瓜生くんの初恋 1




久しぶりに祥がうちへ来るという。

祥の大ファンを自称するお袋は、朝からそわそわしている。
掃除を念入りにするのはもちろん、トイレのカバーやらマットやらまで新品にするのには呆れてしまう。

「祥ちゃんが来るなんて久しぶりだから緊張しちゃうわ。ご馳走はなにを作ろうかしら。」

まるで若いつばめでも迎えるようなはしゃぎようだ。俺は思わず口を挟む。

「祥は、お袋の作ったグダグダのスパゲッチが好きだって言ってたぜ。」
「まあ、グダグダなんて、嫌な子。」

俺に対しては嫌そうな顔を作るくせに、次の瞬間、もう嬉しそうに笑み崩れている。

「でも、そうねえ、祥ちゃんはそういう家庭料理が好きだったわねえ。それじゃスパゲッティを作ろうかしら。それと、祥ちゃんが好きだったのは、甘く焼いた卵焼きと、にんじんのグラッセだったかしらね。」

ガキの好きそうなものばっか。どうやら今日の夕飯は、そんなお子様メニューで埋め尽くされるらしい。
お袋は、まだ楽しそうになにやら計画を練っている。
俺はそんなお袋が、祥が来るとこっそりと、「あんな娘が欲しかった」と呟いているのを知っている。
祥のやつにそんな事を聞かせたら、むくれちゃって大変だな。そうでなくても祥は、俺の前ではなんだか子供返りするというのに。

「ねえ、初めて祥ちゃんに会った時の事、覚えてる?」

お袋はまだクスクスと笑いながら、幸福そうに言う。俺も釣られて思わず微笑んでいた。
子供の頃の祥は、飛び切り可愛らしい子供だった。



俺は幼稚園なんか大嫌いなガキだった。
昔から早熟だったのだろう。身体も人一倍でかかった俺は、同じ年の幼稚園児たちが幼く見えてしようがなかった。
一緒に遊ぶにも、ヒーローごっこだのおままごとだのは俺にはまさしく子供だましだった。そんな俺の気分が知れるのか、俺に当てられるのはいつでも悪役ばかりだった。
それならせめて悪役に徹してやろうと、ヒーロー役を蹴散らし、ままごとの膳をひっくり返せば、ガキどもは火が点いたみたいに泣いた。
先生ぶった若い女がすっ飛んでやってくると、いつでも怒られるのは俺ひとりだった。

手を洗うにも弁当を食うにも、いちいちお歌とお遊戯の世界は、俺にはまどろっこしすぎた。
しちめんどくさいから勝手に省略すると、ますます先生はキーキー怒った。
だいたい、この園服という奴がそもそも気に入らないのだ。でかい俺には袖も裾もつんつるてんで、帽子さえちゃんとかぶれやしない。
集合すると、可愛らしい園児の中に、俺一人浮いて見えた。自分でもそれが分かるから、嫌で嫌でたまらなかった。

だから俺は、両親が郊外に買ったこじんまりした一戸建てに引っ越す事になった時、本当に嬉しかったのだ。
両親が幼稚園に挨拶に来て、ここをやめなければならなくなったと話しているのを聞きながら、ひとりでにやにや笑っていたように思う。

それなのに、転居先にもちゃんと幼稚園は待ち構えているのだという。

俺はふてくされた。
やっとあのまどろっこしい世界から抜け出せたと思ったのに、また似たようなところに逆戻りとは。
お袋は俺の怒っている理由を取り違えていたらしく、「お友達もすぐ出来るわよ」と、見当違いの事を言った。
そして、ご近所への挨拶回りに引き出された俺は、お友達の第一号として祥に会ったのだ。

祥の家は、新しい我が家の裏にあった。
角を曲がって数メートル歩くと、双子のように似通った家が2件建っていて、その1件が祥の家だった。
菓子折りを持って歩くお袋に引きずられるようにして歩いていた俺は、お袋が鳴らした双子の家のベルの、反対側から女の人─茜さん─が出てきた事を覚えている。

「はじめまして、近くに越してまいりました瓜生と申します。お宅のお子さんと幼稚園が一緒だと伺ったので…。」
「まあ、わざわざご丁寧に。ご近所にお友達が出来て嬉しいわ…。」

いつものことながら、女同士の挨拶はだらだらと長いのだった。
俺はふて腐れてその辺の小石を蹴り飛ばし、そわそわと落ち着きなくあたりをうかがって、初めて茜さんの長いスカートの裾に隠れるようにしている子を見つけた。

ズキン、と、胸が震えた。

子供心にも、真っ白な肌だと思った。スカートをぎゅっと握り締めている柔らかそうな手の先には、磨いたみたいに綺麗な爪が並んでいる。
肩につくほどに揃えられた栗色の髪は、当時はもっと淡い色で、くるくると踊りながら小さな顔を縁取っている。恐々と瞬きをすると、長い睫が目立った。
桜色をした唇が薄く開かれて、何かを言いかけては飲み込む。
そうして俺と目が合うと、やがて戸惑うようににっこりと表情が崩れた。

かわいい…っ!
前の幼稚園には、こんな可愛い子はいなかった。モロ、俺の好み!

やっぱり俺は早熟だったらしい。俺の耳には、くどくどと挨拶を繰り返すお袋の声も、茜さんの自己紹介の声もさっぱり入ってなかった。
もう、この目の前の、シュークリームみたいな女の子だけしか写っていなかった。
俺は握っていたお袋の手を力いっぱい引っ張った。幼稚園児にしては大柄な俺の力に負けて、お袋は危うくひっくり返りそうになった。

「おかーさん! 俺、やっぱり幼稚園行く!」

こんな可愛い子と一緒なら、どうあっても行かなくちゃ! 俺の頭の中はそんなことで一杯だった。

「それで、しょーらいこの子をお嫁さんにする!!」

高らかに宣言すると、お袋と茜さんが同時にのけぞった。
スカートを握り締めていた女の子が大きな目を見開いた。そうやってるとほんとうにお人形みたいで、俺は嬉しくなった。
可愛い子を見つけたらさっさと唾付けとかなくちゃ! 親父の言っていた意味がやっとわかったぞ!

シュークリームちゃんが顔を引き締めた。
頼りなく握り締めていたスカートの裾を手放して、俺に近づいてくる。俺はわくわくした。
次の瞬間、目の前にいくつもの星が飛ぶのを俺は見ていた。
シュークリームちゃんの華奢な足が俺の股間にテクニカルヒットを決めていたのだ。

「お嫁さんなんかならないもん! 僕、男の子なんだから!」

甲高い声はどう聞いても女の子なのに…。俺は涙を流しながら蹲っていた。
だけどこの急所を知り尽くした攻撃は、男の子以外の何者でもありえなかった。



当時、身体の弱かった祥を心配した祥の母親が、女の子の格好をさせておくと魔よけになると頑なに信じていたこと。
茜さんが、妹である祥の母親の言うことを何でも聞くほど彼女と仲がよかったこと。

そして、祥と彼を取り巻く人々の傍から、祥の母親が永遠に旅立ってしまって間がなかったことなどは、だいぶ大きくなってから知った。



「祥ちゃんは本当に可愛かったわねえ。おまえったらいきなりプロポーズしたのよ。覚えてる?」
「ああ。そのあときついイッパツ見舞ったのも忘れちゃいないよ。」
「そうだったわねえ。」

お袋は人事のようにころころと笑っている。俺にとっては青天の霹靂だったのに。
しかもあんな若くして、俺は血尿を見る羽目になってしまった。

「よくうちにも遊びにきてくれて、ウリューって呼ぶ声がたどたどしくて可愛かったわ。」

そう、俺はかなり幼い頃から祥には名字を呼ばせている。
俺の名前は義久という。舌っ足らずの祥は、それをうまく発音できなかったのだ。
よくて「よしっさ」。酷くて「よちった」。
大柄な俺にはとても似合わない呼び名で、俺は我慢できなかった。
いや、祥だけがそう呼ぶのならいい。お袋や仲の悪い友達までが俺をばかにしたように「よちった君」と呼ぶのに耐えられなかったのだ。
そして、祥の呼ぶウリューは独特だった。呼びづらそうに唇を尖らせるのがなんともいえず愛らしかった。
やっぱり俺はガキにしては早熟すぎたようだ。

「幼稚園に行っても、祥ちゃんは可愛くて群を抜いてたわね。お遊戯会のときの祥ちゃんの妖精姿は、今でも目に焼き付いてるわ…。」
「やれやれ、息子のことはどうでもいいみたいだな。」
「だっておまえはあの時、魔王の役だったでしょ。」

お袋は憤慨したような顔をする。
俺のやった魔王は準主役で、妖精はその他大勢の群舞だったのだが、お袋はそんなことはどうでもいいようだ。

もっとも俺もあの頃の祥の可愛らしさに異存を挟むつもりはない。
その他大勢の妖精たちの中でもひときわ小さな祥が、誰より目立っていたのも事実だ。

「可愛らしいし優しいし、祥ちゃんは本当に女の子みたいだったわね。」
「あいつは可愛らしいばっかりじゃなかったぜ。今でもそうだけど、とんでもない鼻っぱしの強さなんだから。」
「そうねえ…、武勇伝は聞かなくもないけど。」

お袋はそんなことには目を瞑っていたいようだ。可愛らしい祥ちゃんがお袋の理想なのだろう。
だけど、女の子の姿をした祥は、俺にもしたように、結構男前の子供だったのだ。



小学校に上がっても、祥は女の子の格好をしていた。
さすがにスカートは履かなくなったが、袖の膨らんだブラウスだの、キュロットまがいの短パンだのは、どう見ても祥を女の子に見せていた。
長い髪と、祥の女の子みたいな顔は、それに違和感を感じさせなかったのだ。

その頃、俺の遊び友達は、もっぱら祥と、祥の二つ年上のいとこの葵ちゃんだった。だが、祥はあまり腕白盛りの俺達の遊び相手には適さなかった。
同じように雨に濡れても、盗み食いをしても、祥一人が熱を出し、腹を壊した。

だけど祥は弱音をはかない子供だった。小学生のガキのくせに、倒れるまで我慢するなんてこともざらだった。
俺のうちで寝付いてしまったことも何度かある。遊びに来たはずの祥が妙におとなしいので、お袋が訝って額をさぐると、すでにそこはカンカンだったりするのだ。

そんな事の中で1度だけ、祥がどうしても帰りたくないとごねたときがあった。
あれは葵ちゃんのお父さんが亡くなった年の夏だから、俺達は5年生だったはずだ。
もう俺はお袋よりでかくなっていたが、相変わらず祥は小さいままだった。

「…明日から海に行く予定だったんだ。」

祥はリビングのソファーに転がって、だるそうな目をしていた。
うちに泊まりにくるときの祥の定位置はそこだった。俺がどんなにベッドを半分、または全部譲るといっても絶対に聞かないのだ。

「僕が具合悪くなると、旅行が中止になっちゃう。だからうちには何にも言わないで、僕のわがままだから置いて行ってって言って。」
「そんなわけにはいかないでしょう。茜さんが心配するわよ。うちにいてもいいから、連絡だけはしましょうね。」

お袋がそういって宥めても、祥は頑として首を縦に振らない。その頑固さは、お袋も親父も、舌を巻くほどだった。
祥が泊まりにくることは珍しいことではなかったが、俺は気になって眠れやしなかった。
夜中にそっとベッドを抜け出して見に行くと、物音に気付いたのか、祥がうっすらと目を開けた。

「………寝ないの?」
「…おまえこそ、早く寝ろよ。」

ぬるくなってしまった額のタオルを絞ってやると、祥は深いため息をついた。
だらりと投げ出された手も足も、まだとんでもなく熱くて、なんにも言わない祥の辛さが知れた。

「…去年も僕の具合が悪かったから、どこにも行ってないんだ。冬の間は秀雄さんのことがあったし…。明日からの海は本当に久しぶりのお出かけだったんだ。」

秀雄さんというのは茜さんの旦那で葵ちゃんと緑ちゃんのお父さんだ。
緑ちゃんの入学式を楽しみにしていたおじさんは、結局それを見ることなく亡くなった。

「葵ちゃんも緑ちゃんも本当に楽しみにしてる。でも、茜さんはきっと僕のことを優先させちゃうんだ。今までもそうだったし…。」

それは俺にもわかった。
茜さんは祥を自分の子供達と本当に分け隔てなく育てていた。どっちかっていうと、祥のほうが本当の子供みたいだった。

「もう、僕、嫌なんだ。僕のことでみんなを我慢させちゃうの。
緑ちゃんは泣いて怒ってくれるけど、茜さんも葵ちゃんも、文句一つ言わないんだ。葵ちゃんなんか、一生懸命僕の看病してくれるんだ。自分だって遊びに行きたいんだろうに。これのことがあるから…余計、僕、みんなに悪くって…。」

言いながら祥は自分の髪をむしりそうに掴んだ。
今は短いそれは、5年生に上がったときに祥自らが切り落としたものだ。
新しいクラスでオカマ野郎とからかわれた祥は、その場にあったはさみで、背中まであった髪をぶった切ったのだ。

「…祥、そんなに気にするなよ。どっちにしろ11歳になれば切るつもりだったって茜さんも言ってたじゃないか。それに…、葵ちゃんはおまえが大好きだから世話を焼きたいんだ。自分でそう言ってたじゃん。
…なに? 泣くなよ、祥。ね、熱上がるぞ!」

俺は狼狽していた。祥の丸い頬を涙が伝い落ちる。
ちっちゃくて可愛い祥は、その実結構きかん気で、喧嘩をしてもめったに泣かない。

「だけど、茜さんも宗太郎さんも、僕があの髪をしてると紫ちゃんがいるみたいだって…、お母さんが生きているみたいだって言って、とっても大事にしてくれたのに。
それにときどき、葵ちゃんが無理してるのがわかる。葵ちゃんだって自分の本当のお母さん独り占めにしたい時だってあったはずなんだ。僕はみんなの厄介なんだ。」

ひくりと肩が震えた。祥は嗚咽をかみ殺しきれずに、唇を震わせた。
熱が祥を弱気にしているのだ。そうは分かっても、だからどうしたらいいとまでは当時の俺には分からなかった。
うろたえていると、熱い手が俺の首に巻きついてきた。俺はその熱さより、祥の腕の細さと軽さに驚いていた。

「ごめ…、もう泣かないから、すぐいつもどおりのにこにこした祥ちゃんだから…。」

その一言で、初めて俺は、いつも上機嫌の祥が今までかなり無理をしてきたことに気付いた。
不自然な寄せ集めの家庭は、もしかしたら祥の健気な笑顔でバランスを保っていたのかもしれない。

後にも先にも、祥が俺の胸に縋ってきたのはあれ1回きりだった。
俺は祥の細い背中を支えながら、強い思いに囚われていた。形にならない思い…今考えれば、それはきっと、庇護欲とでも言うものだったのだろう。
祥を守りたい…心からそう思った。それは今も変わらず続いている思いだ。

だが、子供だった俺は、声をあげて泣く祥を抱きしめることも出来ずに、ただぼんやりと座っていた。
恐る恐る熱い背中を撫でると、腕の中の祥はますます俺に強くしがみついてきた。
そうしてやりながら、きっと俺では本当に祥を慰めてやることなど出来はしないのだということも、どうしてだか分かっていた。

やがて泣きすぎで熱を限界まで上げた祥は俺の腕の中で失神してしまった。
俺は物音を聞きつけたお袋と親父に、病気の祥に無理をさせたと、拳固でどやしつけられたことを覚えている。



「祥ちゃんは本当に強い子だったわね。
………今だからいうけど、あの祥ちゃんの格好はどうだろうって、学校でも結構問題になっていたのよ。なにより、嫌がっているはずの祥ちゃんが文句一つ言わないことが不憫でねえ…。
でも、祥ちゃんの母親の遺言だって言われれば、…亡くなる寸前まで祥ちゃんのことを心配して、必ずそのままにしておいてって言ってから亡くなったって聞かされれば…あんまり強く意見も出来なかったのよね…。祥ちゃんはかなり辛かったと思うわ。」

浮かれていたお袋の声が僅かに沈んだ。
俺は天井を見上げた。そこには木の節が作り上げた歪な模様がある。
子供だった祥が一つだけあからさまに怖がったものだ。幽霊の顔に見えるのだという。
祥はそれ以外は本当に怖いもの知らずの子供だった。





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