千客万来の日




這う這うの体とはまさしくこんな事を言うのだ。祥太郎は情けない気分で玄関の鍵を探りながら思った。
医者には安静にしておけと言われたが、なかなかそんなに簡単には行かなかった。学校に帰ってまず校長室へ向かい、面倒と不手際を詫び、同じ事を職員室でも繰り返した。
無理をして折り辛い腰を折るたび、包帯の奥の骨と背中とがぎしぎし軋んだ。
教師たちはおおむね同情的だった。だが祥太郎は、優しい言葉を掛けられるたび、その言葉に甘んじてはいけない気分になった。
何よりも、隼人一人に貧乏籤を引かせて、自分だけが被害者のような顔をしてはならないと思った。

例の教室にも顔を出してみた。生徒たちは祥太郎の顔を認めると、駆け寄ってきて彼を取り囲んだ。
だがそれは、けっして祥太郎を心配しているわけではなくて、あの大騒ぎの顛末を知りたいだけのようだった。
適当に言葉を濁すと、興味を失った生徒たちは、新しい遊び道具とばかりに、祥太郎の痛む脇腹を突付こうとするのだ。
何度も冗談ごかして逃げながら、祥太郎は似たような悪ふざけを自分たちも散々やったことを思い出した。人の不幸は蜜の味がするのだ。

結局生徒たちは、祥太郎が脂汗を流し出して初めて、本気で痛がっているのだと察してくれ、それでようやく労わってくれただけだった。ついに口の端に隼人の名前も挙がらない。
そんなものなのかなと祥太郎は少し淋しく思う。
確かに隼人は周囲に馴染みにくい子であるには違いない。だが、少なくともクラスメートじゃないか。

「ただいま〜太郎…、あいたたた…。」

ようやく玄関に上がると、愛猫の太郎が擦り寄ってきた。
だが、祥太郎が手を差し出すと、湿布のにおいをかぎつけたのか、にっと短く抗議の声を上げ、尻尾をぴんと立てて威嚇の体制だ。太郎にまで遊ばれた気がして、祥太郎はまたため息をついた。

「は〜、本当に前田先生の予告どおり痛くなってきた…、薬飲まないと…。」

保険医の前田は、何だか妙に嬉しそうな顔で、鎮痛剤の切れる時刻を予告した。

「あの医者は痛み止め1日3回なんて言っていましたがね、この程度の薬なら4時間もすれば効果はなくなって酷い目に合いますよ。」

くやしいがピッタリ予告通りだ。前田は何かと胡散臭い噂も入ってくるが、保険医としての腕はいいのだろう。
肋骨の骨折なんて不条理なものだと思う。聞くだけはこんなに大げさに聞こえる名称なのに、手当てと言えばせいぜい痛み止めの薬とテーピングだけ。他に何のしようもないそうだ。

「はー…、やっぱりもっと、体、鍛えとくべきだった…。」

せめて受け身を取れたら全然違っただろうに。
祥太郎はよろよろとソファーに近づくと、慎重に腰を下ろした。丁寧に丁寧に体重移動をしたのに、力を抜いた途端ぎしりと骨が軋んで、祥太郎はしばし膝の上で握りこぶしを握った。

「ふええ…。スーツ脱がなきゃ…。皺になっちゃう。……あれ?」

上着を取るために肘を後方に反らすことが出来ない。何とか格闘して、ゆとりのあるジャケットは脱いだが、シャツはまったく無理だった。
考えてみれば、これを着る時だって治療を終えた後、看護婦さんに着せ掛けてもらったのだ。こんな時、一人暮らしは本当に恨めしい。

「いいや、もう、このまんま寝る。後は明日…。明日、学校行くの、辛そうだなあ…。」

医者はしばらくおとなしくしていろと言った。しばらくとはどのぐらいだろう。
どっちにしろ祥太郎は、明日も学校を休むつもりはない。教職を選んだ時に、突発休みは取らないことを自分自身に誓ったのだ。それは微力な自分の、最低限の勤めだと思っている。

「お風呂…。」

あったかい湯気の充満する幸せなお風呂を、ほんのり思った。この全身軋む感じも、ぼうっとして熱い感じのする頭も、風呂に浸かれば少しは良くなるのではないのだろうか。
医者は厳禁だと言っていたような気がするが、明日も学校へ行くとなれば、風呂に入らないわけにはいくまい。
祥太郎はまた慎重に立ち上がると、浴室へ向かった。

太郎が足元に擦り寄ってきて、なーおと鳴いた。しきりに匂いをかぐ仕草をしているから、まだ湿布臭いのだろうが、妥協することにしたらしい。

「ああ、ご飯作ってあげようね…。」

キッチンで猫缶を探して開ける。そう言えば今日あたり買出しに行かなくてはいけないと思っていたのに、予想外の出来事のおかげで手ぶらで返ってきてしまった。
いいか、と祥太郎はまたため息をつく。どうせ食欲なんてこれっぽっちもない。

ソファーに戻った祥太郎は、ふと我に返った。

「シャツ脱げないのに、どうやってお風呂に入るんだよ…。馬鹿じゃないの、僕って…。」

これだから、生徒に馬鹿にされてしまうのだ。
もういいや、と祥太郎はぼんやり思った。なんだか今日は何もかもが面倒くさい。
風呂は自動給湯で、放っておいても勝手にとまる。もう薬を飲んで寝てしまおう。そう決めて、薬を探しに立ちあがった時、電話が鳴った。

家族の誰かだろうか? 週に1度は茜さんか葵ちゃんか緑ちゃんがやってきて、同じようにお説教を垂れながら部屋を片付けてくれる。どうやら彼女たちの間で「祥ちゃん当番」なるものが決まっているらしい。
だが、今日は来て欲しくない。そうでなくても過保護な彼女たちのことだ。こんなへろへろの今の状態を見られたら、大騒ぎになるのは火を見るより明らかだ。

「は…い、朝井です…。」

少々警戒しながら出た電話から聞こえてきたのは、家族の誰とも違う、落ち着いたアルトの声だった。

「朝井先生でいらっしゃいますか? 初めまして、私、滝隼人と直哉の母でございます。」
「あ…っ、隼人君のお母さん…、は、初めまして!」

祥太郎は思わずぴょんと背中を伸ばし、当然襲ってきた痛みに声もなく悶絶した。
電話の向こう側は、そんな祥太郎の百面相に気付くはずもなく、言葉を続ける。なんとなく声が遠い。

「この度は私どもの馬鹿息子が大変なことを…。本当にどうも申し訳ございません。あの、お怪我のほうはいかがでしょうか。骨折とお聞きしたのですが…。」
「い…いや、たいしたことないです。本当にはずみみたいなもので、こっちこそ返ってご心配をおかけしちゃって…。」

考えてみれば、父兄と話をするなど初めてのことだ。祥太郎は緊張しまくっていた。
ちゃんと教師らしく話さなきゃ。そう思うほど、舌が絡むような気がする。
最初こそなんとかしゃべったものの、電話の後半は、祥太郎はただ焦りまくってハイハイ言っていただけのような気がする。
最後の方に、母親はこう締めくくった。

「本来ならきちんとお邪魔してお詫び申し上げないといけないところでしょうが、間の悪いことに、今、仕事の都合で香港におりまして。帰国いたしましたら真っ先にお詫びに伺います。」
「え、や、いいです、そんな、お詫びなんて…。」
「なんですか、伺うところによりますと、直哉の方も一方ならないお世話になっているようで…。」
「や、や、お世話になっちゃってるのは僕の方です!」

話すごとにどんどん子供っぽい応対になっていくようだ。
祥太郎は焦りながら不器用に返事をし、何度も断って、やっと受話器を置いた。
置いたとたんにわき腹から背中に掛けてがどんよりと痛い。しばらく壁に手をついて休みながら、祥太郎は、電話でぺこぺこするなんてまったく無意味なことだと思い、そんな自分にげんなりした。

父兄にしたら、自分の子供が教師に怪我をさせたとなったら、すっ飛んできて謝りたいのが本当だろう。ことは自分の子供にかかわることなのだ。さぞ心配だろう。
だから祥太郎はせめて、もうちょっと練れた言葉で安心させてあげないといけなかったのだ。

「僕って本当に…未熟…。」

またため息をつく。まだ薬を飲んでないのを思い出して、もう一度探しにいくと、今度は玄関のチャイムがなった。

「もう…誰? なかなか薬が飲めない…。」

ぶつぶつ言いながら玄関に向かう。扉が重くてなかなか開かない。やっと開けると、そこには見覚えのある、真っ白い顔が立っていた。

「あれ、君…。」
「1年A組の高見 白雪です。先生、さっきは申し訳ありませんでした…。」
「え、だって君は庇ってくれたんじゃない。とにかくあがって。」

白雪の顔色が青ざめて見えて、祥太郎は慌てて白雪を招いた。
白雪はおっかなびっくり祥太郎の部屋に足を踏み入れると、珍しそうにぐるりとあたりを見まわした。祥太郎は苦笑いをした。

「ごめんね、散らかってるでしょ。」
「あ、いや、そんなつもりじゃ。どなたかご一緒にお住まいじゃないのかなと思って。お一人暮しにしちゃ、お部屋が大きいような…。」
「うん、家族の持ち物を只で借りちゃってるから。本当は一部屋ぐらいの所でいいんだけどねえ。家族は目が届かないと嫌みたいなんだよ。いい年をして、過保護だよねえ。」

緊張しきりの様子の白雪を気遣ってそんな話題を出してみても、

「先生、顔色悪い…。」

簡単に見破られてしまう情けなさ。

それでも、生徒の前だと思うとへたってもいられない。祥太郎は無理をして背中を伸ばして、平気な顔をして見せた。
何か出さなくてはとキッチンに行って途方にくれる。お茶菓子が何もない。
しかたがないので、ただの日本茶を淹れてみた。淹れた事もないのでお茶っ葉の量がどのぐらいかさっぱりわからない。適当に淹れると、凶悪な色の日本茶が出来た。
それを持っていくと、ソファーの端っこに小さくなって座っていた白雪が、慌てて立ちあがった。祥太郎に向かって深々と頭を下げる。

「さっきは本当に申し訳ありませんでした。俺の力が足りなくて…。」
「それは僕のセリフじゃないかな。まあ座って。」
「いえっ、あの…っ。」

白雪はぎゅっと唇を引き結ぶと、もう一度深く頭を下げた。そのままの姿勢で叫ぶように言う。

「はっ、隼人はっ、手は早いけど悪いやつじゃないんです。今日だって俺が無茶な止め方しなければ、きっとこんな乱暴なことはしなかったんです。あのっ、…先生を宙吊りにしちゃったのは申し訳なかったけど、本当に隼人は、お兄さんのことが知りたいだけで、暴力を振るうつもりじゃなかったと思うんですっ。だから…っ、虫のいい話ですけど、その…。」

だんだん声が落ちてくる。祥太郎は微笑ましくそれを見守った。

「もういいよ、分かってるよ。それに本当にこれは弾みだし、こんなことになっちゃったのは、僕がひ弱なせいなんだ。隼人君を責めるつもりはないから。」
「じゃあ、あの、本当に…。」
「うん、大丈夫。僕からは問題にすることはないよ。」

学校側の意見はどうだかわからないけれど。祥太郎は言いかけた言葉を飲みこんだ。
白雪は強張らせていた肩を落とした。その様子を見て、つい祥太郎は口を滑らせた。

「優しいねえ、白雪君は。本当に隼人君のことが好きなんだねえ。」
「え…っ。」

絶句した白雪がいきなり真っ赤になった。効果音がついたなら、まさしくボンッと言う感じだ。

「あ、あれ?」

言うべきでないことを言ってしまっただろうか。白雪はかわいそうなくらい真っ赤になって口をぱくぱくさせている。

「違いますっ! 俺、あいつのことなんか、そんな…っ! あんな、乱暴で、無神経で、お兄さんのことしか見てない奴…っ!」
「わ、わかったから白雪君…、いたたた…。」

詰め寄られてのけぞって、祥太郎は情けない悲鳴を上げた。ぎちぎちに巻いた胸の包帯は、体を反らすだけの余裕を与えてくれない。

「そ、そういう先生はどうなんです、先生はっ!」

突然白雪は反撃に転じた。祥太郎はスツールから転げ落ちそうになって危うく手をついた。また転んだら、こんどこそ洒落にならない。

「先生だって噂になっているじゃありませんか!」
「ええ? 噂?」
「そうですよ!」

白雪は上手を取ったとばかりに胸を反らした。

「先生と、隼人のお兄さんは付き合ってるって、もっぱらの噂です!」
「えええっ?」

体調のせいばかりでなく、クラリと目が回る。
一体いつのまにそんな噂が、しかも入学したての1年生の間にまで蔓延していると言うのだ。

「し、白雪君、あのさあ…。」
「否定されるんですか? もう俺達の間じゃ一種、神話になってます。白鳳の守護神とマーメイドの悲恋! だから隼人が尚更カッカするんです!」
「ひ…悲恋て…、僕は一応教師なんだからさあ…。」

どうして誰も彼も、そんなに自分と直哉のことが気になるんだろう。

「教師だからって、人を好きにならないんですか? それじゃ先生、隼人のお兄さんのこと嫌いなんですか? はっきり聞かせて下さい!」

はっきり、と突きつけられて、思わず祥太郎は口を噤んだ。
直哉の、きつくて熱い眼差しが、目の前をよぎる気がする。
口うるさくて鬱陶しいこともあるけれども、常に誠実で優しい彼。この1年間を振り返れば、いつも直哉が傍にいてくれた。不慣れで心細い学校での生活を、直哉が陰になり日向になり、支えてくれたのだ。
直哉が傍にいなければ、自分の教師生活は一歩も立ち行かない。
そう思った途端、胸がズキンと痛んだ。たとえ口先だけでも、直哉を嫌いだとは言えない自分に気がついたのだ。

だが、祥太郎はその思いをまだ自覚したくはなかった。この胸も、折れた骨の痛みだと信じたかった。
祥太郎は顔を上げて思わず息を飲んだ。真正面から見据える白雪の目に気がついたのだ。
白雪は祥太郎の逡巡を何か確信するように見つめていた。

「…やっぱり先生…。」
「あ、あのさ、白雪君…。」

何か言いかけた白雪を、祥太郎は慌てて遮った。
こんな不安定な気持の時には、余計なことを口走らない方がいいにきまっている。

だが、二人の間のにらみ合いにも似た空気は簡単に破られた。玄関でけたたましくチャイムが鳴ったのだ。
祥太郎は思わず軽く息をついた。助けの神が現れた気分だった。

「誰だろう? 今日はお客が多いなあ。」

つまらなそうに眉を寄せる白雪を見ない振りで、祥太郎はスツールを立った。
今は折れた骨より痛む背中を庇いながらそっと歩いて玄関に向かうと、掛けたはずの鍵が勝手に回っている。おやと思う間もなく、大きく扉が開け放たれた。

「祥先生!」

そこに立っているのは、隼人を引き連れた直哉だった。



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