春嵐




今年の冬はことのほか暖かかった。
悟空は顔をあげた。高い山の頂にはまだうっすら雪が残っている。しかし、今悟空が遊んでいる麓の辺りはすでに土も緩み、慎ましい緑が春の訪れを告げている。ここ2,3日は風も暖かで、冬の間中鈍りがちだった悟空の足を戸外へと誘っていた。
空気の匂いが変わった。冬の、冷たく乾燥しきったそれとは明らかに異質な物が、吹く風に孕まれている。湿った土と芽吹いたばかりの緑の匂い。一際強い風が吹いて、悟空の胡桃色の髪を巻き上げた。遠い西の空には暗雲が掛かっている。
まだ硬い桜のつぼみがわずかに震えて悟空の頬を撫でた。悟空は愛しげにその梢を見やり、小さく頷いた。

「うん、分かってる。」

そう呟きながら、悟空は幹を一回りした。毎年春になると絢爛に花を咲かせるこの桜は、年月を経た老木ではあったが、隆とゆるぎなくそびえている。多少の風にはびくともすまい。

「嵐が来るね。」

悟空の声に気遣わしげな色が混じった。



毎年春の訪れは嵐を伴うものだけれども、今年はそれが少し大きそうだ。
悟空は山の中を駆け回っていた。こんなに走るのはずいぶん久しぶりだ。
暖かく降り積もった堆肥の下には、ようやく芽生えた薄青い芽が頭を覗かせているし、まだ硬く強張ったばかりに見える木々にも、柔らかい花芽がつき始めている。もう少し山奥に分け入れば、洞穴の中には今年生まれたばかりの赤ん坊を大事に抱えた母熊がまどろんでいるし、気の早い鳥たちは、新しい巣を作るのに余念もない。
それら全ての愛しい命の育みが、無事にこの嵐を超えられるように。悟空はそのことのみに心を砕いていた。
風が一層強くなっていく。悟空は、朽ちて傾いていた木をそっと地面に横たえ、もう一度辺りを見回した。この辺りは、秋にはたくさんの木の実が茂る。今は姿を見せない小さな動物や虫たちが、息を潜めているはずなのだ。急な嵐に、余分な一つの命も欠ける事のないように、悟空はことさら慎重だった。
湿り気を帯びた風が横殴りに吹いてきて、悟空は思わずたたらを踏む。髪が生え際から反対側に持っていかれるような突風は、ともすると悟空の華奢な体など、空中に舞い上げそうだ。

「そうだ。」

小さく呟くと、悟空は斜面を駆け下りる。いつもの小川で、水辺の生き物たちも見てやらなくては。
今年は氷も張らなかったから、もしかするとあの面白い蛙の卵ぐらい、もうあるかもしれない。小さな魚たちは、蒼い水の底で命を止めたようにじっとしているけれども、まもなく春が訪れれば、また以前のように元気に泳ぎだすことを、悟空はちゃんと知っていた。
背中を押すような強風が、時折悟空の足取りを乱れさせる。足場の悪い道を風に煽られて、悟空は文字通り、飛ぶように走った。短い上着の裾が、ひっきりなしに風にはためいてバタバタと音を立てる。数歩ごとに体が跳ねると、体重がなくなったみたいで、悟空は次第に楽しくなってきた。まるで羽根が生えたみたいだ! 新しい季節が、生まれ変わるみたいに自分を明るい気持ちにさせてくれる。
走っても走っても、息も上がらない。悟空は何度も転がりそうになり、それすら楽しくて大声で笑った。そうして水辺にたどり着く頃には、空が重苦しい色になっていた。



まだ水は冷たかろう。悟空は靴を濡らさないように、慎重に飛び石をわたる。向こう岸の淀みには、いつも小さな生き物たちが溜まっているのだ。
枯れた葦にだまされないように─彼らの足元には、いつでもぬかるみが待ち構えているのだ─気をつけて水の中を覗き込む。その途端、悟空は歓声を上げた。
透明なチューブの中に、几帳面なほどに規則正しい黒い玉が並んでいる。きっとあの大ガマの卵だ! もう少ししたら、頭でっかちの黒い奴らが、この淀みいっぱい埋め尽くすように孵るのに違いない。
悟空は人差し指を水の中に突っ込んで、そっとプルプルした卵を触ってみた。ガマの親はちゃんと考えて卵を産んだらしく、ここならいくら小川が波立っても、破けたり流れ出してしまったりしないだろう。
これを見ると、悟空はいつも、時々村の市場で買ってもらう愛玉子を思い出してしまう。三蔵が機嫌のいい時に買ってくれるそれは、甘くて冷たくてちょっと酸っぱくて、照れ屋で優しい三蔵みたいだ。
そういえば、しばらく村へも行っていない。
冬の訪いは、悟空の行動範囲さえ制限していたようだ。



静かな小川が波立っている。強風はこんなところにまで影響を及ぼしているらしい。悟空は小さく息をついて顔をあげ、びっくりしてそのまま固まった。手を伸ばせば届くほどの位置に、まだ幼い仔鹿が水を飲んでいるのだ。
森の中を歩いていると、時々鹿に出会うことがある。でも、彼らはいつもとても用心深くて、悟空の手の届く位置になど絶対に来ない。ましてや、仔鹿を伴っている時は余計だ。
それが、こんな近くでくつろいでいるなんて! 悟空は息を詰めて仔鹿を見守った。仔鹿はやがて水を飲み終わると、首を上げて悟空を見た。大きくて真っ黒な瞳が、不思議そうに濡れている。
悟空は思わず唾を飲み込んでいた。今ならこの仔鹿に触れるかもしれない! 大僧正のじいちゃんだけが座れる位置に敷き詰められた「びろうど」みたいなつやつやの背中は、ずっと前から悟空の憧れだった。

「なあ…触っても…いいかな。」

きょとんとした表情の仔鹿に語りかける。悟空がじりじり手を伸ばしても、仔鹿は驚く様子もない。あと数センチ…! しかし、悟空の手は唐突に引っ込められた。指先に冷たいものが弾けたのだ。

「雨だ…!」

見上げる空は、ますます黒さを増していく。



程近い藪の中から、高い鹿の声がする。きっと姿を見せない親鹿が、仔鹿を呼んでいるのだ。
仔鹿はもう一度悟空を見つめた。小旗みたいな尻尾がぴくぴくうごめいているのが分かる。

「いいよ、お母さんのところへ帰りな。」

悟空は自分もあわただしく立ち上がりながら、仔鹿に話しかけた。雨が降ってきたとなると、こうしてのんびりしてはいられなかった。
悟空が立ち上がると、仔鹿はすばやく飛びのき、柔らかそうな頭を振った。それが悟空には、また明日と語りかけられているように感じられた。

「うん、バイバイ、また明日。」

声を掛けると、仔鹿は一っ飛びで藪の中に飛んで行く。少しだけガサガサ言っていた藪が、あっという間に静かになった。もうあの鹿の親子はねぐらに帰ったらしい。
悟空も飛び石を渡った。急いで寺に帰らないとならなかった。



帰りは向かい風がきつく、その上上り坂が続いてちっともはかが行かなかった。それでも悟空は、胸が破れそうになるまで走った。
まだ半分も帰り付かない内に、土の上に大きな斑点が現れた。あっという間にその斑点は繋がって、そこいらじゅうを濡らしていく。まるで襲い掛かるような勢いで、雨が降ってきたのだ。

「うわあ!」

悟空は思わず両手で頭を庇った。風を伴った大きな水滴は、肌に当たるとバチバチと音を立てた。たちまち、上着はおろか、靴も下着もズブズブになっていく。張り付いた衣服は重く、たっぷり雨を含んだ靴は、一足ごとに奇妙な音と共に水を噴き上げた。

「ええい、もう!」

悟空は靴を脱ぎ捨てた。もう、どこからどこまでずぶ濡れで、服も靴も意味がない。風は相変わらず強く、雨は四方八方から吹き上げる。両手に片方ずつ持った靴をめったやたら振り回してみても、それで雨がしのげるわけもなかった。
三蔵はどうしているだろう。雨がことのほか苦手な三蔵は。今悟空の心を占めているのはそのことだけだった。
自分が傍にいてもいなくても、三蔵に変わりはないのだろう。でも、季節初めの雨だからこそ、悟空はせめて三蔵の傍にいてあげたかった。
ひっきりなしに叩きつける雨で、前もよく見えない。悟空は何度も顔を拭った。雨のせいで空気が冷えてきたのだろう。降り始めにはさほどでもなかった雨が、冷たくなって悟空の体を震わせている。悟空は白い息を吐きながら走る。濡れた髪が顔に張り付いて痒かったが、それをはがしている間さえ惜しかった。
やがて、霞むように寺院が見えてきた。



裏庭から直接、三蔵の居室のある棟まで駆け込む。こんなずぶ濡れの姿を口うるさい僧にでも見つかったら、また怒鳴られてしまうに違いない。だが、足音を殺す気にもなれなかった。
濡れた素足が板敷きの廊下に滑って、悟空は派手に転がった。壁に激突してようやく止まり、頭をさすって飛び起きる。体が冷え切っているせいか、ちっとも痛くない。
でも、転んだおかげで三蔵の部屋は目の前に迫っていた。
悟空は急いでドアに取り付いた。この向こうには三蔵がいるはずだ。

「さん…ぶわ!」

名前を呼びきる前に、いきなり飛んできた何かに、頭から絡め取られた。一瞬にして視界を失って、悟空は闇雲に暴れた。纏いつく何かを払い落とす前に、力強い手に押さえ込まれていた。

「やかましいんだよ、バタバタ帰って来やがって、この猿! あちこちずぶ濡れじゃねーか!」
「うわ、さんぞ…、うわわっ!」

頭も顔も区別なく、乱暴に引っ掻き回される。被さっているのが柔らかいタオルだと気づいて、悟空はようやく抵抗をやめた。すると、尚一層乱暴になった手が、今度は体の方も拭ってくれる。悟空はようやくタオルの中から顔を出すことに成功した。目の前の三蔵は仏頂面をして悟空の長い髪を擦っている。いつまでたっても水滴の落ちるのが気に入らないらしい。
悟空は一心に濡れた肌を擦ってくれている三蔵を、ドキドキしながら見つめていた。こんなに酷い雨が降っているのに、三蔵は自分の心配をして、タオルまで用意して待ち構えていてくれたらしい。

「おい、猿、靴は。」

突然不機嫌な声で聞かれて、悟空は我に返った。握り締めて帰ってきたはずの靴が、いつの間にかない。

「あ…、廊下でこけたときに飛ばしちゃったかなあ…。」

三蔵はこれ以上ないしかめっ面をして、廊下を覗いた。舌打ちをする音が聞こえる。

「どこもかしこも水浸しじゃねーか。まったく、ろくなことをしねえ。」
「ごめん、俺、拭いてくるよ。」
「いい。小坊主にやらせる。おまえは風呂だ。きっちり暖まるまで出てくんじゃねーぞ。」

乱暴な言葉と共に頭を小突かれたが、ちっとも痛くなかった。悟空は大きく顔を綻ばせていた。

「なあ、さんぞ、今日はこんなに雨が降っているのに、元気なのな。」
「…こんなやかましい雨に、物思いにふけるほど、俺は暇じゃねえんだよ。」

顔を背けた三蔵の頬が、僅かに染まっている。心配してくれたんだ。悟空は確信した。

「それに………春の嵐だからな。」

三蔵の声が、一段と低くなった。ともすると、吹き荒れる風と、屋根や壁を叩く雨音に、かき消されそうな小さな声だ。

「これがくればもう雪は降るまい。余計な心配が一つ減るってもんだ。」

悟空はたまらずに、三蔵の背中にしがみついた。今の言葉は聞こえなかった振りをした方がいいような気もしたが、弾みだす胸までは止められない。

「三蔵、…大好き。」

お返しに、同じぐらい小さな声で呟いてみる。
大きな手が濡れた頭をグリグリとかき回してきて、悟空は小さな声を上げて笑った。





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