再び桜の季節




「うー、まだアルコールが抜けねえ…。」
「腹ぺこの所に酒ばっかがんがんぶち込んで際限なく踊り捲るからだ。バカタレ。」
「………っせーな。前にやった大立ち回りが伝説になってて、貢ぎ酒が来まくるんだからしゃーねーだろ。勧められた酒を、帝王が断れるか。」
「祥太郎先生の前じゃ猫被ってるくせに、いったん先生の目が離れるとこれだもんな。」
「…やな事思いださすな。」
「ああ、そうだっけ。よりにもよって愛しい祥太郎先生の目の前でその大立ち回りをやらかして、挙げ句の果て先生に怒られたんだっけ。号泣付きで。」
「………号泣は付いてない。」

雪紀はふてくされた直哉の答えに小気味よさそうに笑った。

ここは雪紀の根城であるマンションだ。勉強部屋にと確保したはずのこの部屋は、しばしば直哉や天音たちの溜まり場となり、あるいは恋人と甘い一夜を過ごすベッドルームとなる。

雪紀と直哉の二人は、昨夜久しぶりに行き付けのクラブに揃って顔を出した。二人が各々単独で顔を出していたのを数に入れれば、決してそんなに長い不在ではないのだが、帝王二人の揃い踏みという情報は、夜の町をすばやく駆け巡った。
ご挨拶、という名目でたくさんの見物人が入れ替わり立ち代わり顔を出した。その度に振る舞われる酒をやけくそ気味に干していた直哉は、途中からフロアに降りて、面倒くさい挨拶を雪紀に押し付けたつもりだった。
だが、フロアには滅多に帝王に近寄れない若い子たちがうようよしていて、反って直哉は身動きが取れなくなったのを知ったのだった。

「ちっ。安化粧品の匂いが落ちねえ。どいつもこいつもギトギトした顔してやがって。」
「ふん、一昔前のおまえなら、2〜3人選んでおいしくお持ち帰りだったんじゃないのか。いやに品行方正になっちゃって。」
「そういうおまえはどうなんだよ。あの中に、お持ち帰りしたいような可愛いのがいたか?」
「冗談。咲良に敵うようなのがそうそういるわけない。」
「俺だって同じだ。」

直哉は眉間に深い皺を寄せて、紫煙を吐いた。久しぶりに吸うからか、あまり煙草もうまくない。

「ちぃ、くそ。健全な生活送ってるから、ヤニまでうまくないぜ。」
「そういや禁煙したのか? おまえが吸ってるの、久しぶりに見る気がするな。」
「…祥先生が悲しい顔すんだよ。二十歳過ぎるまで吸うなって。あんな顔で成長しなくなっちゃうよ、なんて言われちゃあ…。」
「ぶっ、ヤニなんか吸った事もなさそうな祥太郎先生に、成長で文句言われるほど、おまえはチビかよ。」
「いちいちうるせー! そういうおまえだって最近全然吸ってねえじゃないか。」
「………咲良が、歯の黄色い奴は嫌いだって言うんだよ。」
「……俺と変わらないじゃねーか。」

思わず二人は顔を見合わせてため息を吐いた。それぞれの可愛い想い人は、意外にも二人の中で結構幅を利かせているようだ。

「偉そうな事言ってて、結構尻に敷かれてるんじゃないのか。生徒会長サマ。」
「誰が。そういうおまえこそ、たった一人の篭絡に、1年も掛けるんじゃねえよ。」
「……………。」

思わず直哉は口をつぐんでしまう。
雪紀と直哉が帝王と呼ばれるのは、彼らの腕っ節の強さのためだけではない。いろいろな意味で帝王の二人には、かつては落とせない相手など、老若男女を問わずいなかった。
その直哉が祥太郎一人にてこずるようになってすでに1年。生徒会の面々には、もう直哉の奮闘などあますところなく伝わってしまっている。気が付かないのは祥太郎一人かもしれない。

「俺はなあっ…。」
「はいはい、祥太郎先生が大事なんだろ。耳たこだよ。」

小指の先でうるさそうに耳を穿られて、直哉は憮然とする。
祥太郎が意のままにならなくて、一番忌々しいのは他でもない自分なのだ。

「それだけじゃない。俺は本気なんだ。…おまえ本気の恋をした事ないんだろ。だからそんなに飄々としてられるんだ。」
「ふざけんな。俺は咲良には本気だぞ。」
「付き合うようになってから本気になったんだろ。俺は最初から本気なんだ。祥太郎先生以外目に入らないんだ。そんな相手に、勝算も見られないうちから当たって砕けるような真似が出来るかよ。」
「はあん…。」

雪紀は真顔になった。いつも手が早かったはずの親友が今回に限ってぐずぐずしているわけがやっと分かった気がした。

「力で押して、振られちゃったら立ち直れない…か。」
「………そうだよ。」

珍しく、素直で気弱な返事が返ってきて、雪紀は少し微笑ましくなる。
本当に、この親友はこの1年、自分が見た事もないような地道な努力を重ねてきたのだ。いつも会ったその日のうちに最後までのコースをこなして、次の日には別れ話を持ち掛けていた淡白な彼とは別人のようだった。

「それにしたって、1年は長いよなあ…。おまえより、奴の方がもっと可哀相だぜ。」
「奴って誰だよ。」
「決まってるじゃん。おまえの大事なムスコだ…よっ。」
「ぎゃ!」

午前様で転がり込んできて、シャワーを浴びただけで雑魚寝してしまった雪紀と直哉だ。寝間着に着替えるなんてまどろっこしい事はしていない。
ボクサーパンツを纏っただけの無防備な姿で転がっていた所を、いきなり雪紀に股間を鷲掴みにされて、直哉は思わず間抜けな悲鳴を上げた。

「立派な持ち物が唯のお荷物になっちゃってまあ…。」
「ふざけんな! 手ェ放せ! 揉むな大バカ!」
直哉はドタバタとのた打ち回りながら、必死に反撃の機会を狙っていた。
子供の頃にはこんなふざけっこも数限りなくしたが、お互いに恋人を持つような年齢になってまで、こんな悪ふざけをされるとは思っていなかった。
いつも取り澄ました生徒会長が、実はこんなガキ大将みたいな奴だと知っているのはどのくらいいるだろう。恐らく彼の恋人である咲良も知らないに違いない。
そのくらい、ひとたび制服を着込めば、見栄っ張りの雪紀は真面目でストイック風な生徒会長だった。

「こぉんの野郎…。」
「わ、わ、待った直哉、俺が悪かった。タンマタンマタンマ!!」
「タンマ無し!」

半身を捻って雪紀の足を捕まえた直哉は、腹筋だけで身を起こすと逆に雪紀をひっくり返した。暴れまわる両足を捕まえて、膝のところで両脇に抱え込む。
剣道も空手も他の武道も、幼い頃から競い合うようにして習得していった二人だ。実力の拮抗したお互いの存在が、より互いを高めあった事は、二人とも十分に承知だ。
これがどちらか一方だけだったら、今の二人は存在しないに違いない。
お互いの実力は良く知っている二人だし、原因もないので真剣に遣り合った事はない。もしそのような事態が起こったとすれば、勝負が付かないのは目に見えている。
それでもこんな肉弾戦ともなれば、雪紀より僅かながら余計に成長した直哉の方に分があった。

直哉は、雪紀の両足をしっかり抱え込んだまま立ち上がった。両足をVの字に開いた雪紀は、引っ張り上げられて肩で倒立させられてしまう。
直哉はその雪紀の開かれた股間に足をどっかと乗せた。

「くらえ! 必殺電気アンマ!」

足の下のぐにゃりとした物体を押しつぶすようにしてシビビビビビビ…と振動を与えてやる。
起き上がれない雪紀は上半身を捻って空しくフローリングをバンバン叩いた。

「だあぁぁっ、よせっ直哉っ!
のわあぁあぁあぁあぁあぁあアゥン♪」
「気色悪い声を出すなー!」
「だったらやめー!」
「失礼いたします。」

突然響いた渋い低音に、二人は思わずそのままの姿勢で硬直した。
部屋の入り口に立ったスーツ姿の男が、額に青筋を浮かべてぅおほん、と咳払いをした。

「………さ。」
「佐伯………。」

佐伯は、パンツ一丁の情けない姿でプロレスごっこに興じている二人をじろりと睨み、すたすたと室内に入ってきた。
大男二人の悪ふざけの振動で、今にもテーブルから落ちそうになっていたティーセットを救出する。昨日、二人がクラブに出かける前に使ってそのままになっていた華奢な陶器を、チリンと鳴らしもせずに重ねていった。

「直哉さん、これは奥さま秘蔵のコペンハーゲンを、若が勝手に持ち出されたものです。灰皿代わりに使わないでください。大体、食器に吸殻を突っ込むとは、なんと言う無作法な。」
「……………はい。」
「若。おふざけもほどほどになさいませ。住園家の次期当主たるお方が情けない。そのはしたないお姿を、メールで咲良君にお送りいたしましょうか。」
「……………いえ。」
「お二人とも、ご自身のご年齢をお考えになってお慎みあそばされよ。もし佐伯の言うことが分からないと仰るのであれば、それ相応のご年齢と判断申し上げて、昔のとおりに佐伯も対処する用意がございます。よろしいですね。」
「「……………はい。」」

二人は慌てて居住まいをただし、首を竦めた。
かつての雪紀の教育係であり、現在のお目付け役である佐伯とは、直哉も縁が深い。昔はふたりのやんちゃをよく一絡げに叱られたものだ。
武道の心得も、そもそもこの佐伯から伝授されたものとあっては、体力的にも精神的にも、どうしても彼には頭の上がらない二人だった。

明らかに不機嫌な佐伯を、息を殺して見送って、二人はようやく肩の力を抜いた。

「……いつのまに来たんだ? 足音もたてねえで、猫みたいな奴…。」
「…相変わらずこえーなー、おまえの守り役は…。」
「おまえが馬鹿みたいな悪ふざけするからだ!」
「乗ったくせに! だいたい仕掛けたのはおまえだろ!」

思わず声が高くなりかかった二人だが、漏れ聞こえた咳払いで慌ててお互いの口を押さえて押し黙る。
子供時代からつるんでいた二人だったが、二人だからこそ大きく羽目を外すと、いつも佐伯が鬼のような顔をしてすっ飛んできた。襟首を掴まれて引き上げられると、当時の彼らは手も足も出なかった。
そうして佐伯は両手に荷物のように雪紀と直哉をぶら下げて関係者各位に頭を下げて回ったが、二人にとって怖いのは、その後だった。

佐伯に掴まってしまうと、逃げる事などできない。どうベルトを掴んで抵抗しても、つるりと裸の尻にひん剥かれ、佐伯の堅くしまった正座の膝の上にうつ伏せに押さえつけられてしまう。
佐伯の手は大きくて硬くて、しかも手首には武道家らしい十分なスナップも利いていて、5発も尻をはたかれると、たいてい泣きが入った。
そんな赤ん坊にするような尻叩きを、中学生になってもやられていたなどとは、誰にも口が裂けても言えない二人だった。
そして佐伯は、きっと今でも必要があると思えばそれを繰り返すだろう。佐伯というのはそういう男なのだ。

「…さすがにこの年でお尻ペンペンは避けたいよな…。」
「この年…か。佐伯の言うのももっともだけどな。」

二人はため息を吐いて、とりあえず脱ぎ散らかしてあった洋服を着る。
空調完備のこの部屋だから暑い寒いはないが、いつまでもパンツ一丁でいると、また佐伯の逆鱗に触れかねない。

「…分かってるんだろうな、直哉。先生を落とすんなら、急がないと駄目だぞ。」
「分かってる。あと1年だって言うんだろ。」

直哉は小うるさい忠告に、眉間に皺を寄せた。だが、雪紀はほんの少し口をひん曲げ、直哉に聞こえないような小声で呟いた。

「それだけじゃないって。」

直哉たちは、明日から3年生になるのだ。



今年は桜が早かったから、始業式までにはあらかた散ってしまった。生徒会室の窓から見える見事な桜並木を密かに楽しみにしていた直哉は、少しがっかりした。

生徒会室には、いつもと変わらない面々が揃っている。カノンが欠けて瑞樹だけは少し淋しそうだが、他は相変わらず元気そうだ。
新学年に進めば、また生徒総会から選挙を経て、生徒会も新役員を選出する。だが、当代のカリスマ会長とその一行という事であれば、わざわざ選挙など必要ないようだった。

「…というわけで、今年一年も、よろしく頼む。」

雪紀が涼しい目をして言う。珍しく生徒会長らしい振る舞いをしている彼にも、じきに控えた選挙の事などなんの杞憂にもならないようだった。

直哉は、神妙な顔つきのみんなをぐるりと見渡す。
特に頬を染めて雪紀の雄姿をぽうっと眺めている咲良を見やり、昨日の顛末を聞かせたら、彼はどんな顔をするだろうと考えてみる。それでもこの一途な下級生は、雪紀への思慕を募らせるだけだろう。

そう言えば、この子犬みたいな下級生たちも2年生になったのだ。後輩を持つようになったのだから、いつまでも生徒会のペット代わりでは可哀相だろう。
そんな事を思っていると、子犬の片割れが元気良く手を挙げた。さっきまでうっとりしているばかりだと思っていた咲良だ。

「会長! 新一年生が入ってきますけど、生徒会にも新しい子入れる予定あるんですか?」

期待に満ちた顔だ。特に決まったクラブ活動をしていない咲良にとっては、ここ生徒会が唯一、後輩を得られる場所だ。楽しみで仕方ないのだろう。
だが、直哉はその質問を聞いてぎゅっと眉を寄せた。反対に、雪紀はなんだかにやりと楽しそうな顔になる。

「そうだなあ、特に募集する予定もないけど、隼人が興味津々だったな。」
「隼人といえば…直哉の弟じゃありませんか。」

幼稚園から持ち上がりの天音には、馴染みの名前なのだろう。天音は直哉の方をちらりと見て、かすかに笑った。

「あの子がくるんじゃ、直哉は穏やかじゃありませんね。」
「えっ、なんで? 弟さんがくるのに嬉しくないんですか?」

咲良がびっくりしたように言う。後輩と同じぐらい弟にも憧れを持っている一人っ子の咲良には、天音の言葉は信じがたいのだろう。

「直哉センパイ薄情! 弟さんが可愛くないの?」
「………誰もそんなこと言ってやしないだろうが。」
そう、実際隼人は、実に可愛い弟なのだ。可愛すぎて手に余るほど。

隼人は2つ年上の直哉にとても懐いている。懐きすぎて、もはや崇拝していると言えるほどだ。
服装、趣味から食べ物の好みまで、ことごとく直哉を真似し、追従する。子供のころ、忙しすぎた両親の変わりによく構ってくれた直哉に恩返しをするように。
だが、直哉が隼人の理想であることは、思わぬ弊害をもたらした。
隼人基準で直哉に不釣合いだと思うものはことごとく排除しようとするのだ。それが直哉の好むと好まざるとに関わらず。
実際、いい感じになった女の子との間を何度も隼人に遮られた。子供らしい一途さで仕掛ける嫌がらせや明確な悪意は、時に苛烈で、年上の子をマジ泣きさせることも珍しくない。
お決まりの文句は、「あんなやつ、兄ちゃんにふさわしくない!」だった。

そしておそらく祥太郎は、隼人基準から外れている。

直哉はそっと祥太郎を見た。窓際に寄りかかった祥太郎は、春の日差しに少し背を丸め、眠そうに目を細めていた。
今日は真新しいクリーム色のV襟のセーターを上着代わりに着ている。その下から覗く臙脂のネクタイがなんだか学生染みて、祥太郎をますます幼く見せていた。

「直哉君には弟がいるんだ。そうだね、直哉君ってお兄ちゃん気質だよね〜。」

祥太郎は直哉の視線に気付くと、にっこり笑いながらそんなことを言う。
今まで1年間かけて祥太郎の気に入られようと色々手を出してきたのを、お兄ちゃん気質の一言で片付けられた気がして、直哉は軽くため息をついた。

「でもそうか、新1年生か。明日の入学式で会えるね。なんか楽しみ〜。」
「会えるって言っても…。」

幼稚園から大学まで一環教育が売りの白鳳学園は、幼稚園、小学校、中学校までがひとかたまりになって少しはなれた場所に校舎を持っている。だから去年赴任してきた祥太郎は、白鳳学園中等部の学生の姿を今まで見たことがないだろう。
中学から高校へと進むときには外部からの進学者も増えて、中学の生徒数のおよそ倍の人数が高校へ入学してくる。その中から直哉の弟一人を探すのは、いかにも大変そうだった。

「うん、僕ねえ、今年から1年の副担任を任せてもらえることになったんだ。だからどこかで必ず会えるよ。」
「副担任…。」
「あっ、でも、生徒会の顧問も続けさせてもらえることになったから、こっちもよろしくね。」

ぺっこん、と頭を下げる。咲良と瑞樹が慌てて同じく頭を下げ、天音がパチパチと拍手をした。

「副担任か…。」

直哉はなんだか嫌な予感を隠せない。
副担任と言えば、クラスを一つ受け持つわけでもなく、生徒に接するには今までとさして変わらないだろう。
春半ばの3年生の修学旅行には、引率の一人として祥太郎がついてくることも決まっていて、これはもう変わらない。だから、直哉にとっては今まで以上に祥太郎に接するチャンスは増えるはずなのだ。
だが、嫌な予感ほど良く当たるものだと言う。

「じゃあ、今日は挨拶だけ。この辺でそろそろ解散しよう。」
「あ、もう終わり? よかった、長くなるようなら抜けさせてもらおうと思ってたんだ。」

祥太郎は嬉しそうにそういうと、直哉のほうへ近づいてきた。首を傾げるようにしてにっこり笑う。

「直哉君、今日これから空いてる? ちょっと付き合って欲しいんだけど。」
「デートのおさそい?」

咲良と瑞樹がぴょんと首を伸ばした。天音や慎吾まで興味津々でこちらを伺っている。

「やだなあ、デートなんかじゃないよ。買い物に行こうと思っているんだけど…。」

やっぱりデートっぽい。直哉は内心ドキドキしながら頷いた。特に予定はないが、仮にあったとしても、祥太郎に誘われて断る直哉じゃないのだ。
だけど、次の祥太郎の一言で、直哉はなんともいえない複雑な気分になった。

「瓜生が、直哉君に会いたいって言ってるんだ。」



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