた。  



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