先生は大変




扉の向こうは、初々しい喧騒に満ちている。
祥太郎はネクタイを確認するようにきゅっと引っ張ると、大きく息を吸った。
初めてのクラスは、いつもながら緊張する。それは学年が変わろうとも同じことだった。
2年生にはもうすっかりおなじみになり、それなりに信頼されていると思いたい祥太郎である。だが、今年入ってきた1年生にも等しくそれが通用するかは別の話だ。
ましてやここは、例の直哉の弟─滝 隼人─の属するクラスである。
優秀な成績で入学してきて、どうやら祥太郎を目の敵にしている問題児が、おとなしくクラスに馴染んでいてくれるのか…。祥太郎はそれが杞憂だと思いたかった。

カラリと引き戸をあける。新入生を迎える教室のドアは、蝋を塗りでもしたかのように軽やかに開く。
立ち上がってうろうろしていた数人の生徒が、慌てたように席に駆け戻る。

「はい、席について。授業始めますよ。」

祥太郎は教科書を軽く手で打って、着席を促した。
教卓に手をついて、祥太郎は教室を見まわす。これが授業に入る前の、祥太郎の癖だった。

「始めまして。今日から古典を担当する、朝井 祥太郎です。よろしくお願いします。」

空席はない。真新しく真っ白い学生服が輝きを放って、眩しいような学生たちを、祥太郎は少し目を細めて一渡り見まわした。
10代の後半の数年で、たいてい人は大きく様変わりする。学生のころと比べて全然変わってないと言われてしまう祥太郎でさえ、やはり顔つきも体つきも大きく成長した。今目の前にいる丸みを帯びた少年くさい顔たちは、1年経てばずっと男くさくなるのだろう。
クラスの中を等分に見回していた祥太郎だったが、やはり視点が一箇所で釘付けになった。
直哉の面影を色濃く残す、隼人の顔だ。

(やっぱり良く似てる…)

祥太郎の知らない直哉の1年生のころは、こんな風だったのだろうかと、祥太郎を微笑ましく思わせると同時に、少し眉を顰めさせる。
隼人の学生服の着方は、お世辞にも規準にのっとったものではなかった。カラーは大きく開いていて、その下に見えるのは規則違反の色シャツだ。祥太郎は、杓子定規な着方を好まない慎吾でさえ、そんな派手なシャツは着ていなかったと思う。
天音や雪紀の、隼人に対する警戒心あらわな様子を思い出し、これがその元かと納得した。

注意するべきなのだろうか。
自由な校風で鳴らした白鳳学園だが、服装の乱れには意外と厳しい。良家の子女を集めた自負が、そうさせているのかもしれない。また、デザイナーブランドのファッション性高い制服は、着崩すに忍びない優雅さを兼ね備えていた。
制服だけが目当てで入学するものも少なくない。自然、制服はちゃんと着るものとの意識が、学生たちの間にも浸透していた。

「滝…君。」

ためらいが声に出たかもしれない。芳しくない予備知識を耳と手に叩きこまれている祥太郎は、自分の声がいつになく緊張しているのに気付いた。
ガタリと音を立てて隼人が立ち上がる。返事もしない隼人は、ズボンのポケットに両手を突っ込むと、口をへの字に曲げて祥太郎を見下ろし、教壇のほうへ大またで歩き出した。

「隼人!」

高い声が隼人に投げられる。祥太郎はそちらをちらりと見た。編入生でありながら主席で入学してきた高見 白雪だ。

わずか数歩で教室の中ほどから壇上に上がった隼人は、祥太郎と胸をつき合わせるような近距離で立った。直哉よりほんのわずか低い位置から見下ろされて、思わず祥太郎は1歩引いた。
直哉とはまた違う威圧的な雰囲気が、隼人の全身から滲み出している。

「…兄ちゃんが帰ってこないんだ。」
「え?」

隼人はぼそりとつぶやいた。祥太郎は思わず聞き返し、それから立場が違うように思えて目を強く瞬いた。
次の瞬間、祥太郎は勢いよく伸ばされた隼人の両腕に、胸倉を捕まれていた。

「兄ちゃんが帰ってこないんだ。やっと兄ちゃんとおんなじマンションで暮らせると思ったのに!」
「え、何? くるし…。」

直哉より僅かに小柄ながら、力は直哉と同等にあるらしい。隼人の腕に力が漲ると、祥太郎はかかとが浮くのを感じた。
首を締め付けられて、慌てて隼人の腕をつかむ。硬くしまった握りこぶしは、祥太郎なんか簡単に振回せそうな力強さだ。

「兄ちゃんが俺を邪魔扱いするのは、おまえのせいなんだろう! おまえのせいで、兄ちゃんは俺を煙たがるんだ!」
「違…っ、何言って…。」

首を締め付けられて、言葉がうまく出てこない。揺さぶられて、ともするとつま先までが床を離れる。
教室中がざわざわと波打って、何人もの生徒が席を立つのが目に入る。

「な、直哉君のことなんか、僕は知らな…。」
「何が直哉君だよ!」

激昂した声。祥太郎は頭の片隅で、しまったと小さく舌打ちしたい気分になった。
これ以上隼人を怒らせてしまったら、お互いのためにならない。

「兄ちゃんは家でもずっと祥先生がああしたこうしたって、そんなことばっかりなのに、よくもそんな薄情なこと…。」
「隼人っ! だめっ!」

がくんとひときわ大きく体がゆすぶられた。ぎゅっとつぶっていた目を見開くと、隼人の背中に真っ白な顔をした子が一人食らいついている。
怒りのせいだけではなくて、生来の色白なのだろう。頬はばら色に染まっていて、黒髪とのコントラストが見事なくらいだ。

祥太郎はぼんやりとそんなことを考えている自分が不思議だった。
もっと怒り狂って、隼人の手を振り解いてもいい場面だ。それなのにそうしたくない。
隼人は怒っているのではなくて、傷ついているような気がするのだ。
これが直哉の弟…。面倒ばかりかけるけど、可愛くてならない弟だと直哉が言っていた、その思いは理解できる気がする。こんなに一途に慕われて、悪い気のする兄はいないだろう。

「先生なんだから! 隼人、授業なんだからおとなしくしろよ! 先生なんにもしてないじゃないか!」
「うるせえっ! 引っ込んでろっ!」

隼人は白雪を振り切ろうと、祥太郎の胸倉を掴んでいた片手を離した。それを大きく後方に振り上げる。
不安定な姿勢で隼人に縋っていた白雪が大きくたたらを踏んだ。ようやく片足が床についた祥太郎は、思わず片腕を伸ばしていた。白雪が教壇の端から足を踏み外しそうになったのが見えたのだ。
それを隼人は拳を振り上げたのと勘違いしたのかもしれない。

「この、淫行教師…っ!」

祥太郎は息を呑んだ。数日前の薄暗い廊下での、直哉とのやり取りが一気に思い出された。
だから祥太郎は一瞬まったく無防備になってしまったのだ。虚を付かれた驚きと後ろめたさとが、祥太郎に大きな隙を与えた。
それがまずかった。

両足が浮いたと思ったら、首が思いきり前に振られた。
耳元でガターンガシャガシャと、何かが転がるような音が響いて、それから全身に激痛が来た。
頬に冷たい金属があたる。それが横倒しになった椅子の足だと知って、祥太郎は初めて今の自分の状態を把握した。
隼人に文字通り投げ飛ばされたのだ。いや、隼人は振り上げられる祥太郎の手を払っただけかもしれない。
だが、大人にしては軽すぎる祥太郎は、その勢いに負けて吹っ飛ばされてしまったのだ。

「先生! 大丈夫ですか!」

白雪が駆け寄ってくる。隼人は少し青ざめた顔で仁王立ちになって祥太郎を見下ろしている。やっぱり直哉に似ている…。祥太郎はぼんやりそう思った。

「大丈夫ですか! 立てますか?」

白雪が可愛そうなくらいおろおろとして腕を差し伸べてくる。
祥太郎はゆっくり首を巡らせて、自分が教卓ばかりが生徒の机のいくつかも巻き込んで派手に転がったことを知った。

「だ、…大丈夫、多分…。」

動揺しているのだろうか。おかしいくらいささやかな声しか出ない。
祥太郎はジンジン痛む頭を押さえた。後頭部にすでにこぶが出来ている。だが、どこも切れている様子はない。
少し安心した。この程度の打撲なら、教室内の口止めだけでとぼけとおすことが出来そうだ。生徒に、ましてや直哉の弟に、障害沙汰なんて起こさせてはならない。

だが、祥太郎の思惑はもろくも崩れ去った。置きあがろうとした祥太郎は、呼気が変な音を立てるのを聞いた。

「いった…、あれ、あつっ…。」

わき腹が痛い。転がって上を向いている教卓の側のわき腹が、少し体をひねるたび、きしむように痛む。
早く起き上がらなくては。祥太郎はあせった。だが、腕は無様に床を掻くばかりで、一向に重たい体を持ち上げてくれない。
ざわめく生徒たちの声がどんどん高くなっていく。
早く起きあがって、生徒たちを安心させなければ。そして何もなかった顔をして、何も起こらなかったことにしなければ。だが、そんな祥太郎の努力は徒労に終わった。

「どうした! 何を騒いでいる!」

ガラリと音高く教室の引き戸が開かれた。祥太郎はしまったと顔をしかめた。職員室でもうるさ型で有名な、数学の教師がそこに立っている。
彼は驚いたように教室を見まわして、ひっくり返って立てない祥太郎を見て、困った顔の白雪を見て、まだ突っ立ったままの隼人を見た。そして確かに、嬉しそうに笑った。



「先生!」

病院から前田に付き添われて帰ってきた祥太郎のところに、咲良と瑞樹が駆け寄ってきた。二人とも心配に蒼白な顔つきになっている。苦手の前田が傍にいることさえ気にならないようだ。

「先生、大丈夫ですか! 隼人にやられたって…。」
「いや、大丈夫、ちょっとした打撲だけだから…。」
「嘘をついても仕方ないでしょう。肋骨が2本も折れてましたよ。」

淡々とした前田の声に、祥太郎は振り返って彼を睨む。前田は表情を少しも変えない。

「そ、それじゃ、先生…。」
「痛い? 痛い? 先生、平気?」

泣き出しそうな二人の顔に、祥太郎は少し困って微笑みかける。こんな反応がわかっているから余計な心配をかけたくなかったのだ。

「大丈夫だよ。肋骨なんかくしゃみしたって折れるんだよ。別に殴られたわけじゃないし、弾みだよ、弾み。そんなに大騒ぎすることじゃないよ。」
「さあ、どきなさい、子犬たち。今日明日はゆっくり先生を休ませて上げなさい。」

前田に邪険に払われて、咲良と瑞樹は慌てて下がった。それでも心配そうに二人の後をついてくる。
校舎の中に入ると、雪紀が待ち構えていた。黙って立っていれば本当に威厳に満ち溢れたこの生徒会長は深深とお辞儀をすると、前田と祥太郎の間に割り込んだ。
少しは頼り甲斐のあるやつとでも思ったのか、前田は薄笑いを浮かべると、黙って保健室へ帰っていった。

「…隼人は1週間の停学になりました。早川先生が怒鳴り散らしたのを白雪君が何とか庇ってくたおかげです。ただ、本人に反省の色がまったくありません。
今、直哉が呼び出されて行ってます。」
「そう…。やっぱりそんな騒ぎになっちゃった…。」

祥太郎は痛むわき腹を押さえて顔をしかめる。やはりあの時、無理にでも立っておかなければならなかったのだ。
こんなふうに隼人と話し合う機会も得られないまま、隼人を罰してしまうのは祥太郎の本意ではない。
祥太郎はため息をつき、その途端に痛みに飛び上がりそうになった。

「先生はもうお帰りになって、ゆっくりお休みになってください。後で直哉がお詫びに伺うと思います。」
「そ、そんなのいいよう〜…。」

大きな声を出すとわき腹に響く。しばらくは笑ったりくしゃみをしたりも辛そうだ。
祥太郎は笑いながら言ってすぐにその顔を引き締めた。雪紀の、いつにない真剣な顔が目に入ったからだ。
そっと伺えば、いつも元気の固まりのような咲良と瑞樹の顔も沈んでいる。
祥太郎は改めて痛みを感じた。わき腹だけでなく、胃まで痛む。
せめて何とか自分の明るい態度で大事でなく済ましたかった問題も、すでに祥太郎の手を離れてしまっている。
隼人ばかりか直哉まで傷つけてしまったようで、祥太郎は情けなくため息をついた。



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