大きな買い物用のトートバッグを肩から下げて、八戒は出かける。悟浄の家は町の外れにあるので、市場まで出かけるのはちょっと骨だったりする。だが、のんびり散歩がてらに出かける道のりが、八戒は結構好きだ。 買い物に行くと言うと、悟空は散々迷って八戒とは別に遊びに行くことを決めた。2回に1回はじゃれ付くようについてきて、買い食いをねだる。今日は満開の菜の花畑に軍配が上がったらしい。 悟空がついてくると格段に時間がかかるが、積極的に荷物を持ってくれるので帰りは実に楽だったりする。どちらの場合も、それなりに楽しい。 細い坂道を、新緑を楽しみながら歩いていると、突然目の前に男が立ちふさがった。よく見ると、さっきのヒヤシンスの敵だ。今度は手に飛び道具を持っている。あまりの男の無粋さに、八戒は一気に不機嫌になる。 「てめえ…、今朝はよくもやりやがったな。わけわからん武器使いやがって。」 「…何の用です。悟浄ならまだ帰ってきませんよ。」 「そんならお前についてきてもらうだけだ。悟浄の奴荒稼ぎしやがって、ちっと痛い目にあわしてやんないとな。おまえは人質だ。」 「正々堂々と悟浄に言ったらどうです。人質なんてせこい手使わないで。」 男は近寄ってきて手を伸ばした。一瞬八戒の綺麗な顔に気後れしたように手を止めるが、何か嬉しそうににやつく。不埒なことでも考えたのかもしれない。 「そんなことができてりゃとっくにやってらあ! あいつには敵わなくても、お前みたいな優男なら…って、はぐぅ!」 八戒は足元でぴくぴくしている男を冷たい目で見下ろした。気を使うまでもない。痛烈な顎への一蹴りで、あっけなく男は伸びてしまった。 「馬鹿な奴。何で飛び道具を持っててうかつに近づいてくるんだか。」 ふんと鼻を鳴らす。 「それに失礼な。悟浄と僕とを比べて、僕の方が弱そうに見えるなんて。」 いい気分が台無しになってしまった。八戒は乱暴に男をまたぎ越すと、市場へ急ぐ。 市場でしこたま買い物をして家に帰り着くと、悟空が両手一杯に菜の花を抱えて帰ってきたところだった。 今日は珍しいものが手に入ったので、八戒の機嫌も持ち直している。悟空に優しい笑顔を向けて、とりあえず簡単な昼食を作る。悟空は腹さえ満たしておけば、実にいい子でいてくれる。 遅い昼食が終わった頃、突然外がやかましくなった。 「悟空! いるのは分かってるんだ、出て来い!」 「わ、やっべ…!」 出て来いと呼ばわったくせにずかずか上がりこんだ最高僧は、悟空を認めるなりいきなりハリセンを見舞った。乾いた打撃音が、家中に響く。 「痛って〜…。」 「くだらねえ悪戯ばっかしやがって! 俺が面倒くせえんだよ!」 「まあまあ、座ってお茶でもどうです?」 そろそろ三蔵がくる頃だと予想していた八戒は、動揺の一つも見せない。悟空の歯切れが悪いときは、大抵何かしら悪さをして逃げ込んできたときで、その後最高僧が必ず彼を捕まえにくるのだ。 「で? 今日は何をやらかしたんです?」 「………布施の百羅漢の一体一体に落書きしやがった。」 「だってみんな同じ顔じゃ、見分けがつかなくてかわいそうだと思ったんだもん!」 いかにも悟空らしい言い訳に、思わず八戒は吹き出してしまう。だが、三蔵の顔がなんだか上機嫌そうに思えて、八戒はその先を促す。 「町の権力者の布施でな、何でも異国で買った金無垢だって、えれえ高飛車なんだよ。それが、落書きを落とすために小坊主が擦りまくったらぼろぼろはげて木肌が見えてきてな…。金無垢どころか金箔を張った仏像に鉛を埋め込んだお粗末な代物だってことが分かったのさ。 まだその信者は逗留してたんだが、青くなったり赤くなったり…ちょっとした見ものだったぜ。」 「へえ…、それはそれは。」 三蔵はおかしそうに喉を鳴らした。どうりで悟空に見舞ったハリセンも、たった1発で気が済んだはずだ。 「いけ好かない信者だからな…。ちょっと胸がすく気がしたよ。」 「しかも悟空をとっ捕まえるのを口実に、こうして息抜きができたし?」 「ふん、まあ、そんなもんだ。」 頭を擦りながらその話を聞いていた悟空はすこぶる不満顔になる。 「なんだよう、三蔵結構喜んでるんじゃないか! ハリセンでぶん殴る事ないだろ!」 「そりゃおまえ、お約束ってやつだ。」 「むー…。」 「まあまあ悟空。」 完全に膨れっ面になった悟空を宥める様に八戒は優しく笑う。 「今日はきっと三蔵も来ると思ったから、たくさん買い物してきたんですよ。今夜は久しぶりに4人で仲良くご飯を食べましょう。」 「ほんと! 何買ってきたの!」 たちまち笑顔になる悟空の頭を撫でて、八戒はパンパンに膨らんだトートバッグを示す。興味を引かれたように、三蔵も一緒に中を覗き込んだ。 「きっと三蔵も気に入るメニューですよ。」 「山芋、卵、納豆…、それに、なんだこりゃ? 鰻? なんだか下心が見え見な食材ばっかじゃねえか。」 「今朝、不躾な女どもが来て、ちょっとご立腹なんですよ、僕。」 ねえ、と悟空に同意を求めるが、悟空はトートバッグの中身に夢中で上の空だ。 「だから、その敵は悟浄で討たせてもらおうかと思って。」 「…おっかねえ、骨までしゃぶり尽くされそうだな。」 「ええ、そのつもりです。」 さらりと言い放つ八戒の言葉が途中で遮られた。トートバッグを覗き込んでいた悟空が歓声を上げたのだ。 「八戒、これなに? カメ、カメだよ!」 「ああ悟空、それは…。」 「わああああ、いて────っ!!!」 「ご、悟空っ!」 三蔵が顔色を変えた。悟空の突き出した人差し指の先に、濃い茶色の物がぶら下がっている。ぬるりとした見かけの、ややいびつな楕円形のそれは、短い手足をゆっくりと蠢かしながら離れる気配も見せない。 「…スッポンだから、食いつかれますよ…って、聞いてませんね。」 三蔵は暴れまわる悟空をなんとか捕まえると、スッポンの甲羅を掴んだ。亀とは違う柔らかい手応えにぎょっとしつつも、精一杯の力でそれを引っ張る。だが、スッポンの首がぬうっと伸びるばかりで、一向に悟空の指は解放されない。悟空の指先から血が流れ出しているのを見て、三蔵はますます顔色を変える。 「あああ、困りましたねえ。スッポンは雷が鳴るまで離れないとか。」 「呑気な事言ってんじゃねえ! なんでこんなみょうちきりんな物買ってくんだよ!」 「だってそれが今日のメインディッシュですよ。とにかく精がつくって…。」 「どうでもいい! なんとかしろ!」 「はいはい。」 三蔵も悟空も、パニックになっていて目が釣りあがっている。 八戒はやれやれとため息をつくと包丁を持ち出した。ごめんなさい、と殊勝に謝ってから、伸び切ったスッポンの首をチョンと落とす。 互いに引っ張っていた勢いで、三蔵も悟空もひっくり返ってしまう。八戒は、三蔵の手から零れたスッポンを拾い上げた。 「ん〜…、悟浄が帰ってきたらやらせようと思っていたのに。」 「悟空! 大丈夫か!」 三蔵はすでにスッポンなど眼中にない。まだ生命力旺盛にも、悟空の指先に食いついて離れないスッポンの口をこじ開けようと必死だ。 八戒はちょっと考えた。彼が悟浄にスッポンを捌かせようと思っていたのにはわけがある。 「三蔵、三蔵。」 ようやく悟空の指先からスッポンを毟り取った三蔵は、一生懸命傷口を検めていた。悟空は顔を歪めて涙を堪えているが、かなり深い傷になってしまっている。だらだら溢れる血を止めようと、とりあえず悟空の指先をぱくんと口に含んだ所だった。 「三蔵、これこれ。飲んで見て下さい。」 しつこくなにかが突き出される。三蔵は半ば上の空でそれを受け取った。八戒にうるさくされるのが嫌で、思わず言う通りにそれを一息に飲み干す。途端に目を剥いた。 「うええっ、なんだこれっ!」 「スッポンの生き血を焼酎で割った物です。」 八戒は涼しい顔で言う。 「スッポンメニューの中でも一番の精力増進剤ですって。」 「こんな気持ち悪いもん飲ませんなっ!」 「なに言ってるんです。悟空の血なら平気で舐めてるじゃありませんか。」 「これの血は甘いんだっ!」 「…はいはい。」 八戒はちょっと呆れて返事をする。少しうらやましい気もする。 悟浄もこれくらい自分を大切にしてくれてもいいのに。 「…三蔵?」 悟空が不安そうな声を上げた。その声に八戒が顔を上げると、なんだか三蔵の様子が変だった。 いつも青白い端正な顔に、赤く…いやすでに赤黒く血が上り、なんだか熱そうに額に汗を浮かべている。息遣いが荒くなり、鼻孔が開いてしまっている。 「貴様…。」 三蔵は八戒を睨み付けた。 「さっき俺に、何を盛りやがった!」 ああ、と八戒は嬉しそうに手を打った。どうやらさっきのスッポンの生き血が効いてきたらしい。 「盛ったなんてやだなあ、人聞きの悪い。本当にスッポンの生き血と焼酎だけですよう。でも…。」 「でも?」 「その焼酎も、漢方薬屋のおじさんに分けてもらった、10年もののマムシ酒なんですけどね。」 ますます効果倍増♪と楽しそうな八戒を睨みつけ、拳を振り上げた三蔵だったが、その振り上げた手を慌てて自分の顔面に押し当てていた。 三蔵の綺麗な顔面を、赤い筋が這っている。 「あ、鼻血…。」 思わず八戒が指を指すと、三蔵はますます赤くなった。もはや首から上だけが別の生き物のようだ。 「………悟空っ!」 三蔵は叫んだ。びっくりしたように顔を上げる悟空に、いきなりヘッドロックをかまして拘束する。 「うあっ、なんだよう、三蔵〜!」 「帰るぞっ!」 「えっ、なんでっ? 八戒がご馳走作ってくれるのに!」 「うるせえっ、非常事態だっ!」 「ええっ、やだやだ、あのカメ食いたかったのにいっ!」 「お前には別のカメ、死ぬほど食わしてやるっ。早く来いっ!」 最後の抵抗とばかりに足を踏み鳴らすが、しっかり首をロックされてしまった悟空に勝ち目はない。 八戒は戸口に立ってもつれながら去っていく二人に手を振った。三蔵があんな鼻息の荒さでは…明日は悟空は遊びに来られなくさせられそうだ。 「やー…、悟空がご馳走にされちゃいましたか…。凄い効き目ですねえ…。」 八戒は抜け目なく半量残しておいたスッポンの生き血を見る。十分に焼酎で割ったつもりだが、早くも凝固しつつある。 「悟浄があんなに鼻息荒くなるのは…、ちょっと嫌ですかねえ。」 そうでなくても十分鼻息の荒い男なのだから。もっとも情けなく鼻血を出す姿は、ちょっと見てみたい事もないではないが。八戒は思い切りよく、その精力超増強ドリンクを流しに空けた。 今頃どんな目に合わされているかしれない悟空を思って、ほんの少しだけ罪悪感を感じる。 「すいませんね、悟空、頑張って。…ついでに、三蔵もガンバレ。」 八戒は、寺の方角に向かって合掌した。 「さて、そろそろ悟浄も帰って来るでしょ。」 八戒は腕まくりを直した。料理の下拵えはすっかり済んでいる。あとは土鍋を用意して、悟浄の顔を見たらそれにスッポンを放り込むだけだ。鍋が煮えるまでの間を持たせる前菜は、いやというほど揃っている。 「今日は結局、桜草とアンセリウムは買えなかったけど、悟空が菜の花をたくさん摘んできてくれたし。」 花の香りのする部屋の中で人を待つのはいい気分だ。それが自分の想い人ともなれば、その気分は格別だ。 だが、そのいい気分は扉を乱暴に叩く音でぶち壊された。外が騒がしい。何やら野卑な声がして、ガラスが割れそうな勢いで扉や壁が叩かれている。八戒は眉を顰めると、立ち上がって扉を開けた。 「…またあなたですか。」 「うるせえっ、今度という今度は覚悟しろっ!」 朝と昼間、八戒がのしたあの男だった。今度は背後に一党を率いている。各々が手に物騒な武器を持ち、ぎらぎらと殺気を発散させている。八戒は大きくため息をついた。 「悟浄ならそろそろ帰ってきますよ。中で待ちますか?」 「悟浄なんざどうでもいいっ! 散々コケにしやがって! てめえをぶっ殺してやらなきゃ腹の虫が納まらねえっ!」 男はショットガンを構えた。今度は用心深く近付く事をしない。 「悟浄が帰ってきて会えるのは、変わり果てたお前の姿だけだって事だ。ざまあみろ! わはははは………は?」 男は哄笑した形のまま固まった。男の脇を摺り抜けて、光の弾が幾筋も飛んでいく。背後で複数のうめき声と鈍い音が聞こえて、男は恐る恐る振り向いた。 彼の仲間達は全員倒れて悶絶していた。 「はあ、これ結構疲れるんですよ。いい加減にしてもらえませんかねえ。」 八戒は掌を輝かせながらぼやいた。男は飛び出るように目を剥き、慌てて口を閉じた。歯の噛み合わさる音が、いやに大きくパクンと響いた。 「あなたの訪問のあった事は悟浄に伝えておきますから。」 「う、う、うるせえぇ!」 男はショットガンを撃った。一度撃つと反って恐ろしくなり、続けて二発三発と撃った。 耳をつんざく轟音がして、それでこの優男は挽肉になるはずだった。 「どうだ! へへへへ…へぇ?」 「ふう、やれやれ。」 目の前に光の壁が出来ていた。至近距離から発射された散弾が、小石を振りまいたように辺りに散っている。それでも優男にはキズの一つもついていない。 光の壁が、優男はおろか家ごと覆って凶弾から守ったのだと知れるのに時間は掛からなかった。 「学習して下さいよ。あなたじゃ僕には敵いっこない。そうでしょう。」 「……はい。」 「じゃ次に、何が起こるかもわかってる?」 「……………はい。」 「そ。」 男は力なく笑った。八戒の綺麗な笑顔につられたのだ。 次の瞬間、男は宙を舞っていた。 「ただいま〜…。」 「ああ、お帰りなさい。」 八戒は笑顔で扉を開けた。夕闇にとっぷり暮れた頃、疲れた顔の悟浄が帰ってきた。 「なあ、うちの前にごろごろ寝てる奴等、なによアレ。」 「粗大ゴミですよ。明日捨ててきて下さいね。」 「おう、オッケー。」 悟浄はキッチンの椅子にどっかり座った。 テーブルには湯気を立てる料理が山ほど盛られている。暖かいご飯と待っている人のいる幸せに、悟浄の胸がほんわり暖かくなった。 「夕べは参ったよ。隣の町のヤクザと揉めてよ。ま、穏便に済ましてやる気は更々ないが、黙らせるのに一苦労だ。わざわざ遠征に行ったんだぜ。この悟浄さんがよ。」 「それは大変でした。」 「お前も背後には気をつけな…って、余計なお世話か。」 「そうですねえ。」 八戒はにっこり笑いながら鍋の支度をする。よっぽど空腹だったのか、悟浄は見事な健啖ぶりを発揮している。 八戒はにこにこ笑いながら給仕をしている。彼は自分が食べるよりも人の食べるのを見て満腹するタイプだ。 「…今日辺り、悟空が来る頃かと思ったんだけどな。」 「そうですねえ、僕もそのつもりでちょっと買いすぎちゃって。…頑張って残さないで食べて下さいね。今日は特別メニューなんですから。」 「特別…って?」 悟浄は改めてテーブルの上を見渡す。そこで初めて、なんだかやけにぎらぎらした料理の羅列に気付く。 テーブル越しに見つめてくる八戒の熱い視線に気付いて、今更ながらたじたじとなる。強力無双で喧嘩なら誰にも引けを取らない悟浄にも、弱い物はあるようだ。 「いや、もう腹一杯…。」 「それは困りました。とっときのデザートがあるんですよ。」 「へ、へえ? どんな?」 八戒はゆっくり立ち上がると、悟浄の膝をまたいで座った。大好きな赤い髪に指を絡めてねっとりと唇を吸った。 「こんな。」 深い碧の瞳が、独特な色に輝いている。悟浄はしばし躊躇していたがやがてゆっくりと笑みを浮べ、そっと八戒の腰に手を回した。ようやく観念したらしい。 「やけに積極的じゃねえの。なんかあったのかよ。」 濃密な口付けをいくつか交わして、悟浄は聞く。今夜は長い夜になりそうだ。 八戒はいつものようににっこり笑う。 「別に何も。いつもの通りの1日でした。」 悟浄の手がシャツの内側を這っている。敏感な脇腹を撫で上げられて息が上がる。スッポンが、八戒にも悟浄にもきっちり効いてきたらしい。シャツ越しに胸の突起に歯を立てられて、八戒は思わず悟浄にしがみついた。 明日また、シーツを洗濯しなくてはならないかも。這い回る手に翻弄されて熱い息をつきながら、八戒はうっとりそう思った。 大丈夫。明日も明後日も、ずっといい天気だ。 |