赤い本と本当の気持ち 2「ま、入れや。なんにもない所だけどな。」 悟浄が招き入れてくれたのは、村はずれの小さな小屋だった。 ベッドが一つある他には家具らしい家具も無い。寝室に繋がっている台所にはへこんだやかんが一つあるきりだ。 「…本当に何にも無い部屋ですね。」 「雨露さえしのげりゃいいからな。ここは寝に帰ってくるだけだし、それも毎晩のことじゃ…おっと。」 わざとらしく口を押さえる。 「あんたはこういう話、キライだったな。」 「いえ。…ちょっと意外でした。」 「へえ?」 天蓬の返事に、悟浄は面白そうな顔をしてみせる。 「この世界は僕の夢なのに、貴方がこんなに質素な生活をしてるなんて…。」 「夢かよ。…質素で悪かったな。」 「夢のはずです。貴方は僕の世界には存在しないはずの人です。」 「きれいな顔してきっついなー。そんなに存在感ねえかな、俺って。」 「…顔のことは言わないで下さい。」 天蓬は誘われるままに悟浄のベッドに腰を下ろした。 スプリングの硬いあまり上等とはいえないベッドで、しかし感心に寝具類はきちんと洗濯してある。 通ってくる女がいるのかも知れないと思うと腹が立った。 「顔を誉められるのは…嬉しくありません。顔を見たって、僕がどんな人間か分かるはずも無いでしょう。」 「そうかあ? 好感抱くには十分だと思うけどな。」 「顔だけ見て好きだなんていうのは、三段論法です。僕はそんなにあっさり好かれたくありません。」 愚痴をこぼすように話しながら、顔が強張っていくのがわかる。 「…もったいねえなあ。きれいな顔なのによう。」 顔を隠すために長く伸ばした髪の間にするりと手が忍び込んでくる。 はっと顔を上げると、悟浄が足元に跪き、天蓬の頬を伸ばした指先で撫でていた。 「顔は玄関だからさ、きれいな玄関だと、家の中も見たくなるんだよ。」 「玄関がきれいだからって…いちいち強盗に押し入られてたらかなわない。」 「…押し入られたことがあんのか?」 「…言いたくありません。」 天蓬自身情けなく思えるほど、消え入りそうな声だった。 思い出すと、当時の恐怖や屈辱感や、苦痛までがまざまざと蘇ってくる。相手は、友人や恩師だったりしたこともあった。 思いを遂げるために、きれいだから気に入ったはずのこの顔を、形が変わるまで殴った者もあった。 体が細かく震えている。そんな自分を悟浄に見せたくなくて、天蓬は小さく膝を抱え込んだ。 「女の子じゃないんだから、きれいな顔は邪魔になるだけです。」 「…そんな悲しい顔、すんなよ。」 顔を上げると、悟浄と目があった。 珍しく真摯な顔をしていて、天蓬は頬の上に置かれたままの手を振り払い損ねていた。 「俺は、あんたの顔、好きだよ。」 一言一言かみ締めるように紡ぎ出される言葉がなぜか心地いい。 いつもなら激しい嫌悪を伴うはずの言葉なのに、悟浄の口から出ると、甘いささやきに聞こえる。 「あんたの、凛とした姿勢が好きだ。恐れはしても、物怖じしない潔さが好きだ。張り詰めた緊張感を、柔らかい真綿みたいに包んでいる強さも好きだぜ。」 「…僕は強くなんかありません。嫌なことから逃げてばかりいる弱虫です。あなたのほうがよほど強い。」 「逃げることを知らない奴は馬鹿だ。突っ込んでって玉砕しちまえばそれきりだ。俺なんか、逃げ回ってばかりだぜ。」 天蓬は驚いて目を見張った。 「貴方が? だって…。」 「この髪か? これは魔除けの札みたいなもんだな。」 悟浄は無造作に自分の髪を梳いた。指先から流れ落ちる髪は本当にさらさらと音がしそうで、天蓬は思わずうっとりとなる。 「こうして髪を伸ばして、俺は皆さんとは違います。俺は恐ろしい者ですって宣伝しとけば、誰も踏み込んではこないだろ。」 そうして悟浄は切ない顔をしてみせる。天蓬は言葉に詰った。 「…それは口説き文句ですか?」 「そう思ってくれてもいい。」 悟浄はにやりと笑った。まだ触れたままだった天蓬の頬をぴたぴたと軽く叩く。 「無精ひげが生えてら。あんたって、見かけによらないなあ。」 にっと笑う顔が得意げで、まるで秘密を手に入れた少年のようだ。天蓬はつられて笑った。 「お、やっと笑ったな。」 心底嬉しそうな顔をする。 笑うとかすかに左の頬にえくぼができる。それがこの男の顔を少年めいてみせる元らしい。 「初めてあんたの顔を見たとき、なんて切ない顔をしているんだろうと思った。 何とか俺の腕の中で笑わせてやりたいと思って、ずっと念じてたんだぜ、あんたに会いたいって。」 天蓬の頬の上に置かれたままの指がゆっくり動いて唇をたどる。 天蓬に次の言葉を継がせないように、静かに動く指は、やがて柔らかく唇を超え、歯列を割り、天蓬の舌を蕩かすようにゆっくりゆっくりと口腔内を這い回る。 「ん…んっ、悟…浄。」 天蓬はなんとか悟浄の指から逃れて息をついた。 口の中を撫で回されただけなのに、なぜか膝が笑っている。 「貴方は…僕の…夢の中の人なのに…。」 息が上がって思うようにしゃべれない。 悟浄の濡れた指先が、今度は鎖骨を撫でている。 悟浄の指が濡れているのは自分の唾液のせいだと思うと頬が燃えるように熱くなる。 いつの間にか隣に体を密着させるように座っていた悟浄が、強引に、だが優しく、天蓬の顔を傾けた。 「初めて会ったときに、俺の唇が欲しいって触れただろ。お返しだ。」 うなじに回された手を強く引き寄せられる。 噛み付くようなキス。薄く開いていた歯の隙間からぬるりと悟浄の舌が入り込んでくる。 上顎の内側を丹念に擦られ、縮こまってしまう舌を絡め取られる頃には、天蓬はすっかり悟浄の腕の中に抱きすくめられていた。 「嫌だったら突っぱねろよ。…嫌じゃないんだろ。」 囁く声が甘くて、天蓬は悟浄の腕の中で小さく震えた。 胸が痺れるように心地いいのは、悟浄のきれいな指に撫でられているからだ。 それでも天蓬は、ゆるゆると首を振った。 「ま…待って下さい。僕は…。」 「あんたは俺にとっても夢だったんだ。」 呟くような悟浄の声。胸の突起をカリッと引っかかれて、思わず天蓬は声を上げた。 のけぞって首筋を晒すと、そこに悟浄が唇を寄せてくる。 熱い舌を押し付けられて、天蓬は荒い息をついた。 「知ってるか? 夢は必ず叶うから夢っていうんだぜ。俺はせっかく叶った夢を腕の中に抱きしめて、簡単に手放せるほどイイコじゃない。それにな。」 両の肩をぎゅっと掴まれた。至近距離に顔を近づけて、悟浄はためらいながらも笑う。 「夢ならなんでもありだと思わねえか?」 ぎしりと安物のスプリングがたわんだ。押し倒されたのだ、と天蓬が理解するまでに少し時間が掛かった。 悟浄が、天蓬の顔に掛かった髪を払いのけてくれる。その手が少し震えているのに天蓬は気付いた。 「なあ。いいだろう。…恐くないだろう?」 許しを乞うような声は初めて聞くものではなかった。 だが悟浄の紅玉の瞳の色を見て、天蓬はなんだか安らいだ気分になった。 半ば強引に自分の体をベッドに押し付けて、この大男は小さな子供のように脅えているのだ。天蓬に嫌われるのが恐くて。 こんな厳つい男を目の前にしてかわいいと思ってしまう自分が、天蓬は無性におかしかった。 そっと両手を差し伸べる。悟浄の顔を包み込み、頬の傷痕を撫でた。 「そうですね。セックスなんてただの粘膜の擦り合いですしね.。」 「あんたとは…そんなんじゃねえよ。」 怒ったように口を尖らすと、不意に悟浄は破顔した。 左頬にかすかなえくぼを浮かべ、透き通る少年の表情で泣き笑いの顔になる。 「よかった。あんたに嫌われたらどうしようかと思っていたんだ、俺。」 そして今度は丁寧の唇を重ねる。 優しく、掬い上げるようなキスに、天蓬は初めて、嫌悪感を感じずに他人の腕の中に納まっている自分を発見した。 我ながら白い足だと思う。日に当てる機会がないから、真っ白い肌に青い血管が水路のように浮いている。 その白い2本の足の間に、燃えるように赤い頭が蹲ってもぞもぞと蠢いている。わざとぴちゃぴちゃと舌を鳴らしているのだ。 天蓬の反応の一つ一つに歓喜するように、悟浄は手管を変え角度を変えては、天蓬を味わっていた。 天蓬は少し膝を閉じようと試みた。急に自分がどんなにしどけない格好をしているか思い当たり、恥ずかしくなったのだ。 「あ…あ、悟…浄、…お願いだから…。」 やっと伸ばした手を、悟浄の髪に挿しいれる。 だが、なぜか悟浄の顔を引き剥がす事はできず、炎の色の髪をかき乱すだけだ。 「もう…、そんな…。恥ずかしい…から。」 悟浄が頬張ったまま顔を上げた。見せつけるようにゆっくりと。 すぼめた唇にしごきあげられて、天蓬はあられもなく声をあげてしまう。 「何が恥ずかしいって? これからもっともっと恥ずかしいことすんのに?」 喋っている間が惜しいとでも言うかのように、今度は手がゆっくりともてあそんでいる。 するりと奥に滑らされた指が、天蓬の入り口をからかうようにむにゅむにゅと探っている。 「や…あ、悟浄…。」 「…とろとろだぜ。」 「ひあっ…あ…っ。」 ぬぷっと指が潜り込んでくる。入り口あたりだけを執拗に弄ぶ痛痒感がもどかしくて、天蓬は唇を噛んだ。 「もっと声を上げて…、おねだりしてくれよ。あんたも気持ちよくなくちゃやだよ。あんたが悦んでるって、感じさせてくれよ。」 「だっ…て、悟…浄。」 「そうそう、もっと俺の名前も呼んでくれよ。」 両の膝の裏に手を差し入れられたかと思った途端、両膝が胸につくほど体を折り曲げられていた。 これ以上は開きようがないと思っていた両足を更にもっと広げられ、自分でも見たことのない部分をさらけ出されてしまう。 「あっ、…やっ、悟浄…っ。」 埋め込まれたままの指に、悟浄が唇を寄せる。 熱い舌に細かいひだの一つ一つを丹念に嘗め回されて、天蓬は消え入るような声を上げた。 自分の声がおかしいくらい裏返っている。 「だめぇ、…そんなところ、嘗めちゃ…、悟浄…っ。」 「…だってあんたに辛い顔させたくないんだもん。…これで2本目入るかなあ。」 「あ…あ…あ…っ、悟…浄っ。」 「…大丈夫、3本目もいけそうだぜ。」 少し笑いを含んだ悟浄の声。だが、次第に高められていく天蓬は、ただ恥ずかしい声をあげないように唇を噛むしかできない。 十分にほぐされたそこは、埋め込まれるものの体積を難なく受け止めていく。 過去に経験した切り裂かれる激痛はなく、そこには単なる異物感と、間違いなく快感がある。 蹂躪されているはずなのに、心地よくて思わず腰が揺れ動いてしまう。 そんな自分が信じられなくて、拒むつもりで力を込めると、悟浄が小さく声を上げた。 「…っつ、締まるな、さすがに…。」 狭い穴に押し込められた悟浄の、指の関節の形まで感じられてしまい、全身が熱くなる。 嬉しそうに喉を鳴らした悟浄が、ゆっくりと中で指を曲げる。 押し広げられる感覚は苦痛よりも快感のほうが強い。 すすり泣く声が聞こえる。自分が上げている声だと信じたくなくて、天蓬は顔を背けた。 「よくなってきたか? 俺の指、くわえ込んで放さないぜ。」 「そ…じゃなくて…、んっ、あん…。」 だいぶ奥まで潜り込んだ指がある一点をつついた。 「ひっ、んああっ!」 それまでとは比べ物にならない快感の波に思わず天蓬は体を弓なりに反らしてしまう。 握り締めてしまった悟浄の髪がプチプチと千切れる音をたてた。 「…ここがいいんだ。」 「やめ…、出ちゃう…っ、ああ…っ。」 「いいぜ。…いっちゃいなよ。」 「だめ…っ、悟浄…っ。」 「おっと、…もったいねえ。」 再び悟浄の頭が伏せられる。今度は遮るまもなく、熱い口腔内に含まれてしまう。 柔らかい肉がぎゅっと締め付けると同時に、天蓬の一番鋭敏な部分をぐりぐりと擦られる。 天蓬は思わず声を上げ、体を丸めた。縋りつく暖かい体を捜して両腕がさまよい、やがて悟浄の頭を抱え込む。 胎児のような格好で、天蓬は悟浄の口の中に放っていた。 「悟…浄。」 「へへ、ごっそさん。美味かったぜ。」 「…ばか。」 満足そうに顔を上げた悟浄の口の周りが白く濡れている。 妙になまめかしいその笑顔がなんだか誇らしくて、天蓬は目をそらせない。 「なあ、…いいだろ。」 悟浄が哀願するように目を眇めた。体の奥で確かな存在感を持った指がくいくいと動く。 天蓬は息を弾ませて肯いた。求められていることが嬉しかった。 「はい。…いいですよ。」 あんなにしつこく口説いていたくせに、その瞬間悟浄は息を止めた。 紅玉の瞳を見開いて天蓬を凝視する。 天蓬は両腕を差し伸べた。悟浄が欲しくて、その頓狂な顔が可愛くて、ごく自然に顔が綻ぶ。 「来て…。悟浄。」 「あ…あ…あ…っ、悟浄…っ。」 絶え入りそうな声。こんな甘い声が自分に出せたのだろうか。 耳元で繰り返される熱い吐息に自分の拍動を合わせるように、天蓬はゆっくりと首を振った。 赤い髪がさらさらと顔の上を掠めていく。悟浄の汗の匂いがする。 「悟浄…っ、もっと…、もっと…っ。」 「天…蓬…っ。」 名前を呼ばれるだけで、つま先まで痺れるように気持ちがいい。 天蓬はやっと腕を伸ばして悟浄の尻を掴んだ。 きりりと筋肉の引き締まった青い果実のような悟浄の尻。もっと体の奥底まで悟浄を感じたくて、爪を立てて悟浄を引き寄せてしまう。 悟浄が耳元でうめいた。 「悟浄…っ、いい…っ。」 「ああ…、天蓬…、俺も…っ。」 いとおしくて胸が迫るのはなぜだろう。天蓬の目尻から涙が一筋流れた。 今感じているのは苦痛でも恐怖でもない。満たされた充実感、求められる幸福感で、息苦しささえもが快感なのだ。 天蓬は目の前にあった悟浄の首筋に歯を立てた。抱きしめても抱きしめても足りない。悟浄に触れていないところがあるのが嫌だった。 不意に呼吸ができないほど強く抱き返される。のけぞった体の最奥で、一際大きく動いた悟浄が熱く迸った。 窓の外が白んできた。遠くで小鳥が囀っている。天界では聞いたことのない声だ。 斜めに差し込む朝日の中に、紫煙が静かにたなびいている。一晩中天蓬の髪を撫でていた悟浄の手が止まった。 「ああ、…畜生、離したくねえなあ。」 「…離さなくてもいいんですよ。」 天蓬はそっと言ってみる。悟浄がふ、と息を漏らした。 笑っているようにも泣いているようにも聞こえる。 「…そうはいかねえだろ。おまえにはおまえの世界があるんだ。」 そう言いながら、天蓬を抱きしめる悟浄の腕は、少しも力を緩めない。 「僕は…貴方の夢ではなかったんですか。」 どうしても震えてしまう声を隠したくて、天蓬は悟浄の広い胸に耳を押しあてた。 暖かくて少し汗臭い悟浄の胸。だが、心臓の鼓動は聞こえない。 最初から判っていた。 紙の上に表記されたことしか実現しない世界。ここはきっと、頁と頁の隙間なのだろう。 この世界にとって天蓬は異分子なのだ。夜が明ければきっと新しい頁が繰られ、悟浄は天蓬に出会ったこともけろりと忘れてしまうに違いない。 完成された物語に、天蓬の割り込む余地は無いのだ。 出会った瞬間にはもう、別れることは決まっていた。 天蓬はゆっくりと顔を上げた。悟浄の首筋に少し血がにじんでいる。天蓬がつけた印だ。 天蓬の体の中も心の中も、こんなにも悟浄が溢れているというのに、自分が悟浄に残せるものといったらあんな小さな噛み痕だけかと思うと悲しかった。 「夢はよ…、必ず覚めるもんなんだぜ。」 悟浄の声も掠れている。 悟浄は思い切ったように抱いた腕を解いた。少し乱暴な手が天蓬を抱き起こす。 脱ぎ捨ててすっかりしわになってしまった白衣がふわりと裸の肩に掛けられた。 苦笑いをして、悟浄は天蓬の顔に手を伸ばした。 「そんな顔すんなって。おまえにはずっと笑ってて欲しいのに。」 親指で頬の上を撫でられて、天蓬は初めて自分が涙を流していることに気が付いた。 目を瞑る天蓬の瞼に悟浄のキスが降る。 「泣くなよ。…本当に手放せなくなっちまう。」 「どうしても…駄目なんですね。」 「………。」 悟浄の無言の返事が、なによりも強い肯定だった。 早朝に鳴く鳥の声もだいぶ遠くなった。もう時間が無いのだろう。 天蓬はそっと左手を伸ばした。悟浄の右頬に触れる。 「えくぼ…。」 「え?」 怪訝な顔をする悟浄に、笑って見せる。頬のあたりが引きつっていて、お世辞にもきれいな笑顔ではないだろう。 「えくぼは、本には書いてなかったですよね。これは僕だけが知っている悟浄の秘密ですよね。」 「…ああ。」 悟浄は自分の頬を天蓬の手ごと撫で、顔を歪めた。 その辛そうな顔を見て、天蓬はようやく、悟浄も本当に自分と別れたくないのだと信じることができた。それさえ確かめれば十分だった。これ以上悟浄に辛そうな顔をさせるわけにはいかない。 「そのえくぼを絶やさないで下さい。これからもずっと。」 「…約束できねえよ。」 それでも悟浄は少年の笑顔を浮べてくれた。 そしてその笑顔のまま、天蓬の肩をトンと突く。風景がぐにゃりと歪む。 天蓬の瞼に最後の悟浄の笑顔を焼き付けたまま、世界は暗転した。 頭がこつんと書架にぶつかった。 青白い蛍光灯の光が溢れる図書館の中で、天蓬は胸に赤い本を抱きしめたまま座り込んでいた。 心にぽかりと空いた穴を満たすように、ただ涙だけが溢れる。 嗚咽も上げない天蓬の側に、ふわりと白い人影が立った。 「大丈夫ですか?」 あの司書だった。やはり白いスカートは、くるぶしが隠れるほど長い。 「いかがでした? ありえない実話は…。」 「…とても…。」 そう言ったきり、天蓬は言葉を繋げない。 唇を噛み締めてうつむく天蓬の目の前に、ハンカチが差し出された。 「…人の存在なんて、そのことに意味があるのではありません。その存在を信じる人がいて初めて成り立つものです。 私とて、この図書館とて、貴方がこうして通ってきてくれなければ、存在しないものだと思いませんか? 貴方が信じていれば、きっとその人はどこかで存在していますよ。」 天蓬は少し驚いて司書を見上げた。彼女がこんなに長いこと話すとは思っていなかった。 目の前に差し出されたハンカチに目を落とす。そこには小さな、本当に小さな赤い花が刺繍してあって、天蓬は目を見張った。 その小さな赤い点が、司書の血の通いを証明しているようだった。 「…ありがとう。」 天蓬がにっこり笑ってハンカチを受け取ると、司書は頬に朱を上らせた。 「まあなんつうか、その…。」 捲廉がぶっきらぼうに話し掛けると、天蓬が息を飲んだ。捲廉はおやと思った。 珍しく天蓬が狼狽しているようだ。もしかして自分の世界に没頭するあまり、捲廉のことなどすっかり忘れていたのかもしれない。 「おまえが自分の顔にそんなコンプレックス持ってたなんて知らなかった。眼鏡も…その…。」 「…………。」 「天蓬?」 「…嫌だなあ。僕のド近眼は、捲廉が一番良く知ってるじゃないですか。この髪だって床屋に行くのが面倒で伸びちゃっただけですよう。第一この僕が、男に組み敷かれておとなしくされるままになってると思います? あはは。」 「何があははだよ。今のクソ長ぇ話は全部嘘かよ。」 だったらさっきの間はなんだったんだと突っ込みたいのを、捲廉はやっとこらえた。 天蓬ははんなりと笑う。 「酷いなあ。そんなに僕は信用が無いですかねえ。捲廉のことは一番の親友と思っているのに。」 「…そういうことかよ。」 捲廉は半ばやけになりつつ言葉を返した。 天蓬の言葉は、もうこれ以上詮索するなということらしい。 つまりは、全部嘘ではないが、総て本当だと思ってくれても困るということだ。 もっとも捲廉は所詮、天蓬がこの老獪な元帥の目をしたときには、勝ち目などありはしないのだ。 天蓬の話がどこまで本当でどこまで嘘でも、鵜呑みにするしか道は無い。 「前にも言ったでしょ。架空の話を真実に見せるためには、ちょっぴりホントの話を混ぜるのがコツだって。」 「だから、そのちょっぴりがどの辺なんだよ。」 「さあね。」 天蓬はくすくすと笑い、ふと真顔になった。 「それにしても、どうしても腑に落ちないことがあるんです。」 いつにない天蓬の真面目な顔に、捲廉も自然表情が引き締まる。 「どうして悟浄はニッカボッカなんか穿いてるんでしょうねえ。アレは色気がないですよう。脱いだあとなんて、提灯を二つ並べて置いたみたいで、味気ないことこの上ありません。…あれ? 捲廉、どうしました?」 ぐったりと床に突っ伏す捲廉に天蓬は声を掛けた。捲廉はやっとよれよれと顔を上げる。 「俺はそんなしょーもない話を延々と、こんなガキの前でするおまえの方がよっぽど腑に落ちねえよ!」 「あ、そういえば悟空、いましたねえ〜。」 なぜか嬉しそうに、天蓬は悟空の前にしゃがみこんだ。 悟空はといえばさっきから押し黙ったまま、その幼い顔に鹿爪らしくシワなぞ寄せて何事か考え込んでいる。 「悟空、僕の話、どのあたりまでわかりましたか?」 「んと、んとね。」 悟空は人差し指でくりくりとこめかみを擦った。 「俺もさあ、天ちゃんの顔、大好きなんだけど、それはダメなのかなあ?」 天蓬はゆっくりと微笑んだ。 まるで花が開くみたいだと捲廉は思う。この人の悪い男のどこに、こんなに邪気のない笑顔を作れる要素があるのだろう。 「可愛いですねえ、悟空は〜。いいんですよお、悟空に好かれるのなら大満足です。」 「いてててっ、天ちゃん、ヒゲが痛いよー!」 逃げ回る悟空をきゅっと捕まえて、天蓬は柔らかいほっぺたにほお擦りをした。 悟空は文句を言いつつも、きゃきゃきゃと笑っている。 「いいなあ、あれ。」 そんな二人を見ながらの捲廉の呟きはもちろん黙殺された。 「天ちゃん、俺、腹減ったからもう帰る。ア●パ●マン借りてっていい?」 「あ、僕も行きますよ。金蝉に頼まれてる本もありますし。というわけで捲廉、後片付けよろしくお願いしますね。」 「だから何で俺がっ!」 「それとこの本。預かっててください。」 捲廉は腕に天蓬が抱きしめていた赤い本を押し付けられて、一瞬虚を突かれた。 天蓬がずっと抱きしめっぱなしだった本は、ほんのりと暖かい。 「これがねえ、悟浄ですよ。」 天蓬は見事に1発で悟浄の挿絵の頁を開いて見せた。眼鏡の奥の目が優しくなる。 「ほら、悟浄の右の頬にえくぼがあるでしょう。だから僕はこうして今でも笑っていられるんです。」 「お、おい…。」 「じゃあ捲廉、あとは宜しく。」 天蓬は捲廉に片目だけを瞑って微笑んだ。 取り残された捲廉は、半ば呆然としながら悟浄の挿絵を眺めた。 「…何がえくぼだよ。俺には印刷のかすれにしか見えねえっつーの。」 なんだか悔しくて、悟浄に向かって口を尖らせる。 挿絵の悟浄が余裕綽々で笑っているのが気に食わない。指先でピンと一つ、生意気そうな鼻っぱしを弾いてやった。 「悔しかったら掻っ攫ってってみろよ。俺だって諦めねえんだからな。」 けんか腰に呟くと、なぜか笑顔の悟浄に睨まれた気がした。 |