花満ちる頃




山が夕闇にくれる頃になると、三蔵様の端麗なお姿が外界に向かって立たれているようになって、何度目の春を迎えただろう。三蔵様はお煙草を吹かしながらイライラと、でもどこかお楽しそうに、寺院内を三蔵様の起居される棟へとめぐる急な坂道に目を凝らしていられる。

「また悟空は戻りませんか。」

申してみると、三蔵様はわずかに苦笑された。

「お前にもなにかと面倒をかけるな、──。」
「いえ、私のことなどは。」

私は深く頭を垂れる。この年若い最高僧様に心酔する我が身としては、お姿を近くで拝謁できるだけでも過ぎた果報であるのに、今のこの立場のなにを不服とするであろう。

「そういえば、あなた様が悟空の手をお引きになってお戻りになられたのも、こんな花満ちる季節でしたね。」
「そうだな…もう3年になるか。あいつはちっとも成長してないだろう?」
「いえ、大きく変わられましたよ。」

悟空も、あなた様も。思わず口の端に乗せそうになる言葉を、微笑と共に押し隠す。
この、光を具現されたかのように佇まれるお方には、私ごときの感慨などは瑣末なことであろう。この尊い方の視野の、意外なほどの狭さを、私は知っている。
そうして、その狭い世界に存在するのは、一人悟空のみであることも。悟空の存在が、どれだけ三蔵様のお助けになっているのかも。p 今でも、初めて三蔵様のお姿を拝見した日のことは昨日のことのように思い起こすことができる。
あの、輝かんばかりに神々しいお姿も、深い悲しみと達観を覗かせた、深紫の色も。



先代の三蔵法師様が身罷られて、新しい三蔵法師様がご光臨あそばされたとき、かの方の年若さは異例のものだった。僧といえども人の身、新しい三蔵様はなかなかにお難しく、またそのお若さを軽んじるものもあとを絶たなかった。なればこそ、私のような端役の僧が三蔵様のおそば係を申し付けられる仕儀となったのだ。
私にとっては青天の霹靂とも言えるような大それたお申し付けで、私は我が身に降る過ぎた幸せと責任感に押しつぶされそうになっていた。
その、緊張しきった私の前に初めてお立ちになった三蔵様は、お噂どおりのまぶしい美貌で、私を一瞬のうちに心酔させなすったものだ。
旅の荒行を終えられたばかりという三蔵様は、僧衣の内側にいくつもの無残な傷を残していられた。だが、それを補ってなおあまるお美しい威厳に満ちたお姿は、私ばかりでなく誰をも魅了された。
しかし、何より私の目を引いたのは、三蔵様の暗いまなざしだった。
黎明の空のような深い紫の瞳は、玉石をはめ込んだように瞬かれるのに、そのまなざしは凍てつく様に冷たくてあられる。私を含む誰の干渉も許さないとはねつける様な厳しいまなざしは、三蔵様を孤立させなさるばかりだった。
そんな時だった。ふらりとお出かけになった三蔵様が、悟空をつれて戻られたのは。



三蔵様が行く先を告げられずに外出なさることなど珍しくもなかったが、それが数日に及ぶことなどなかったから、あの時は寺院の中が大騒ぎになったものだ。
寺院中の注目を集めて、流石に少しばかりばつが悪そうなお顔をされた三蔵様の後ろから、悟空がひょこっと顔を出した時、寺院の中は更なるどよめきに包まれた。
悟空は当時から大層愛らしい子供だった。くるくるとよく動く表情と、伸びきっていない手足がみずみずしい若木のようで、見るものを釘付けにした。素直な人懐こい性格は、三蔵様とは対照的で、寄り添うと互いに引き立てあうように思えた。
しかし、最も印象的なのはその瞳だった。じっと見上げる大きなそれは、蕩けるような蜂蜜色をしていた。もっとも、そう取るのは私くらいのもので、ほかのものどもにはそれが禍々しい黄金の瞳に見えるようだった。

「魔性の目だ。」

物見高い僧どもは、寄ると触るとそう囁きあった。

「あれは妖怪の子供だ。三蔵様はあの目に魅入られたに違いない。
あんなものを置いておけば、如いてはこの寺院全体に災禍をなすであろう。」

高僧でさえそう噂するなか、悟空が同じ年頃の小坊主たちとなじむわけもない。
私はといえば、ご自分も悟空をも弁明なさらない三蔵様に、ただひたすら焦れていた。



「これ、このように走っては転ぶと言うに…。」

私は恐れをなして手を伸ばす。山菜摘みを口実に連れ出した裏山だ。悟空は開けた野原も急な山の斜面も、何も変わらぬように縦横無尽に走り回る。そうして案の定酷い勢いで転んでは、さも嬉しそうに破顔して見せた。

「そら見なさい。怪我はないか?」
「ん、へーき! だってカラダが動いちゃうんだ。」

悟空は勢いよく立ち上がるとその場ではねて見せた。短く切ったズボンから覗く素足は、多少すりむけているようだが、たいした怪我はないようだ。

「なあ、ここって、大きい? いっぱい? すっげ、…うーんと…。」
「広いと言いたいのか?」

私は苦笑して言葉を補ってやる。悟空は大きな蜂蜜色の瞳を瞬くと、頬を染めて勢いよく頷いた。



私は三蔵様のおそば係からそのまま移行して、悟空の世話係も任されていた。悟空の語彙が極端に少ないのは、悟空に会ってまもなく知れた。一応の会話は交わせるものの、抽象的な言葉ばかりで埒が明かないことが多かったのだ。

「500年の時間のせいだろう。」

執務室から戻られたばかりの三蔵様は、遊びつかれて眠りこけている悟空を見て目を細められる。山菜摘みのはずが、悟空にとってはマラソン大会のようで、日がな一日中走り回っていたのだから、疲れてしまうのも無理はなかった。

「こいつは、俺が連れ出した当初から、腹減った、くらいしかしゃべらねえ。」
「そうですか、金色がまぶしくてきれいだったと申しておったようですが。」

うっかり申してしまうと、三蔵様はわずかばかり頬を赤らめなさった。私は余計なことを口走ってしまった自分を恥じ、そしてほほえましく思う。
誰にも無関心であられたはずの三蔵様が、悟空にだけは和やかな目を向けなさることは、とうの昔に知れていた。
考えてみれば三蔵様も孤独なお方なのだ。記録的なお若さで三蔵法師の位にお着きになられたためか、言葉を交わされるのはおそば係の私か、老練な大僧正様くらいだった。
悟空だけが、三蔵様が心許せる存在であるのだろう。私にさえ肩肘張られる三蔵様は、悟空に向けてだけ、本来の心柔らかな青年に戻るようであられた。



「…ん?」

法衣を取られた三蔵様が、ふとお顔を厳しくなされた。

「これは…どうした?」

三蔵様の悟空の腕を取られた。そこには大きな痣がある。

「それは…悟空ははっきり申しませなんだが、どうやら誰ぞに石を投げられたようです。」

そっと申した途端に、三蔵様は柳眉をきりりと吊り上げられた。

「…そう悟空が言っているのか。」
「いえ、悟空の申すのはなかなか要領を得ませず…。」

私は思わず口ごもる。私とて、悟空が日々増やしてくる痣や傷を、問いたださなかったわけではない。それに対する悟空の返事は、いつでも漠然としたものだった。

「ひゅっ、て言ったらゴツッて言って、ぼややんとした…とくらいしか。」

三蔵様が大きく顔をしかめられて、私は思わず身を竦ませた。玲瓏な三蔵様がそうされると、凍りつくような厳しさがあった。
しかしながら、そう報告する悟空はいつでも楽しそうなのであった。それで私はつい、悟空の頑健な体を頼みに軽く考えてしまいがちであったのだ。
悟空は危害を加えられたとしても、他人とかかわりがあることが嬉しくてならないようだった。だからいつでも満面の笑顔で、私は悟空のつたない言葉遣いばかりが気になって仕方なかったのだ。

「三蔵様、もっと悟空と話をしてやってくださいませ。悟空は教えただけ豊かに喋ります。おそらくは、覚えるというより、思い出しているのかもしれません。三蔵様が構ってくだされば、少しは悟空の言葉も通じやすくなるでしょう。」

進言してみると三蔵様はもう一度、眠りこける悟空に目を落とされ、息を付かれた。

「…こいつが居やすいようにしていれば、それだけでいいんだがな。」

呟かれた言葉は、悟空のみに向けられる優しさに満ちていた。



それから数日後。私はあの日、悟空を山菜摘みに連れ出したことを、少し後悔していた。
寺院の塀の外にはもっと広々として楽しいところがあることを知ってしまった悟空は、しばしば飛び出して行っては、日の落ちるまで帰ってこない。その帰院する時間も次第に遅くなってきて、大いに三蔵様のご不興を買っているのだった。
その日は珍しく三蔵様のご公務も定時に終わられ、イライラと吹かされるおタバコの煙が部屋の中を白くしている。私は三蔵様の逆鱗に触れるのを恐れ、そっと部屋を出た。帰らない悟空を探しに行くつもりだった。
その前日、裏山に小川を見つけて大喜びしていた悟空だったから、きっとその辺りをうろうろしているのに違いない。そう見当をつけて歩き出そうとすると、見慣れた茶色い頭が目に入った。私は思わず大きな声を上げていた。

「悟空!」

呼ばわれて、ピンと反応した小さな姿は、しかしいつものように走り出したりせずゆっくりと歩み寄ってきた。

「遅いではないか。三蔵様が先ほどからお前の帰りをお待ちなのだぞ。」
「さんぞーが?」

悟空は蜂蜜色の瞳をくりくりと蠢かして微笑んだ。そのあまりの無邪気な様子に、私などはすっかり毒気を抜かれてしまう。

「早う参ろう。今日はどこで遊んでおったのだ。このように泥だらけになって…。」
「うん、あのさ、あっちの方に、緑のスイーっと伸びたのがいっぱい生えてるだろ!」
「緑の…竹林の方まで行ったのか。」

私は呆れてしまう。この付近の竹林といえば、大人の足でも片道1時間はかかる。
いぶかしげな顔をしている悟空に、それは竹というものだと教えてやると、悟空はたちまち顔を輝かせた。

「あれってすっげーな! 折ろうと思っても折れねんだ! そんでもって、曲げると戻るんだぜ!」
「竹を折ろうとしたのか。それは大事だな。」

私は思わず苦笑する。悟空のあくなき好奇心は、私の想像し得ない事にまで及ぶ。

「んでさあ、ずっと走ってたら、足がビルビルする。」
「びるびる?」

また要領を得ない言い回しだった。私はちょっと振り向いたものの、仔細に調べることはしなかった。いつもなら、その悟空の言葉がなにを言おうとしているのか分かるまでしつこく問いただすのだが、その日は三蔵様をお待たせしていると思うあまり、そこまで気が回らなかったのだ。
三蔵様は、悟空にも我々にと変わらぬ様なそっけない態度を取られる割に、ずいぶんと悟空にお目をかけていられるようだった。



ようやく悟空を三蔵様の元にお連れすると、三蔵様は悟空の泥だらけの様子にお顔をしかめなすった。

「こんなに遅くまで、一体なにをしてた。」
「あのな、竹のとこで走ってた。んでな、三蔵、足がビルビルすんだよ。」
「何わけの分からんこと言ってやがる。」
「夕餉にはまだ間がありますから、三蔵様、お湯を使われてはいかがですか。」

言外に、悟空も一緒にと匂わすと、三蔵様は仕方ないというお顔をなさって立ち上がられた。

「ほら、来い、サル。」
「さる? さるって何?」
「お前なんかサルそのものじゃねーか。」

たわいない諍いに私は微笑みながら、お二人を見送った。三蔵様の湯場だけは、三蔵様のお部屋のすぐ外に設えられていて、屋根伝いに入れるのだった。
喧騒が湯場へ移動して行き、それに賑やかな水音が加わるのを予想しながら、私はお支度を整えようとしていた。
近頃は三蔵様の衣料箪笥の一番下に、悟空の小さな衣類を並べるのが私の楽しみの一つになっていた。
だが、私の楽しみはすぐに中断された。聞いたこともないような三蔵様の声が聞こえたからだ。

「なんだこれはっ!」
「は? 三蔵様?」

私は驚いて、弾かれたように頭を上げた。おろおろする私を見越すかのように、三蔵様が駆け戻ってこられた。もろ肌脱ぎのしどけないお姿で、両腕には悟空を抱えていられる。抱え上げられている悟空はきょとんとした顔だ。

「──、こいつの、足っ…!」
「え…、うっ!」

私は思わず言葉を呑んでいた。抱え上げられた悟空の足は血まみれだったのだ。
悟空の柔らかい足の土踏まずからくるぶし辺りまで、ざっくり切れている。新しい血がまだ滴っていて、三蔵様の真っ白な法衣を次々に赤く染めた。

「ど、どうしたのだ、これは…、悟空!」
「ん? えーと、こーゆー形の竹があって…、引っかけちった。」

悟空のつたない言葉から推察するに、竹林を走り回り、おそらくは飛び跳ね回って、斜めに切り落とした竹で切ったものらしい。
悟空のけろりとした顔が不思議だった。傷口の周りには赤黒いものがべったりとこびりつき、そこに土や雑草がめり込んで酷く腫れ上がっている。痛くないはずがなかった。
しかし、悟空の表情からは我慢している様子は覗えない。
一瞬のうちに、私の頭の中をさまざまなものが去来した。悟空のいっていたビルビルすると言う言葉の意味。悟空が走ってこなかった訳。竹を折るのに苦労したという話。
三蔵様が常にない大声で怒鳴られるので、私は我に返った。三蔵様は、椅子に座らせた悟空の足首を握り締めて怒りくるっておられた。

「このっ、バカザルっ、こんなのどうして黙ってやがった!」
「え? 黙ってないよ?」

悟空の言葉はまったく邪気がない。もう片方の足をブラブラさせて、悟空は不思議そうに首を傾げた。

「だから言ったじゃん、びるびるするって。」

三蔵様がはっと息を呑まれた。
私はようやく清潔な布を探し当てたところで、少しお二人から離れていた。
ガツンという固い音に気付いて私が振り向いたとき、三蔵様は固く握った拳をわなわなと震わせて仁王立ちになっておられた。悟空は、みゅっと悲鳴ともなんともつかない声を上げて頭を抱えている。三蔵様がその拳で悟空を殴られたことは容易に分かった。

「ガキが! 我慢してんじゃねえんだよ!」

三蔵様の声までもが震えている。もう一度拳を振りかざすと、悟空は困ったような顔をして頭を抱えた。

「訳のわからねえ言葉で俺まで煙に巻こうとするんじゃねえ。ガキはガキらしく、痛いなら痛いで泣き喚け。辛いことがあるなら反抗しろ。俺にくらいは泣きついて来い!」
「さ、三蔵様、悟空は怪我をしているのですから…!」

私は三蔵様の振り上げた拳を何とかお押えした。しかし、三蔵様のお怒りはなかなか収まらず、悟空はもう何発か手ひどい洗礼を受けたのだった。



あのあと、悟空は噛み締めるように痛いと言い出し、それから数日寝込んだものだ。
今になって思うことだが、あの当時の悟空は、言葉のみならず感覚も、冬眠から覚めた熊のように鈍くなっていたのではないのだろうか。そう思えば、転んでも転んでも、まったく痛がる様子を見せなかったあの頃にも説明がつく。
悟空は、外界の刺激と与えられる知識によって、少しずつ日常を取り戻している最中だったのだ。あの不思議な言葉遣いは、悟空にとっては遠慮でもなんでもなく、まさしくそんな感覚でしかなかったのだろう。
しかしそれは、おそらく三蔵様には、今もってご承知ではないのではないかと思える。
三蔵様は、悟空が自分の感情を押し殺し、我慢していると見て激昂なさったのだ。それはご自身の姿と重ね合わせた末のお怒りだったのだろう。
激しい言動で悟空と、ご自身をも覚醒させられた三蔵様は、それからはがらりと変わられた。悟空に向かって叫んだお言葉は、もしかするとご自分に向けても発せられたお言葉であったのかもしれない。
我慢することがなくなった三蔵様は、ますます傲岸な態度で不遜な僧になられてしまったが、不思議とお慕いするものが増えていった。黎明の瞳に翳りが消えたのもあの頃からだ。
三蔵様が悟空を拾い、誕生日とした4月5日は、きっと新たな三蔵様にとっても誕生の記念日となったのだ。



遠くから小さな人影が走り寄ってくる。両手を大きく振るその様子を見て、三蔵様はおもむろにハリセンを取り出された。私は思わず苦笑してしまう。

「三蔵様、悟空もだいぶ大きくなりましたが、それはまだ必要ですか?」
「ああ? 当たり前だろう?」

三蔵様は咥えられたおタバコを軽く噛み、ニヤリと楽しそうに笑みを浮かべられる。

「訳の分かんねえことばっかり言うガキには、俺がいつでもここで待っていることを、思い知らせてやらなきゃならねえからな。」
「それはハリセンでなくても、悟空にはちゃんと分かっておりますよ。」

三蔵様は私の言葉にもう一度笑い、ご自分の肩をハリセンで叩かれる。まもなく、風を切る音と共に軽やかな悲鳴が聞こえるのだろう。
それが私には、悟空と新たな三蔵様の、出会いを愛しむ調べのように聞こえるのだ。





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