隣の価値




直哉はネクタイの結び目をキュッと締め直した。
チャコールグレイの細身のスーツに同系色のシャツ。セルリアンブルーのタイをきつめに結べば、直哉の夜の顔の出来上がりだ。
鏡に映る自分は、心なし、目つきまで違う。

「おお〜、かっこいいねえ、直哉くん〜。」

だが、ピンと張っていた空気がなんだかその伸び切った一言でへにゃりと崩れる。直哉はテンポを崩されて、ゆっくりと振り返った。
直哉行き付けのブティックの丸椅子にちょこなんと座った祥太郎は、まるっきり無邪気な顔で直哉を見上げている。その服装を、直哉はすばやくチェックした。

「それじゃ全然ダメですね。」
「んん?」
「洋服…靴まで全とっかえです。」
p そう、直哉のエリアに直哉の連れとして入り込むなら、それなりの格好に磨き上げないと。
直哉は自分の傍に寄り添う相手に妥協は許さない。



そもそも直哉は、祥太郎に自分の正体とも言うべき夜の顔を見せるつもりなど毛頭なかった。
どんなに可愛しくても頼りなくても、祥太郎は教師なのだ。直哉には、見せたくない物も、見られては困る物もある。だから、緑のあの一言はまったく余計だった。

「ねえねえねえ、クラブキングってなに?」
「その呼び方…勘弁してくださいよ…。」

緑をまいて町に戻ってきて、真っ先に入ったファミレスのテーブルでの会話である。

「直哉くん、何にも食べてなくてお腹空いただろうから!」

と、強固に主張した祥太郎の目の前にはうずたかくクリームを積みあげたパフェが鎮座している。どうやらこれが食べたかったらしい。
直哉はおざなりに頼んだハンバーグ定食を、厭々つついていた。空腹でないわけではないが、こんな騒々しいところでは食欲は沸かない。

「二人組みって事は、相手はやっぱり住園君なんでしょ。僕だってクラブくらい行った事あるけど、クラブキングなんていうのは聞いた事もないなあ。」
「だから…そんな呼び方、俺だって初耳ですよ…。」

直哉は頭を抱えた。意外にも強い好奇心を見せる祥太郎を納得させるには、口先だけのごまかしではどうにもならないようだ。

「今日はこれから、直哉くんの好きなところへ連れていってもらえるんだよね。」

祥太郎はクリームをしゃくっていた手を止めて、直哉を上目遣いに見上げた。きらきらと輝く瞳を見せ付けられて、直哉は漠然と、「好奇心猫を殺す」ということばを思い出す。
この場合、猫というのは自分の事か?

「直哉くん行き付けのクラブに行きたい!」

それは俺の行きたいところじゃなくて、祥先生の行きたいところだろう…。

「今日のところは、映画ぐらいにしておきませんか。」

直哉はやっと言った。
クラブキングというのは論外にしても、ひとたびそちら方面に足を向ければ、様々に有名を馳せている直哉と雪紀だ。
いわく、二人の通った後は血の雨が降る。ねらった女は逃さない。一睨みで店が1件潰れる…。そのほとんどが大袈裟な物言いにしても、それを信じている者が大勢いる以上、教師でウブい祥太郎なんかそんなところを連れて歩けない。

「え〜っ、僕、直哉くんの普段の生活が見たいなあ…。」

そんなに毎晩クラブに通っているわけもないだろうに、祥太郎は縋るような目をする。
そんな目をされて、直哉が強く出られないのを分かっているのだろうか?

「直哉くんの普段の行動って、ものすごく興味ある。いつもちゃんとしてる直哉くんに、どういうお友達がいて、どんな事をしているのか…。僕にも教えてくれないかなあ…。」
「せ、先生…、ちょっと…。」

祥太郎は直哉を簡単に追いつめると上目遣いのまま可愛らしく首を傾げた。
直哉は不甲斐なくも、その仕草だけでぐらぐら来る。

「僕、直哉くんの事がもっと知りたい…。 ダメ?」

大きな瞳が確信したように瞬かれる。
直哉に到底抵抗するすべもなかった。



「直哉く〜ん、これちょっときついよ〜。」

祥太郎の戸惑ったような声を尻目に、直哉は満足に目を細めた。

直哉の信頼するブティックの店長が祥太郎に選んだのは、ぴっちりと体の線が出る皮のパンツ。合わせたゆったりとしたノースリーブのブラウスは、広い襟ぐりのハイネックで、いくつものバックルであわせを止めるようになっている。
祥太郎は、その装飾品のバックルを几帳面に上から下まで全部止めて、窮屈そうな顔をした。
p 「この服、なんか理不尽だよ〜。中にちゃんとチャック付いてるのに、こんなにバックル要らないじゃない。ものすごく面倒くさい〜。」
「これがファッションっていうものです。何も律義に上から下まで止めることないんですよ。」

直哉は手を伸ばして、バックルを上から3つほど外してやった。襟元が寛ぐと、白い喉が際立って、ことさら顔が小さく見える。
直哉は3歩ほど後退した。フィッティングルームの中の途方に暮れたような祥太郎を、頭から爪先までチェックする。
いつもダボダボした服装をしている祥太郎だから気付かなかったが、意外と足が長い。全体的に小ぶりなだけで、実に理想的なプロポーションをしている。
ただし、男としてではなく、傍にはべらす相手としてだ。

「良く似合いますよ。いつもそういう細身のパンツを履いたらいいのに。」

素直な賛辞を口にすると、祥太郎は照れくさそうに顔を歪めた。

「うー、だけどこれは小さすぎるよ。お尻に食い込むよ。」

それがいいんだ、と直哉はひとりごちる。
祥太郎には間違ってもそんな事は言えないが。

「細身のパンツはいいんだけど、普通のサイズじゃ大抵僕には大きすぎるんだよ。こんなちっちゃいパンツ、よくあったなあって感心してるんだ。」

すると直哉のところに、店長が音もなく近づいてきた。はやりのレンズの小さな伊達眼鏡を掛けた、目端の利きそうな女性だ。

「小さいサイズがご用意できなかったので、ティーン用をご用意しました。お教えしない方が…よろしいんですよね。」

なるほど、最近の小学生は発育が良く、祥太郎より大きい子もざらだ。子供用でも、祥太郎には十分間に合ったのだろう。
直哉は納得すると、店員に肯いてみせた。

「ただし、やっぱりお子様用なので…身頃などは少し狭いかと思います。その辺だけお気をつけて。」

直哉はもう一度肯くと、祥太郎に向き直った。
祥太郎は尻に食い込むパンツが気になるのか、しきりに後ろを気にしている。
直哉は店長から渡された、チェーンを模したベルトを緩めに腰に巻いてやった。鈍く光るベルトが、祥太郎の細腰を強調する。

「…いいでしょう。後はこのブーツを履いて、…髪もちょっと何とかしましょうか。」
「えー、ブーツぅ〜? ただでさえ足元ばっか皮で暑い感じなのに…、蒸れるよ〜。」

祥太郎はぶつぶついいながらも素直に用意されたブーツに足を突っ込んだ。頼りなげに数歩歩いて鏡を振り返り、首を傾げる。
直哉は一緒に鏡に映りこむように、隣に立ってみた。思ったとおり、自分の横に立つのにぴったりだ。

「ふ〜、直哉くんの方がよっぽど大人っぽくてかっこいいなあ。」
「大丈夫、よくお似合いですよ。」

直哉はさりげなく祥太郎の肩を抱いた。この祥太郎ならば、夜の帝王の片割れとして、隣に座らせていても、なんら遜色ないだろう。

「それにしても、たった1回クラブに行くだけで、こんなに上から下まで買い換えなきゃいけないなんて………ん?」

きょろきょろと全身を検めていた祥太郎がふと真顔になった。片足を後ろに反らして何かを見つめている。
何を見ているのかと思ったら、ブーツについたままになっている値札だ。
祥太郎はそのまま両腕を上げた。全身を探ってパンツとブラウスとベルトにもついている値札を見つける。それらを凝視すると、急に押し黙ってしまった。
すすすと静かにあとずさってフィッティングルームに逃げ込もうとする。直哉は慌てて待ったを掛けた。

「先生! なに脱ごうとしてるんです! 大丈夫、よく似合ってますって!」
「…それはいいんだけどさ〜、こんなに立派なお値段、一介の教師の手には負えないってば…。」
「そんなの! 俺が…っ。」

奢ります、と続けたいのを、やっとの思いで直哉は押しとめた。
クラブに出入りしている女の子を落とすには手っ取り早い手段だ。雪紀も愛用している。
だが、この手は、妙に潔癖なところのある祥太郎にはきっと逆効果だろう。

直哉はぎりぎりと歯軋りをし、それから諦めて種明かしをすることにした。
直哉と雪紀がこの界隈で、こんなに自由に振舞えるわけだ。

「先生、お勘定のことは考えなくて大丈夫です。ここは俺の母の…経営している店なんです。」

直哉は言いながらため息をついた。
雪紀は与えられた環境は美味しく利用しろという。事実直哉も資産家である実家の恩恵に預かっていないとはいえないが、そんな後ろ盾を自ら公表するのは、強い依頼心を晒しているようで、とても情けない。

それに最も嫌なのは、自分の後ろ盾を明かした途端に変わる、相手の目の色だった。
中にははっきり、玉の輿だといって喜ぶ女の子もいた。自分を素通りする相手の目線を見せ付けられるときが、一番嫌だ。
だが、祥太郎の反応は、今まで見た誰とも違っていた。

「それじゃ尚更ダメじゃない。そんな…そういう物は受け取れないの!
それにそういう事を言ってるんじゃなくて、僕には分歩相応な贅沢だって言ってるの!」

分不相応だなんて…。思わず直哉は唖然となる。
この俺が認めたのだから、祥太郎には間違いなくそれだけの値段を払う価値があるのだ。

直哉は思わず、なかなかままならない祥太郎を睨んでしまう。
祥太郎は、そんな直哉に恐れをなしたのか、眇めた目でこわごわ様子を伺っていたが、そーっとカーテンの奥に引っ込もうとする。
しかし直哉にとっては、あのくたびれたジーンズとシャツでは、どうしても祥太郎を自分のエリアであるクラブになど連れて行かれない。

困り果てていると、店長がカーテンを押さえた。彼女は軽く直哉に目配せをする。
彼女にしてみても、きっと急いでかき集めたティーン用の洋服を無駄にされることが面白くないのだろう。

「お客様、それはどうしてもお持ちになって頂かないといけませんわ。」

柔らかい口調に、有無を言わさぬ強さが混じる。

「それは、直哉さんからご連絡をいただいて、私が大急ぎでかき集めた物ですから。どなたもお似合いになるという訳ではありませんのよ。
でもこちらも、お客様のお好みを無視して押し付けるのですから、折衷案を出しましょう。
そのブラウスもパンツも、当店の物とはっきり分かるデザインです。ですから、お代金の方は、モデル代と相殺で…いかがです?」
「モデル…ですか? モデルって言うのは、この直哉くんみたいに、すらっとかっこいい人がするもんでしょ。僕には荷が勝ちすぎますよ。」

祥太郎は恨めしそうに店長を見つめた。いかにも世慣れした風の彼女は、何も動じずににっこり笑った。

「いいえ、大変良くお似合いですし、お客様がうちの商品を宣伝して歩いていただければ、うちにはきっと新規開発になります。ぜひご協力していただきたいわ。
それに直哉さんのお衣装も、そういうお約束でご提供させていただいておりますのよ。」

真っ赤な嘘である。直哉は月々きっちり、自分の洋服代ぐらい払っている。
だが、仕方なく直哉は肯いた。そうでも言わなければ、祥太郎は首を縦に振らないだろう。

祥太郎は思いっきり顔を顰めた。
いかにもしぶしぶと言った面持ちではあるが、オーナーの息子である直哉に恥をかかせてはいけないとでも思ったのかもしれない。とりあえずその折衷案を飲む事にしたようだ。

「じゃあ…もうちょっとちゃんとするから…ちょっと待ってて…。」

大変不服そうではあったが、祥太郎はもう一度カーテンの奥に引っ込んだ。

祥太郎の姿が見えなくなると、店長は小さく笑みをこぼした。
このあたりを根城にしている直哉だから、この店にも何回か取り巻きを連れてきた事はあるが、その直哉が珍しく狼狽を晒している事がおかしかったらしい。

「可愛らしいお友達ですね。先生というのは何かのご冗談にしても、ずいぶんご執着ですこと。」

直哉は慌ててシッと息を吐き、店長をいさめた。
こんな薄っぺらなカーテン一枚が祥太郎との隔たりなのだ。そんな大きな声では聞こえてしまう。
だが、彼女はそれも十分計算に入れていたらしい。からかうような笑みが大きくなった。

「あら、ごめんなさい。珍しく、手を焼いてらっしゃるみたいだから、つい。」
「…じゃあ、こっちの方はいつもの通りで。この人の分も。」

直哉は店長のからかいは無視して、清算を提示した。
どうも世辞に長け過ぎているこの店長が、祥太郎の実年齢を知ったら、どういう顔をするのだろうか。

「はい、心得てます。でも、モデル代ってのは満更でもないんですよ。」

店長は悪戯っぽく笑った。そんな事は言われないでも分かっている。
直哉お気に入りの祥先生が、そんじょそこらの奴に見劣りするわけがないのだ。



嫌がる祥太郎を宥めすかして、これは雪紀の母親の手が掛かっているヘアサロンへ祥太郎を放り込み、意図的に一層可愛らしく仕上げた頃には、クラブへ出向くのに頃合いの時間になっていた。
すっかり日の落ちた街を、祥太郎を連れて歩くと、いくつもの視線が絡んでくる。
祥太郎が直哉のスーツの裾をつんつんと引いた。

「ねえ、直哉くんかっこいいから、みんな見ていくよ。すごいねえ。」

祥太郎自身を値踏みするような視線が混じっているのには気付かないようだ。
直哉は薄く笑って祥太郎を引き寄せると、また嘗めるような視線を投げてきた外人にガンを飛ばした。
危なっかしくて仕方ない。瓜生が過保護になるように、直哉も祥太郎の背後で針ねずみみたいに神経を尖らせていた。

クラブに着くと、いつもどおり入り口では黒服の青年たちが入り口を固めている。
これは来客の出迎えだけではなくて、胡散臭い奴をはじく防御壁ともなっている。
直哉は彼らを見回して軽く眉をひそめた。こんな場所での人の出入が激しいのはいつものことだが、それにしてもずいぶん新顔が多いようだ。

「お客様。」

素通りしようとした直哉と祥太郎を、黒服の一人が止めた。料金を払えというのだ。
直哉はそいつを脅しつけるように睨んだ。ここしばらく、直哉も雪紀もクラブに金など費やした事はない。
それは取り巻きや見物客を多く呼び寄せる事のできる二人の特権だった。それはまだ生きているはずだ。
第一、このあたりで直哉の顔を知らないなんて、まったくのモグリに違いない。

「それは俺に言っているのか? あぁ?」

思わず不機嫌に言い放つと、奥から見覚えある支配人がすっ飛んでやってきた。

「滝様! 大変失礼いたしました! 君、こちらはいいんだ!」

押しのけられた黒服は、不満顔を隠そうともせずに下がった。支配人が小さく息を付いたようだ。

「支配人、しつけが行き届いてないようだな。」
「申し訳ありません、…しばらくお見限りで。滝様、少し折り入ってお願いが…。」
「後だ。案内してくれ。」

ぺこぺこする支配人を鷹揚に押しのけて進むと、傍らの祥太郎が目を丸くした。

「すごいねえ、直哉くん、鶴の一声! さすがクラブキング!」

だからそれは止めてくれよ…。直哉はつくづく緑を恨めしく思った。



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