祥太郎の場合は




しり込みしたように歩く祥太郎を引っ張りながら、瑞樹と咲良は口を尖らせた。

「あの隼人って言う子、直哉センパイには悪いけど、可愛くない! にっくらしい!」
「本当! ちょっとばかり大きいからって、あの態度はなに!」

顔を見交わして、ねー!と声を揃える二人に、祥太郎は軽い疲れを感じる。
確かにあの隼人という子はなかなかの曲者のようだが、それにしてもこの二人は幼すぎる気がしないでもない。

「直哉センパイも、あんな事言わせといて何にも無しだなんて…。」
「そうだよ、大事な祥太郎先生が苛められてるのにさ。」
「え? 僕? 別に苛められてたわけじゃ…。」

控えめに言ってみると、とたんにキャンキャンと反発が返ってくる。

「何言ってるんですか! 明らかに先生が標的だったじゃありませんか!」
「最初っから、先生のこと名指しで探してたんですよ!」
「はあ、…そうなのかなあ、やっぱり…。」

祥太郎とて、担任する生徒全員が自分のことを好いてくれるなどという甘い幻想は抱いていない。人数が増えれば増えるほど、馬が合わない者が出てきて当然だ。
たとえばそれが、直哉の弟であってもなんの不思議もない。

「しょうがないよ。人はそれぞれだし、僕も好かれるように努力しなくちゃ。」
「…先生…。」
「…またそんな煮え切らないことを…。」
「煮え切らないって言えば!」

突然咲良が足を止めた。階段の中ほどを降りていた3人は、まとめてつんのめった。

「先生、直哉センパイのことどう思っているんです? ちょっとも煮え切らないんだから!」
「そうそう! こんなにおあずけ続きじゃ直哉センパイがかわいそう!」
「ええ? 何をやぶから棒に…。」

二人の甲高い声に、祥太郎は慌てて辺りを窺った。薄暗い廊下には、幸い誰もいない。

「き、君たち、何を考えてるか知らないけど…。」
「何考えてるか分からないのは先生ですよ。思わせぶりなんだか気がないんだか!」
「そうですよ。直哉センパイって言えば、白鳳の守護神っていって、怖くて有名だったのに、先生のためにはヒゲダンスまで踊っちゃうくらい先生に夢中なんだから。」
「え? 白鳳の守護神なの?」
「そうなの!」

騒ぎ立てる割に、咲良は直哉の噂話など知らないようだ。祥太郎はため息を吐いた。

「そう言えば、直哉君って阿吽の像に似てるとこあるよね…。」
「「そういう事を言っているんじゃありません!!!」」

見事なハモリで決め付けられて、祥太郎はちょっと肩を竦めた。さっき煙草で焼いてしまった手のひらがひりひりする。

「もう今日は、どうあっても先生の気持を聞かなきゃ帰らない!」
「僕の気持…って…。」

二人はすっかり鼻息を荒くしている。祥太郎はぼんやりとやけどの手を見下ろした。
ちょっと前まで直哉に握り締められて、痛いほどだった細い手首。

「…あのねえ、君たちが僕に何を期待しているのか知らないけど、君たちの言っているようなことって、僕の立場で言うと、淫行っていうんだよ。」
「………い…。」
「いんこ…う…?」

祥太郎は重々しく肯いた。咲良や瑞樹の立場なら楽しい恋愛でも、祥太郎にとっては犯罪になる。ところが。

「きゃあははははは! 淫行!」
「い、淫行って、淫行って、あはははははは…!」

二人の甲高い笑い声が響いた。祥太郎はぎょっとして振り返る。

「祥太郎先生、直哉センパイを押し倒すつもりだったんだ!」
「す、すごぉい! 直哉センパイが、『あっ、先生、いけません!』って…。」
「そんで先生が『よいではないかよいではないか。』って…。」

二人の芝居染みた会話は祥太郎を無視して延々続く。祥太郎はちょっと眉をひそめ、それでも二人の感心が自分から逸れていくことに安堵の息を付いていた。二人に聞こえないことを確認して、小さく呟く。

「淫行だと、…直哉君も傷つけちゃうんだから。」
「え? 先生、何か言った?」

わくわくと瞳を輝かす二人を軽く睨んで、とぼけてみせる祥太郎だった。



大騒ぎしながらついてきた二人は、1階まで降りると急におとなしくなった。
次の廊下を左に曲がれば突き当たりは袋小路になっていて、その先には保健室しかない。
瑞樹は何だか泣き出しそうな表情だし、咲良も可愛い鼻の頭に皺を寄せている。

「ああは言っちゃったものの、俺たち本当は保健室なんて行きたくないんです…。」

ぴたりとくっついた二人は、揃って上目遣いで祥太郎を見た。保険医の前田には何かと遺恨があるらしい二人だ。
祥太郎はひらひらと手を振った。

「うん、いいよ、もうほっといてくれれば。」
「だって先生…、ちゃんと保健室へ行ってくださいます?」
「うん、…多分ね。」
「「多分って…!」」

声を揃える二人を無視して、祥太郎は廊下を右に曲がろうとした。その先の廊下を通れば、迂回する形にはなるが、職員室へ帰れる。
背後から非難するような二人の声が聞こえて足を速めかけた時、彼らとは違う低い声が祥太郎を引きとめるように響いた。

「祥先生! 保健室はあっちです! こんな事だと思った!」

おなじみの声に、思わず祥太郎は首を竦めてしまう。
そっと振り返ると、案の定直哉が仁王立ちになって祥太郎を見下ろしていた。

「や、ちょっとあっちに用事が…。」

見え透いた言い訳を遮るように、直哉の腕が伸ばされる。祥太郎はあっという間に猫の子みたいに襟首を掴まれていた。

「ほら! 早く行きましょう。そんな手当て、早ければ早い方がいいに決まってます!」
「うあ…、ほ、本当に大丈夫だって! これっぽっちの火傷、舐めとけば治るってば!」
「いつもそんなことを言って…。あんたは俺がどんなに心配してるか分からないんだな。」

思いがけず静かな声で、祥太郎は驚いて背後を見上げた。
直哉のきつい目が静かに祥太郎を見下ろしている。いつも心配性な直哉の目が、今日はどことなく熱い。

「…舐めれば治るんですね。」
「えっ? あ…っ。」

祥太郎は思わず身を引きそうになった。直哉は真剣な顔で祥太郎の右手を捧げ持つと、深々とそれに向かって顔を伏せた。
ひりひりとひっきりなしに祥太郎を苛んでいた傷口に、暖かく濡れた物が這っていく。
祥太郎は直哉の頭を見下ろしたまま動けなくなった。何度も丹念に柔らかく傷口を辿っていくのは、直哉の熱い舌だ。直哉が傷口を舐めているのだ。

「えっ、あっ、…ちょっと…っ。」

慌てて引っ込めようとした手は、強い力に阻まれて動けない。
熱いのは手のひらだけのはずだった。祥太郎は見たことのない角度から見る直哉の通った鼻筋を見ながらぼんやりそう思った。どうしてこんなに頬が熱いのだろう。
直哉の伏せられていた睫がゆっくり上がった。祥太郎と目が合うと、直哉は少し笑ったようだった。

一層強く押しつけられた舌が、ぞろりと這っていく。僅かに開いた人差し指と中指の股に、からかうようにそれが滑り込んでいく。
滅多に人に触れられない柔らかい皮膚に、生々しい感触が忍び込んできて、祥太郎は思わずぞくりと肌を粟立たせた。
火傷は、タバコを握り締めてしまったものだから、結構広範囲にわたっている。だが、指の間までも焼いてしまっただろうか? 
祥太郎は全身を強張らせていた。いつのまにか指が直哉の口の中に含まれている。
熱くて柔らかい直哉の口腔内が、きゅっと祥太郎の指を締め付けた。歯と爪とがあたってカチリと音を立てる。
祥太郎はそのわずかな音ではっと我に返った。

「あ……わああっ!」

祥太郎はうろたえて手を引っ込めた。
どうしてだろう。直哉に舐められた部分は、火傷よりジンジンと熱い。

「…祥先生…。」
「ほっ、保健室っ! 保健室、行って来るからっ!」

祥太郎はこれ以上直哉に引き止められないように、火傷の手を胸に抱え込むと、慌ててきびすを返した。ここでこれ以上直哉の顔を見ていると、まだ言うつもりでないことまで口走ってしまいそうだ。
祥太郎が去った後に立ち尽くす直哉の背中は、どことなく淋しく見えた。

咲良と瑞樹は、その背中を見ながら階段の手すりの陰にかがみこんだ。二人ともそろって口を押さえ、頬を赤らめている。

「やっぱり…淫行だ…。」
「うん、淫行…されてるね、祥太郎先生ってば…。」

こそこそとささやき交わしては、なぜか嬉しそうな二人だった



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