HEAVEN




「三蔵、危ないっ!」

せっぱ詰まった叫び声。前方の敵ばかりに気を取られていた俺は、その声にようやく背後から迫り来る殺気に気付いた。
振り向くとぎょっとするほど間近に巨体が迫っている。見開いた目は血走り、同じく限界まで開かれた口は鬨の声を上げ続けている。長く伸びた牙には血交じりの唾液が絡み付き、何本も白く糸を引いて下顎へと伸びている。
すでに奴は断末魔を迎えているのかもしれない。白く濁った瞳は焦点を結ばず、だが俺をがっちり視界に捕らえている。

奴の体が低く沈む。倒れたのではない。渾身の力を一突きに込めるため屈み込んだのだ。
頭の反応に腕がついてこない。この大量の敵に囲まれて、俺たちはもうずっと戦いつづけている。誰の顔にも疲労が濃く滲んでいる。銃が間に合わない。だめだ、やられる。

「三蔵っ!」

叫び声と共に、奴と俺との間に、疾風のようになにかが転がり込んできた。ばさりと白い布がはためく。俺は驚愕に目を見開いた。
跳ね上がったのは悟空の短いマントだ。カン、と硬質な音がした。悟空の手から零れ落ちた如意棒が地面ではずむ。マントが不自然な形に垂れた。真ん中が盛り上がって、悟空の小さな背中から巨大ななにかが生えているかのように。
風が吹いて、もう一度悟空のマントを翻す。そこにあってはならないものを俺は見た。
幾重にも網目のように真っ赤な血を絡めた槍の穂先だ。

「悟空っ!」

遠くで誰かが悲鳴を上げる。
真っ黒に剛毛を生やした分厚い手が悟空の肩をわしづかみにする。悟空の口からごぼりと鮮血があふれ出る。大きな逆刺のついた穂先がもう一度悟空の体をえぐりながら突き出た穴へと戻っていく。ばきばきと音を立てるのは、悟空の骨が砕かれているからか。
穂先が姿を消すと、奴は乱暴に悟空の肩を突き飛ばす。悟空の小さな体が俺の胸に倒れ掛かってきた。
俺は反射的にその体を抱きとめる。いつのまにか銃も手放してしまっている。奴が槍を大きく振りかぶっているのが視界の隅に映る。だがそんな事はどうでもいい。
俺は必死に悟空を抱きしめた。俺の手の中で、悟空の小さな体がびくびく震えつづけている。

「悟空っ、悟空うっ!」

叫ぶ俺をかすめてなにかが飛んでいく。狙いたがわず奴に命中した何かは奴を四散させ、俺と悟空の上に無数の飛沫を降りかからせる。
法衣がびしゃびしゃと生臭い液体に濡れる。俺はとっさに悟空の上に覆い被さって、その穢れた液体から悟空をかばった。
だって悟空の顔がいつにないほど白いのだ。唇の色も変わっている。

悟空の胸元に顔を寄せると、生臭い匂いがむっと鼻を突いた。ぴしゃりと何か暖かい雫が顔にかかり、俺は息を飲んで顔を上げる。
何だこれは。悟空の胸に俺のこぶしが入りそうな穴が開いている。
そこからごばりごばりと無気味な音をたて、間欠泉のように真っ赤な血が溢れ出している。悟空の血が、命が、溢れ出していってしまう。

俺は急いで悟空の血をかき集めた。
掌だけでは足りなくて、腕まで使った。
なんとか溢れ出す血を止めようと、自分の上半身を押し付けた。
そうして悟空の胸におし戻すのに、ああ、背中のほうからも、悟空の命はどんどん流れ出していってしまう。
どうしようもなくて、俺は悟空の小さな体を力の限り抱きしめた。
それでも俺の腕から、体の隙間から、指の間から、どんどん悟空は逃げ出していってしまう。

ひゅう、と悟空の喉がなる。俺は慌てて悟空の顔を見た。
吐血で真っ赤に染まった喉元がかすかに震えている。唇が小さく動いている。だが、声がしない。

「悟空っ、駄目だっ、…悟空うっ!」

俺は声の限り叫ぶ。悟空の美しい金晴眼が焦点を無くして空をさまよっている。頭の中でかすかな声がする。だがそれすら頼りなく消え入るようだ。

―三…蔵、…さん…ぞ…う、…どこ…?―

悟空がいってしまう。

「…っ悟空っ、悟空、ここに、…俺はここに…っ。」

声がかすれる。喉が熱い。だが呼ばなくてはならないのだ。
俺の小さな可愛い獣が、俺の姿を捜しあぐねている。その美しい瞳から、俺の姿を失ってしまっている。俺の存在が悟空の前から消えかかっている。
だが応えがない。悟空は暗闇の中で俺を捜しつづけている。

「悟空ううっ!」

ことん、と首が垂れた。
頭の中で囁いていた声も、すっかり静かになっている。
吹き出す血も…止まってしまっている。

「悟空、悟空、…悟空っ!」

悟空の細い肩を掴んでゆすってみる。最初は恐る恐る、次第に激しく。
だが、どんなに容赦なくゆすっても、悟空の首がカタカタと面白いように揺れるばかりで、あの小生意気な文句が出ない。
掴んだ悟空の細い肩が―ああこんなにも悟空の肩は細い―どんどん冷えていく。

「ご、悟空、…馬鹿な…。」
「ああ、そんな…。まさか…。」

頭上から声がする。舞い降りた白龍が不思議そうに首を伸ばし、悟空の頬をぺろりと舐めた。
それでも動かない悟空を、俺はただ、抱きしめ、揺さぶり、名前を呼んだ。何度も、何度も。
そんな俺の肩越しに、すっと手が伸びた。
びくっと体を竦ませる俺には構わず伸びた手が、悟空の顔の上に置かれる。
八戒が静かに悟空の目を閉じさせたのだ。

「三蔵、可哀相ですが、…悟空はもう…。」

沈んだ声。俺は木偶みたいに八戒の顔を見上げた。
暗く伏せた八戒の目から、つるつると涙が流れては落ちる。何を泣く? 悟空はただ、返事をしないだけだ。
同意を求めて悟浄の姿を探す。悟浄は俺たちに背を向け、うなだれて立ち尽くしている。その背中が震えている。

「何を…言っている。」
「ですから…、もう…。」
「悟空、…いい加減に起きろ。俺が呼んでるんだ。起きろ、悟空。」

俺は悟空の頬をぺたぺたと叩いた。乾きかけた血糊が粘りつく。ひんやりした手触りに俺はぞっとする。
手首を取られた。八戒が諭すように俺に向かって首を振る。
何が駄目なもんか。悟空はここにちゃんといるじゃないか。

「三蔵、せめて悟空にお経を読んであげてください。安らかに極楽へ行けるように。」
「俺は…っ。」

俺は死んだ者のために経は読まない。言いかけて俺は言葉を失った。
八戒は誰の為に経を読めと言った? 悟空がどうにかなるわけがないじゃないか。

だが、ああ、抱きしめる俺の腕から、どんどん悟空の体温が抜けていく。温かかった体が、一個の物に次第に姿を変えていく。
俺を置いていくのか? いやだいやだいやだ。俺はおまえがいないと生きていけない。

「悟空っ。」

声が震えている。おまえはずっと俺の側にいてくれると言ったのに。

「悟空…っ!」



「……………っ!」

大きな声を上げたのかもしれない。俺は汗だくになって目を覚ました。
心臓がものすごい勢いで打っている。こめかみががんがん痛んでめまいがする。
俺は真っ先にあたりを見回した。目の前のベッドには悟空が横たわっている。少し赤い頬。呼吸もしている。大丈夫…生きている。

俺は懐からタバコを探り出した。指先が震えてなかなか1本がつかめない。やっと口に咥えても、今度はジッポが思うように擦れない。
やっとなんとか火をつけ、胸まで深く吸い込む。煙とともに大きなため息を吐き出し、頭を抱え込んだ。夢にうなされるなんて何年ぶりのことだろう。

「…胸が潰れるかと思った…。」

思わず気弱な言葉が漏れる。
今の夢は妄想などではない。現実にあったことを思い出しただけなのだ。途中までは。

あの大男が持っていたのは、槍ではなく棍棒だった。だから悟空は実際には命を落としてはいない。だが、渾身の一撃を無防備な腹にうけて、悟空は人形みたいに俺の目の前で昏倒した。
俺は何もすることができなかった。倒れこんだ悟空の、血の気を失った顔を見た途端、何よりも恐怖した。
ただ悟空を抱きしめて、その名前を連呼する俺を、八戒の気弾が援護してくれなければ、俺は悟空ともども簡単にぶちのめされていただろう。

コンコンとノックの音がし、八戒が顔を覗かせた。

「三蔵、どうですか、悟空の様子は。」
「…ああ。」
「うん、熱も下がってきたようですね。もう大丈夫ですよ。」

八戒は俺の答えになどまるで無頓着な様子で、勝手に悟空の体をいじくりまわして微笑んだ。俺がさっきから馬鹿みたいにここに陣取っていても、実際は何の役にも立たないことをよく承知しているのだろう。俺はぼそっと呟いた。

「…奴が持っていたのは、最初は槍だった。」
「はい?」
「一度仕留め損ねて奴が倒れたとき…、きっと槍を手放したんだ。そして手近にあった棍棒に持ち替えた。そうでなければ悟空の腹には風穴が開いていたはずだ。」
「僥倖でしたね。きっと御仏のご加護ですよ。三蔵のおかげです。」
「でも悟空は…俺を庇って…。」
「…悟空なら大丈夫ですよ。彼はとびきり丈夫なんですから。」
「………。」

黙り込んでしまう俺に向かって、八戒はあやしかけるように微笑む。

「そんな顔してると、悟空が悲しみますよ。大丈夫です。今日はしこたま殴られちゃったから、肋骨が2本ほどイっちゃいましたし、内臓殴られたショックで熱を出したりもしましたけど、もう明日にはお得意の、腹減ったが聞けますよ。」
「…おまえ、それで俺を慰めてるつもりか…?」
「嫌だなあ、そんな畏れ多い事。三蔵法師様に向かって。」

八戒はこともなげに笑い、それからほんの少し表情を変えた。

「でもまあ、確かに少―し、いじわるな気分にはなっているかもしれませんね。悟空は僕や悟浄にとっても可愛い弟だし、その彼がこんなにこてんぱんにやられちゃうなんて滅多にないことですから。」

言外に、しかも三蔵を庇ったせいでと言っていやがる。俺はうつむいた。
金髪の先に、さっき夢で見た悟空の血がついているように見えてはっとする。

「そんなところで黙りこくっていないで、手でも握ってあげたらどうです? 悟空、よろこびますよ。」
「…ああ。」
「大丈夫。触ったって、融けも消えもしませんよ、悟空は。この子はなりは小さくても超ど級の妖怪なんですから。」
「…ああ。」
自分でそう仕向けたくせに、すっかりしょげ返った俺を、八戒は仕方のないというような目で見る。やがて諦めたように席を立った。

「悟空は三蔵にお任せします。もうあとは元気になる一方ですよ。三蔵もあんまり思いつめないで、適当に休んでくださいね。」

八戒が出て行ってしまうと、俺は再び悟空の顔を見下ろした。さっきまでは呼吸をするのも辛そうだったが、今は穏やかな寝息を立てている。

「本当に妖怪なんだな、こいつ。」

人間だったらまだ痛みにのた打ち回っている頃だろう。妖怪の見事なほどの回復力が、今はとても有難かった。
手を伸ばして悟空の額に触ろうとして、やっぱり止めた。急に申し訳なくなったのだ。

思えばこんなことは初めてではない。悟空は俺の為に一体今までどのくらい傷ついてきたのだろう。
ただの人間にすぎない俺は、やはりこいつや八戒たちに比べると、反射神経も鈍いし、回復力も格段に違う。悟空はこの小さな背中を、今まで数え切れないくらい、俺の為に敵にさらしてくれた。
今日はたまたま命があった。だけどこの次もそうとは言い切れない。
俺は悟空が望んだからといって、こいつを旅の連れに引っ張り出して、とんでもない危険を強いているのではないのか。もしこの次、運がなかったら。俺はそう考えて思わず身を震わせた。
夢で見た血塗れの悟空の空々しい軽さが、急に手の中に蘇ってきた。
俺はあんな思いに耐えられるだろうか。泣き喚いて取り乱すのはもちろん、錯乱してもっと手ひどいことをしてしまいそうに思える。
俺は取り残された者の為に経を読む。だが俺が取り残された者だったら、俺は誰に悲しみを癒してもらえばいいのだろう。

だが、俺はなんとか心を落ち着けた。
悟空は八戒も言っていたように飛び切り頑丈で、無敵の妖怪だ。そう簡単にどうこうしてしまう訳がない。
俺はこいつの心配をするより、自分の身を案じることのほうが必要なはずだ。俺はか弱い人間なのだから。総ての事柄から逃げ回っていても確実に、俺は悟空より先に逝く。取り残されることなどあるはずがない。

そう考えて、俺ははっとした。そう、取り残されるのは俺ではない、悟空のほうだ。
俺は近い将来、確実に悟空を取り残してしまう。あんな苦しい思いを、悟空にさせてしまう。
俺の冷たくなった骸を前に、悟空は何を思うのだろう。

「…う…ん…。」

悟空がうめいた。小さく眉をしかめ、それから不意に大きく目を開く。
いきなりがばっと起き上がって、腹を押さえてうずくまった。

「いててて…。ここどこ? 敵は?」
「…寝てろ、バカザル。」
「なあなあ、どうなってるんだよう。あれ、ここって宿屋? じゃもう、敵はいないの? なあって…いてて。」
「寝てろってんだよ、バカザル。」
「なんだよう、バカバカ言うなよ。…あれ? 三蔵?」

悟空の顔が訝しげに曇る。少し首を傾げると、心配そうな目をする。

「…どうしたの?」

そうっと手を伸ばし、俺の頬をおっかなびっくり撫でる。俺は唇を噛み締めた。
こらえようとしてもこらえきれない涙が、後から後から頬を伝って落ちる。

「俺は…後悔してる。」
「え? 何を?」
「おまえは俺とは違う。」
「…何いってんの? わかんないよ。」

悟空は顔をしかめながら、体の向きを変えた。八戒が器用に巻いてやった包帯でカバーしきれないほど大きく、胸に痣ができてしまっている。俺の胸までがきりりと痛んだ。

「…俺はおまえにいつも危ない目を見せてしまう。」
「そんなの…。俺は喧嘩が好きなだけなんだしさあ。」
「おまえがいくら命がけで俺を守ってくれても、俺はいつか必ず、おまえを取り残してしまう。おまえをまた一人にさせてしまう。」
「三蔵…。」
「おまえが死んでしまう夢を見た。胸が張り裂けそうになった。俺はいつかかならず、それとおなじ苦しみを、現実世界でおまえに味合わせてしまう。いつか必ず、おまえを裏切ってしまう。」
「さんぞ…。俺のために泣いてくれてるの?」

悟空が目を眇めた。
笑っているんだろうか、このバカザルは。なんだか妙に嬉しそうに俺の頬を撫でている。

「俺がおまえを置いて逝ってしまった後、おまえは…。」
「俺も一緒に行く!」
「え…。」
俺は思わず絶句した。
悟空はいたって普通の表情で、大きな金晴眼をくりくりと見開いている。いつもどおりの間抜け面で、俺は頭に血を上らせた。

「馬鹿か、おまえは! 俺はピクニックに行くって言ってるんじゃないんだぞ! 俺がいってんのはなあ、黄泉の国のことだ!」
「いいよ、どこだって。俺はずっと三蔵と一緒にいるって決めたんだから。」
「おまえ…っ、500年も生きてるくせに…っ、俺がよぼよぼのジジイになっても、おまえは…っ!」
「三蔵がなるんなら、俺も一緒にジジイになる!」

俺は言葉に詰まった。
こいつが言うと、なんだか本当にそうなりそうな気がする。物事の摂理を総て捻じ曲げてでも、俺の為に尽くしてくれる、それが悟空だ。
もっともジジイになった悟空など…見たいもんじゃない。

だがなんだか俺はすっかり安心してしまった。強張っていた肩からストンと力が抜ける。表情が柔らかく緩むのが、自分でもわかった。
悟空がそんな俺の顔を見て、得意そうにエヘヘと笑う。

「本当に、バカザルだな、おまえは。俺についてきたって、極楽にいけるとは限らないんだぞ。」

そう言ってやると、悟空の顔がますます得意そうになった。

「馬鹿なのは、三蔵のほうだよ。俺はどこだって、三蔵がいるところがいいっていってるだろう。それにさ…。」

しなやかな腕がするりと俺の首に回った。悟空が顔を寄せて、俺の頬に残っていた涙をちゅっと音を立てて吸う。

「どこだって、三蔵のいるところが俺の極楽に決まってんじゃんか。」

恥ずかしげもなくそんなことを言う。
目の前の悟空の、全開の笑顔が眩しくて、俺は思わず目をそらした。



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