暖かい鍵




「先生っ、大丈夫ですかっ!」

靴を脱ぐのももどかしげに上がり込んだ直哉は、祥太郎の顔を認めるなりぎゅっと腕を掴んだ。まるで祥太郎が、支えがなければ立っていられないとでも思っているようだ。
対して祥太郎はといえば、背中側全面打撲傷である。当然腕もその例外ではない。直哉の大きな手は、祥太郎の二の腕を簡単に掴みきった。

「いいいいっ! 痛い痛いってば、直哉君!」
「あっ!」

直哉は驚いた顔でぱっと手を放した。だがすぐにまた手を伸ばす。今度は優しく、鳥の雛でも包むような仕草で祥太郎の肩を掴んだ。

「すみません。大丈夫ですか。寝てなくていいんですか。
先生が怪我されたって聞いて、俺…。」

直哉の真剣な目が近づいてきて、思わず祥太郎は後ずさった。

「そ、そんな心配してくれなくても…、こんなの…。」

祥太郎は言いかけた言葉を飲み込んだ。
うっかり口癖の「嘗めておけば治る」なんて事を口走ると、全身嘗め回されそうだ。

直哉は、祥太郎の様子が自分が想像していたよりだいぶ元気そうなのを知って安心したのか、ひとつため息をついた。
それから、さっきから直哉の後方でふてくされたようにそっぽを向いている隼人の腕をぐっと引っ張った。

「こいつがとんでもないことをしてどうもすみません。詫びを入れさせようと思って引っ張ってきたんです。おい、隼人。こっち来て先生に謝れよ。」
「そんな、詫びだなんて…。」

言いかけた祥太郎は、引きずり出された隼人の顔を見て、思わずあっと小さく声を上げた。
隼人の左目の回りは、見事なくらい綺麗な青痣になっていた。

「ちょ、ちょっとこれ、…どうしたの? ねえ、隼人君。」
「隼人。」

しかめっ面で口を噤んでいた隼人だったが、直哉に肘で突っつかれて観念したようにぼそぼそと呟いた。

「兄ちゃんにぶん殴られた。」
「え…っ、またどうして…?」
「先生をぶっ飛ばしちゃったって言ったら、瞬殺でパンチが飛んできた。」
「当たり前だ。こないだも言っただろう。これ以上先生に手を出したらぶん殴るって。」
「だからって…。ああ、あー…、あー…、腫れちゃって可哀想に…。」
「……………先生。」

直哉が不機嫌そうにぼそりと呟く。それでようやく、祥太郎は我に帰った。
隼人がたじたじと腰を引いている。祥太郎は隼人に抱きつくように両手を差し伸べて、隼人の顔を撫でまわしている自分に気がついた。
これではまるで、隼人にキスをねだっているようではないか。

「あっ、ごめ…っ、いてて…。」

慌てて腕を引くと鈍い痛みがかけ上がってくる。思わずわき腹に手をやると、直哉がはじかれたように反応した。

「先生! 大丈夫ですか! 隼人!」
「なんだよ! 今のは俺は何にもしてない!」
「だ、大丈夫だから揉めないで…いてて。」

マンションの狭い玄関先で、こんな大きな男の子二人に揉められると困る。祥太郎は苦笑いをしながら二人を止めた。

「と、とりあえず、あがって。先客がいるけれど。隼人君とはお友達だからいいよね。」
「先客…?」

直哉がまた不機嫌そうな声をだす。そう言えば直哉はずいぶんと独占欲の強い子だったかと思いながら、祥太郎は室内へ二人を招いた。
リビングまで戻ると、白雪が首を伸ばすようにして祥太郎を待っていた。玄関での悶着が聞こえたのだろう。心配そうな表情だ。

「先生、どなたが…あっ!」
「うわっ、白雪っ! おまえなんでこんなところにいるんだ!」

白雪と隼人は、目が合ったとたんにお互いに驚いたような声を出してのけぞった。
先ほどからようやく落ちついて、もとの色白に戻りつつあった白雪の顔が、また火を吹くように、一気に赤く染まった。にわかに落ちつきをなくして、逃げ場を探すようにおどおどとなる。

「ああ、白雪くんはねえ、心配して来てくれたんだよ。」
「べっ、べつに俺はっ、隼人の心配なんかしていませんっ!」
「へ? 僕の心配して来てくれたんじゃなかったの?」
「うあっ!」

語るに落ちるとはこのことだろう。思わず返した祥太郎の一言に、白雪は慌てふためいて口を押さえた。もはや首筋まで真っ赤だ。

「しっ…、失礼しますっ!」

白雪は一人でしばらくじたばたともがいていたが、どうしても弁解の手段を見つけられなかったらしい。真っ赤に顔を火照らせたまま、3人の脇をすり抜けるようにして駆け出していった。まさしく脱兎の勢いだ。

「なんだ、あいつ?」

直哉が不思議そうに呟き、隼人が少し顔を赤らめて目を逸らす。
祥太郎は思わず吹き出しそうになった。図体ばかり大きくても、隼人もなかなか可愛いところもあるようだ。

直哉は案内もしないのにソファーの傍に近寄って、出してあった茶碗の中身を覗き込んだ。

「なんだ、これ? もしかして日本茶ですか? どれだけ葉っぱ入れたんです。底が見えないじゃないですか。」
「んもー、いきなりお説教…。」
祥太郎はため息を付きながらも、いつも通りの直哉の様子に少し安心していた。きょうは色々なことがあって、思ったよりずっと疲弊している自分に気が付いた。

「とりあえず座って。聞きたいこともあるし、いまお茶入れるから…。」
「祥先生こそ座ってて下さい。俺がやります。こんな漢方薬みたいなお茶、ご馳走されたって飲めません。」

言葉はつっけんどんだが、優しい仕草で祥太郎を座らせると、直哉はみずからキッチンに立った。祥太郎はその後ろ姿を、感心して眺めていた。
前にテレビの座談会か何かで、男性のキッチンに立つ後ろ姿が色っぽいと、中堅女優が言っていたのを思い出す。
きっとあの女優は、直哉みたいな後ろ姿を想定して言ったのだろう。自分なんかの後ろ姿では到底女優を惑わすことなど出来ないが、直哉のすらりとしたそれなら、いくらでも可能だろう。

気が付くと、隼人が所在なげにうろうろしていた。キッチンまで大好きな兄ちゃんの後を追うのも憚られるし、かといって祥太郎の隣に座るのも抵抗があるらしい。
隼人は祥太郎と目が合うと、慌ててそっぽを向いた。

「隼人君、こっちへ来て。ここに座って。」

祥太郎は自分の隣のソファーをポンポン叩いた。隼人はいかにも渋い顔をする。

「いいっす。立ってます。」
「そんな事いわないで。ここは僕んちなんだから、僕の言うことは聞くもんだよ。」

もう一度ポンポン叩くと、隼人はしぶしぶ寄ってきて、なるべく祥太郎と触れないようにソファーの端っこに座った。
まるで人に馴れない動物みたいだ。祥太郎はおかしくなる。

やがてどこから引っ張り出したのか、盆の上に茶碗を3つ並べた直哉が戻ってきて、かしこまって座っている隼人に胡乱な目を向けた。祥太郎のとなりは自分が狙っていたのかもしれない。

「隼人、おまえは床の上に正座。」
「なに言ってるの。僕が座ってってお願いしたんだから、ここでいいの。兄弟喧嘩しないで。」
「別に喧嘩なんかしてない。」

不服そうに答えたのは、意外にも隼人の方だった。

「兄ちゃんが言うことに間違いなんかあるはずないんだ。だから、兄ちゃんが床に座れって言うなら、俺はそうする。」

そうして本当に床の上に正座してしまう。祥太郎はため息を吐いた。

「いいよ、そんなら僕もここに正座しようっと。」
「そんな、先生、ちゃんと座って下さい。」

焦るのは直哉ばかりで、隼人は澄ました顔だ。
床の上に手を伸ばすと、強ばった背中がぎしぎし言った。思い切り顔を顰めたからだろうか、直哉が呆れたように祥太郎の腕を取った。

「分かりましたよ。先生、ソファーに座って下さい。隼人、お前は先生の隣だ。」

祥太郎が腰を下ろすと、隼人も何事もなかったように座る。聞きしに勝る忠犬っぷりだ。



祥太郎は深く息をついた。
横隔膜が広がるたびに、押されてきしむ骨も背中も熱を持っているのが分かる。でもまだ生徒の前ではしゃんとしなければ。祥太郎は散漫になる注意を引き締めた。
直哉と隼人には聞きたいことがたくさんあって、どこから聞けばいいのか迷った。

「そうだね、まず…鍵かな。」

正面のスツールに腰掛けている直哉がぎくりと背中を強張らせる。祥太郎には、直哉が自分のマンションの合いかぎを持っているのがさっぱり分からない。

「どうして君が、うちの鍵を持っているの?」
「それは…その。」

いつも背筋を伸ばして胸を張っている印象の直哉が肩をすぼめた。それを見て、隣の隼人が不満そうに鼻を鳴らしている。

「先生が風邪を引かれて、お見舞いに来た時に…コピーさせてもらったんです。」
「だめだよ直哉君。それはルール違反。」

そう言えば、あのときにはうちの鍵を渡して、買い物に行ってもらったのだったか。恐らくそのときにコピーしたものだろう。
祥太郎は黙って手を差し出した。

「………あのう…。」
「分かってるでしょ。没収。」

直哉は見たこともないくらい小さくなると、しおしおとポケットを探った。
祥太郎は掌に乗せられた鍵を見つめた。
停学を食らった隼人は私服だが、直哉はまだ制服を着たままで、学校を出て自宅に帰ったわけではないらしい。
直哉が肌身はなさず持っていたらしいその小さな鍵は、直哉の体温が移って生暖かかった。

「…ここに住むことになったときに、こんな簡単な施錠の扉、無用心だって瓜生に散々言われたけど…。」

直哉はここを時々訪れる。いつだって手放しで歓迎していたつもりだったが、それでもなお、直哉は確約が欲しかったのだろうか。

祥太郎はため息をついた。今日何度目か分からないため息は、直接あばらに響いた。

「いつも持って歩いていてくれたの…これ?」
「………はい。」

祥太郎は直哉から取り上げた鍵をポケットに押し込むと、代わりにキーホルダーを取り出した。
玄関の鍵から職場のロッカーのまで、ありとあらゆる鍵が下がっている。そこから使い込んだ玄関の鍵を抜いた。

「じゃあ、これはだめだけど、これを上げる。今度から、こんなことはしないでね。」
「え…。」

直哉は渡された鍵を握り締めて、ぽかんと口を開いた。
祥太郎の脳裏をちらりと瓜生の渋い顔が過ぎる。また、無用心過ぎると叱られてしまうだろうか。だが、祥太郎は、直哉が無条件に自分の家を訪れてくれるチャンスを無くしたくない気になっていた。

「じゃ、次ね。直哉君が家に帰らないって隼人君が言っていたけど…。」

繁々と直哉に見つめられるのが気恥ずかしくて、祥太郎は無理やり話題を変えた。



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