大事な人




案内しろとすごんでみせたものの、勝手知ったる店内、直哉は肩で風を切るようにVIP席へ向かった。
途中で、何回も繰り返した言葉をもう一度祥太郎に吹き込む。

「わかってますね。ここでは先生はなしですよ。俺の言う事にしたがって下さい。」

雪紀や自分の目が光っているからそんなに怪しい店ではないとはいえ、やはり未成年が集って煙草も酒もやる店だ。教師面した奴の闖入には誰もいい顔をすまい。

「分かってるって。僕は直哉くんのお友達でしょ。おとなしくしてればいいんでしょ。」

どこまで分かったか分からない緊張感の無さで、祥太郎は大きく微笑んで見せる。直哉はつきそうになったため息を何とか飲み込んだ。

VIP席は、フロア中が見渡せる1段高いところにある。そこだけ豪華な革張りのソファーに沈み込んであたりを見回し、直哉はまた眉を顰めた。
祥太郎を構うのに忙しくてしばらく足が遠のいていたとはいえ、そう長いブランクではない。それなのに、店の雰囲気が何か違う。従業員の態度や、大音響で流れている音楽さえいやにとげとげしい。

支配人が慌しく動き回っているのが見える。
やがて、何も注文していないのに、直哉の前にはいつものジン・アンド・ビターズとソフトドリンク何種か、軽くつまむものなどが届けられた。いつものとおりの采配だ。
直哉は用心深く、祥太郎にはオレンジジュースと見られるグラスを置いた。
自分はアルコールを飲んでも顔に出ない自信はある。だが、祥太郎には積極的にアルコールを飲んでいるのを悟られようとは思わない。

祥太郎は目を細めてフロアを見下ろしている。色とりどりに瞬くライトに照らされて、髪を振り乱して踊る女の子を、観察している風だ。

「すごいねえ、結構激しい踊りだねえ。」

感想までなんだか怖気づいたように聞こえる。

「僕らの頃はさあ、パラパラとかがはやってて、案外のどかだったよ。こういうところから見てると、なんだか怪しげな盆踊りみたいで、それはそれで結構笑えたな。」
「こういうところ…、VIP席なんか座ったことあるんですか?」
「VIP席なの、ここ? さすがクラブキング!」
「………だからそれは…。」

何回もクラブキングを連呼されているうちに、なんだか自分が今までしたことが、すべて滑稽なことのように思えてしまう。

「実はね、あんまりこういうところって来たことないんだ。瓜生と、葵ちゃんとの3人で、3回くらいかな。」
祥太郎は、オレンジジュースを一口含み、にっこり笑った。やはりノンアルコールがお好みらしい。

「最初の2回はちゃんとお金払って入ったんだけど、3回目に、さっきの支配人みたいな人が、僕と葵ちゃんは無料でいいって言い出して、そうしたら途端に瓜生の機嫌が悪くなっちゃったんだ。それ以来かな、こういうところって。」
「はあ、それは…。」

瓜生の機嫌が悪くなるはずである。
綺麗な女の子を無料で招待するというのはよく聞く話だ。その子を目当てに鼻の下を伸ばした男どもが店に押しかけるからだ。
祥太郎の話によく出てくる葵ちゃんが、そういう見かけの女の子だったとして、祥太郎まで無料でご招待というのは、これはもう危なすぎる。狼の群れに羊を投げ込むみたいなものだ。
だが、祥太郎はなぜ瓜生の機嫌が悪くなったかなど、さっぱり理解していないようだった。

「心狭いよね〜、瓜生も。自分だけはお金払わなきゃいけないとなったら、もうつれてってくれないんだもんね。だけど葵ちゃんや緑ちゃんまで口を揃えてもう行くなって言うのには参ったよ。
ま、もともと付き合いで行ってたんだし、別にそんなにがっかりもしなかったけどね。ん? 何? なんか僕の話変だった?」

今のが、祥太郎の高校時代の話だとして、緑はおそらくまだ中学生にもなっていない。
その緑にさえ分かる危険が、祥太郎には分からないのだ。よっぽどのお人よしか、天然か。思わず頭を抱えてしまう直哉だった。

照明とDJが変わった。直哉は改めてフロントを見回して、客層までがなんとなく違っていることに気付いた。
見知った顔も少しある。いずれも、良い思い出のある顔ではない。
こんな場所での勢力図は猫の目のように変わる。ほんの少し足を遠のけていただけで、直哉や雪紀に具合の悪いように勢力図が塗り替えられてしまったのかもしれない。

「滝様…よろしいでしょうか。」

支配人が目配せをしている。直哉はゆっくりと腰を上げた。
店内の雰囲気が、直哉と祥太郎を注視しているのが分かる。鈍い祥太郎は気付かないだろうが、敵意のこもった視線だ。
直哉はそれらを撥ね付けるように睨み返した。

「ちょっと話をしてきます。この席から動かないでください。」

ことさら丁寧に言い聞かせると、祥太郎は少し真顔になって頷いた。直哉の硬い表情が移ったのかもしれない。
支配人は、少し離れた位置に立っていた。直哉は、祥太郎を視界の端に納められることをすばやく確認し、鷹揚に腕を組んだ。

「ちょっと目を放した隙に、ずいぶん雰囲気が変わったようだな、この店は。」
「恐れ入ります。滝様も住園様もだいぶお見限りでしたので…。」

卑屈な上目遣いだが、いかにも非は直哉たちにあるとでも言いたそうな視線だ。
直哉はうるさそうに眉を潜め、顎を上げた。面白くない話を聞かされそうなことが分かった。

「で、俺に何をさせようって言うんだ。」
「何を、など、滅相もない。ただ、もう少し密なご来店をお待ちしているだけです。」

支配人は言いながら深深と頭を下げた。

「…今日は住園様は…?」
「さあな。俺はあの人と来ただけだ。雪紀のことなんか知らないよ。」
「左様ですか…。」

支配人は、あからさまに落胆した顔をした。
直哉はもう一度店内を見渡した。空気が悪い。そろそろここも手の引き時かもしれない。
雪紀と一緒に、この界隈でもずいぶん幅を利かせたものだが、もうとっくに興味の対象は移っている。こんな夜の町のボスであることに未練はない。

突然、あたりが騒がしくなった。出入り口付近の黒服の動きが慌しくなっている。
見ていると、派手な女を引き連れた男が入ってくるところだった。

「あいつ…。」

直哉は思わず呟いた。

すこぶる評判の悪い男だった。
年齢は直哉よりだいぶ上だったはずだが、いつまでたってもヤンチャが抜けず、あちこちで衝突を起こす男だ。
雪紀や直哉とも直接ぶつかったこともある。なまじ年齢が上なので始末に悪い。
薬ややくざとの繋がりも噂される男だった。

彼は入ってくるとすぐに直哉に気付いた。すでに一杯やってきたのか、赤く染まったにやついた顔をたちまち不機嫌に変える。
大きなしぐさでそっぽを向き、歩きかけて足を止めた。睨みつけている先は祥太郎だ。
どうやらVIP席に先客がいるのが気に入らないらしい。

直哉は思わず身構えた。祥太郎はきょとんとしているばかりで腰を浮かせる様子もない。
どうやら彼のきつい一瞥は祥太郎にはまるで通じないようだった。

「あいつが最近のVIP常連か?」
「はい、なにやら色々と手を広げられておられるようで、…こちらも少々当惑いたしております。」

支配人の目つきが変わった。そこに強い強制が含まれる。
直哉には、彼の言いたいことが分かった。今まで散々ただでいい思いをさせてやったのだ、なんとかあの邪魔者を排除しろと言っている。
いくら未成年と知っていて酒を売る店でも、店内で薬や、人の売買は困るのだろう。あれはそういう男だ。
だが、直哉はもうそんなことにかかわるのは面倒だった。
きっと雪紀なら嬉々として対処するのだろう。だが直哉は、自分の身の回りの者を自分自身で守るのに手一杯だ。雪紀のような華々しい活躍はしたくない。

「面倒だな。俺も少しは大人になった。」

そういい捨てて、支配人に背を向けた。
雪紀が面倒ごとに鼻を突っ込みたいのなら、協力してやってもいい。それは今まで二人組みでこのあたりを束ねてきた直哉の義務でもあるだろう。
だが、大事な祥太郎を抱えている今日、わざわざ面倒ごとに関わりたくはない。



祥太郎の席に帰ると、男が二人、慌ててその場を離れた。祥太郎を覗き込むようにして何事か話し掛けていたらしい。
直哉は男たちが逃げ帰った方をいまいましく睨んで祥太郎の隣に腰を降ろした。

祥太郎の目の前には、直哉の覚えのないグラスがいくつかある。1杯ほどはすでに干されているようだ。
オレンジ色のその液体は、一見オレンジジュースに見えた。

「……、これはどうしたんです。」
「これ? 今の人たちが、奢りだってオレンジジュースを…、でもなんだか味が違うんだよね。」

祥太郎はすでに真っ赤になっている。
直哉は無言で取り上げて鼻を近づけた。甘い匂いに混じって、きつくウオッカの匂いがする。飲みやすいのに、アルコール度の高いことで知られるカクテルだ。

「スクリュー・ドライバーじゃないですか! いまどきこんなのに引っかかるなんて!」
「なに? お酒なの? 大丈夫、僕案外お酒強いから。」

こんな自己申告は当てにならない。どうせ、甘酒何杯飲んでも大丈夫とか言う程度に決まっている。

「先…いや、もう満足したでしょう。そろそろ帰りましょうか。」
「えー、もう? 直哉くん踊らないの? 僕、直哉くんのイカしたダンスが見られるって期待してたのに。」
「…まあチークなら踊らないこともないですが、最近はめったに踊りませんよ。キングはそうそう簡単にパンピーには混じらないんです。」

やけくそになって自らそう言った。祥太郎は大きな目をぱしぱしと瞬いて首を傾げた。珍しく直哉の言葉を信用していないらしい。

「ん…まあそれはいいんだけど、僕さっきからあれが気になってて。」

ごく軽い言葉で躱されてふて腐れた直哉だったが、祥太郎が指差す先を見て眉を潜めた。
祥太郎が気になっているのは、例の男だった。
今日はおとなしくVIP席を諦めてくれたらしい男は、だがフロアを一瞥できる上等な席に大きくスペースを取ってふんぞり返っていた。
あたりには取り巻きらしい男女が数人。その中に、いかにも彼らには似つかわしくない素朴な感じの少女が混じっている。

「あの女の子…嫌がってるよね。」

男の腕に抱きこまれた少女はいかにも恐々と肩を竦め、しきりに首を振っては拒否を示している。
だが、周りをいかつい男たちに囲まれて、どうにも自力では脱出できないでいるようだった。

直哉は目を細めて彼らを観察した。確かに少女は地味な感じで、彼らにはそぐわない。だが、よく見るとなかなか綺麗な顔立ちの少女だ。
彼らは場慣れしていない少女を引っ掛けて、どうにかしようとしているようだった。
関係ない。直哉はそう判断した。
彼女だってまったく拉致されてきたわけでもあるまいし、あんな奴らとつるむには、それなりの背景があるはずだ。
うっかり助け舟を出して大きなお世話などと凄まれるのでは割に合わない。また、そういう子が多いのも事実なのだ。
大人になった証に、垢抜けた証に、自ら危険に飛び込みたがる、まるで火にたかる虫のような少女ら。

「…問題ないでしょう。」

直哉はぶっきらぼうにそう言った。隣に座っていた祥太郎がぴくっと震えた。

「あれは彼女も承知で誘われたんでしょう。よくいるんです。怖そうな人が好きって言う子が。だから、あなたが気にすることはありませんよ。」

祥太郎は大きな目を見開いた。そうしてからぎゅっと眉を潜める。
童顔の祥太郎がそんなことをしても、はなはだ迫力に欠ける。だが、ひらめく眼差しは怖いくらい真剣だ。

「本気で言ってるの、それ。」

祥太郎は低い声を出した。珍しいその声に、直哉はちょっと驚いた。

「僕は、あんまりうるさいことは言いたくないんだ。夏休みだし、自分が5年前何をしてきたか、どんなことを思っていたか、まだ鮮明に覚えているから。君が今飲んでいるのがアルコールだって言う事も、ここにいる子のほぼ全員が未成年で、こんな時間まで遊び歩いてるのは問題だって言うのも分かってる。
でも、遊びたいよね。お酒だって何だって試してみたいよね。そうしてみんな成長していくんだ。
自分で体験しなくちゃ、これは駄目、あれは駄目って納得できないよね。だからそんなに目くじら立てる事はないと思ってる。そうしていろいろ体験してきた僕らみんな普通に大人になって、普通に生活していけるから。
だけど、自分で体験するのと、人に強制的に体験させられるのとじゃ違うじゃないか。」

言葉を切って唇を噛み締める。思いがけずきつい視線はまるで直哉を責めているようだ。

(…………なんだよ…)

直哉は強い苛立ちを感じる。
いくら未練のない夜の帝王の座とはいっても、あんな奴を目の前にしてすごすご引き下がるのは直哉の本意ではない。それを曲げて見逃すのは、ひとえにここにいる祥太郎を思うからだ。

祥太郎は体力的にも立場的にもこんな場所では弱すぎる。無難に守るには、危険を回避するのが一番早い。
それなのに祥太郎は、直哉を詰るような事を言うのだ。

「ガキみたいな事を言わないで下さい。一体この界隈に、あんな子がどのくらいいると思うんです?
水戸黄門じゃあるまいし、いちいち助けて回ってたら、いくつ身体があっても足りませんよ。そんな無意味な正義感、持たない方がよっぽど身の為だ。
第一、あなたに何ができるって言うんです。自分の身一つ守れやしないくせに。」

祥太郎はぎゅっと眉を寄せた。仁王とまで呼ばれた事もある、直哉のきつい視線にもたじろがない。

「そうだね、確かに僕は…無力だよ。」

そう言いながら、祥太郎は立ち上がった。
直哉は心底呆れていた。同時に、どきどきと胸を躍らせていた。

祥太郎はかつて自分でも申告していた通り、腕力的には無能だろう。
大抵の男より小さな祥太郎は、あの男と比べたら、体重だって半分以下しかないはずだ。

だが、この向うっけの強い視線はどうだろう。
絶対的な不利に立ち向かって尚強く抗う、自分の正義を貫きとおす意志の強い視線。優しくて可愛いだけではない。祥太郎にはこんな顔も隠されている。
これだから、直哉は祥太郎から目を離す事ができないのだ。

「だけど僕は、どうしようもなくお節介焼きなんだね。自分にできる事をしもしないで後悔だけするのは嫌なんだ。
もし僕がこのまま見逃して、あの子に何かあったらどうしようかと思うと、無駄足を踏まされた悔しさよりずっと苦しいよ。
この性格で今まで何回も失敗してきた。これからもきっと失敗するんだと思う。だけど僕は、改めようと思わない。今の生き方、結構気に入っているから。君は…。」

祥太郎は自分の言葉の効果を推し量るように、いったん口を閉ざした。
ちょうど曲が終わったのか、乱舞のための喧燥が一瞬途切れて、フロアを白く浮かび上がらせる。
飲みつけない酒で紅潮しているはずの祥太郎の顔は、嫌に冷静に見えた。

「…大人なんだね、滝君。」

冷たい手でぎゅっと心臓を掴まれた。直哉は確かにそう思った。
祥太郎の視線の中に、自分を蔑む色が混じっている。
それに、どうして祥太郎は自分を直哉とは呼んでくれないのだろう。あの舌ったらずな口調で、纏いつくように呼んでくれる、その甘い声が直哉は大好きだった。

祥太郎はゆっくり直哉に背を向ける。向かう先は、あの少女と男の席だろう。そうしてなにも勝機の見えない戦いに挑んで、祥太郎はどうするつもりなのだろう。
直哉は無意識に手を伸ばしていた。追いすがるように掴んだ手首を、無造作に払われてしまうと、直哉には弁明をする機会も奪われた気分になった。
このまま祥太郎は二度と振り返らず、直哉君とも呼んでくれなくなるのだろうか。

小さな背中が精一杯虚勢を張るように反らされて、あの男たちの傍へ行く。
ああ、最初からそんなに居丈高じゃ駄目だ。そんな奴等には通用しない。直哉はようやく立ち上がった。
目が祥太郎しか追えなくなっている。短い距離の移動に、何回も直哉はあちこちにぶつかった。

「…るせぇんだよ、コラァ!」

突然、胴間声が飛び込んできた。ぼんやりとたゆたっていた直哉の神経が、それでビリッと覚醒した。
祥太郎は、あの男の目の前に立っている。いや、ぶら下げられていた。
案の定、祥太郎より横にも縦にも大きい男は、もしかすると祥太郎なんか片手で引き寄せたのかもしれない。
祥太郎は襟首を鷲掴みにされた情けない格好ながら、健気に背後にあの少女を庇っていた。
たいしたもんだ。直哉は密かに舌を巻く。あんなに唾がしぶくほどの近くに引き寄せられても、祥太郎の目は強気を失ってない。むしろ恫喝する目だ。

「この子は嫌がっているだろう。帰してやりなさい。君みたいないい大人のする事じゃない!」
「すっこんでろよ、痛い目見ねえとわかんないようだな、チビ。」

男は憎々しげに言うと、軽く手を突き放した。それだけで小柄な祥太郎は吹っ飛んでしまう。
騒々しい音がした。祥太郎の身体が、グラスや食器のたくさん乗ったテーブルをなぎ倒したのだ。

「……………!」

直哉は思わず叫びそうになった。
いつのまにか人垣が出来ている。興奮したいだけの無責任な観衆を無理矢理かき分けると、直哉は即席のステージに躍り出る事となってしまった。
ステージの真ん中には祥太郎。突き飛ばされた姿勢のまま尻餅を搗いて、小さく首を振っている。手をついて、慌てて引っ込めた。散乱している食器の破片で手のひらを切ったらしい。
直哉は、祥太郎につかみ掛かろうとしていた青年を突き飛ばした。

「だいじょうぶですか、先生!」

自分で、教師である事を口止めしていた事など、もうとうに念頭になかった。

祥太郎は直哉の顔を認めると、一瞬安堵の表情を見せた。
勢いよく倒れたわりには、大きな怪我はなさそうだ。直哉は安心して肩の力を抜く。だが、直哉を見つめる祥太郎の瞳が見る見る大きく見開かれた。

「危ない!」

直哉は反射的に身体を捻った。左のこめかみがガッと熱くなり、そのまま衝撃は肩に落ちた。
鈍い音と共に、左腕が指先までジンと痺れた。

殴られた。そう思った瞬間、直哉は自分の肩に食い込んでいる棒を握っていた。
リストを効かせ、もぎ取るように捻って立ち上がる。インテリアライトを叩き壊して作った華奢な鉄パイプだが、直哉には十分な武器だ。

「おまえら…、覚悟は出来ているんだろうな。」

左手はまだ痺れている。だが、直哉はその左手を塚尻に添えて、鉄パイプを青眼に構えた。
観衆がどよめいている。直哉がひとたび得物を手にしたら、もう誰にも止められないのを知っているのだ。
十代にして師範代の、直哉の剣術の腕前は、お飾りではない。

直哉はすばやくあたりを見回した。
見物人の輪は、直哉が得物を手にしたとたんに少し広がって、振り回すのに支障はない。さっきの少女は祥太郎の背後に回っている。
徒党を組んでいた奴等のうち、女どもは問題外、残る男のうち、二人はすでに戦意を喪失している。実質的な相手は二人。うち一人は腰も据わってない。十二分に勝てる。

「先生、動かないでくださいよ。」

直哉は囁くように言った。いつもとは声の質まで違っていることが自分でもわかる。
背後の祥太郎がびくりと竦んだ。

「おそらく、野次馬の中に奴の息のかかったものがいるはずです。それだけ注意して、絶対に余計な動きをしないでください。巻き込んじまいますからね。」

左手の痺れが少し取れてきた。正面のへっぴり腰が、泣き出しそうなため息を吐くと、踊りかかってきた。難なく交わし、喉元に鋭い突き一つ。あっという間に昏倒する。これで残るは、例の男だけ。

「やろう…、ふざけやがって…。」

男の視線が流れる。思ったとおり、伏兵がいるらしい。
瞬時に背後の気配を探る。殺気は3つ。まずいな。直哉は舌打ちする。思ったより数が多い。同時にかかられたら不利だ。
男はセカンドバッグを大事そうに抱えている。あの中に見られては困るものが隠されているのだろう。あれさえ押さえることができれば、形勢はどうにでも逆転できるはずだ。

「今夜はこいつだけだ。住園はいねえ。…やっちまえ!」

男は叫ぶと殴りかかってきた。同時に背後の殺気が動く。
直哉は大きく踏み込んだ。正面を打ち据え、返す刀で右から踊りかかってきた奴をのす。ゴギッと重い音がして二人が倒れたが、手にしていた獲物がはじかれてしまう。やはり左肩に受けた打撃が大きく響いている。

「棒が離れた! 今だ!」

大きな動きで男がビール瓶を振り上げる。直哉はとっさに腕で頭上を庇った。直哉の腕が男の手首をはじく。男の手を離れた瓶は、床で粉々に砕け散った。そのまま踏み込んでみぞおちに鋭いボディブロー。
ぐったりした男の腕から零れたセカンドバッグを拾い上げる。

「直哉君!」

祥太郎の鋭い叫びが聞こえた。最後の一人がイスを振り上げたのだ。屈んだ直哉はまるで無防備に見えたのだろう。
だが、直哉にはその動きまで読めていた。ちらりと背後を確認し、右足を後方に蹴り上げる。直哉の長い足が目にもとまらぬ速さで伸びると、男の鼻面に綺麗に踵がめり込んだ。

鼻血を吹き上げて失神する男を冷たい目で見やって、直哉はスーツの乱れを正した。5人を倒すのに、2分とかからない。
直哉の武器は剣術だけではない。ありとあらゆる格闘技や護身術も身に付けている。それらをすばやく切り替え、また実戦に際した使い方をできることが、直哉と雪紀の一番の強みだった。

今ごろ騒ぎを聞きつけたような顔で、支配人がやってくる。直哉は彼に、拾い上げたセカンドバッグを放った。手触りから中に何が入っているかは分かる。

「始末を頼む。」
「ありがとうございます。どうぞ出口はこちらを…。」

慇懃なしぐさで裏口をさす。まもなく警察が来るのだろう。そのバッグに入っているおそらく注射器と白い粉末を、彼がどう使うかは彼次第だ。

「立てますか、先生。」

祥太郎は、直哉の奮戦に驚いたのか、大きく目を見開いて硬直していた。だが、手を差し出されるとびくっと竦みあがり、それから大きく首を振った。
直哉は顔色を変えた。大きな怪我はなさそうだと、祥太郎のことは後回しにしてしまったが、何か立ち上がれないような怪我を負わせてしまったのだろうか。

抱き上げてしまおうと腕を伸ばすと、祥太郎はさらに焦って腕までぶんぶん振った。

「わあっ、そうじゃなくて、………パンツが小さかったから…その…。」

消え入りそうな声で、裂けちゃったと言う。直哉がその言葉を嚥下するのに少しばかり時間が要った。
身ごろの狭いティーン用の洋服は、こんなところで音を上げたらしい。祥太郎の動きについて来れずに、ぱっくり裂けて下着が丸出しになってしまったというのだ。

あまりの情けない回答に、直哉はがっくり肩を落として上着を脱いだ。それを目隠し代わりに祥太郎の肩に着せ掛けてやる。

「ありがとう……て、そんなことはどうでもよくて!」

祥太郎は細い腕を伸ばした。指先がこめかみに触れると、ピリッと痛みが走り、思わず直哉は小さく声をあげていた。

「血が…出てる。」

祥太郎の声が僅かに震えている。
直哉はようやく、最初の一撃がこめかみを掠めたことを思い出した。
しかしたいした傷ではない。危うく身を捻ったので、傷は打撃による裂傷ではなく、擦過傷だ。すぐ治る。

出入り口のほうから喧騒が聞こえる。どうやら警察が到着して、入り口で黒服ともめているようだ。
直哉は祥太郎を抱えるようにして立ち上がらせると、その場で立ちすくんでいる者たちを一瞥した。
ついさっきまで踊りに興じ、喧嘩とあれば物見高いギャラリーに変化する無責任な徒党。彼らは直哉を畏怖の目で見ている。
未練のなかったはずのボスの座に、直哉はまた返り咲いてしまったようだ。

面倒くさくなって、直哉は祥太郎を引きずるようにして裏口へ向かった。
畏敬の声が、僅かながらあとを追ってきた。



街灯の下で見ても、祥太郎の顔は真っ赤だった。
祥太郎は少し進むと、蹲ってしまった。直哉は仕方なく足を止めた。祥太郎が酔って歩けないのかと思ったのだ。
だが、背中をさすろうと屈むと、急に腕が伸びてきて、襟首をとられた。
祥太郎は何か憤っているようだった。

「なんて無茶するんだよ、君は…っ!」

大きな目が酒で潤んでいる。それはこっちのセリフだと、言いかけた言葉を、直哉は飲み込んだ。

「あんな大勢の中に飛び込んでいって喧嘩だなんて…っ。こんな、怪我までして…っ。」
「先生こそ…。」

直哉はむっとして言い返した。
元はといえば、祥太郎が向こう見ずにもあんな連中に、真正面から直談判しに行ったのが悪いのだ。

「僕は一応教師で大人なんだから、僕のことなんかほっといてくれればいいんだ。君は君のことだけ心配してればいいんだよ!」

叩きつけるような祥太郎の口調に、直哉はぶちんとどこかが一つぶちきれる音を聞いた。
自分は祥太郎を守りたいだけだったのだ。こんなふうに怒鳴られる筋合いはない。

「帰ろうって言ったのを聞かなかったのは、あんたじゃないか!」

大声を張り上げると、祥太郎が竦んだ。

「俺はあんただけが大事なんだ。あんたを守ることが最優先なんだ。
目の前で大好きな子をボコにされて、黙ってられるほど、俺は大人じゃないんだよ!」

言ってしまってからはっとした。今まで故意に直接的な表現を避けてきたのに、思わず大声で好きだなどとわめいてしまった。
思ったとおり、祥太郎は固まっている。
教師としての自負の大きい祥太郎だ。直接的な告白は、決してプラスにはならないだろう。
祥太郎の細い腕が伸びてきて、再び直哉は襟首を取られていた。

祥太郎の顔色がさらに赤くなっている。直哉はおやと息を飲んだ。
もしかしてこの反応は…、祥太郎に好印象を与えたのだろうか?

「大好きな子って、直哉くん、大好きな…子って、子ってどういうこと? 子って?」

は? 直哉は思わず眉を潜めてしまう。

「いくら僕がちっちゃいからって、子ってどういうこと? ねえ!」

そこかい! 思わず直哉は項垂れてしまう。祥太郎はといえば、涙を流さんばかりだ。

「仮にも先生に向かって子だなんて! 直哉くんってば、ねえ!」
「…たく、この酔っ払いが!」

直哉はやけくそになって叫んだ。
祥太郎はまだ直哉の襟首あたりを引っ張っている。非力だからなんの支障もない。

それでも直哉は、祥太郎が再び自分のことを直哉くんと呼んでくれていることにひたすら安堵していた。
今日のところはのれんに腕押しだったが、それでもプラスマイナスゼロだろう。



祥太郎は鋼鉄の扉に静かに背中を預けた。コンクリートを叩く踵の音が、エレベーターホールの方へ消えていく。
直哉はいいと言うのに、わざわざ自宅前まで祥太郎を送ってくれて、お茶も飲まずに引き上げていった。

祥太郎は自分の火照った頬を押さえる。
いつも少しのアルコールで真っ赤になってしまう祥太郎だが、意識があやふやになってしまうことなどない。
今日のこともすべて鮮明に覚えている。だが、直哉はそうは取らなかったようだ。
直哉の中では、祥太郎はべろべろの酔っ払いだったろう。

肩に引っかけただけの直哉の上着がずれる。祥太郎には大きすぎて、腰も指もすっかり隠れてしまう上着。
かすかに直哉の残り香がする。それを祥太郎はそっと押さえた。

「大好きな子…か。」

直哉の顔は、恐いくらい真剣だった。

とっさに躱した一言に、直哉は少し傷ついた顔をしていた。思い出すと胸がちくりと痛む。
祥太郎は冷たいたたきにしゃがみこんで、玄関のタイルの目地をじっと眺めていた。



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