久しぶりの予科は、酷く薄暗く見えた。この西の棟の端にその図書館はあるという。
俺はいよいよ確信を強くして歩いた。こんなに強い西日が指す場所など、通常は書庫にはそぐわない。だが、ますます天蓬の気配は濃くなっていく。俺はことさらゆっくりと一歩一歩を踏みしめて歩いた。
右にも左にも、似たような研究室が連なっていて距離感を損なうこと夥しい。自分がよく記憶している、同じ造りの東の棟の3倍は歩いたと思える突き当りに、なんだか薄暗くかすむようにしてその扉は現れた。

俺は静かに扉を開けた。古い建物なのだろうか、嫌に軒が低い。少し身をかがめて覗き込むと、真っ白い司書がいた。
憂鬱そうに振り向いた彼女は、天蓬の話よりはだいぶ幼く見えた。すいと腕を上げて指差す爪の先まで、天蓬の話の通り真っ白だ。
彼女はそうして一点を指し示すと、僅かに俺に向かって頭を下げた。何にも喋らない彼女から、大きな使命を託された気がして、俺は頷き返して見せた。彼女はほんの少し微笑んで見せたようだ。もう一度俺が彼女を振り返ったとき、彼女の姿はかき消されたように消えていた。

彼女が指を指したのは、天上までびっしりと本を詰め込んだ書架の前だった。
入り口があれだけ低かった割に、天井は俺の身長の倍ほども高く、襲い掛かってくるような本の群れに、俺は威圧感を感じた。
どうにも見通しの悪い空間で、決して明かりが必要なほど暗くはないのに、よく見渡せるのは両手を広げたぐるりくらいの距離だけだ。
もしかすると、このまま永久に抜け出せない本の迷宮に迷い込んでしまったのかもしれない。そんな考えがちらりと頭を掠めたが、俺はそのまま歩きつづけた。俺を突き動かしているのは、天蓬の気配だけだった。
そして数歩歩いた先に、唐突に天蓬は現れた。



本が散乱している、そこはなんだか懐かしいような場所だった。
書庫を背にして座り込んだ天蓬は、あっちにもこっちにも読みかけの本を広げ、そのくせ何の本も読まずに蹲っていた。片方の膝を抱え、もう一方の足は投げ出して、背中を丸めたやつれた姿は、酷く弱々しく見えた。

「…よう。」

そっと声を掛けると、びくっと背中が竦んだ。それから強張った顔がゆっくり上げられる。

「じじいがヒステリー起こしてたぜ。お前がいなくなったってな。長期のサボタージュとは、元帥閣下も結構やるじゃねえか。」
「………教授に頼まれて探しに来たんですか?」
「まさか。俺がお前に会いたいから来たんだ。」

俺は散乱している本を適当に蹴飛ばして、天蓬の隣に腰掛けた。天蓬は半ば魂の抜けたような仕草で、俺をぼうっと見つめている。
俺はあたりに吸殻が散っていることを確認してからポケットを探った。どうやらここは禁煙ではないらしい。

咥えて火をつけた煙草を、ぎゅっと天蓬の唇にねじ込む。軽すぎるといつも必ず文句を言う天蓬が、文句も言わずに紫煙を吐き出したのを見届けてから、俺は自分の分を咥えた。
チェーンスモーカーの天蓬に物足りないニコチンでも、鎮静作用はあるだろう。

「で、どうしたよ、一体。」

わざと天蓬を見ないで聞く。これで3回目の問いかけだ。今度こそ俺は譲る気はなかった。
こんな風に天蓬をひしゃげさせている何か。それを聞かずにはいられない。天蓬は深く煙を吸いこんだ。紫煙を吐き出して、一旦伸ばしかけた背中を、ゆっくりと丸めた。

「あなたが遠征に行ったと聞きました。」

消え入るような小さな声だ。

「教授のたくらみだとすぐに分かりました。それでも、僕は何とか我慢しました。あなたがいないと取り乱す姿を、彼には見せたくなかったから。だけど、あなたは予定を過ぎても帰ってこない。だから…もう我慢ができなかったのです。」

天蓬の咥え煙草の先に、灰が長くついている。俺はそれが天蓬の白衣に焼け焦げを作る前に払ってやった。
どれだけ長いこと蹲っていたのか知らないが、きちんとプレスされていたはずの白衣がくしゃくしゃになっていて、それが俺にはとても懐かしかった。

「もし…あなたがもう戻ってこないとしたら…、僕はどうしていいか分からない…。」
「ばぁか。俺は痩せても枯れても大将様だぜ。前線に出るわけねえだろが。俺が討たれる時は、天界がひっくり返るときだ。」

本当は俺は、いつでも真っ先に前線に飛び出していく。それは誰でも知っているし、もちろん天蓬も例外じゃない。
だが、俺はあえてそう言った。俺は天蓬を残して死ぬ気は毛頭ないからだ。

「それより…、言いたいこと、全部言っちまえ。胸につっかえてることがあるんだろ。ここなら誰にも聞かれねえ。俺が全部聞いてやるから、言ってみろよ。」

俺は天蓬の額に頬を擦り付けるようにして囁いた。細い肩を抱くと、意地っ張りの天蓬は小さく震えていた。俺はあやすようにその背中を撫でながら、元帥閣下の総てを知っていると豪語していたじじいを思い出して、方頬で笑った。
あんたの元帥閣下がどんな奴か知らないが、俺の天蓬はこんなに意地っ張りで情けなくて、そして可愛い奴なんだぜ。

「あの老夫婦は…きっと覚悟を決めていたのだと思います。」
「ああ? なんだって?」

突拍子もない言葉がいきなり天蓬の口から出て、俺はびっくりした。天蓬は俺の肩に顔をうずめるようにして小さく笑った。

「あなたに『跡隠しの雪』の話をしたでしょう。その老夫婦の事ですよ。僕は、彼らが羨ましいんです。」

小さな小さな声で、天蓬は喉を震わせた。



「貧しい農村…しかも真冬で、雪の降り積もる頃…、老夫婦にはもう仕事はないはずです。」

天蓬は数本の煙草を吸い、しっかりした声で話し出した。いかにもこの場にはそぐわないような話で、俺はいらいらと煙草を噛んだ。
だが、天蓬が本当に話したかったことを話し始めたのが俺には分かる。天蓬はきっと俺に何もかも打ち明けてくれるはずだ。そう信じて、俺は天蓬の話に耳を傾けた。

「真冬の家で食べ物が尽きる。…旅の僧に僅か1食も施せないほどに。それはすなわち、死を意味します。老夫婦はその静かなたたずまいの中で、終焉を迎えることを覚悟していたのでしょう。本当ならば、雪が融けた頃、二人は密かに人々に弔ってもらうはずだったのです。目の前にたわわに実る大根畑に手もつけない二人なのですから、それはもう清く、平凡な生涯だったでしょう。
終焉の間際に訪れた僧は、彼らに最後の善行と罪悪を行う機会を与えにやってきたのです。」

天蓬は言葉を切った。俯くと長い髪が表情を覆った。

「僕が予科に入ったのは成り行きでしたが、それでもいい選択をしたと思っていたのです。
教授は、ああ見えて数々の体術を会得した猛者で、僕は講義でも私生活でも、ずいぶんお世話になりました。僕が今身につけている体術、この半分は教授に伝授してもらったものです。…僕はどういうわけか、子供の頃から…変な趣味の奴等に目をつけられる事が多くて、護身の必要性を感じていましたから。
もともと大好きな戦史、そして丁寧に教えてくれる護身術。僕はどんどん彼に傾倒して行きました。僕は本当に教授を信頼していて、教授の必要以上に接触を好む癖に気付かなかったのです。だけど教授は、僕が無邪気な子供であることが…とても気に入らないようでした。」

天蓬の後方に、ほの明るい光を見て俺は息を飲んだ。開きっぱなしになっている本が、燐光を放っている。まるでスクリーンのように淡い光を放ちながら瞬いているその中にいるのは、間違いない、青年の天蓬だ。

まだ若い天蓬は、今とはかなり印象が違う。
ぴんと伸ばした背筋には、人を寄せ付けないよそよそしさが漂っている。厳しい眼差しでまっすぐに人を見詰めるのは、もしかして警戒心が強すぎるからかもしれない。
凛とした姿とは裏腹に、どこか怯えを思わせる弱々しさを、彼はその細い体に湛えていた。

「当時の僕には、友達はいるにはいましたが、なんだかみんな僕を遠巻きに見ているだけで、決して親しく付き合ってはくれませんでした。…いえ、むしろ僕がみんなを遠ざけていたのかもしれません。あの頃、僕の周りには、怖い物とくだらない物がたくさんありすぎました。」

天蓬はふっと乾いた笑みを零す。
本の中の天蓬は、きゅっと口を引き締めて挑むような目をして一点を見詰めている。当時から長かった髪がはらりと舞った。予科の中庭だろうか、青年の天蓬が立っているのは、緑生い茂る木立の前だ。周りには数人の青年もいる。
どうやら彼が睨み付けているのはその一団の青年たちらしい。

開きっぱなしの他の本達も、光を放ち出した。まるで俺の視界に天蓬のすべてをさらけ出そうとしているようだ。
どの本の中にも天蓬がいる。少年の天蓬も、もっと幼い天蓬もいた。
どうしてどの天蓬も、こんなに思いつめた目をしているのだろう。人を拒むような視線はなんだかとても嗜虐的で、俺にでさえねじ伏せたくなるような錯覚を覚えさせる。

「ある日…僕は、教授のお使いで、人気のない倉庫に資料を取りに行かされました。そこに…悪意を持った男たちが待ち構えていたのです。」

天蓬の肩が小さく震える。俺はその肩を抱く手に力を込めた。
本の中は薄暗い倉庫の中へと場所を移動させている。天蓬を取り囲んでいるのは、中庭で彼を遠巻きに眺めていたあの青年たちだ。

「僕は、少しばかりの護身術を身に付けて天狗になっていましたし、最初はそんなに人数がいるとは思わなくて、うかつに誘い込まれてしまいました。
暗がりで後から襲われて、抵抗も適わずに引き倒されて…、埃臭い倉庫の床に、僕は裸にひん剥かれて押さえ込まれていました。」

本が忙しく瞬いている。本の中の天蓬の白衣が翻っているのだ。本たちは天蓬の言葉少ない告白を俺に包み隠さず打ち明けていた。
男たちはまず天蓬の頭を棒で殴った。天蓬の足元がそれで定まらなくなると、醜悪な笑顔を浮べた男たちが彼を取り囲む。
天蓬は最初の一撃でかなりのダメージを受けたようだった。眼鏡が吹っ飛び、額には一筋の血が流れている。だが、天蓬はけなげに抵抗していた。
定まらない足を踏みしめ、何人かに正確に反撃もした。目に流れ込んだ血を拭う姿がまるで泣いているように見えて、俺は歯軋りをした。
これが今この場で行われていることなら、俺がこいつらを必ず半殺しにしてやるのに。
だが、俺の焦りも虚しく、やがて天蓬は押さえ込まれていく。一度つかまってしまうと後はもう奴らの思うままだった。天蓬はサンドバッグみたいにぶん殴られ、挙句に衣服を引き千切られ、固い床に叩きつけられた。

「学生間のくだらない諍いがあって、僕は彼らに目をつけられていることは承知していました。
だけど、まさか彼らがそんな風に一致団結して襲ってくるとは夢にも思っていなかったのです。彼らは彼らなりに反目している同士でしたし、僕との小競り合いは常に一対一のはずだったのです。
だから僕は…油断していました。」

俺は本の中の天蓬から目を離せなくなっていた。薄暗い床の上で、天蓬の白い肌はやけに刺激的だった。
眼鏡を外した天蓬は、大人になりきっていない危うげな美貌の反面を無残に朱に染めている。誰かに顔を殴られたらしい。酷く鼻血を出しているのだ。
それでも燃えるような目で睨み付ける天蓬はとても綺麗だった。

天蓬の白い足が高く上げられて、それが無理な方向に捻じ曲げられる。床に押さえ込まれた天蓬が激しく全身を震わせた。男たちはその荒っぽい作業を、天蓬の華奢な両足に行った。

「全部で6人いました。裸にされた後は、お定まりの…陵辱でした。僕が逃げ出さないように、彼らが僕を自由にしやすいように、両足を外されてしまいましたし、僕が泣き叫ばないというので、…かなり酷いこともされましたよ。」

天蓬の低い声が、少しずつ少しずつ震えていく。俺は天蓬の薄い背中をぎゅっと抱きしめた。天蓬の告白が彼自身を押しつぶしてしまいそうに思えたし、何よりも彼に瞬く本たちを見せたくなかった。
本の中の天蓬たちは、それぞれが俺に苦境を訴えていた。腕の中の天蓬が、くっくっと喉を震わす。笑っているようなその声は、嗚咽のようにも聞こえる。

青年の天蓬に、無骨な背中が覆い被さっていく。両腕を押さえつけられた彼には、せいぜい激しく首を振ることでしか拒絶を表せない。
男の背中が規則正しく動き出しても、天蓬は悲鳴も上げない。ただ唇を噛み締めて顔を背けるだけだ。
男たちの行為は次第に乱暴になっていく。天蓬を文字通り身も心も屈服させたいのだろう。だが、思うままに行かない苛立ちが、凶暴さに姿を変えていくのを、俺はただ息を飲んで見つめるしかできない。

男たちは短い会話を交わしたようだ。本の中での出来事は、その音までは俺に伝えてはくれない。だがその会話の内容が何であったのか、俺はすぐに分かった。
男たちが邪悪な笑みをその顔に浮べる。ぐったりした天蓬の髪を掴んで何事か囁く。初めて天蓬の顔が恐怖に歪んだ。
放された腕が頼りなく床を掻いて、男たちの前から逃れようと足掻く。背中から男がのしかかった。勢いよく突き上げられて、天蓬の体が震える。
そのまま男は体を返した。腹の上に天蓬を乗せたまま、男はいやらしく笑っている。足の関節を外された天蓬の秘部は隠しようもなく露にされていて、夥しい出血と白い粘液にまみれたそこに、男のものが深深と埋め込まれている様まではっきり見える。
肩越しに男が囁いた。口の動きが俺にも見えた。―力を抜け―男は確かにそう言った。

もう一人の男がのしかかってくる。天蓬の口が絶叫の形に開かれる。腕が虚しく空を掻く。男たちは自らも苦痛に顔を歪めながら、天蓬を破壊するのを楽しんでいた。
もともと異物を受け入れるようにはできていない器に醜い欲望を同時にねじ込み、天蓬を引き裂いていく。
ついに堪えきれずに、天蓬の両の眦から涙が溢れ出す。喉を震わせ、全身を痙攣させて、天蓬は何度も叫ぶ。
その言葉が哀願なのか罵声なのか、俺にはそこまではわからない。だが、その言葉が男たちをますます猛らせるのは分かる。
男たちは痛みに顔をしかめながら満足そうに笑う。そして無理矢理に突き上げ始めた。男たちの間に挟まれた天蓬の顔が蒼白になっていく。悲鳴を上げながら、何度も失神し、そのたびに叩き起こされる。
醜い男たちの間で揉みくちゃにされ、陵辱の激しさに冷静さを欠いた天蓬は、それでもとても美しくて清らかに見えた。

「……行為自体は、耐えることができました。何がどのように行われるかはちゃんと知っていましたし、…初めてのことでもありませんでしたから。だけど、卑怯な手段でねじ伏せられることが、僕には耐え難い屈辱でした。」

散々に天蓬をなぶった男たちが、やっと腰を上げる。
哄笑を残して去って行く後ろ姿に、俺は煮えたぎるような怒りを覚えた。天蓬はぼろ雑巾のように床に打ち捨てられたままなのだ。乱暴に捻じ曲げられて変な方に向いてしまっている両足もそのままで、倒れて喘ぐ天蓬は酷く痛々しい。
何度も起き上がろうと身をもがくのだが、そのたびに崩れ落ちては苦痛に顔を歪める。天蓬の頬を新たな涙が伝う。打ちのめされた天蓬は、敗北感に体を震わせているのだった。

「何とか自力でそこを立ち去ろうと努力したのですが、体に与えられたダメージが大きすぎて、僕はどうすることもできませんでした。脱臼を放置されて、熱も出てきたんでしょうね、だんだん視界もぼやけてきて…。だから僕には、そこに現れた教授が救世主のように思えたのです。」

扉が開け放たれて光が差し、それを背後に抱えてあのじじいが姿を現した。今より一回り体格が大きく、毛髪などにも若さを感じる。それでも矮小な男には変わりなく、俺は嫌悪を感じた。
じじいはまっすぐ天蓬の方へ進んでくる。この惨状にひるむ様子も見せない。天蓬がじじいに気付いて身動ぎした。時間が経っているのか、ずいぶん消耗が激しくて、天蓬は腕を上げるだけで息を荒げた。

「教授は、立ち尽くしたまま僕を見下ろしていました。僕がどんなにしどけない格好をしているか、十分に分かってはいましたが、彼を信頼していましたし、外された足が痛くて痛くてたまりませんでしたから、…僕は彼に救いを求めたのです。それは…彼を喜ばせるだけでした。彼は僕に向かって、君が悪いんだとだけ言いました。
そして彼は、動けない僕を、…無理矢理抱いたのです。」

白い指先が空中で頼りなく震えている。張り詰めていた若い天蓬の顔が安堵に緩んだ。
すっかり色の褪せた唇が、震えながらじじいを呼ぶ。じじいは突っ立ったまましばらく天蓬を見下ろしていた。やがて唇の端からじわじわと湧き上がるような歓喜に、じじいの顔が笑み崩れていく。
俺が見たのと同じ狂気の表情を、寸分違えることなく、じじいは若い頃の顔に浮べていた。

天蓬の顔が訝しげに曇った。天蓬の髪を乱暴に掴んだじじいの唇が動く。―君が悪いんだ―聞こえないはずのその声は、俺の耳に直接吹き込まれたかのように響いた。
じじいは叩きつけるような勢いで天蓬の救いを求める手を掴んだ。床に押さえつけられて、それでもまだ天蓬の顔には僅かな期待が残っていた。その僅かな期待ごと、じじいは天蓬を組み敷き、押さえつけ、天蓬を支配した。
天蓬の拒絶は殆ど示されなかった。ただ唇が呟くように一言、イヤダと動いただけだった。

次第に本の明滅が小さくなっていく。他の本も同様だった。どの本の天蓬たちも、明るい顔をしていない。
幼い天蓬は泣きじゃくり、少年の天蓬は唇を噛み締めて俯いている。だが、どの天蓬よりも、青年の天蓬は絶望していた。
もしかしたら、この一件で天蓬は希望を抱くことを失ってしまったのかもしれない。だから本たちはこの青年の天蓬より先の記録を刻んではいないのだ。そう思わせるほどに、青年の天蓬の顔色は白かった。

「気がつくと僕は、質素なベッドに寝かされていました。脱臼は両足ともきちんとはめられていました。教授は骨接ぎも得意でしたから、治療も…骨を外すことも、そう難しいことではなかったのでしょう。だけど、放置されていた時間が長すぎて、僕は酷く弱っていました。

窓が薄く開いていて、そこが教授の家の一部だと、景色で分かりました。僕はそれまでにも教授の家には何回か、授業の相談などで訪れていましたから。
そんなに長いこと寝ていたわけではないのは、切り裂かれた傷の生々しい痛みで分かりました。教授は僕を担いで自分の家に連れ帰ったようです。
僕は本当に甘ちゃんで、まだ教授を信じていたかった。だけどこの鎖骨に…教授の歯形が残っていて、それが僕を現実に立ち返らせてくれました。」

天蓬は俺の肩に顔を埋めるようにして、片手で襟元をぎゅっと掴んだ。
天蓬の襟元には引き連れた傷跡がある。天蓬がいつもネクタイを欠かさないのは、それを隠すためかもしれない。

「熱に浮かされながら、僕は必死に考えました。
不自然な男たちの結託、あんまり偶然に過ぎる倉庫での鉢合わせ、鮮やか過ぎる関節の外し方、そして倉庫とこの家との距離。僕の考えは次第に一つに固まっていきました。
その考えは、僕が寝かされている部屋に外から鍵が掛けられているのを見つけたときに確信に変わりました。これは総て教授の仕掛けた罠であったと。」

天蓬は息を詰めた。全身が強張っているのが分かる。俺は天蓬の背中をゆっくり擦った。
天蓬の長い告白が、彼の精神力を削り取っていくのが分かる。

本はもうすっかり明滅を止めていた。白い頁には、難しい論文だけが踊っている。
こんなことがなければ、決して天蓬の唇に上ってはこなかったであろう忌まわしい過去たち。ここで俺がそれを聞くことで、またしばらく天蓬の奥底で眠っていてくれるのだろうか。彼を悩ますことがないように。

「…必死でした。今逃げ出さなければ、これから先僕はどうされてしまうかわからない。
その部屋は2階でしたし、こんなに弱っている僕が歩けるとは、教授は夢にも思っていなかったんでしょう。…実際、立ち上がるだけで脂汗が吹き出るほど痛くて気が遠くなりかけました。だけど僕は、枕もとに置いてあるものだけを掴んで、開いている窓から逃げ出したのです。

どこにも行くところはありませんでした。自分の家は真っ先に探り当てられそうだし、頼れる友人もいません。
やっと考えついた避難所は…おかしいですね。あの、僕が騙されて誘い込まれた倉庫の2階の片隅でしたよ。

何回か、誰かが僕を探しに来ました。
きっと目を凝らせば、僕がいざる様にして梯子を上った跡も見つけられたのでしょうが、なけなしの罪悪感が働くんですかね。誰も奥まで探しに来ようとはしませんでした。
僕は誰かの足音を聞くたびに息を殺して、小さく縮こまって、ひたすらに震えているだけでした。それが本当に僕を探しに来ている者の足音かどうかも分からないのに。
…あんなに悔しくて情けないことはなかった。」

天蓬は重たい体を引き上げるように、俺の肩口から顔を放した。その俯いた姿勢のまま、ぼそぼそと話を続ける。

「僕が教授の家から持ち出せたのは、数回分の鎮痛剤と煙草とライターだけでした。それだけを握り締めて、ようやく歩きました。
倉庫の2階に逃げ込んだ途端に意識がなくなって、…数日間、地獄を味わいましたよ。鎮痛剤は大して効き目がなくてすぐになくなってしまったし、煙草は…必要だったのです。教授の置き土産を消すために。

曇った書架のガラスに、かろうじて自分の姿が映りました。顔は腫れ上がって、髪にはまだ血がこびりついていたし、とにかく酷い有様でした。だけど襟元さえ見えればよかった。
僕は煙草に火をつけて、それで鎖骨の上の歯形を何度も何度も焼きました。火傷の痛みより、惨めな自分が悔しくて、涙が止まりませんでしたよ。…そんなバカなことをしたから、回復も遅かったんでしょうがね。

なんとか歩けるようになって、顔の腫れも引いた頃、僕は予科に戻りました。
まだ体は辛いし、見るからにやつれてしまっているし、…何より教授たちと顔を合わせるのが嫌で、何度ももう予科を止めてしまおうと思いました。だけど、僕はどうしようもない意地っ張りで、そんな自分が許せなかった。
だからそのまま軍にも進んだのです。ただし、連中や教授の下に着くことだけは、どうしても我慢ならなかった。だから僕は軍の中でもできうる限り高位に付かなければならなかったのです。」
「…それで元帥…か。」

思わず呟いた言葉に、天蓬が小さく頷く。彼は深く息をついて、ぎゅっと肩をすぼめた。

「………旅の僧が現れて、平穏無事に終わるはずだった老夫婦の生涯に汚点がつきました。
僧への施しは、結局自己満足と言われてしまえばそれまで。僧はすぐに旅立ってしまうし、後に何も残りません。
だけど、神は、老夫婦のその清らかな生涯を愛でたのでしょうね。彼らと同じ、清らかな真っ白な雪で、彼らの最後の汚点を包み隠してくれたのです。老夫婦は許されて、真っ白な雪に染められて、その平穏無事な生涯を穏やかな気持ちで終わらせることができたのでしょう。
だから僕は…彼らが羨ましいのです。」

天蓬が顔を上げた。いつから泣いていたのだろう。青ざめた頬の上を、行く筋も涙の伝った跡がある。

「僕の胸には雪は降らない。どんなに忘れようと努力しても、いつでも僕の胸には忌まわしい記憶が深い穴をあけて僕を手繰り寄せようとしている。僕の周りには、昔も今も、僕の望まないことがたくさんありすぎる。本当に僕が欲しいものは…この手をすり抜けていってしまうというのに。」

少し引かれた気がして、俺は下を見た。いつのまにか天蓬の手が俺の服の裾を握り締めている。決して甘えを見せない天蓬の、僅かばかりの譲歩なのだろうか。拳を白くして、天蓬は俺の欠片に縋っていた。

「あなたが帰ってこないので、教授を詰問しました。彼は薄笑いを浮べながら、あのときのように今でも自分は僕を支配できると言いました。それで、…学生の頃からずっと問いただせなかったことが、やはり僕の懸念どおりだったと…確信できてしまったのです。僕はもう…平静ではいられませんでした。」

天蓬の細い肩が震える。嗚咽を堪えて歯を食いしばる天蓬の頬を、俺はそっと両手で包んだ。眼鏡が邪魔だ。取り上げても天蓬は逆らわない。俺は静かに天蓬の顔を引き寄せて、溢れ出る涙を唇で拭った。

「僕の…罪だというのです。僕が、彼を誘ったと。僕が彼を狂わせたと。
そんな甘ったれた教授の言葉に動揺させられて、取り乱してしまう僕自身の弱さが許せない。僕は…誰にも弱みを見せたくない。 僕の弱さも罪も、何もかも覆い隠してくれる雪が…僕の胸にも降って欲しい…。」
「…俺がなってやるよ。」

俺は天蓬を深く抱きしめた。頬にざらりと無精ひげの感触が触れる。それでも天蓬の体は薄くて華奢で、抱きしめて守ってやらないと消えてなくなってしまいそうに思えた。

「俺がお前の跡隠しの雪に…なってやる。」

まだ何か言いたそうな唇を深くついばんだ。かすかに涙の味がした。

俺は天蓬を引き寄せて、彼の震えが治まるまでしっかり胸に抱きしめていた。



ここはどこだろう。俺はあたりを見回した。
どうやら予科の空き教室の一つらしい。あの図書館は影も形もなくなっていた。天蓬の作り上げた避難所は、その役目を終えたらしい。俺が新たに天蓬の避難所として認められたということなのだろうか。なんともこそばゆい気分で、俺は隣を見た。

俺の腕を枕に、乱れた長い髪が乗っている。俺は抱き寄せるように顔を近づけて、小さく笑みを漏らした。
洗わない髪の匂いがする。これこそ間違いなく俺の天蓬の匂いだろう。もしこれで花の香でもしようものなら、俺は今まであったことを総て信じられなくなる。

「…呆れてしまいましたか? 僕の事を…。」

不意に声がした。眠っているとばかり思っていた天蓬は、身動ぎもしないで俺の腕の中で何事か考えていたらしい。

「あの行為の時、教授は僕に、自分の事を名前で呼ぶように強要しました。だからこそ、彼は僕にとっては永遠に教授なのです。彼の名前は二度と呼びません。」

自分に言い聞かせるように呟いて、天蓬は口調を変えた。

「僕はあなたが思っているような奴じゃなかったでしょう。弱くて、…泣き虫で。」
「いいじゃねえか。弱いところの一つや二つ、あったってよ。」

天蓬は俺を見上げた。綺麗な翠の瞳は、泣き腫らしてはいるが、静かな光を湛えている。俺はそっと天蓬の髪を撫でた。

「誰にとっても満点の奴なんているもんか。おまえは俺にとっては満点だから、それでいいんだ。他の奴には合格点のおまえだけを見せてりゃいい。誰にも…本当のお前の素晴らしさが分からないように。」

天蓬が顔を伏せた。気のせいだろうか、彼は少し頬を染めたようだ。

「……教授には、退職してもらいます。」
「…うん。」
「職権乱用する人は、作戦を練る中枢には置いておけませんし、…僕の秘書役は、これからもあなたが務めてくれるようですから。」
「ああ、…分かったよ。」
「よかった。これで心置きなく煙草が吸えるし、…遠慮なく部屋も散らかせます。」
「…そりゃ、秘書じゃなくて、清掃夫だろ…。」

天蓬は楽しそうに笑った。俺がよくなじんでいる通りのシニカルな笑顔で、俺は心底ほっとする。
体を起こした天蓬の、鎖骨の上の引き攣れが、心なし少し薄く見えた。

あのじじい、結構いいセンいってたな。俺はかすかにそう思う。確かに弱りきって縋ってくる天蓬は、眩暈がするほど綺麗だった。
だが、天蓬の一番綺麗なのはそんなところじゃない。

「なあ、あのじいさんの名前、なんてんだ?」

結局じいさんとしか呼ばなかった事を思い出して俺は聞いてみた。天蓬は動揺の一つも表さずに小首を傾げた。

「………忘れちゃいました。」
「…おい。」
「だって、僕の胸にも、暖かい雪が降るようになったから。」

いかにも照れくさそうに、天蓬は微笑みかけてくれる。裸の肩に髪が滑り落ちて、俺を誘うように舞った。

「僕にはお似合いの…ヤニ臭い雪がね。」

俺をけむに巻くように、天蓬はあでやかに笑う。気取りけの無い少し人の悪そうな笑顔が嬉しい。この笑顔、俺だけに向けて微笑んでくれるこの笑顔こそ、天蓬の最も美しい表情だ。

俺が雪なら、天蓬は温かい大地だろう。この、少し乾いた大地を包み込んでいられるのなら、俺はこの身を尽くして雪を降らせよう。柔らかく抱きしめた大地が豊かに潤って、いつまでも大いなる実りに恵まれるように。
俺は眩しい笑顔に少し目を細めて、密かに永遠を誓った。



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