Dランドデート直哉は緊張の面持ちで視線を走らせた。 平日の午前中とは言え、利用者の多いこの駅では、人の波が途絶える事もない。もしも瓜生が祥太郎と一緒に姿を現すとしたら、彼の姿は人波から頭一つ突き抜けて、否応なく真っ先に直哉の目に飛び込んでくるはずだ。 直哉は今日、祥太郎と待ち合わせをしている。おたがいの都合がなかなか合わなくてのびのびになってしまったが、今日は念願のデートだ。 直哉にしてはしおらしく、夕べは緊張の余り眠れなかった。もちろん、翌日に思いを馳せて計画を練っていたというのも一つある。 愛車のカワサキZRXUで、葉山あたりまで飛ばすのもいいだろう。シックなブラック一色のボディーは、きっと直哉の精悍なスタイルを十分にアピールしてくれるはずだ。 本当なら限定解除のナナハン辺りでもっと颯爽と迎えに行きたいところだが、免許の取得に年齢が足りないのではどうしようもない。来年18歳になったら真っ先に教習所に行こうと直哉は計画している。 だが、とりあえずは明日のデートだ。祥太郎とはずっと付き合いたいのだから、最初からそんなに威圧感を与えるのはどうだろう。 ここは一つ、初な祥太郎に合わせて、ごく平凡に映画と食事のデートあたりが無難だろうか。あわよくば、そのまま夜に突入し、次の朝を一緒に迎えたいところだ。 だが、直哉の胸を一杯にしていたのは、そんな楽しい思いばかりではない。 目を瞑れば、いつでもあの瓜生の勝ち誇った顔が目に浮かぶ。明らかに直哉より先を行っている自信に溢れた顔。 そして直哉は、瓜生と自分との間に太刀打ちできないほどの決定的な時間の壁があるのを知っているのだ。 神保町での3人の食事の後、当然のようにレシートを取り上げた瓜生は、祥太郎ににっこり笑いかけた。 「祥、俺はもう帰るけど、おまえはどうする?」 「あ、僕はもう少し本屋を当たるよ。」 このままだと会計を瓜生にゆだねる事になってしまうのだろうか。こいつにだけはおごられたくない。 焦る直哉を尻目に、祥太郎は楽しそうに話をしている。直哉は紙幣を瓜生に押し付けた。 「これ、俺の分です。あんたにおごられるわけには行きませんから。」 「あっあっ、僕がっ、おごるんだったのにっ!」 祥太郎は初めて気付いたふうで慌てて手を伸ばした。瓜生は直哉からはすんなり受け取ったが、祥太郎がぴょいぴょい飛びつくのはあっさり無視して、支払いを済ませた。デビットカードであっという間だ。 「僕が払うってば!」 「こんなところで、止せ、みっともない。それに俺はおまえに借りがあるんだろ?」 「え? 借りって………、あっ! そうそう!」 店の外に場所を移して人目につくところに出ても、二人のなんだかいちゃついたようなやり取りは続く。だが、いきなり矛先が直哉に向けられた。 「聞いてよ直哉君、酷いんだよ、瓜生ってば。人が風邪で寝込んでいるのをいいことに、僕が必死で集めた『芥川全集』捨てちゃったんだよ! 漱石と乱歩も!」 「え…っ。」 直哉はぎくりと肩を強張らせた。 祥太郎が上げた本には覚えがある。直哉が祥太郎の部屋でぎりぎり縛り上げて、捨てるように部屋の外に放り出しておいた本だ。 「だから、新しいのを買ってやるって言ったじゃないか。」 「ダメだよ、瓜生のはネットショッピングでまっさらの奴をちゃっちゃと買うんだろ。僕はあの、先達たちの手を経てきた感じの本が好きなの!」 祥太郎はぶうっと膨れている。直哉は冷や汗が浮かぶのを感じた。 あの日は逃げるように部屋を出てきてしまったから、直接あの本をゴミとして捨てたのは確かに直哉ではない。 だが、後から来た瓜生が、あの状態の本をゴミと判断するのは無理からぬところだ。何しろ本だけではなくて、その辺に散乱していた古新聞だの週刊誌だのも一緒に梱包したのだから。 「あ、あの…。」 「だからこうして、当分の食事代は俺が持つって言ってるんじゃないか。これ以上、どうしようもないだろう?」 「うー、だけど、腹の虫が納まらないの!」 祥太郎はさらに膨れると、瓜生の前を歩き出した。直哉は身の置き所のない気分で慌てて後を追った。 祥太郎はあの時確かに、捨てると言った自分を止めなかったはずなのに。だけど、あのときの熱に浮かされたようすを思い出すと…まったく無意識に返答をしたと考えても何も不思議はない。 直哉が困り果てて祥太郎の後を追おうとすると、不意に瓜生が擦り寄ってきた。 「あの日、あのガラクタをあんなふうに部屋の外に出したの、おまえだろ?」 祥太郎に聞こえないような囁き声だ。直哉はぎょっと肩を竦め、それから仕方なく頷いた。 気がとがめて、また眉間に皺が寄る。 「仕方ないじゃないですか、あんな本…、ゴミだと思ったんですから。」 「まあな、俺もやっとあれが古本を捨てる気になったかと思って、大喜びで飛びついて捨てちまったのも確かなんだがな、後でご機嫌を取るのがそりゃ大変だったんだぜ。」 「俺、先生に…。」 「黙っとけ。あいつが怒るとしつこいぞ。それに、叱られるのは俺一人で十分だろ。」 「なに二人で内緒話しちゃってるの!」 振り向いた祥太郎が不機嫌そうに言う。その顔つきを見て、直哉は瓜生の先ほどの言葉をヒヤヒヤと反復した。 確かに祥太郎が怒るとしつこそうだ。 瓜生は祥太郎に見えないように目を眇めた。こうして笑うと、男くさい瓜生が、意外なほど少年めいて見える。 「おまえに貸し一つ…な。」 直哉はしぶしぶ頷いた。 あの時瓜生は、確かに貸しだと言ったのだ。そして、今日のデートは瓜生にも知れている。 それならば、貸しを取り立てるには今日は絶好だろう。 俺だったら、まずは祥太郎に着いて来て、このデートをぶち壊す。それが一番手っ取り早くて効果的だろう。 直哉はそう思う。だから先ほどからきょろきょろする目を止められないのだ。 祥太郎を待たせるのは絶対に嫌だから、待ち合わせより20分早く着いた直哉だが、瓜生なら時間に遅れることなどなさそうだ。 少し早めにやってきて、どこかで直哉の狼狽を観察しているに違いない。 だが、心配している大男の姿はどこにも認められない。待ち合わせの時間もすでに5分過ぎている。 ちょっと安心すると同時に、すぐに別の不安が頭をもたげだした。祥太郎は一体どうしたのだろう…。 すると、急に駅の一角が騒がしくなってきた。 直哉は首をめぐらした。何か大きな声で騒ぎながらもつれるように歩いてくるカップルがいる。 いやにこじんまりした二人で、女の方が僅かに背が高い。 その女にぶら下がるように抱きつかれているのは…祥太郎だ! 「もう! 僕急いでるんだから、ふざけないでよ!」 「いいじゃない。私と腕組みたい男の子なんていっぱいいるのよ。祥ちゃんも少しは嬉しそうな顔したら?」 「二人っきりっていう約束で来たんだから、放してってば! 緑ちゃん!」 直哉は唖然として二人を見つめた。 二人は、衆人が楽しそうに振り返っては笑いを漏らすのにも気付かずに、ずんずん進んでくる。 確かに直哉だって、可愛らしいカップルのささやかな悶着だと思うだろう。自分がその当事者の一端に連なっていなければ。 二人は、呆然と突っ立っている直哉に気付かずに通り過ぎてしまう。直哉は慌てて祥太郎の肩を掴んだ。 驚いて振り向いた祥太郎は、困ったような笑い顔をした。 「あの…祥先生、この子は…。」 「直哉君…、ごめんねえ、玄関出たところでつかまっちゃって…、これは妹で…。」 「緑でーす。ふうん、あんたが滝くん?」 緑はようやく祥太郎の腕に絡めていた手を解き、直哉を上から下まで見下ろした。もっとも祥太郎とさして代わらない小柄だから、半ばつま先立ちである。 だが、その小さな身体でも、出るべきところはきっちり出、締まるべきところはきっちり締まっている、中々のプロポーションであることがわかる。 ツインテールと言うのだろうか、耳の上で二つに分けた髪の先は、肩を越す辺りまで垂れていて、なんだかウサギを思わせる。 顔も祥太郎に似た小作りで、くるくると元気よく動く大きな瞳に、悪戯っぽい表情を浮かべている。観月ありさの若い頃みたいな顔立ちだ。 先ほどの会話からもれ聞こえてきた、『腕を組みたい男の子はいっぱいいる』と言う言葉も、決して嘘や強調ではないのだろう。 緑はいったん身を引いて直哉と十分間合いを取ると、びしっと指を指した。 「合計マイナス30点!」 「な…っ。」 「みっ、緑ちゃん!」 低すぎる評価に唖然とする直哉を気遣ってか、祥太郎は焦った声を出した。 「なにそれ! 初対面の人に向かって失礼でしょう! ちゃんと採点の内容を表示しないと!」 違うだろう…。直哉はがっくりうなだれた。 直哉の落胆に気付いたのか、祥太郎がおろおろしている。 「ふふん、いいわよ。ちゃんと採点内容教えてあげる。」 緑は偉そうに両のこぶしを腰に当ててふんぞり返った。 「基準点100点、背が高すぎる、マイナス10点。服のセンス、マイナス10点。眉間の皺、マイナス10点。そして何より、私の祥ちゃんを気安く呼び出した、マイナス100点、これで合計マイナス30点よ。どう?」 なにがどう?だよ…。直哉は祥太郎をじろりと睨み据えた。 あれほど二人きりでデートがしたいと連呼したと言うのに、どういうつもりでこんなおまけを連れてきたのか。 すると、緑がささっと祥太郎と直哉の間に割り込んだ。 「祥ちゃんを睨まないで! さらにマイナス10点!」 「あのな…。」 「緑ちゃんっ! もうっ!」 直哉は頭を抱えた。 この組み合わせは周りにはどう見えるのだろう。おそらく三角関係というよりは、子供たちの悪戯に手を拱いている引率とお子様に見えるのではないだろうか。 もちろん引率は直哉で、お子様は祥太郎と緑だ。 「だけど、滝くん、どっかで見たことあるのよねえ、………どこだろ?」 「その呼び方…おまえ、瓜生の差し金か。」 祥太郎が紹介したのなら、自分のことは直哉君と紹介したはずだ。滝くんと紹介するのはおそらく瓜生だろう。 緑は直哉に突っ込まれると、悪びれずににっと笑った。 「ご明察! 祥ちゃんに悪い虫がつきそうだから、見張ってくれって。」 そこで緑はまた、祥太郎の腕にぎゅっとしがみついた。 「私の祥ちゃんに手ェ出したら許さない!」 「もう、緑ちゃんってばっ! ごめんねえ、わがままな妹で…。直哉君はそんな、手を出すとか何とかいうのとは、ぜんぜん違うんだから。」 直哉はため息をついた。 多少は警戒心を持ってくれ。俺はまぎれもなく、あんたに手を出そうとしてるんだぜ。 そう喉元まで出掛かるが、やっぱりぐっと飲み込む。 それにしても、瓜生がついてくるよりなお悪い。 妹さんにあまり乱暴な真似は出来ないし、このようすじゃ軽くあしらうことも出来やしない。直哉はもう一度ため息をついた。 「おまえの基準値って何? 俺がマイナス30点なら、瓜生なんてマイナス200点ぐらいじゃないの?」 「うりうりは、対象外だもん。基準値はね、祥ちゃんなの。祥ちゃんが100点で、他の男は全部減点対象。」 なるほど…。直哉はまた力が抜けた。 雪紀のように誇示するわけではないが、直哉もそれなりにルックスには自信がある。こんなふうにこき下ろされて大いに不満だったが、祥太郎がすべての基準なら、当然直哉は背が高すぎて、険のありすぎる顔立ちだろう。 それにしてもうりうりとは一体なんだ。緑は自分とタメのはずなのに、妙に幼すぎる。 どこかで適当に巻こう。直哉は腹を決めた。 はぐれたふりを装えば、祥太郎に対しても言い訳が立つだろう。こんな祥太郎にべったりな子と一緒にいたって、まったくデートにならない。 「先生、これから映画でも…。」 「祥ちゃん! 私うりうりからこれもらったの!」 言いかけた直哉を力技で遮って、緑は祥太郎の目の前に何かをかざした。 「今日指定のDランドの招待券よ! 祥ちゃん大好きだよねっ!」 「え? Dランド?」 祥太郎はがばっと緑の手にしたチケットに食いついた。大きく見開いた目が、みるみるキラキラと輝きだす。 なんてことだ。直哉は呆然とことの成り行きを見守った。もう祥太郎は全身で行きたい!と訴えているし、悪いことに、ここからDランドまでは電車1本で行けてしまうのだ。 「直哉君…。」 それでも一応遠慮がちに、祥太郎は直哉を見上げた。 そんな上目遣いで見つめられたら、もうどうにも直哉には抗いようがないことを、祥太郎は知っているのだろうか。 傍らでは緑が勝ち誇ったように鼻息を荒くしている。 「………わかりました。行きましょう。」 祥太郎がさも嬉しそうに表情を崩す。 直哉はまた眉間に力がこもるのを感じてしまう。うまいこと瓜生に遠隔操作されてしまっている。 「でも、俺にはその招待券は必要ありませんよ。瓜生…さんにおごってもらうなんて真っ平です。自分の分は自分で払いますから。」 せめて一矢を報いたい。そう思って口にした言葉だったが。 「ご心配なく。うりうりはきっと滝君ならそう言うだろうって、最初っからチケットも2枚しかもらってないの。」 緑の声にがっくり力が抜ける。完璧に読まれきっている。 「うりうりの方が、滝君より何枚も上手よね。」 緑の決め付ける言葉に、うなだれるしか出来ない直哉だった。 そうしてそんなこんなでDランドである。当然直哉はあまり面白くない。 緑は常に祥太郎にべったりで、アトラクションに乗っても、絶対直哉には祥太郎の隣の席は譲ってくれない。 ベンチで座ってソフトクリームを舐めるときでさえ、緑は祥太郎と直哉の間に無理やり割り込んでくるくらいだ。 カップルや家族連れだらけで和気あいあいとした人々の中に、しかめっ面をして一人ゴンドラに揺られる自分を思うと、直哉は情けなくて仕方ない。 そして、祥太郎と緑は実によく買い物をする。入り口から続くアーケードですでに、二人は袋一杯のキャラクター商品を買った。 エリアを移動するたびに、その買い物の量は増えていく。そしてなぜか、それを持たされるのは直哉なのだ。 今も直哉は両手に二つずつの紙袋を持たされている。 直哉は前を行く祥太郎と緑の背中を睨んだ。 二人はさっきから買い食いばかりしているから、別に空腹にもならないのだろう。だが、大の男が巨大なキャンディだのキャラメルをまぶしたポップコーンだのを買い食いできるか! レストランはどこも、女子供の好みそうなふにゃふにゃしたメニューばかりだし、直哉は空腹も手伝って相当いらいらしていた。 その直哉の鼻息に気付いたのだろうか。祥太郎がくるりと後ろを振り返る。 手には、チュロスとか言っただろうか。得体のしれない焼き菓子が握られている。 頭には巨大なリボンのついた鼠の耳のカチューシャ。それがまた祥太郎にはよく似合う。成人男子にそんなものが似合っていいのかどうかは別として。 「直哉君、そのカチューシャ、すっごく似合ってる♪」 「……………どうも。」 祥太郎の腕にぶら下がっていた緑が振り向いて、小気味よさそうに笑う。これも緑の入れ知恵なのだ。 さっき、何軒目かのみやげ物屋に入ってカチューシャを手にとった祥太郎に、「滝君にも買ってあげないと」と囁いていたのを、直哉はしっかり耳にしてしまった。 まさかいくら祥太郎でも、身長180センチを越す強面の自分にそれはないだろうと高を括っていたら、祥太郎は容赦なかった。 「頭下げて。僕が付けてあげる。お揃いだねっ。」 頬を染めてそんなことを囁かれれば、直哉はもうお手上げだ。戴冠式よろしく、恭しく頭を捧げてしまう。 そうして他の客たちに後ろ指指されて笑われながらも、直哉はその巨大耳のカチューシャを外せない。 「ほんと、よく似合ってるよ。滝君♪」 そういう緑は、同じ巨大耳でももう少しボーイッシュなキャップタイプを被っているのだ。 あっちの方が何ぼかましだったろうに…。直哉はさらに深く眉間に皺を刻む。 「結構我慢強いよね、滝くん。」 祥太郎が風船を配る、チップ&なんとかの着ぐるみに気を取られている隙に、緑が擦り寄ってきた。ピンクのグロスが光る唇を尖らせて、挑発的に直哉を見上げる。 「そんなカチューシャ、ほんとはぶん投げたいんでしょ。」 直哉は顔をしかめた。 「祥先生が喜んでくれるんなら、俺は何でもいいんだ。」 「へえ…。」 緑は目を見張った。 「単なる祥ちゃんの可愛いルックスねらいじゃないんだ。」 「可愛いだけがとりえなら、うちの学校には掃いて捨てるほどいる。俺は祥先生だからいいんだ。」 「そっか、白鳳だもんね。可愛いお坊ちゃまはいっぱいいるんだ。」 気恥ずかしいセリフを吐いて口篭もった直哉の様子には気付かないのか、緑はぼんやりと祥太郎の背中を見送っている。 ちょうど着ぐるみが沢山出てくる時間帯に当たったのか、むこうの方に小憎らしい顔つきのアヒルが尻尾を振り振り、群がる子供たちをさばいている。 祥太郎はそわそわと、視線をアヒルとリスの間に往復させている。どっちにも近づきかねて戸惑っているようだ。 「祥ちゃんはさあ、およそ人を疑うってことを知らないの。」 祥太郎を前にした時の、甘ったれた口調ががらりと変わった。緑は急に大人びた目をして、直哉を見上げる。 「私が覚えてる小さい頃でも、祥ちゃんは弱っちい子供でさ、しょっちゅう熱出したりお腹壊したりして、宗太郎さんや茜さんを慌てさせてた。無理させるとすぐ寝込むから、みんなで庇って庇って、それであんな甘ったれた…ってゆうか、抜けた大人が出来上がっちゃったんだよね。 だけど、子供の頃から祥ちゃんはそりゃあ可愛かったから、それはいいの。問題はさあ、祥ちゃんが自分の周り全部、善人だって信じちゃってることなの。」 緑はふっと息を吐いた。 なんだか祥太郎より5つも年下のはずの緑が、彼より大人めいて見える。 「祥ちゃんはさあ、お友達の下心なんてぜんぜん分かんないんだよね。子供の頃とおんなじ様に、周りの人がみんな自分を庇護してくれると思ってる。 ううん、そうじゃないな。自分に直接悪意を向けられても、それは必ず何らかの理由があって、絶対話せば分かるって思ってるの。」 「悪意…って…。」 「祥ちゃんが高校に入ったばっかの頃だったかなあ。洋服びりびりに破られて帰ってきたことがあって。全身傷だらけで、おでこやほっぺたまで擦り剥けてるし、手首には指の形に痣が付いてるし。」 直哉はザアッと全身の血が引いていくのを感じた。緑が淡々と話すそれはまるで。 「…強姦じゃないか。」 「…でしょ。誰が見たってそうよ。幸運にも未遂だったけどね。」 緑の言葉にほっとさせられた直哉だったが、同時に下がりきった血が一気に頭に上る。 祥太郎をそんな目に合わせた奴をこの手でぶん殴ってやりたい。 「凄い顔。そんな顔しなくたって、止めに入ってくれた瓜生さんがその場でボコにしてくれたわよ。」 緑は薄く笑った。 「どうもそんな事って、初めてじゃなかったらしいんだけど…。私は子供だったし、何が起きたのか良く分からなくって、ただ瓜生さんが物すごい勢いで祥ちゃんを連れてきたのと、いつもベタベタに祥ちゃんに甘い茜さんと葵ちゃんが泣き叫ばんばかりに怒っているのが恐くって、部屋の隅っこで震えてた。 祥ちゃんだって恐かったと思うのよ。すっかり紫色になっちゃった唇がいつまでも震えてて、可愛そうなくらいだった。それなのに、祥ちゃん、絶対にその相手の先輩の事、悪く言わないの。」 緑はふいと口をつぐんだ。祥太郎が駆け寄ってきたのだ。先ほどまでの大人びた表情を押し隠すと、我が侭で無邪気な妹の顔が現れた。 祥太郎が何か口早に言うのを肯いて、小さなショルダーからいつも持っているらしいデジカメを渡す。 祥太郎は直哉と緑の顔を等分に見比べて首を傾げた。話し込んでいる二人を邪魔してはいけないとでも思ったのかもしれない。踵を返すと、又楽しそうに着ぐるみの方へ走っていく。 「そうこうしているうちに、あちこち腫れ上がってきて例によって熱は出すし、お仕事から帰ってきた宗太郎さんは警察に訴えるって怒るし、大騒ぎになっちゃったの。それでも祥ちゃんは先輩じゃなくって自分が悪いの一点張りなの。自分に何か原因があったから、先輩を怒らせちゃったんだって。 終いには助けてくれた瓜生さんを泣いて詰るのよ。放っといてくれればよかったって。きっと話せば分かったのにって。小学生の私にだって、祥ちゃんが間違ってるのが分かったわよ。でも祥ちゃんはマジなの。」 直哉は思わずため息を吐いた。それはなんだか、とても祥太郎らしい話だった。 「だからね。」 緑は再び、ビシと直哉を指差した。 「あんたみたいな怪しい奴に祥ちゃんをほいほい任せられないの!」 「…結局それかよ。」 だが、直哉はそんなに悪い気分ではなった。 どんな話であれ祥太郎の話を聞けるのは嬉しいし、この潔い少女がちょっとばかり気に入ったからだ。 「怪しい奴だなんて、ブラコンに言われたくないな。」 「なによ。」 「だって態度が違うじゃないか。祥先生の前と、俺の前とじゃ。うりうりってなんだよ。祥先生がいなくなったらとたんに瓜生さんでさ。」 「だってそれは…、しょうがないじゃん。祥ちゃんの前では私はいつでも可愛い妹でいなくちゃいけないんだもん。」 緑は僅かに狼狽したように唇を尖らせ、頬を染めた。 そうしていると、あんまり似たところのない彼女が、どことなく祥太郎に似て見える。 「私がどんなに祥ちゃんを好きでも、私は祥ちゃんにとっては可愛い妹でしかないんだから。 ……あ、ミニーだ。ミッキーも。」 緑はふいと目を逸らした。淋しげな目をしている。話を変えるために目を逸らしたのではなく、眼差しを通して自分の本心を見透かされるのを避けたように思えた。 「…あいつら、なかなか出てこないのよね。あ、祥ちゃん走ってる。」 「………おまえんちってさあ、ご両親が入籍しただけだろ。おまえは別に祥先生のお父さんと養子縁組したわけじゃないんだろ。」 「…だったらなによ。」 緑は訝しげに直哉を見上げた。直哉は何だか馬鹿らしくなってため息を吐いた。 何で自分は自らライバルを増やそうとしているのだろう。緑はこうして戦線離脱宣言をしているというのに。 「だったら、祥先生とおまえは本当の兄弟じゃないんだぜ。おまえが好きなら、別に恋愛したって結婚したって、誰も咎めやしないはずだ。戸籍上はまだ、いとこなんだから。」 みるみる緑の目が大きく見開かれる。やはりどことなく表情が祥太郎に似ている。 「バッッッッッッカじゃないの、あんたって!」 だが言葉は祥太郎とは似ても似つかず辛辣だ。 「私たきつけてどうすんのよ! あんた祥ちゃんが好きなんでしょ! おんなじ立場だったら私の方が断然有利な事わかんないのっ?」 「う、うるせー、俺はなあ…っ。」 似てない兄弟でも大声は似るらしい。直哉は間近から浴びせられる罵声に思わずたじろぎながら必死に言い返した。 「俺はただ、祥先生と似た顔がしょぼくれてんのを見るのが嫌なだけだっ!」 遠くの方から祥太郎が緑を呼んでいる。一瞬息を飲んだ緑はそちらに視線を移し、それから改めて直哉を振り返った。 「本っ気でバカ。私、祥ちゃんに似てるなんて言われた事ないわよ。 それに私、祥ちゃんと恋愛なんて考えてないもん。いっくら可愛らしくたって弱々しくたって、祥ちゃんは私には頼もしいお兄ちゃんなんだから。」 祥太郎が大きく手を振って緑を急かしている。その手にはデジカメが握られ、もう一方の手はちゃっかりミニーの腕に絡められている。 「あ、ミニー捕まえたんだ。ツーショット写真撮って欲しいのかな。」 緑は軽やかに駆け出した。長い髪がひらひらと舞う。 駆け寄ってきた緑を、祥太郎はにっこり笑って迎えた。 デジカメを受け取ろうと伸ばす緑の手を遮って、祥太郎は緑とミニーを並ばせた。二人の肩を押しつけてくっつけるように並ばせると、ミニーと緑が頬を寄せ合っている構図になった。 祥太郎は急いで離れてデジカメを構える。ミニーとミッキーに気付いた子供たちがわらわらと集まりかけている。 ここDランドのシンボルである2大スターの突然の出現に、子供たちばかりか親たちまでもが目を血走らせている。今を逃すと、誰にも邪魔されないこんな見事なツーショットは二度と撮れないだろう。 ファインダーを覗いていた祥太郎が腰を伸ばすのと同時ぐらいに、子供たちがミニーに取りついた。 やはりミニーには女の子が、ミッキーには男の子が多く群がる。 女の子達の甲高い嬌声に押し出されるように、緑がミニーから離れると、その隙間にもたちまち子供たちが殺到する。あちこちで撮影会が始まった。 祥太郎がにこにこしながら戻ってくる。 やや遅れて歩く緑を手招くと、祥太郎は直哉に撮ったばかりのデジカメの映像を突きつけた。 「ほら見て、よく撮れてるでしょう。緑ちゃんも、早く早く。」 「んもう、祥ちゃんてば急なんだもん。祥ちゃんが撮って欲しいんだと思ったわよ。」 「だってめったに出てこないミニーだよ。しかもツーショット。緑ちゃんの方が絶対似合うよ。」 直哉は釣られるように小さなデジカメを覗き込んだ。 二つの顔が寄り添うように大きく写っている。緑は文句を言っている割にしっかり笑顔だ。 バックは真っ青な空にそびえるシンデレラ城。このまま絵葉書にしたいような美しさだった。 「うん、我ながら上出来。」 祥太郎は満足そうに微笑むと、緑にデジカメを返した。 団子状態にミッキーとミニーにぶら下がっている子供たちを振り返る。 「あの子たちもそれなりに可愛いけど、やっぱり僕の妹が一番可愛い。ね。」 輝くような笑顔。緑がこくんと喉を鳴らした。 「………ね、お兄ちゃんには参っちゃうでしょ。」 直哉は頷いた。緑の目がほんの少し潤んでいるように見えた。 園内をぐるりと一周して、入り口近くのアーケードまで来ると、祥太郎が今までつけていたカチューシャを外した。直哉にも外せと促す。 「緑ちゃん、僕たちそろそろ帰るけど、緑ちゃんはどうする? 荷物は大変だから送ってもらおうと思うけど。」 「あれ? 祥ちゃんもう帰っちゃうの? パレードも見てないし、カリブもスペースマウンテンもまだじゃない。」 「うーん、そうだけど、でも直哉君を引っ張りまわしちゃったから、今度は彼の好きなところに行かないと。」 思い切り名残惜しそうな顔だが、祥太郎はすっかり帰る様子でいる。 緑がふっとため息みたいな笑いを漏らした。 「いいわよ。それじゃ私はパレード見てから帰ることにする。荷物置いてっていいよ。そこから送れるから。」 「おい…、いいのかよ、お目付け役。それにおまえ、祥先生のこと…。」 直哉は好きなんだろうと続けたいのを飲み込んだ。 無論祥太郎と二人になれるのは嬉しいが、女の子一人をこんなところに置いて帰るのは気が引ける。 「いいよ。滝くんは、祥ちゃんが嫌がることはしそうもないし、それに私、お兄ちゃんが男に好かれてもしょうがないと思ってる。祥ちゃんはすっごく可愛いし。」 ひそひそと声を潜める。 「それに、祥ちゃんが男の人を好きになれば、私にないところを好きになったんだなって納得できるけど、祥ちゃんがある日女の子を連れてきて、私や茜さんや葵ちゃんよりこの人のほうが好きなんて言葉を聞くのは、絶ッ対ッ、いやッ!なの!」 緑の思い切ったしかめっ面に圧倒されつつ、直哉は腰を伸ばした。やっとデートらしいデートができるらしい。 「祥ちゃん、滝くんは翔ちゃんのこと好きなんだよ。わかってる?」 何を言い出すのかと焦る直哉を尻目に、緑はにこにこと祥太郎に話し掛ける。 祥太郎も笑顔で切り替えした。 「うん、わかってるって。僕も直哉君のこと好きだよ。初めて僕になじんでくれた生徒だもん。」 違う。絶対違う。直哉は憮然と緑を睨む。 緑は直哉に釘を刺したくてこんなことを言い出したのに違いない。 「今度は、直哉君の好きなところに連れていってよ。」 祥太郎がニコニコと直哉を見上げている。直哉は少し視線を泳がせた。 「俺の好きなところと言っても…。」 「僕知ってるよ。最近生徒たちがよく、いろんなことを教えてくれるんだ。君と住園君は、夜の町でものすごくもてるんだって? なんでも六本木辺りとか。」 「あ──────────っ!」 突然背後から緑の絶叫が響いた。直哉はギョッとして振り返る。 「思い出した! 滝くんどっかで見たことあると思ったら…六本木のクラブキング!」 クラブキング? なんだその場末の三流演歌歌手みたいな呼び名は…。 思わず脱力しかける直哉に向かって、緑は三度指を突きつける。 「二人組みのイケメンで、遊びまわってて、女の子男の子問わずブイブイ言わせてて、喧嘩ばっかりしてて、やくざとつながりがあって…。」 ないない。直哉は思わず顔の前で手を振る。 祥太郎がきょとんとした顔で直哉を見上げている。そんな荒唐無稽な噂話を祥太郎に吹き込まれては困る。 「そんな人とは祥ちゃんを絶対につき合わせられない! 祥ちゃん、行っちゃダメ────────ッ!!!!」 なんだか急に風向きが変わってきた。直哉は焦って祥太郎の手を握って走り出した。 追いすがろうとした緑が、足元の荷物につまずいて進めないのをいい事に、脱兎のごとく駆け抜ける。 「待て───────っ、この人攫い──────っ!」 人攫いはあんまりだ。直哉はすたこら逃げながらそう思う。 手を握った祥太郎がくすくす笑っているのが僅かな救いだった。 こうして直哉と祥太郎のデートは第二ラウンドへ突入する。 |