濡れそぼった袈裟が重い。
雷はなりを潜めたものの、雨は一向に衰えない。俺はよろよろと歩んでいた。
しばらく切っていない前髪が俺の目の下にまで張りついている。
何度拭っても、あっという間に濡れた髪は簾のように垂れ下がってきて、俺の顔の上を川のように雨が流れた。
呼吸までままならなくて、俺は無様に口を開けっ放しで歩いていた。
体が重くて堪らずに、俺は懐や袂の中の捨てられる物はすべて捨てた。
よっぽど経文と冠も捨てようかと思ったが、そうしなかったのは悟空に対する意地なのかもしれない。
俺は僧侶であることを選ぶために悟空を切り捨てた。ここで三蔵の証たる経文と冠を捨てるわけにはいかない。
悟空がおずおずと俺の後をついてくるのはわかっていた。振り返ればきっと、泣き出しそうな顔をして俺を追っているはずだ。
いや、もう既に泣きじゃくっているのかもしれない。
こんなことは初めてではない。もっとずっと前、俺の髪が背中に掛かるほど長かった頃にも…。
さっきからなにを考えているのだろう。
俺の髪が今より長かったことなどない。俺はくだらないことを考えつづける頭を振り落とすように頭を振った。
雨粒が一瞬俺の顔を離れて呼吸を楽にするが、すぐにまた滴るほどに濡れてしまう。
心のどこかで、こんな事は間違っていると誰かが叫んでいる。
だが俺はもう疲れすぎて、深く考えることもできずにいた。

「寒い…。」

俺は自分の両腕を抱いた。途端に頭の天辺まで突き抜けるような痛みが走る。熱でも出てきたのか、しきりに体が震えた。
下着の中までズクズクに濡れていて、氷のような布が肌に張り付いて冷たい。
そのくせ頬や頭の中は燃えるように熱いのだ。森の木々が、真っ黒な触手を広げて俺を誘うように踊る。
木の根までがうねうねと踊りだした。
足がもつれて、俺は頭から転がった。したたかに額を打ち付けたようだが痛みはない。
口の中に入り込んだ泥水が舌の上でじゃりじゃりと音を立てるのが不快だった。
呼吸が苦しくて体を反転させると、雨は容赦なく俺の鼻からも口からも流れ込んだ。
次第に暗くなる視界の端に、悟空が飛び込んでくる。思ったとおり泣き出しそうに顔をゆがめている。
こんな光景を、前にもどこかで見た。
酷い敗北感に苛まれていて、だがなんだかとても幸福だった。
悟空の差し伸べる手が、とても暖かそうに見えた。しかし今の俺はそれももうどうでもよかった。
ただこの酷い雨が、俺の顔に付いているであろう泥水を洗い流してくれるだろうかなどと馬鹿な事を考えていた。



真っ暗な中、遠くで誰かが笑っている。近づいたり遠ざかったりしながらも、その忍び笑いはだんだん明瞭になっていく。
その声がやけに耳障りで、俺はいらいらと首を振った。
すると、少し離れたところで暖かそうなオレンジ色の光が灯る。俺は安心してその光の方に歩み寄った。
さっきから寒くて仕方がなかったのだ。だが、その光は手をかざしてみてもちっとも暖かくなかった。どうしてこんなに寒いのだろう。
俺は仕方なくその光にもう少しにじり寄った。
すると光の中に人影が見えた。俺はその人影を見て、思い切り嫌な気分になった。

「やれやれ、おまえの頑固なのは相変らずだな、金蝉。」
「…またあんたか。何の用だ。」

観世音はえらそうに腕を組んで、俺を睥睨した。
奴の体が音もなく浮き上がって、俺は見下ろされる形になる。ますます面白くない。

「せっかく俺がおせっかいを焼いてやったのに、おまえがいつまでも煮え切らないから、助け舟を出しにきたのさ。」
「…何のことだ。」
「決まってるだろう。あのかわいそうなサルのことだよ。」

観世音はふんとあざ笑うように鼻を鳴らした。
観世音が悟空のことをサルと呼んでいるのはすぐに分かった。なんだか無性に腹が立った。
悟空のことをサル呼ばわりしていいのは俺だけだ。

「…相変らずの独占欲だな、金蝉。」

俺の心を見透かすような目をして笑う。頬が熱くなるのを感じ、俺はそっぽを向いた。
観世音はふと真面目な顔になった。空中をすいっと進んで俺の真正面から顔を覗き込む。
初めて見る観世音の真顔は、いつもと違ってそれなりに神々しさを湛えていた。
俺は目を逸らせなくなってあとずさった。

「また泣かすのか。いいかげんに思い出してやれ。」
「な…何のことだ。何もかも忘れちまってるのは悟空のほうだ。」

痛いところを衝かれた気分になり、俺は思わず口篭もっていた。
観世音は大袈裟にため息をつき、俺の側からふいと離れた。眉間にシワを寄せると、女そのものの姿が妙に男らしく見えた。

「…本気で思い出せないのか?」

口調に哀れみがこもる。馬鹿にされた気分になって、俺は眉を吊り上げた。
ガキの頃から俺の一睨みは悪評が高かった。
迫力満点で、大の男でさえぎくりとするのだそうだ。だが、観世音にはまったく通じなかった。
観世音は更にえらそうに顎を反らした。真顔のまま俺を睨みつける。

「いくら俺が温厚だってな、いいかげんに怒るぞ、金蝉。」
「それはこっちのセリフだ。俺にあんなお荷物を押し付けて、何をさせようって言うんだ。」
「…何をそんなに苛立っている。」

観世音は音もなく着地すると、優雅な仕草で胡座の足を組み替えた。
そうして、右膝の上についた右肘で頬杖をつき、俺を上目遣いに見上げる。
どこからどういう風に見られても落ち着かないことが分かり、俺はどっかり胡座をかいた。せめて視線の高さを同じにしたかった。
妙に焦っている自分を、観世音に知られたくなかった。
俺が無理に落ち着き払った仕草で腰を据えると、観世音はまた鼻を鳴らした。俺を小ばかにしているらしい。

「おまえはな、金蝉。思い出せないんじゃない。思い出したくないんだ。」
「…だからさっきから一体何の話をしている。それに俺は金蝉じゃない。」
「…まったく筋金入りの頑固者だよ、おまえは。」

観世音はわざとらしくため息をついた。オレンジ色の光が少し小さくなった。観世音は大儀そうに振り返り、少し目を細めた。
いつのまにか俺たちはその光から少し遠ざかっていた。光は少し下のほうから差している。
どうやら炎らしい。
その炎の周りを、何者かがあたふたと駆け回っているのが、輪郭だけ見えた。

「…おまえの欠けている部分、埋まっただろう?」

猫なで声とはこういうのを言うのだろう。妙に優しい声に、俺は思わずうろたえた。

「まったく俺もお人よしだよ。だがな、あんまりあのサルが哀れだからな。」
「………。」

俺は黙って観世音を睨みつけた。なんだか胸の奥がちりちりしている。
不用意に言葉を漏らすと、訳のわからない焦燥感に喚き出しそうな気がした。

「あいつはな、金蝉、おまえのためなら、本当に命だって惜しくない奴なんだ。おまえの何がそんなにあいつを魅きつけるのか俺は知らないがな。おまえはあいつにとっては太陽なんだと。」
「…なんだか、一番初めに、…そんなことを言っていた。」
「ちゃんと聞こえているんじゃないか。あいつの封印された心の中の声が。」

観世音は勝ち誇ったように笑みを取り戻した。
華奢な腕をすっと上げて、俺の左腕を指差す。赤く染められた爪がぬらりと光った。

「その腕、ずいぶん楽になったろう?」

言われて見ると、毒に中てられて赤黒く腫れ上がっていたはずの腕の痛みが、だいぶ減っている。
切り裂かれた痛みはまだ残っているものの、内側から骨が焼け落ちるような不吉な痛みはもうない。

「いくら妖力の強い妖怪だって、他の奴の毒を中和するのはただ事じゃない。それをあいつはきれいにやり遂げたんだ。自分のダメージも省みずにな。」
「そんな…。止せって言ったのに…。」
「だから言ったろ? 命だって惜しくないって。」

悟空に言われればそれなりに嬉しい言葉なのかもしれない。
だが、観世音の口を通して言われても、腹が立つだけだ。俺の仏頂面に、観世音は面白そうな顔をした。

「俺はおまえとサルを引き離すのは反対だったんだ。だが、あいつは放っておくわけに行かないことをしでかしてくれたしな、俺も庇いきれなかった。案の定、おまえは何回転生してもぶっ壊れるか、時期を待たずに儚くなっちまうし、サルはサルでどんどん先祖がえりしやがる。見てられなくなってちょっとちょっかいだしゃ、こんなに魅きつけあってるくせに、この有様だ。」
「俺はあいつに魅かれてなんかいない。あいつは…。」
「化け物だっていうのか?」

俺は口を噤んだ。悟空の悲しそうな顔が目に浮かんだ。
言葉を一言も発しなくても、何もかも雄弁に物語る表情豊かな瞳だ。

「あんたの銃がいくら名品だとしても、俺一人の力であんな事をできるわけがない。俺は僧侶だ。あんな馬鹿みたいな破壊力は必要ない。悟空から離れれば、あんな力なくなるはずだ。」
「…恐いのか? 自分の力が。」
「そうじゃない。悟空みたいに平然と命を抹消できる力が要らないといってるんだ。」
「おまえは頑固者の上に甘ちゃんだな、あいかわらず。」
「…何が甘ちゃんだ。」

観世音はふーっと長いため息をついた。
退屈そうに耳の穴に指を突っ込む。その指でぐりぐりと耳を掻きながら、さも面倒くさそうに俺に聞いた。

「おまえは、物を食わないのか?」
「何馬鹿なこといってる。食うにきまってるだろうが。」
「魚や肉を食ったことないのか? ありゃあ立派な殺生だぞ。百歩譲って野菜しか食わないにしてもだ。おまえが食わなきゃ果実は種を残すし、草木は花を咲かせるんだ。殺生しない生き物なんかいないんだよ。坊主のくせにそんなこともわからないのか?」

わからなくはない。仏教の教えのほとんどが、その罪から逃れるための戯れ言だ。

「そんならな、命を繋ぐために殺生を繰り返すのと、生き延びるために殺生をするのとどれだけ差があるんだ?」
「………。」

俺は返事ができなかった。悔しくて唇をかみ締めると、観世音はむしろ優し気に笑った。

「観念しろ。この世にある物は、どうせみんな血塗れの手をしてる。好むと好まざるに関わらず。悟空もそうだし、おまえも俺もそうだ。」
「…あんたは神だろうが。」
「俺だって食うモンは食ってる。あったりまえだろうが。」

うつむいた俺の頭を、観世音の華奢な手がぐりぐりと掻き回す。尖った爪が皮膚に当たって痛い。
だが、子供にするようなその動作は、不思議と俺を落ち着かせた。

「ようやっとわかったか。…世話の焼ける甥っ子だよ。おまえは。」

観世音は俺の顔を覗き込んだ。
輪郭がふ、と薄くなる。奴が帰ろうとしているのを知って、俺は慌てて呼び止めた。

「待て。あいつのしでかしたことって何なんだ。それだけ教えていけ。」

観世音はきょとんとした。ややあって僅かに眉を潜める。きっと奴はこの顔で人間たちをたぶらかしているのに違いない。一瞬俺でもすがり付きたくなるほど、哀れみに満ちたまなざしをした。

「そうか。それがおまえの檻か、金蝉。それを思い出したくなくて、おまえはそうまで頑ななのか。…いいだろう。教えてやろう。」

観世音はもう一度足を組み替えた。
すっと背を伸ばすと、美しい彫像のように見えた。観世音は何かに敬意を払うように目を半眼に閉じ、深い呼吸を繰り返した。

「五百年前、悟空は、神の国で大罪を犯した。おまえが見たあの力なぞ、当時の奴の一欠けらにも満たない。奴は腕の一薙ぎで山を切り崩し、一吠えで海を割った。」

観世音は俺の反応を窺うように言葉を切った。
俺が聞いている証拠に一つ肯いてみせると、言葉を選びながら口を開く。

「誰も奴を止められなかった。止めるべきおまえは、ぶっ壊れてたからな。」
「ぶっ壊れてた?」
「…はめられたんだよ。」

観世音は僅かに顔を上げて俺を見据えた。俺は思わず生唾を飲み込んだ。
奴は冷ややかな目をしている。
腹に据えかねる怒りを必死に押し隠している目だ。だが、その怒りが俺に向けられたわけではないこともわかっていた。
俺はこの話の結末を知っているらしい。
なんだか聞きたくなくて叫び出したいような気もするし、母親に寝物語をせがむようにその先を促したいような気もする。
観世音はやがて俺から目を逸らした。奴が後ろめたく思っているような気がした。

「くだらない権力争いだ。おまえ達はまっすぐで、しかも力もあったから、…奴等には目障りだったんだな。おまえと、おまえの友人達、それと悟空の唯一の友達が巻き込まれた。おまえに組した者たちはすべて殺された。おまえと、それから那託は、完全にいかれちまった。何も見ない、聞かない、生きても死んでもいない状態になっちまった。…取り残された悟空は、全身全霊を傾けて怒ったのさ。」

ふう、と息をつく。それからクックッと肩を震わせた。泣いているのか笑っているのかよくわからない。

「爽快だったぜ。目を見張るような素晴らしさだった。おまえの銃なんかの比じゃない。悟空にやられた奴等は完膚なきまでに叩きのめされた。それこそ、原子の一つも残らないまでに粉砕されたんだ。あいつの力は妖怪というより、神のそれに近い。おまえも知っている通り、あいつは大地の聖獣だからな。」

俺はどきりとした。
毒に浮かされて半ば夢うつつに思ったことを、どうして観世音が知っているのだろう。これが金蝉という男の記憶なのだろうか。

「陰謀をぶっ潰して、首謀者たちを全員ぶっ殺して、それからあいつはおまえを縊り殺した。」
「なに?」

意外なことを聞かされた気がした。悟空はなにがあっても俺にだけは逆らわない存在だと思っていたのだ。

「驚いたか? だが、それがあいつにできる最善の道だったんだ。おまえは馬鹿みたいに目を見開いたままうんともすんとも言わなくなっちまって、心と体が完全に分離しちまった。もう誰にも手の届かない所に行っちまったんだ。あいつはおまえがそんな風になっちまったのが耐えられなかったんだよ。おまえも知っているだろう? ただ生きているだけじゃ、死んでいるのと同じだ。」

観世音の姿がちらちらとしだした。奴はそろそろこの話に見切りをつけて帰りたいらしい。それとも逃げ出すのか。

「無益な殺生を許さない俺たちには絶対にできない、最高の施しを悟空はおまえに与えたんだ。もしあの時悟空がそうしなければ今でもおまえはあのままだし、もちろん転生もしていない。那託と同じようにな。俺が駆けつけたとき、悟空は冷たくなったおまえの体をまだしっかり抱きしめてた。衛兵に小突き回されても、表情一つ変えなかった。後にも先にもその時だけだったよ。人が血の涙を流すのを見るのは。」

濃い闇の中に、観世音は溶けるように消えた。最後に声だけが残った。

「思い出せないなら、せめて認めてやれ。あいつがおまえの一部だってな。」

俺はほの暗い中に取り残された。オレンジ色の光が少し大きくなっている。
さっきまであんなに寒くて仕方なかった体がほんわりと暖まっている。なんだかとても悟空の顔を見たくなった。


どこかで水の滴る音がしている。
体中が重くて痛む。俺はくっついたような瞼をようやく引き開けた。
ごつごつと荒い岩肌が目に飛び込んでくる。
俺はゆっくりと頭を巡らせた。ほんの少し向きを変えただけで、頭の芯がガンガン鳴った。

「…どこだ、ここは…?」

呟くと言葉が響く。どうやらどこかの洞窟にでもいるらしい。
俺は首を捻った。
いつ洞窟に転がり込んだのだろう?
あの泥だらけの地べたに倒れ込んだ所までしか覚えていない。明るい方向に目をやると、意に反してそこは出口ではなかった。
小さなたき火が燃えている。俺は自分の目を疑った。
これは完全に俺のしたことではない。
寝ぼけて洞窟に転がり込むことぐらいはするだろうが、薪を拾い集めて火を熾すなどできるわけがない。
ましてや外はあの雨だったのだ。乾いた薪を拾うだけで至難の業だ。

「…んくう…。」

俺の胸のあたりで小さな声がした。
俺ははっと息を飲んだ。慌てて見ると、悟空が俺の胸にしがみつくようにして眠っている。
あんまり当たり前にくっついているので、いままでちっとも気付かなかった。

「これは…、まさか悟空がこの火を…。」

にわかにそうとは信じられなかった。悟空はタバコの火でさえ怖がるはずではなかったか。
だから俺は悟空に火を熾すすべを何一つ教えていない。
だがどうやら、悟空が火を熾したのは紛れもない事実らしい。悟空は赤ん坊がするように親指をくわえて眠っている。
嘗めているうちに眠ってしまったものらしい。
ごていねいに両方の手が火ぶくれになっていた。前髪も少し焦げている。
俺は用心しながら体を起こした。
雨に濡れたせいが体は酷くだるい。だが、毒の影響は感じられない。
俺は左腕を見下ろして、呆気に取られた。悟空が着ていたと思しい服の残骸がぐるぐるに巻き付けてある。
これも悟空がやったのか。
いつだったか足に包帯代わりに巻いてやった袈裟の切れっぱしのことを覚えていたらしい。
だが、あんまり不器用な巻き方で笑えるほどだ。俺はその腕をそっと抱きかかえると、洞窟の中を見回した。
俺が捨てて歩いたものが一所に積み重ねておいてある。
ライターやタバコや財布、捨てそこなって袂の中で忘れていたゴミまでが大切そうに置いてある。
悟空にとって、俺の体から離れたものはすべて俺の一部だったのだろうか。
俺はもう一度悟空の寝顔を見下ろした。俺の髪がすっかり乾いているのに、悟空の髪はまだだいぶ湿っている。
俺を洞窟に押し込んで、乾いた薪を拾い集め、必死になって火を着け、悟空は俺のへばっている間に大奮闘していたらしい。
大の苦手の洞窟と火を克服して。
俺はそっと右手を伸ばして、悟空のくせっ毛を撫でた。
目を覚まさないので煤のついた鼻の頭をつまんでやる。さすがにびっくりしたのか、大きな黄金の瞳がいきなりぱかっと開いた。
跳ね起きて俺の顔をまじまじと見る。俺は照れ笑いを浮かべていた。ずっと昔のことから謝りたい気分になっていた。

「悟空。…すまなかったな。」
「さ…んぞ…。」

悟空は張り付いたような舌を動かして、だが確かに俺の名前を呼んだ。
出会ってから初めて、嬉しそうに笑った。
まるで大輪のひまわりがほころんだようだ。

「おまえ、…そんな顔もできるんじゃないか。」

俺は涙をこぼしそうになった。とても懐かしいものを見た気がした。




真っ暗だった。時々遠くで空気が動いた。
冷たいものが当たるときもあったし、皮膚の下で何かがごろごろするときもあった。でもどうでもよかった。
だって俺はただの固まりなんだ。
誰も知らない、何にも影響されないただの固まりだ。そう思ってしまうと楽になった。
体が溶けて、地面と混ざっていく気がした。そう、俺はここにあってどこにもないもの。息をしてても生きてないもの。
それでいいと思ってた。
自分を認めることは良いことばっかりじゃない。
俺はこのままこの冷たい石の上から、地球中に染みていこう。誰にも俺を知られなければ、俺はどこへだって自由に行ける。
でも時折どうしようもなく辛くなった。
胸の中がひりひりした。
あんまりむず痒くて切ないから、時々大きく背中を伸ばして息を吐いた。
喉がビリビリ震えて、目玉とほっぺたが濡れた。遠くから応えのあるような気もした。そんなことあるわけない。
だって俺は化け物で、誰にも必要とされてなくて、忘れられた物だからだ。
でも、その何回かに一回の応えが聞きたくて、俺は時々喉を震わせた。
切なくてどうしようもないときは、体が喉から全部裏返ってもいいと思うぐらい大きく息を吐いた。
あんまり大きく息を吐くから、岩の格子がピシピシ言った。手の下の石が砕けて、喉の奥から血が吹き出した。
俺自身が粉々になってもいいと思ってた。その応えが聞けるのなら。
ある日、いつもと違う空気が近づいてくることを俺は知った。
俺に向かって突き刺すような空気は、いつかどこかで触ったことがあるような気がした。
その空気に触れているうちに、俺はだんだん形を取り戻していった。
“俺”がはっきり姿を現すと、手足に絡み付いている鎖が重くて痛かった。周りの闇はいつもよりもっと真っ暗だった。
空気が刺すように冷たかった。
俺は本当に久しぶりに自由になりたいと思った。自分自身の未来を生きたいと思った。
その空気が俺の前に姿を現したとき、俺は俺がずっと待っていたものが来たことを知った。
遠くから俺の声に応えを返してくれたもの、そしてずっと前に俺に生きることを教えてくれたもの。
それがまた俺に、生きる目的を与えてくれる。
未来は金色の光を背に纏い、仏頂面をして、俺に手を差し伸べてくれた。



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